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特 集
 
1、羽生玄栄さんとは

2、羽生凌雲が長面に暮らしていた訳
  “しんちゃん”のお便りから

3、「時事雑纂(羽生致矯編)のこと」
    FSさんのレポート(1)
4、佐久間格二郎を庇する事
    FSさんのレポート(2)
5、玄栄さんと安政5年のコレラ流行
   FSさんのレポート(3)

6、品川弥二郎への書簡桃生醫院の印鑑
   玄栄さんの末裔JIさんのお便り

※ 資料編 
   羽生凌雲翁功績碑(文) 永沼庄太郎彰徳碑(文) 『秋宵閑話』(一部)ほか 

1、羽生玄栄さんとは
 長面の龍谷院墓地に羽生玄栄という人のお墓があり、県道からの墓地の入り口には「羽生凌雲翁碑」という大きな顕彰碑が建っています。ずいぶん以前からあるようなのですが、長面で育った管理人でも羽生玄栄、羽生凌雲という人がどういう人なのか詳しくは知りませんでした。
 ・桑名藩士の生まれで登米(とよま)伊達藩(こちら)の医師・羽生玄探の養子となり玄栄と称した。
 ・諱(いみな)は致矯(ちきょう)、号は凌雲。
 ・玄栄の見識を見込んだ登米伊達藩主・伊達邦教は討幕派と佐幕派が入り乱れる京都に玄栄を派遣し、伊達藩のとるべき道を探らせた。
 ・玄栄は佐久間象山はじめ、勝海舟、高野長英らと交わり、三年にわたる探索の結果、今さら佐幕派に組しても益のないことを、仙台藩の筆頭家老・但木土佐(こちら)に具申したが、佐幕にこだわる一派には聞き入られず戊辰戦争に突入。敗れた伊達藩は62万石から28万石に減封され、登米領も没収された。
 ・その後玄栄は、没するまで長面に住み、墓も長面にある。
 ・長面では永沼庄太郎らと深く交わり、庄太郎との問答集『秋宵閑話』(こちら)を残している。

 管理人はこれまで、親戚の話や『大川村誌』『河北町誌』などから以上のような断片的な話を聞いており、当サイトでも雑駁な知識のまま、時おり永沼家や玄栄さんのことに触れてきました。
 ところが今年になって、塩田研究のFSさんから「今年のテーマは“戊申函館戦争と長面”です」というお便りを頂いたり、永沼本家の末裔である愛称“しんちゃん”からは「オリオンの星で気付いたこと」と題して「気になるところが散見されたので一筆申し上げたく」というお便りがあり、玄栄さんや長面地区の背景などについてご教示をいただきました。
 以下に“しんちゃん”のお便りやFSさんの玄栄さんに関する新発見などを掲載させていただきます。幕末のただ中を京都で活躍した玄栄さんの実像が見えてきます。一読いただいて、わが故郷にもこういう人がいたのかと思い返していただければ幸いです。これまでの河北町誌などの玄栄像は資料編にまとめてあります(こちら)



2、羽生凌雲が長面に暮らしていた訳
   “しんちゃん”のお便りから
 
 先日ホームページを拝読していたところ、若干気になるところが散見されたので、差し出がましいのですが、一筆差し上げます。私にとって比較的分かっている永沼家関連のところが中心ですが。という前文に続いて次のように述べられています。

 まず、羽生凌雲が長面に暮らしていた訳

 ご存知のように、凌雲は探索方として京その他で世の情勢を探り、薩長と組みすることの利を藩主に上申し、藩はその方向に動いていたのですが、諸々の事情で薩長主力の新政府軍と戦いになりました。結果は凌雲の予想通り、白河を始め各地で負け戦となり、伊達領内に侵入されることはないまでも、相馬との境で激戦になりました。この状況で新政府軍への内通を恐れた藩は、内通しかねない危険人物として、何人かを捕縛や閉門蟄居の対象にしました。凌雲も対象となりましたが、永沼家が匿いました。見つかれば、両者とも死罪必至の状況でした。


 匿ったのがなぜ永沼家なのかはよく分かりません。禁門の変や戊辰戦争には、永沼家の人物が従軍してはいますが、凌雲とは身分が違いすぎます。敢えて言えば、同じ登米伊達家の家臣ということもあり、どこかで凌雲の使いなどをしたことなどがあるのかもしれません。

 やがて、藩は新政府軍に降伏し、凌雲は藩の役職に復帰できたはずですが、降伏した伊達藩の領地は、現在の仙台市のみで、それ以外は全て西南諸藩の領地とされ、戻る場所はありませんでした(出身地の桑名も同様です)。以来、永沼家で生涯を過ごすことになりました。

