はなし語りしすぺ![]() 石巻市大川地区の祭りと行事など |
◎長面のお神楽の演目 ◎針岡・羽黒神社の神輿 ◎長面浦の神輿巡行 ◎乙鶴姫の物語 ◎仮設での例祭と鎌倉八幡宮の奉納 ◎出雲大社でお神楽奉納 ◎お神楽の物語とは ◎「釜谷・長面・尾の崎法印神楽」 ◎尾の崎の神楽 ◎大川音頭 ◎長面の神楽写真集 ◎大川地区の神社 |
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「針岡の祭囃子」針岡「とら舞愛好会」の皆さん |
けん囃子、とら舞、獅子舞、どう囃子の4曲 平成27年11月15日 第3回「大川ふるさと祭り」の舞台から |
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「神楽・胴取りのジゴトと太鼓」胴取・武山質さんのジゴトと太鼓 |
お神楽 胴取りのジゴト 『叢雲』の冒頭 長面・武山質さんのジゴトです 平成27年9月25日 鎌倉鶴岡八幡宮にて収録 |
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「大川音頭」長面・佐々木律子さんの唄です |
「……輪になって踊りゃ皆んな心もまるくなる……」。途絶えかけた『大川音 頭』の復活を願って律子さんが情熱をこめて歌っています。 |
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釜屋、長面、尾の崎のお神楽 (平成25年5月25日 於:出雲大社) (平成24年10月21日 於:仮設団地集会所) |
◎平成25年、長面のお神楽の演目
9月28日、仮設の集会所で今年もお神楽が奉納されました。保存会メンバー武山質君(長面)からの連絡によると、演目は次のとおりでした。
*動画は震災の翌年の平成24(2012)年10月21日のものです(撮影・武山質君)。
【昼の部】
一、初 矢 物語の概略こちら 動画(一部)こちら
二、四 天 物語の概略こちら 動画(一部)こちら
三、岩戸開 物語の概略こちら 動画(一部)こちら
四、魔 王 物語の概略 動画はまだありません
姉。天照大神に反抗して高天原を追放されたスサノオが、前非を悔いて善神となり、
人々を救うお話。万民が楽しく暮らしているところに魔王や魔神(無法者)が現れて民を苦しめるが、
スサノオの尊が彼らを追い払って安住楽土を築く。
五、五 矢 物語の概略 動画はまだありません
放浪の旅に疲れたスサノオが、富者の家に宿を乞うとけんもほろろに断られる。
しかし、貧者の家であたたかく迎えられる。尊は感激していろいろな教えを与えたので、
しばらくのち貧者の家は栄え、富者の家は滅びてしまった。
六、笹 結 物語の概略こちら 動画(一部)こちら
【夜の部】
七、道 祖 物語の概略 動画はまだありません
導きの神・猿田彦の尊の舞。天孫ニニギの尊が天照大神から三種の神器を授けられ、日本の主に
なるために道を急いだが、道が幾つにも分かれて方向がわからないところに来ました。そのとき
猿田彦の尊がその分岐点にいて、正しい道案内をしました。天の道、人の道を教えたり、道路を
開いたり橋を架けたりと、道行く人を守る道陸神とあがめられました。地舞いとしては最高の舞
で、神楽通の見る神楽と言われます。
八、所望分 物語の概略こちら 動画(一部)こちら
九、鬼 門 物語の概略こちら 動画(一部)動画こちら
十、空照(空所) 物語の概略 動画はまだありません
天と地を分け定めた天の御中主(アメノミナカヌシ)の尊の舞。変化に富んだ地舞。
十一、産 屋 物語の概略こちら 動画(一部)こちら
(資料は武山質君が送ってくれた「法印神楽」の解説書によっています 管理人)
(2014.11.6) (2015.3.30補足)
◎針岡・羽黒神社のお神輿
KS君から春に送ってもらった羽黒神社のお神輿の写真をこちらに入れるのを忘れていました。
