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長面(ながつら)の写真集 

2008年正月の長面 Nあきらさん提供
「父が大川の方の出身で、お正月の元朝参りやお盆にはよく大川へ行っておりました。
PC内の写真を整理していたところ、2008年のお正月の風景を撮った写真が出てきました」
(Nあきらさんのお便りから) 

長面・蟻前囲の屋敷跡

それぞれの写真にNあきらさんのコメントはありませんでしたが、管理人にはとても懐かしい場所なので
独断でキャプションをつけさせていただきました。60数年前、管理人はここに住んでいました― 松原A

@:中央建物の裏の山際に母屋Dがありました
長面の集落から少し離れた山際にありましたが
いつからか母屋の姿はありませんでした
この山の裏側が龍谷院です



A:Dの奥座敷あたりから見た松と中門
写っている建物が昔のままかどうかわかりませんが、
中央に門があって、両側に下男部屋か養蚕部屋がありました
我が家は向かって左側に間借りしていました
遠方の山は北野神社の山です


B:蔵 (@の左に見える建物)
蔵はいくつかあったようですが、管理人が
憶えているのもこの蔵だけで、手前の
フキ畑の、雪の中のフキノトウを鮮明に覚えています

C:座敷前の奥庭の松
本宅の庭の一番目立つポイントでした
上部の樹形は昔は形よく整えられており
存在感のある松でした


D参考母屋の写真(『大川村誌』から)

母屋は左の写真のように茅葺屋根の大きな家で
お住まいになっていたのは成田さんという方でした。

管理人はこの庭で自転車に乗れるようになり
そのほかいろんな遊びをしました

裏には、つるべ井戸、古池、小さい湧水井戸(*)があり
池には腹の赤いイモリがいました
いつもシンと静まり返っているので、「古池や……」の
芭蕉の句ではいつもこの池を思い出します
*裏庭の湧水について『大川村誌』(昭和31年刊)に「常盤清水」と題する次の記述がありました。
 「永沼治孝は当村開業医永沼五郎の先祖である。常盤清水は上の写真の家の後山の岩壁の間から
 綺麗な清水がわき出で、どんな干旱でも湧出量に変わりがないので有名である。
 特に、県の文化財保護委員の三原良吉氏が親しく観察され、この家は武家屋敷として特色があるから、
 保存されるようにと話された。 
 長面浜風土記に次のように書いてある。
 常盤清水=長面蟻前囲、岸壁の間にあり、四時こんこんとして竭きず、嘉永六年、伊達氏の臣、永沼治孝
 なる者此処に宅を構えり。安政五年、京都千種家の臣、大沢内膳、該地に止まること数日親しく泉を試汲
 し、帰郷の後、主家に稟して一首の和歌を下賜す。以来、常盤清水と称す。

    人こゝろにごらいていつも汲まはなや 名さえ常盤の清水ならずや  左少将  有文

北野神社参道
      
北野神社の参道。タンク様の建造物がどこにあったか、管理人も記憶があいまいです

北野神社付近からの長面浦
いずれも北野神社付近からの長面浦の風景

Nあきらさん、懐かしい写真をありがとうございました。別角度からの写真は今後、関連記事の中でもいろいろ使わせていただきたいと思っています。  (2014.8.20)


震災前の上空から
(泉ヶ岳パラグライダークラブさんのyoutube動画からのキャプチャーです)
  掲載2013.10.21

長面・松原海岸 太平洋・追波湾に面した長面海岸。
文字通り白砂青松の地でした。管理人の実家の林、
イトコの家と農園、松原荘が見えます。

長面浦と長面集落 (撮影2009.07.10)
145戸あった長面の集落の中心街。手前の尾崎橋の
上の空き地のようなところは塩田の跡。

松原の砂浜の北端=北上川の河口 (2009.12.30)
左が長面・尾の崎で、右は十三浜。この砂浜にはカモメの
群れがたむろしており、時にミサゴが急降下していました。

長面から釜谷にかけての緑野。
松原から北上川に沿って釜屋方面への堤防。
甚平閘門が富士川と北上川を結んでいました。
  *元の動画はこちらです。美しく、思いのあふれた動画です。ぜひご覧ください。
     【大川小学校周辺 長面 震災前映像-T】     
【大川小学校周辺 長面 震災前映像-U】


7、ある日の長面(トロントのMKさん提供)
時間があるときに山のような写真を整理しています。懐かしい写真が出てきました。
もう二度と戻らない光景かと思うと、何だかとても切なく寂しいです。
どこへ住んでいても自慢していたのは白砂清祥、風光明媚な故郷だったのですから。
(2013.2.25MKさん)
*写真をクリックしていただくと大きく見えます

実家・高鶴商店の前を進む八幡様のお祭り(?)。1993年1月

1996年7月のある日の長面海岸。大勢の人達で賑わっています
上の2枚は、息子が大川小学校に体験入学をさせて頂いたときの地引網体験。長面海岸・1996年7月17日の写真


6、松原荘から長面への道で(トロントのMKさん提供)
2009年に帰郷した折に、松原荘から実家に戻る時に車中から写したものです。
朝早くてどんより天気でしたので、暗いですが松林がしっかりとありましたし、尾の崎の橋もみえると思います。(MKさん)
*写真をクリックしていただくと大きく見えます

4メートルぐらいある石垣の護岸と何万本の松林が
今は跡形もなく消えています。
写真中央部あたりが海への宿「松原荘」


左から尾の崎の集落と弘象山、尾崎橋、
右は長面の通称「塩田」



なし畑とよばれるところにあった実家の畑の柿の木です。 
右に少し見えてる家が
あの『海に沈んだ故郷』を書かれた、一年後輩の堀越光子さんのご実家だと思います。(MKさん)

