Art Gallery 釜谷・観音寺の扁額

鈴木啓二夫妻、榊工務店社長、神山瑞洋さんのことなど


 今年(平成26年))初め、岩槻の鈴木惟司さん(釜谷)から、カラー写真を貼った絵馬というか額装というか、下の左の写真のようなものがとどきました。左右25pぐらいの立派な板です。
「わが友の奉仕の心でよみがえり 惟司」
 という賛が書かれており、はじめは管理人にはこの写真の意味がよくわかりませんでした。しかし、鈴木さんの便りと写真をよく見ているうちにこの扁額の大切さがわかりました。

よみがえった観音寺の扁額 (クリックすると大きく見えます)

送っていただいた絵馬

写真部分の拡大

観音寺扁額の修復と榊武哉さん
 観音寺は3.11の津波で釜谷の集落、大川小学校などとともに跡形もなく破壊され流されました。本堂正面に掲げられていた扁額も流失、後に泥にまみれて発見されましたが、月日がたつうちにキノコが生えるようになったそうです。
 そこで修復にあたったのが、横川・祥雲寺の前で寺社建築専門の榊工務店社長・榊武哉さんで、鈴木惟司さんの同級生です。
 傷んだ欅の板を削り直し、文字も前のままに復元したのです。榊さんは
「新しく作った方が早いけど、寄進した方の気持ちを尊重して名前も彫り直し、半年かけて仕上げたよ」と鈴木さんに語ったそうです。
 そういわれて右の写真を大きくしてみると、左下に「鈴木啓二 祝」ご夫妻の名が刻んであります。啓二君(愛称ケーちゃん)は管理人の同級生で、鈴木惟司さんの兄。観音寺の総代時代にご夫妻の名でこの扁額を寄進したのでした。
 惟司さんは、「ここまでよみがえったのは榊さんのおかげ。兄夫婦の名まで復元してくれて、武哉ちゃんありがとう」と感謝してました。
 また、「観音寺様は私が小学5年から中学3年まで、水汲み(飲料用)でお世話になりました。1日も早い観音寺様の復興を祈ってます」という言葉でお便りは結ばれていました。

揮毫は神山瑞洋さん
 さて、「観音寺」の書の左に揮毫された方の雅号があるようなのですが、よく読めません。すると尾の崎の近藤孝悦さんが「もしかして尾の崎の瑞洋さんかも」という便りをくれました。
 それで惟司さんが榊さんに確かめたところ、扁額の揮毫は瑞洋さんに間違いなく、尾の崎・神山電気の神山定男さん(大正十五年まれ)と判明しました。
 瑞洋さんについて、親交のあった近藤さんから次のようなお便りをいただきました。
「先の大戦で中国へ渡り、シベリア抑留などたいへんなご苦労をされましたが、尾の崎に帰ってからは電機屋さんを営み、書道教育などをしていました。屋号はマエノイエ。
 能書家で、石巻の海鶴書院は無審査のはずだったと思います。書道も古文書解読もほとんど独学と思いますが、古文書関係の知識の深さにはいつも驚かされました。晩年はパソコンもやってましたが、歳のせいか難儀していた模様です。
 瑞洋(ずいよう)の号は、洋(うみ)の瑞(そば)に在す、入江の近くに在りとの意です」


*なんだかギャラリーにふさわしくない長文になりましたが、来歴がわかると味わい方も違ってくるようです。
*写真は「修復ができた」とケーちゃんのご長男から惟司さんに送られてきたといいますから、修復前の扁額はご長男が預かっていたのでしょう。
 と思ったのは管理人の思い込みで、ケーちゃんのご長男には横川の榊さんから写真が送られて来たようです。(2014.06.22訂正)
*わが田舎には、文化人がいろいろいて、今もたくさんの方がそういうものを守ってくれているのですね。 (2014.04.28 管理人)


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