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この写真は10数年前のもので、ここしばらくは神輿祭りは行われていないそうです。毎年、氏子の会合では「今年は下ろしすか」「下ろさねでおぎすか」と話合われますが、ここ10数年は「下ろさねでおきすぺ」ということで、神輿祭りは中断しているようです。
「下ろす」というのは羽黒山(小富士山)から神輿を下して練り歩くことで、下ろさなくなった理由はなんといっても若者が少なくなったことのようです。
羽黒神社についてはこちらを参照してください。由緒のある神社です。
各地のお祭りの写真や思い出などがありましたら、お寄せ下さい。神社だけでなく、お寺さんの行事も残しておきたいですね。 (2014.09.06)
◎長面浦の神輿巡行
長面のMSさんから届いた八雲神社の夏祭りの写真をまとめました。写真をクリックすると大きく見えます。
![]() 社を降りる天王様の神輿 |
![]() 見守る子供の帽子が夏です |
![]() 3艘の舟による巡行 |
![]() 神輿を船に |
![]() 伝承太鼓の踊り |
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津波で巡行する町がなくなり、存続が危ぶまれましたが、浦海を神輿の舟、伝承太鼓の踊りの舟、それにマスコミやカメラマンを乗せた船の三艘が、津波の翌々年から巡行するようになったそうです。
写真を送ってくれたMSさんの便りには、「岸にたたずんで、穏やかな長面浦に流れる笛太鼓の音を聞きながら巡行を見ていると、いろいろな想いが重なってジーンとくるものが…………」とありました。 (2014.8.29)
◎乙鶴姫の物語
「釜谷の豆腐屋の弟」さんが作られた姫の像に誘われて、神楽の『橋引き』の物語をご紹介します。出典は長面のTT君が送ってくれた神楽の解説・手引書(雄勝・大浜の千葉雪麿編『雄勝法印神楽』)です。
舞台でのセリフはお面のために聞き取りにくいですが、内容はこういうものだったのですね。なんだか所作の意味も伝わってくるような気がします。
*舞の知識がないので所作のところはよくわかりません。また漢字はすべて振り仮名つきなのですが、ここでは省略しました。
『橋引き』 舞台=知慶、姫、道化三人、旦那一人
ネリの調子で知慶が出る。四方切、八十八の足にかぞえ寅二度で止め「神なぎ」をいう。
知慶 おー、この渡会の川に橋をかけんとするに成就ならず。依って神に祈願をなすに、この里に住む乙女手をかけなば成就なすとの霊夢なり、いかに乙鶴御前(おとづるごぜん)に物申さんやのー。
乙鶴姫 おー、これは何の御用に候やのー。
知慶 おー、この川上、有馬明神の社に伊会杉とて、よき杉三本あり。橋をかけんとなすに成就ならず。よって明神に祈願をせしに、御身手をかけなば成就なすとの霊夢あらたなり。よってお頼み申さんやのー。
乙鶴姫 おお、いかに奥土に住めばとて、女に出でて橋ひけとはうらめしや、情けなやのー。
知慶 おー、実(げ)に実(げ)にもっともなり。この橋成就ならば御身化粧料として橋本一千軒を参らすなり。
乙鶴姫 実に実に忘れたり。去年の三月、彼の杉の下にて雨晴らしせしとき、一首の歌を詠じたり。
?人ならば契も深き伊会杉の 今の情を忘れがたなん
と詠じしが、深慮に叶い候か。さらば祈り申さんやのー。
知慶 しからば宜しくお頼み申さんやのー。
ネリにて知慶は舞台を引く。(直ぐ旦那役に変わる)
姫舞台に残り、二還刀(にかんどう)の調子で賑やかに舞いながら弾く。
道化三、四人出ておどけながら橋を引く。監督する村の旦那も出て励ます。乙鶴姫も出て一緒に橋を引く。タバコとなって姫と監督が去る。
舞台上で道化がゴロゴロしていると、荒型舞が出て追い散らして幕となる。夜神楽向き。
以上が『橋引き』の物語です。諏訪大社の御柱など、ご神木を引く神事が各地にありますが、こういう物語がそれぞれあるのでしょうね。 (2013.11.15)
◎オラホのお神楽、例祭と鎌倉・鶴岡八幡での奉納
●長面での例祭=今年は例年よりちょっと早く9月29日(日)、石巻市の追波川仮設団地で行われました。詳しくはこちらをご覧ください。