 戊辰戦争終了後、京都から公卿の千種少将(ちくさのしょうしょう)が旧伊達領内を検分に来られた際、長面地区での休息場所は永沼家でした。少将は湧き水で喉を潤した後に一首詠み、池のほとりの湧き水を常盤清水と命名し、凌雲に和歌をしたためさせました。このときの接待は凌雲にとって戊辰戦争以来の最後の御役目として、晴れがましい日だったのではないかと推察しています。

 凌雲がなぜ長面で最後を全うしたのかは、こういう事情によります。彼が登米伊達家のご家臣で、塩田を拓かれた大槻様が白石のご家臣なので、それぞれの主の縁により云々、という話ではないようです。

 当時、長面はどんな地区だったか

 次に、長面がかつてどんな地区であったかについて興味深い事実があるので、伝えておこうと思います。

 追波湾は伊達水軍の根拠地だったということです。普段は米の積み出し港として使い、有事の際には水軍の集合地となる予定だったようです。
 伊達家が徳川秀忠と一時険悪な雰囲気になったときから軍艦が配置され、対岸の十三浜は白石片倉家の直轄地となりました。軍艦は明治の初期まで存在し、その図面も残っています。

 関連は分かりませんが、永沼家は寛永初期に長面に入っています。
いい伝えによると、海防に従事していたそうで、この水軍と何らかの関わりがあったのかもしれません。

 伊達家の書面と鹿狩り

 また、伊達藩では藩主直々の鹿狩りが軍事訓練の目的でよく行われました。最終目的地は雄勝町の名振です。
 移動経路は二手に分かれ、主力の勢子たちは釜谷雄勝峠で鹿を追い、藩主を中心とする作戦指導部は長面尾崎経由で最終目的地に向かったのだそうです。ちなみに、名振での藩主の宿泊先は長面永沼家の分家である名振の永沼家が代々提供していました。(その宿泊用の屋敷は津波で跡形も無くなりましたが、子供の時分に遊びの場として何度か見たことがあります)。永沼家に藩主代々の書面があるのは、その際に拝領したものかもしれません(仙台市の八幡宮からという可能性もありますが)。亡くなる前年にも名振に政宗公が来られ、別れの涙を流されたそうです。



 個人が神社に祀られることについて

 宮城県に限らず、東北地方では個人や動物、自然現象を神社に祀ることは、よくあります。忘れないための一つの方策なのでしょう。
 竹管で水道を作って、長面地区に水を供給した人物を水神として祀るのは、宮城県では当然のことだと思います。
 江戸初期に津波が二手に分かれ、その地区が助かった所があり、そこには波分神社が建立されました。
 北上川を改修して運河をつくり、今の石巻港の礎をつくった河村孫兵衛は河村神社として祀られています。


 長々と、とりとめのない文章で、申し訳なく思います。個人名や地区の名前について漢字変換がうまく出来ず、分かりにくくなっていることお詫びします。梅雨空の毎日、お身体大切に。

というお便りでした。ありがとうございました。“しんちゃん”は玄栄さんに師事した永沼庄太郎(こちら)さんのお孫さんにあたる方で、管理人が“しんちゃん”にお会いしたのはたった一度、ジオラマ作りの会場での立ち話でした。よもやこういうお便りを頂けるとは思っていなかったので、たいへんびっくりするとともに感謝に堪えません。
 文中、後段の「伊達家の書面……」「個人が神社に……」は、管理人が当サイトで少し触れた永沼家の歴史や長面の竹菅水道の話の間違いを正していただいたものです。
 竹簡水道は“しんちゃん”の曽祖父永沼悦之輔(昌孝)が飲料水に難儀していた長面のために開発したもので、長面の水神様として祀られています。(こちら)
 “しんちゃん”のお便りで次のことを知りました。
・玄栄さんが長面にいた理由が「隠れていた」らしいことは初耳でした。
・名振の永沼文書が最近話題になりますが、名振の永沼が長面永沼の分家とは知りませんでした。
・伊達水軍のことも初めてしりました。
・伊達藩の鹿狩り(軍事訓練)のこともなるほどと思いました。
・仙台の八幡宮とは仙台の大崎八幡のことで庄太郎の奥さまの出自と思います。



 3、「時事雑纂(羽生致矯編)」のこと
    FSさんのレポート(1)

