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    (沢木老師「観音経の話」)

  要するにこれは俺ぢゃないんである。俺でないことに早く徹定すれば良いのであるが、なかなか片時も
  忘れられぬ。親のことは忘れてもこの身体のことはなかなか忘れられぬ。自分は何故に忘れられんかと
  云うと、我が身は可愛いからである。仏教ではこれを我執我見我愛我慢という。

  「心に念じて空く過さざれ」というのは、この自己の――現在のこの自己の境涯の中に観世音菩薩を一杯
  充(みた)して、それを取り外してはいけないということである。平常お盆に一杯油を入れて持って行けば
  こぼす。ところが死刑の罪人に持たして、一滴もこぼさず向うまで持って行ったら命を助けてやろうと云
  ったら一生懸命持って行く。そのように我々の日々の生活の上に観世音菩薩の名号を称え、そうして実物
  を心に念じて空しく過ごさない。

  道元禅師のお歌に
    また見むとおもひし時の秋だにも
           
今宵の月にねられやはする
  という歌がある。この歌は道元禅師がお逝(かく)れになったのが八月二十八日であるが、その月の十五
  日の晩の満月の時のお歌である。「また見むとおもひし時の秋だにも今宵の月にねられやはする」――
  来年もまたこの満月を見られると思って居っても、こんな良い月に早う寝るのは勿体ない、嗚呼良い月だ。
  この月ももう来年は見る気遣いがない。命旦夕にせまっている。二度と取り返しがつかん、これが宗教的真
  実である。一切のものは「一辺ポッキリ」といふ言葉を衲は使ふ。「もう一辺やりなおし」、もといがきかぬ。
  人生は一辺ポッキリである。

  道元禅師は深いことは言はずとも、高い真理を述べずとも、無常を感じなければならぬと云われた。無常
  と云えば何だか坊主の虚假威(こけおどし)のような気がするが、人生は実に一辺ポッキリである。やりな
  おしは出来ない。若しそれが出来るなら、私なぞもう一度十五、六歳になってもっとよい坊主になりたいと
  思うがそうはいかない。
  
私の知っている坊さんで七十幾つの老僧が「俺もなあ、二十二、三の頃に今のような魂があったらなあ、
  もう一寸考へもあったんだが、もう取り返しがつかぬ」と言って居った。人生は一辺ポッキリである。

  「名を聞き及び身を見、心に念じて空しく過さざれ」 宗教的求道の大道にはこの「空しく過さざれ」これ
  が非常に必要である。それが「諸々の有の苦を滅す」のである。有の苦とは人生の苦悩のことであるが、
  この苦悩というものがなければ宗教的欲求はない。宗教的欲求と云うものは、このもろもろの有の苦によ
  って起るものである。この「有」ということは十二因縁の中の受、取の次の有である。この有と云うのは「た
  もつ」と読む。人間には色々好きなものがある。それを愛し、そして執着する。「愛・取」と云うのは我々の煩
  悩であるが、有というのはこの煩悩の結晶である。

  我々のこの身体もよくよく考へてみると、これは煩悩の容れ物である。丁度船に一杯積荷したように未来永
  遠に迷い得るという荷造りが出来ている。これが有である。「有」を根本として未来の行為をする。これが業
  である。我々はもろもろの煩悩によって業を作る。

  念彼観音力――有(人生)の苦は我執から起る。そしてこの我執と云うものから十二の災難が起って来る。
  この十二の災難を説明したのが「假へ害意を興して大火坑に推し落されんにも彼の観音の力を念ずれば火
  坑も変じて池となる」以下の文章である。
  
この「念彼観音力」には三通りの読み方がある。「念ずる彼の観音力」と読むのと、「彼の観音の力を念ずれ
  ば」と読むのと、「彼の観音を念ずるの力」と読むのがある。「念彼観音力」を支那読みに読めば一通りだが
  日本読みに読むと三通りの読み方になる。何れに読むとしても、念彼観音力とは要するに観音と自分との継
  目がなくなることである。
  
天台の智者大師はこの念彼観音力を「王三昧」と言って居るし、「十住毘娑沙論」のなかには南無阿弥陀仏
  ということを王三昧と云うてあるし、禅宗の坊主は坐禅を王三昧と言う。つまり禅宗の坊主は坐禅を王三昧
  と言い、浄土宗の人は南無阿弥陀仏を王三昧だといい、天台の人は念彼観音力を王三昧だというわけであ
  って、三昧とは正受あるいは正定という意味である。
  
我々をして十二の難から免れしめるものは王三昧であるが、この王三昧を妨げるものは我執である。我々
  は兎角この身体にだまされやすい。この臭い皮袋の五尺の身体を本当の自分だと思うところから、そこに
  諸々の難を生ずるのである。

  しかし、この同じ人間がもし一度発奮して、思い切って我執を脱し、この自我を超越するならば、実にどえら
  い仕事をやりだす。

     註 このどえらいこと――これが念彼観音力、王三昧――宇宙完全即自己完全有情非情同時成道
       草木国土悉皆成仏なる王三昧、坐禅を宗とする我々には本来宇宙完全なる只管打坐である。宇
       宙完全――宇宙は宇宙どおり。

    先師「観音経の話」より
           信州小諸にて 昭和五十年七月七日   祖道


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