●鶴岡八幡での奉納=10月26日(土)、釜谷長面尾崎法印神楽保存会、北上町女川法印神楽保存会、本吉法印神楽保存会、それに長面伝承太鼓の合同で「東日本大震災復興への祈り 奉納 陸前浜法印神楽」が行われました。
予定では午前10時から午後6時頃まで、神楽7番と長面伝承太鼓が奉納されることになっていましたが、台風27号の関東襲来のため、雨が上がった午後1時半からの開始になりました。
鶴岡八幡の本殿を見上げる舞殿の横という絶好のロケーション。ここに長面式の本格的な舞台が組まれて5つの演目が舞われました。詳しくはこちらをご覧ください。(2013.11.13)
◎わがお神楽が出雲大社で奉納されました
平成25年5月25日、釜谷・長面・尾の崎法印神楽が今年60年ぶりの遷宮を迎える出雲大社で復興を祈願して奉納されました。以下は、それについての新聞各紙の記事です。いずれも2013年5月26日の新聞です。
*画面をクリックしていただくとたぶん字も読めます
![]() 産経新聞 |
![]() 読売新聞(宮城版?) |
![]() 山陰中央新報 |
![]() 毎日新聞 |
![]() 河北新報 |
![]() 読売新聞(全国版) |
![]() 石巻かほく |
TT君が200頁を超えるくわしい神楽の解説書を送ってくれました。神楽を思い出しては「あれはどんな物語なのか」と思ってましたが、ようやく「ああ、そうなのか」とわかりました。
以下は、その資料による今回舞われた神楽の小解説です。この日の動画はこちらにあります。
《参考》
・「法印」とはもともと仏教の最高位僧の称号ですが、鎌倉・室町以降は仏師・絵師・医師などにも与えられた称号で、山伏や祈祷師の俗称でした。私たちが子どものころは、神主さんを法印さんと呼んでいました。
・石巻地方の各地に法印神楽が伝えられていますが、それぞれ少し違いがあるようです。「釜谷・長面・尾崎」「福地」「女川」「飯野川」「皿貝」の法印神楽は同じ内容で、志津川の戸倉から沿岸伝いに伝わったものとされています。
・雄勝法印神楽の解説には「出羽三山・羽黒山の羽黒派の修験者により伝えられたとされ、山伏神楽の系統を継いでいる」とあります。
・長面などの法印神楽は石巻市(1983)、雄勝法印神楽は国(1996)の重要無形民俗文化財に指定されています。
・どこも後継者難ですが、TT君のお孫さんはたいへん神楽が好きで、今年中学生になったら本格的に練習をはじめる予定でした。これまで各地の神楽を一緒に見てきたそうですが、残念なことに津波のため大川小学校で亡くなりました。合掌。
河北町・町民文化祭実行委員会発行(平成15年)の『釜谷浜の歴史を探る』の中に、法印神楽についての解説がありました。(写真も同誌から。クリックすると大きくなります)
●釜谷法印神楽について
江戸時代の末期には見明院法印神楽、明治初期には千春院法印神楽と、代々の法印達が代わるたびに神楽の名称も変わっていましたが、大正初期、十三浜相川の北野神社宮司・故岸波密雄氏、大川村長面北野神社宮司・故高橋豪の各師匠が中心となり神楽保存会を結成すると同時に、釜谷法印神楽と改称しました。
現在伝承されている神語等は、雄勝町大浜 石神社宮司・故千葉雪麿氏の指導を受け、そのとき作成したものです。
当時、保存会は14名で発足しましたが、現在そのほとんどの方が個人となりました。
活動としては、お祭りの際は勿論、家屋新築時の悪魔払い、小学校・中学校の文化部、民謡団体から要請等その都度披露しています。
昭和57年4月、「釜谷・長面・尾の崎法印神楽」と改称され、昭和58年3月には河北町の無形民俗文化財に指定されました。(現在は石巻市指定の無形民俗文化財)
*昨年10月21日、長面のお神楽(こちら)で神楽を舞い、太鼓を叩いていたTT君から、お神楽の内容や舞い方などの詳しい解説書が届いています。
神楽を思い出すたびに「あれはどんな物語だったのか」と思っていましたが、ようやく「ああ、そうなのか」とわかりました。記紀神話のお話なんですね。
近々、演目を整理したものを作りたいと思っています。 (2013.2.9)
◎尾の崎のお神楽 尾の崎KKさんから
◎ ♪大川音頭〜 知ってますか?