 石巻市長面の龍谷院の一角に、3・11の大地震に動ぜず、津波にも流されず、追波湾を向いて屹立している「羽生凌雲翁碑」という石碑があります。
 子供の頃、お盆になると母に連れられ、2歳で亡くなった弟の遺骨を拝みに龍谷院に行き、そのあと和尚さんのありがたいお話を何度も聞いた記憶があります。樹木が生い茂った深い森の中のお寺で、子供心にはちょっと怖い感じがしました。
 石碑の記憶は全くありません。
3・11のあと何度も長面を訪れ、龍谷院では、震災以前に亡くなった親友の墓参をしたりしましたが、石碑についての関心がその頃は全く無かったので、付近に建っていても目に入らなかったと思います。
 羽生凌雲翁碑を初めて認識したのは今年(2019)6月、友人の案内で長面に向かう途中、大川小学校の慰霊碑に手を合わせ、通りがかりの龍谷院に立ち寄った時です。
 先に調べた、長面塩田創設者の平六さんの顕彰碑「大槻翁碑」(明治21年建立)の碑文の最後に刻まれている、「羽生玄栄拝書」の部分が頭にありました。
 碑文は風化して、読み取れないところもありましたが、石碑の裏側の寄付者名の中に、友人の御先祖のお名前があることがわかりました。
 興味が湧いたので調べてみました。
 「羽生凌雲翁碑」は、明治33年に長面で亡くなった羽生玄栄さんの17回忌を記念し、大正5年2月1日に建立されたそうです。
 碑文だけは、「大川村誌(昭和32年)」、「河北町誌・下(昭和54)」に掲載されていましたので、現地の石碑は詳しく読んでいません。図書を読み返せばいいと単純に思ったからです。
 長面から帰ってきて数週間経ったある日、村誌・町誌に掲載されている碑文の最後の方に「時事新纂三十巻宮内省購爲史料」と書かれていたのをふと思い出し、宮内庁書陵部の蔵書を検索してみました。
 五十音順配列の目録に「時事新纂」は見つかりません。

 数行上に、「時事雑纂 羽生致矯」という図書があるのに気づきました。これではないかと直感したのですが、「新纂と雑纂?」「玄栄と致矯?」、なんだか怪しい気がしました。

 碑文を読み返してみますと、冒頭に、「君諱致矯後改雛字千年号凌雲桑名藩大澤因幡第二子也」と書かれています。諱(実名)は致矯(むねただ)で、字は千年、号は凌雲。登米の羽生玄探家を継いで玄栄と称しました。いくつもある名前の中から著者として採用されたのが実名の致矯です。
 つぎに、「時事新纂」か「時事雑纂」かです。
 なぜ、昭和32年、昭和54年に編纂された大川村誌、河北町誌に、「時事新纂」と書かれているのか、不思議に思いました。石碑にはどう刻まれているのか。
 それで友人に、ついでの時でいいから、と撮影をお願いしました。2019年8月25日撮影の写真(右の写真)が送られてきたのを見て納得できました。明らかに「時事雑纂三十巻」と刻まれていました。
 それ以外にもわかったことがあります。碑文の撰者が「安部」だか「支部」だか、図書ではぼんやりしていたところが、「友部伸吉撰文」「高梨雲巣書」と刻まれています。
 友部伸吉は、水戸藩出身、奥羽新聞の社長、「羽生凌雲翁碑」建立の翌大正6年に62歳で病没しました。私の想像ですが、多分この方でしょう。
 高梨雲巣は、仙台藩出身、有名な書家です。
 写真のお陰で、いくつかの疑問が解けましたが、碑文にも間違いではないかと思われるところがあります。
 玄栄さんの生年が文化5年(1808)と刻まれていますが、没年が明治33年(1900)、78歳だったのは確かですから、勘定が合いません。92歳まで生きたことになります。
 大川村誌、河北町誌にも「文化5年」と書かれていますが、正しくは文政5年(1822)ではないでしょうか。
 気が付いた人がいても、修正できなかったのかも知れません。

 「時事雑纂」には何が書かれて三十巻なのだろうとまた疑問が起きました。 ネットサーフィンをして探し出したのが下記のデータベースです。
 「新日本古典籍総合データベース」で「時事雑纂」を検索しましたら、宮内庁書陵部蔵として、マイクロデジタル変換された855コマに収められたデータが出てきました。コマ数を指定して読むことができます。
 嘉永三年から慶応元年までの記録19冊、欠本有、京大(二巻七冊)となっています。
 冊子体だと読みやすいのですが、原本は宮内庁に文化財として保存され、今のところ、代替資料のマイクロデジタル版しか公開されていないようです。
 コマごとに画面を拡大できますが、見にくくてしかたがありません。
 宮内庁書陵部に閲覧申し込みをすれば、もっと大きな画面で見る方法があるのではないかと考えましたが、何しろ遠方の上に、複雑な手続きが必要です。
 思いついたのが、隣の市に数年前に移転してきた「国文学研究資料館」です。9月中旬に訪ねてみました。
 窓口でまず趣旨説明をしました。「私の故郷の偉人で羽生致矯という人が、明治22年頃編纂した時事雑纂という図書が宮内庁書陵部に所蔵されていて、デジタルコレクションで公開されていますが、マイクロ版で読みにくいので、もっと大きくして読める方法が当館にありませんか?」
 いきなりの訪問者の質問に戸惑われたようですが、カウンターの職員さんが、端末で「時事雑纂」の画面を表示し、マウスで拡大する方法を教えてくださいました。端末とは別に大きなスクリーンとかは無いのですか、とききました。「そういう装置はありません。宮内庁書陵部に行っても、多分これ以上のことはできないでしょう(行ってもムダです)」といわれました。
 残念でしたが、奥の閲覧コーナーに気づかず大声を出したことを詫びながら退館しました。入館手続きもせず、情報収集だけする変な客だと思われたでしょうが、とても親切丁寧に対応してくださいました。