写真を拡大すると美味しそうな白菜、大根も。
こういう風景が何年後かに戻るでしょうか。

5、長面のお寺と神社 (STさんの写真2011.7.17から)

長面のお寺・龍谷院と墓地
奥に見える屋根が本堂と庫裡。ただし、流されて位置が変わっているようだし
屋根の下はぐにゃりと曲がった柱がむき出しのままだった。
5月の初めに見たときは、墓石はほとんどすべて津波で散乱していたが、
まもなくお寺さんの努力でほぼ元通りになったという。

ここは避難場所になっていて、多くの人が避難してきたが、裏山に登りきれないで犠牲になった方も多い。
最近出版された本『海に沈んだ故郷』(長面在住・堀込さん夫妻著)に避難の様子が詳しい。


この風景の異様さは、地元の人でなければわからない。

右の山は尾の崎のゴゾヤマで、水平線は太平洋、左の山並みは十三浜。
本来は、目の前から豊かな田畑、長面の人家が広がっていて、松原の松さえ見えないはず。
水平線がはっきり見えるなんて、あり得ない光景だ。


長面の北野神社(天神様)、八雲神社(天王様)への道
左は長面浦で神社はこの道から右へ、山を登った所にあり、多くの人が避難した。

 
長面の風景(左)とSTさんの家(右)
一見、修理すれば生活できそうにも見えるが、集落全体の立ち直りが……

 1 長面海水浴場

公に「長面海水浴場」と呼ばれるようになったのは、昭和30年代半ばだろうか。
それまではお盆の時期をのぞいては、ただ広大な砂浜に訪れる人もまばらだった。
写真は1980年ごろ? 左上の海の家が賑わっている。

とにかく広い砂浜だった

砂浜からゴゾヤマ(左の小山)、松原(右の黒い線)を望む
 
 50数年前に植えられた松が20数年で小さな松林になり、
2010年には人物の背後のように、けっこう大きな松林になっていた。
 ただ、なぜか10年ほど前から砂浜が急激に失われ、松を直撃するまでに波が迫った。
 それで写真のような大きな石の防波堤が築かれたが、津波後はこの石の防波堤が弓形に残っている。
砂浜が失われたのは何かの予兆だったのだろうか。

楽しい海水浴場も荒れた日は怖かった。
津波はこの方向から押し寄せたのだろうか。
 2、松原の周辺

海水浴場のある太平洋を背にして、釜谷など北上川上流方向(西)を見た写真。
右は松原。護岸は石積みで、高さは4メートルほどあったが、今は松林も護岸もまったくない。
松のある道を左にずっと行くと長面の中心部。船がこのまままっすく進むと尾崎の突端に突き当たる。
松原荘の前の道路からの撮影で、ここからの夕日はまさに西方浄土を思わせた。


上の写真の舟が向かう先がここで、尾の崎のゴゾヤマ(弘象山)の突端。
この周辺は干潮になると大きな干潟になるが、潮のある時はバゼがよく釣れた

この水路を左手に行くと尾崎、長面の集落、そして長面浦になる





 松原の中を通る海水浴場からのメイン道路。
 何万本もあるこの大きさの松が一本ものこっいてないということは、
 松を超える高さの津波が襲ったのだろう。

 JNN( TBS系)ニュースの大川小学科校の悲劇という番組で
 石巻市職員の及川氏は
 「この防潮林の松は20メートルぐらいあるが、
 それを超えてくる白い津波が見えた」と語っている。

 及川氏は避難を呼びかけるため、
 大川小学校の横を通って、海岸地域に向かう途中、
 釜谷から松原を超える津波を見たのである。

 及川氏らは釜谷橋のたもとの、学校の裏山に駆け上って避難、
 その後学童らを助けた。

写真の正面の松林が防潮林。その向こうにもう一段の防潮林があり、砂浜へと続いている。
この防潮林を津波は越えてきたのである。

このあたりは長面の須賀という地域で、北上川の堤防と松原に守られて多くの人が住んでいた。
しかし今、松林も住宅も田畑もいっさいなく、海面が広がっている。



 松原から長面や尾崎への道路から、松原、海水浴場方面を見たところ。
 中間に大きな干潟がみえ、松林の右端が松原荘あたり。
 廃船と松のこの場所は、どこから見ても美しかった。

 下は同じ場所から尾の崎、ゴゾヤマを望む。

 


 
 3、長面と長面浦


長面の北野神社の山から、
長面集落の主要部、尾崎とゴゾヤマを望む。

はるかゴゾヤマの左に松原、太平洋が見える。
津波はあそこから押し寄せてきたのだろう。

長面に煙突のように高いものがみえるが、
ポプラの木だろうか。
こういう高い構造物があった記憶はないので。
(1960年代半ばの写真か?)

津波の際はこの神社の山に逃げた人も多かったという。
長面浦に流された人の助けを求める声が夜更けまで聞こえたというが、
朝までには途絶えたと聞いている。


NO君がもってきてくれた長面浦の写真。
「故郷 牡蠣の養殖」とメモがあり、
裏面に「昭和30(50?)年12月25日、大嵐があった」
と書かれているが、牡蠣棚に変わった様子はないようだ。

長面浦のこのあたりは非常に深いところで
管理人はおぼれて、先生に助けられた記憶がある。
4、津波の爪跡

津波後、初めて見た長面、尾の崎(3月13日、アジア航空)

長面の一部と尾の崎の一部。(津波前の石巻市による航空写真)

津波後の長面と尾の崎(国土地理院)

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