釜谷の同級生HT君(仙台)から送られてきた写真です。(クリックすると大きくなります)
【HT君のコメント】
日本手拭いに「大川音頭」がプリントされています。
大川音頭は祭りのときなどに歌って踊っていたようですね。
手拭いは、姉の話では、オフクロが婦人会部長のときに使っていたとのこと。
この手拭いも大川音頭も、70代後半から80歳ぐらいの人なら知っているらしいですよ。(2011.10.31)
もう1年以上も前にいただいた便りです。遅くなってすみません。
うーん、歳かバレちゃいますが、管理人もこの手拭いに、覚えがあるようなないような……。
大川音頭は確かに聞いたこともあって、盆踊りでも歌われていたように思います。 (2012.11.10)
*ほんとうに弘象山から見る島々や長面海岸の白砂……。今も目に浮かびます。柴栗をとって食べたこともありました。(管理人)
◎今年の長面のお神楽 とりあえず写真集
(MSさん撮影の写真とTT君のビデオからの抜粋です)
10月21日、長面の秋祭り・北野神社奉納のお神楽が仮設住宅の集会所広場で行われました。
演目など詳しいことがわかりません。いずれ内容など関係者の方に伺って、逐次ご紹介したいと思います。
お気づきの点などお寄せ下さい。
*写真のキャプションはMSさんの要点コメントと管理人の遠い記憶です。
*写真をクリックすると大きくなります。
◎大川地区の神社
大川地区には8つの神社があり、毎年祭りが執り行われました。
とりあえず例祭日の順に紹介してみます。
*資料は『大川村誌』『河北町誌』『宮城県神社庁ホームページ(写真も)』等によります。
●4月8日 尾の崎 久須師(くすし)神社 | ||
例祭日 | 4月8日 | ![]() |
鎮座地 | 石巻市尾の崎宮下52 | |
主祭神 | ・少彦名命(スクナヒコナ=酒造の神) ・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト=穀物の神) ・大名持命(オホナムチ=大国主神) |
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由 緒 | 天和年間(1680年ごろ)葛西家の臣加茂之助が一意専心地方の開拓にあたっていたが、守護神として常陸国大洗の本社(磯崎神社)の分霊を勧請して尾の崎浜の鎮守とした。 御神体の木造は雲慶の作と伝える。 明治5年11月村社に列し、昭和3年10月幣帛供進社に指定された。 |
●10月25日 長面 北野神社 | ||
例祭日 | 10月25日 | ![]() |
鎮座地 | 石巻市長面大入山18 | |
主祭神 | 菅原道真公(スガワラミチザネ=天神さん、雷神) | |
由 緒 | 長面は昔、長津浦、長面浜、長須賀などと呼んだ。文治4年(1188)、藤原泰衡に、義経謀殺の諌言が用いられず、落人となった者十余名が、雄勝浜三山権現別当にゆかりがあったので身を寄せ、やがて長面の入江の奥、滝浜を開拓したといわれ、この人達が滝浜の宮下山に北野神社を勧請した。 その時の御神体が菅公の短冊と笏とであったとされ(天明の火災に焼失)、この神社が桃生郡内の4天神の元社であるという。 弘治3年(1557)宮下山の社殿を改築して、長面浜の鎮守とし、元禄2年(1689)3月、現境内に社殿を新築して現在に至っている。 享保10年仙台藩主伊達吉村、明和4年仙台藩主伊達重村、山追のおり来拝したと伝える。 |