 やはりパソコンで読むしかないと諦めて、「時事雑纂」のフィルムを、最初はコマ順にみていきましたが、あとは飛び飛びになりました。
 活字本とは違い、マイクロ版は文字が小さいながら玄栄さんが書かれたそのままの筆跡ですから迫力があり、親しみも感じられます。
 明治20年代の著作なので、漢字と片仮名混じりで、私のような知識の無い者にもある程度の意味はわかります。玄栄さんの編纂のことばが、リール番号4にあります。拡大してもぼやけていて読み取りにくく、間違っているところがあるかも知れません。

時事雑纂附言
 一  本編記載スル処ノ嘉永三戌年ヨリ安政六未年迄ノ時事書ハ予カ安政四巳年ヨリ同六未年マデ経歴三ケ年ノ間京師ニ遊ビテ医事修行ノ○暇縉紳及緒有志ニ接遇シテ見分セシ事項ヲ綴リ郷里ニ帰ルノ日一時ノ茶話奇談ニ附セシ者ナレハ年月ヲ追テ其事情詳細ナルヲ得ス
 一  安政六年ヨリ文久二戌年迄ハ予カ郷里ニ在リテ業ヲ取リ敢テ時事ニ管スルノ故ナケレハ唯京師同僚ノ者ヨリ報知セラルゝヲ記載スルノミナレバ其事情恐クハ疑ヒ多カラン
 一  文久三亥年ヨリ慶應元丑年迄ノ事項ハ予カ邦教君ノ命ヲ奉シ再ヒ京師ニ登リテ専ラ○公武ノ門及諸藩草莽門ニ至ル迄其事情ヲ探索シ其都度之ヲ君主ニ報告スルノ原書ニシテ稍詳密ヲ得タルニ似タリト雖モ諸藩周旋家或ハ探索家等ヨリ咄嗟怱卒ノ間借與シテ謄写セルモノナレハ往々誤字脱文等アリテ読得カタキ処アレハ今新タニ之ヲ考訂セサルハ敢テ我意ヲ附セサルカ爲ノミ其読得カタキ処ハ○ヲ填シ字ヲ省ケリ宥者之ヲ察セヨ


 原文の片仮名には濁点が付いていません。拡大しても読み取れない漢字には「○」を充てました。

 明治政府、宮内省は20年代、幕末維新に関する重要史料の散逸防止のため補助金まで出して、旧大名家を中心とする各家に史料の提出を命じたそうです。
 その流れの中で、玄栄さんも明治21年になって、時事雑纂の編纂に取りかかられたのではないかと想いましたが、そうではなかったようです。
 リール6~7に、次のように書いておられます。
<時事雑纂 附言>
本編ノ原紙ハ之ヲ無用物ニ帰シ篭底ニ収蔵スル事殆ト三十年矣茲歳四月偶閑逸ノ餘之ヲ摘発シ蠧魚ヲ振ヒ塵煤ヲ攘ヒ残缺片々彼是整理シ漸クニシテ十中ノ六七ヲ得一讀一過懐旧ノ情ニ堪ヘス終ニ浄書ヲ加エ一部ノ書篇ト俲シ後世弟姪ニ示ス¬爲リ
  明治二十一年五月    編者識

<時勢沿革括套>リール12の日付は
  明治廿二年一月     編者識


 天皇制国家の正当性を強める修史事業のためではなく、「百年後の人たちに時世の沿革如何を知らしむる」ためにだけ編纂した、と書いておられます。
 明治22年の「時勢沿革括套」から数えて、今年は130年目に当たります。玄栄さんが望まれたように、時事雑纂を少しでも読んで、幕末の時勢を理解しなければと思います。
 編纂がいつ終了し、宮内省がいつ購入したかはわかりません。石碑建立の大正5年以前であることは間違いありません。どなたか、お教えください。また、興味を持たれた方は、飛び飛びにでも読んでみてください。

                     2019年10月 FS



4、「時事雑纂(羽生致矯編)」(2)

