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(無所得無所悟にて)

 無所得無所悟
(我は出家沙門なりの自覚)にて端坐して時を移さば
     即祖道なるべし 随聞記
 夕焼
(世尊は明星)は夕焼を知らず 然はあれども夕焼なり
     夕焼かくのごとくんば万象は一の夕焼の如し

夕焼は無念
(みほとけ生命)なり 万象も皆無念なり 古里の夕焼
うるわしきは無念の故に 万象うるわしきは“滅三毒
出三界有
情非情同時成道草木国土悉皆成仏”の故に 只管打坐は宇宙無
(生命みほとけ)を端坐するなり 無所得無所悟は無念の故に 
無念はおのずから無所得無所悟なり
宇宙
(佛々祖々阿弥陀如来・先師老師)は祖の故に同参宇宙只管打坐
は祖道
(みおやのみち)なり “みおやのみち”は我は実には宇宙
(われ)
にて宇宙(われ)われこそは久遠実成の仏・諸仏如来ともに
妙法を単伝して 阿耨
菩提を証する単伝妙法は われは出家沙門
なりの自覚なり この覚の完全覚は只管打坐 坐相唯色
(むねん
・ゆいしき)
なり

 先師曰く
  坐禅は対立ではない 対立でなければ唯(
ただ)物体だ
     大本山総持寺夏期参禅会第五日  又曰く
  仏道は坐禅である 仏道とは坐禅の形
(坐相)が仏であるとい
  うことを信ずるものである。非思量も坐禅の形が非思量であ
  る
     信州南佐久貞祥寺参禅会 昭和三十年八月二日〜四日

  烟り立つ浅間嶺近き祖門山興道精舎堂守
           昭和四十八年 初冬  沙門祖道


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