(宮内庁書陵部蔵マイクロデジタル版)から「佐久間格二郎ヲ庇スル事」を発見した経緯


 「時事雑纂」がマイクロデジタル版で公開されていることは、既に書きましたが、「羽生凌雲翁碑」の内容は、全て「時事雑纂」に書かれているのではないかと考えました。
 「羽生凌雲翁碑」の2行目あたりに、「象山遭害其子格二潜伏君家僅免」と刻まれています。
「河北町誌(1979)」863pの和文読みによれば、「象山害に遭うや、其の子格二は君の家に潜伏して僅かに免る。」とあります。
 佐久間象山の遺児恪二郎は、その後、会津の山本覚馬の仲介により、近藤勇を通じ、父の敵を討つため新選組に身を寄せたことは、いくつかの史料に書かれていますが、玄栄さんがそれに先立つ3日間匿ったことを書いた史料は探し出せませんでした。
 東京都日野市に、平成17年(2005)に創設された「日野市立新選組のふるさと歴史館」があります。
 今年は、明治2年(1869)の函館戦争で戦死した日野市出身土方歳三の没後150年とあって、市を挙げて様々な催しがありました。

 二つ隣の市ですが、昨年までは新選組になんの興味もありませんでしたので、歴史館を訪れたことはありません。
 今年になって、函館戦争で土方歳三が最後に指揮をとっていたのが仙台藩士によって編成された額兵隊であることを知り、何度か資料館を訪れました。
額兵隊が石巻から長面・尾の崎付近を通って函館に向かったらしいことを知りたいと思ったからです。
 新選組のことならどんなに小さなことでも調べがついているものと信じ、8月末のある日、歴史館を訪れ学芸員さんに、「私の故郷に羽生玄栄という方の記念碑がありますが、碑文の中に、佐久間象山の遺児・格二郎を自宅に匿い、彼は死を免れたとあります。格二郎は、その後、新選組に身を寄せたそうですが、この事実を裏付ける史料はありませんか?」と質問しました。
 「時事雑纂」を読んでおられるといいなと期待しました。
 しかし、「佐久間象山のことまで調査していないのでわかりませんが、記念碑には、事実の確証がないまま盛り込んでしまう傾向があります。」とおっしゃいました。
 それなら、手間暇かかるけど自分で探すしかない、と諦めて、「時事雑纂」のマイクロデジタル版を飛び飛びに見て、853リールの中から、佐久間象山が暗殺された元治元年(1864)7月11日の記録を探しました。
 必ずあると信じた通り、見つかりました。

元治元子年七月分(リール540)

時事雑纂  巻之十八 目次(リール541)

七月十一日 松代藩佐久間修理暗殺張札(リール542)

七月十五日 佐久間格二郎ヲ庇スル事(リール542)

時事雑纂巻之十八 仙臺羽生致矯編輯(リール543)


 以下、原文を機械可読文字にしました。マイクロフィルムの映像より少しは読みやすいと思います。



「時事雑纂 羽生致矯著」(宮内庁書陵部蔵マイクロデジタル版)
<原文>
七月十五日 佐久格二郎ヲ庇スル事(リール571~)
子七月十五日中元ノ祝儀豫テ出入セル縉紳家及ヒ緒藩士等ヲ訪ヒ暮方帰宿シテ日午ノ炙ヲ攘ハント檐ニ革燈ヲ掲ケ街巷ニテ婦女児童ノ戯ルヲ眺メ獨居茶ヲ喫シ煙ヲ吹キ居タリシニ夜モ◇蘭ニ及ヒ市街モ物静ニ成リタル頃戸外ニ数人ノ跫音アリシカ突然ト戸ヲ推シ入来ル者アリ誰ヤラント視ルニ松代藩三澤刑部丞ニシテ外ニ二名坐ニ就ケリ従者ハ戸外ニイマシム予一禮シテ其来意ヲ問フ三澤曰渫更ニ及ヒ推参候ハ別儀ニモ無之曽テ御聞及モ候ハン佐久間修理ノ斬殺セラレシハ天ナリ◇ナリ今更是非ニ及ハス候ヘ共是ナル少年ハ定テ御見知モ候ハン修理ノ男格二郎ニテ候修理横死ノ後ハ主人ヨリモ改易申付ラレ且又浪徒等此格二郎ヲモ覘ヒ居候由今ニ於テハ京都中一人ノ身ノ置処無之私共藩邸ヘ入置度候ヘトモ主人方ハ改易ニ成リ候者且ハ藩論モ修理ヲ以テ可トスル者アリ不可トスル者アリテ意ノ侭ニ処置スル事モ不相◇依テ當町六角通海老屋定八ト申者兼テ藩ノ用達モ致シ居候間是ヘ依頼致ス事ニ相談致シ置候間只今召連罷候処案ニ相違致シタル挨拶ニテ修理様ノ御子息トアリテハ御世話ハ扨置片時モ御差置ノ儀ハ御断リ申上候間早々御連帰リ被下度ト申事ニテ只今ニ夕飯モ食シ不申候何卒修理在世ノ御交誼ヲ以テ是ナル格二郎ヲ暫時ノ間御カクマヘ被下度廿日頃ニモ相成候ハ◇國許ヘ下リ候者有之候間其者一同差下シ可申心得ニ候ト只管懇願ニ及フヲ以テ予ハ之ヲ 熟考スルニ修理ノ如キ人ハ実ニ當時ノ一人天下ノ奇士トモ謂フヘシ然ルヲ今斯ク我々如キ一介生ニ托スルニ鄭重ヲ盡セリサリ迚予モ君命ニ依テ在京シ今此事ヲ諾シ若シ藩邸ニ聞ヘナバ何トカ謂ハン又豫テ激徒等ノ予ニ迫ルニ修理ノ事ヲ以テス今格二ヲ庇スル事ヲ聞カハ必ス予ヲ斬殺スルハ勿論ナリ扨又今之ヲ固辞スル◇ハ交誼ニ於テ生死ノ別アルニ似タリ最モ具ニ窮迫ノ事情ヲ知リ之ヲ辞スルハ男児タルノ本色ニ非スト断然思慮ヲ定メ他日ノ難ハ大命ニ帰セント段々ノ御話至極御尤千万ナリ小生一命ニ換ヘテモ屹度御カクマエ可申受シテ御心配ニ不及ト諾ヒケレハ格二郎ハ流涕数刻予モ亦共ニ歓◇シ激徒◇輩等己レノ狭隘ナル意見ヲ以テ尊攘ヲ口実ト為シ斯ル処業ニ及フハ乱臣賊子トモ謂ハント思ヘトモ當時ノ形勢斯ル処業ヲ以テ◇タリト為スノ折柄ナレハ如何トモ成シ難ク三澤今一人長谷川等ハ予カ挨拶ヲ聞キ大ニ喜ヒ感謝◇去リシハ夜半過ナリ予ハ夫ヨリシテ近傍市街ニ出テ◇ニ餅屋ノ灯火ヲ見認◇之ヲ購フテ帰リ格二郎ニ進メテ其夜ノ空心ヲ凌カシメ夫ヨリ蚊幮ヲ共ニシテ寝ニ就ケリ翌十六日朝食ハ家主進物屋旅人宿ヨリ一人前ヲ贈ラル◇ルヲ以テ之ヲ二分シ格二ト共ニ食ス他ニ一人前ヲ嘱スル◇ハ嫌疑セラレン事ヲ憚リテナリ空腹ノ節ハ餅或ハ酢子等ヲ購ヒテ之ヲ補ヒ予他出ノ時ハ不在ヲ示スカ為ニ外ヨリ戸ニ錠ヲ卸シ在宿ノ時ハ格二ヲ二階ニ潜マシメテ来客ヲ接待セリ今日松代藩三澤長谷川小松左右内蟻川賢之助會藩山本覚馬等来リ格二郎ヲ當分ノ処壬生新撰組ヘ入置可申事ニ成リ明日迎ノ者可差越約ヲ成シ夜ニ入リ退去シ同十七日朝三澤及前夜ノ使者共来リ格二郎ノ前髪ヲ剃リテ男作シ三浦啓之助ト改称シテ予カ宅ヲ辞謝ス爾後如何ヲ知ラス               致矯述



 原文には、至る所に難しい漢字や、変換不能な略字があります。それらのところには仮に「◇」を入力しました。
 マイクロフィルムの至る所に、「禁無断転載」というスタンプが押されていますが、著者の著作権は消滅しており、フィルムそのものを利用するわけではなく、書き抜いただけなので問題はないはずです。

 玄栄さんが悩んだ挙句、当時16歳だった少年格二郎を三日間自宅に匿った時の情景が目に浮かぶようです。会津藩の山本覚馬が一緒に来たことも書いてあります。一つの蚊帳に入って寝たとか、三度の食事は一人分を二等分して食べたとか、詳述されています。現代訳ができるといいのですが、知識不足で残念ながら無理です。
 この当時、玄栄さんは、登米の邑主伊達邦教君に探索結果を逐一報告されていた時期なので、デタラメを書くはずがありません。
 京都滞在中の住まいも推測できます。六角通りあたりの2階建て住宅でしょうか。二条城の近くです。
 羽生玄栄さんは、戊辰戦争のあと約30年間長面で生活され、明治33年(1900)78歳で亡くなられました。来年は没後120年にあたります。
 100年後の人たちに幕末の世情を伝えたいとの思いから「時事雑纂」を編纂されました。今でいう100年間保存の公文書的性格をもつ歴史記録です。
 先月78歳を迎えたばかりの私ですが、玄栄さん没後119年の今年、「時事雑纂」を知り得たのも、同じ長面で過ごされた方のお導きによるものではないかと思ったりしています。

 それにしても、データベースで公開されていて初めて私の目にも入ったわけですが、秘匿された史料を、現代では多くの人が利用できるようになりました。玄栄さんはそこまで見通しておられたでしょうか。
                       2019年12月 FS

※以上をオリオンに掲載する作業中に
「このページは現在の出力漢字コードでは保存できない文字を含んでいます。別の出力漢字コードで保存しますか? 現在の出力漢字コードで保存する場合、文字が正しく表示されない場合があります」
というメッセージが出ました。詳しいことがわからないのですが、あまり変な字句になっても困るので、「別の出力コードで保存する」を選択してアップロードしてみました。
それぞれのパソコンやネット環境によって何か問題があるかもしれません。お気づきのことがありましたらお知らせください。

 いずれにしろFSさんのひた向きなというか夢中な姿が浮かんできました。せっかくですから、玄栄さんの著述を現代文に直していただきたかったですね。学のない管理人には読むのがたいへんしんどいです。
         
(2019/12/26)



5、玄栄さんと安政5年のコレラ流行
  「時事雑纂(羽生致矯編)より」(3)
FSさんのレポート

 羽生玄栄さんが医事修行のため最初に京都に遊学されたのは、1857(安政4)年から1859(安政6)年までです。
 安政5年、長崎で発生したコレラは江戸に至り、8月下旬から10万人以上の死者を出したと伝えられ、更に京都・大阪にも拡大し、1859(安政6)年から1861(万延元)年にかけて、全国に流行したそうです。
 コレラ蔓延の中にあって、医学の勉強だけでなく、情報収集も怠りない玄栄さんですので、時事雑纂に何かコレラに関する記載があるのではないかと思い、安政5年8月以降の記事を追ってみました。
 安政5年9月3日付で7社7ケ寺に出された「御教書」(命令書)の写しがありました。

★「蛮夷事情人身不和之時節・・・彗星出現・・・異病流行・・・」
 (災厄を祓うため、17日間、御祈祷するように・・・)と続きます。
★(八月二十一日より九月二十日まで、三十日の間、醍醐理性院に於いて大 元修法が行われる由也)
★(八月二十九日、予は、大原三位に同伴し、参詣し、僧に面会し、道場で 拝礼)
*醍醐理性院(だいごりしょういん)は京都に現存します。
*大原三位とは?堂上家の羽林家の大原家(近衛少将→中将・参議→中納言)
*玄栄さんが拝礼されたのは、重要文化財の等身座像「不動明王座像」ではないでしょうか。悪獣、外敵を退散させる威力があるそうです。

 医者であり科学者でもあった玄栄さんが、お公家さんのお供をして理性院に参詣するというところが面白いです。
 コレラは、明治に入ってからも10年おきぐらいに大流行しました。「コロリ」とあだ名され、致死率の高さから恐れられました。
 安政5年、コレラに罹って病没した勤王の志士がおりますが、大方の志士はしぶとく生き抜いて歴史の転換期に大活躍しました。
 幕末の日本で発生したコレラ(コロリ)と今回流行のコロナとは全く異なるウイルスのようです。治療薬とワクチンの開発が急がれます。
          2020年4月11日  (FS)


6、品川弥二郎への書簡
 JIさんのお便りから


 しばらく前に玄栄さんの末裔にあたるJIさんから「玄栄さんの品川弥二郎宛の書簡があったはず」という話を聞いたことがありましたが、この正月にその書簡についての詳しいことが送られてきました。品川弥二郎は長州藩士で松下村塾に学び、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀を務め、明治24年の第一次松方内閣の内務大臣に就任した人です。
 玄栄さんの書簡は『品川弥二郎関係文書⑥』という書籍(右の写真)に収められているもので、母上の家の解体に伴う片づけをしていてやっと見つけたものだそうです。内容は下の凡例にあるように、
 「本書は国立国会図書館憲政資料室所蔵の「品川弥二郎関係文書」の主要部分を編纂復刻しようとするものである。品川に宛てて差し出された政治家等の書簡の中から主要なものを選び、五十音順に配列した」ものです。下に目次、凡例、玄栄さんの書簡、奥付のコピーを掲載させていただきますのでご覧ください。
 JIさんはこの本に収録された玄栄さんの書簡(下の写真の左から3番目)を読んで、「明治の羽生玄栄」と題して以下のような感想を記しています。

 「明治の羽生玄栄」
・この明治24年10月19日の書簡の冒頭、過日~。今般~とあるから2度訪問したと思われる。
・品川弥二郎は明治24年5月6日に第一次松方内閣の内務大臣に就任している。そこに突然訪問して「懇待」されるのだろうか。それともお茶ぐらい出されただけだろうか。


目次 
 
凡例
 
玄栄さんの書簡
 
奥付

・織田とはだれか?今まで資料に出ていないと思うが。
・織田への謝礼は断って自分には書を希望しているのか。
・同志とはどんな人を意味しているのだろうか。
・明治23年に岩切から盛岡まで鉄道(日本鉄道欧州線?)が開通し松島、小牛田などの駅が開設されている。明治24年ならこれを利用して東京を往復したのだろうか。
・維新後24年たっても佐久間象山との関係は続いていたようだ。
・だとすれば「維新後は新政府の逮捕から逃れ、桃生郡十五濱村長面浜に身を隠し、文墨に独り楽しみ、また長面の青少年を指導し種々の面で指導的立場にあった。」(幕末維新全殉難者名鑑→戊辰掃苔録)などというのどかなことではなかったようだ。しかし、そもそも死んでもいないのになぜ殉難者名鑑に載っているのだろうか。
・ネット上で見つけられる象山の写真は紋付で左手を胸に当てている「国立公文書館蔵」がほとんどである。この書簡にある真影との関係は?

 なお書簡の原文は漢文調で管理人も良く読めないので、JIさんに普通の文章にしてもらいました。

 羽生玄栄
 1 明治(24)年10月19日

過日は初めてお屋敷に伺ったところ、ご繁忙の折すぐに拝謁仰せつけられ、特に手厚い応対をいただき大変ありがたく感激いたしました。
そして、今般私がお持ちしました象山翁の富岳の詩の掛け軸一本、翁が自ら写した写真等を敬呈申し上げたところ早速お受け取り下され、なお懇ろなご意向等を野田のほうに仰せ下され、誠にもって重々恐縮の次第に存じ奉り候。これにつきましては何かご報酬にご内意も有って織田へ仰せ越されたことはあり難き次第にはございますが貴殿の配慮を煩わせるようでは却って痛却のきわみと存じますので、お差し控え下されたく、しかしながら普段お暇もあらせられ候折柄にそうらわば掛物に相なるべくよう御書を二、三枚拝領つかまつり、永く秘愛つかまつりたく、国元同士の者へも土産として楽しみを相分かちたき精神にはござそうらえども、このこと私の事がらにつき強いて願い奉り候も至極恐れ入り候ことに存じ奉り候。小生宮城県に帰るのは二十五日ごろと心づもりまかりあり候。このこともお聞き置きのため申し上げ候。 頓首
    十月十九日          羽生玄栄

 JIさんも高校時代の辞書を参考にしたそうですが、参考までに難読部分の意味や読みを付記してくれました。
=表座敷  懇待=懇ろにもてなす  感佩=かたじけなく思うこと  被仰下=仰せ下され
=きわみ  差扣=さしひかえ  乍併=しかしながら  被為在=あらせられ  =こと
心算=こころづもり  痛却=いたみ  頓首(頭を地につけて礼拝する意から)手紙文の末尾に添えて敬意を表す語



 付・桃生醫院の印鑑と印影
   JIさんのお便りから

 以上の玄栄さんの品川弥二郎関連の資料と共に、JIさんからこれも以前から話に聞いていた桃生醫院の印鑑と印影の写真が届きました。以前JIさんが「体調が回復したら送ります」とおっしゃっていたものです。この桃生醫院がどこにあって玄栄さんが開業していたものか、養子の羽生徳四郎さんが開業していたものか管理人にはよくわかりません。

 
 

 玄栄さんは長面に来る前、青森の八戸に住んでいたのでしょうか。その住所も青森県三戸郡八戸町大工町とわかっているのですが、玄栄さんがなぜ八戸に住んでいたのか経緯は不明です。
 玄栄さんには娘さんが一人あり、その婿として長面の永沼孝次(ナガコー)の叔父にあたる徳四郎という人が八戸の羽生家の養子になったのですが、事情があって破談になり羽生徳四郎は八戸で生涯を閉じました。JIさんの祖母はナガコーの妹でその徳四郎の養女になっています。
 JIさんの祖母である羽生ハルエさんは坪井三笑子著『花それぞれ~おんな四人ものがたり』という聞き語りの本の中で、次のように語っています。
 「(前略)もともと養家は医者の家でございましてね。高野長英とか、そんな方たちと一緒に勉強して帰った人だったのでございます。このことは養父から何かにつけて話して聞かされておりました(中略)養父はその頃、八戸にありました「産婆・看護婦養成所」というところの所長をしておりました。(以下略)」
 高野長英と一緒に勉強したのはたぶん玄栄さんのことでしょうから、玄栄さんが八戸にいたことは確かのようです。
 JIさんは祖母ハルエさんや母上について
「もともと母も祖母も思い出話はしないほうで病院名を聞いたことはない。祖母の話で覚えがあるのは
・建物は本人が考えたもので、部屋の出入り口にドアがついていた。
・看護婦がいた。
・工員(鉱員?)の目を洗うと金属の粉が必ず出てくる。ということぐらい」だそうです。

 さて、前置きが長くなりましたが「桃生醫院」という印鑑は以上の経緯からみて、玄栄さんが長面で医院を開業していた当時のものかもしれませんね。JIさんによればこの印鑑のほか、20㎝ほどの小さな棹秤とガラス製の乳鉢・乳棒が残っているそうです。
 玄栄さんは長面の永沼孝次(ナガコー)さんの屋敷の裏のほうに寓居していたそうですから、そこが桃生醫院だったかもしれません。桃生という名前も八戸より長面のほうがしっくりするようです。 2021/1/31


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