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はなし語りしすべ
 
茶飲み話あれこれです
◎白石の平六さんの墓参り ◎塩田のあった村 ◎『塩煮釜物語』序章  ◎昭和28、29年頃の釜谷 ◎釜谷の山の畑  ◎優秀賞『ふるさとの山々』 ◎長面、尾の崎の地名由来 ◎チリ津波と松原海岸 ◎釜谷の水、再考 ◎水汲みの話 ◎I校長のワイシャツ講話  ◎狐とトモダチ  ◎なまり可笑しすか 

白石市の史跡をたずねて
 
〜瑞泉山・定光寺 大槻平六左衛門の墓〜
   FSさん(長面、国立市)からの投稿

 天保3年(1832)に長面塩田を開設した大槻平六左衛門の功績を讃える「大槻翁碑」が、長面の北野神社参道口に建立されたのは、明治21年(1888)のことです。今から130年前になります。
 風化して読みにくくなったためか、紀元二千六百年の記念事業のためだったかは不明ですが、昭和15年(1940)に再建されました。(写真右)
 大槻平六左衛門は刈田郡越河村の人で、白石片倉氏の家臣として、白石城11代当主・片倉宗景に長く仕えたと考えられます。
 碑文には、平六さん(長面での愛称)が長面に来て、塩田開墾に着手し、4区の塩田を完成させるまでの苦節3年について、製塩が軌道に乗ったのち、いったん越河に帰り、長男に家督を譲って、再び長面に戻り、自ら開場塩取居士と号し、悠然自得の余生を送り、慶應元年(1865)75歳にして長面で歿し、龍谷寺(龍谷院)に埋葬されたと記されています。
 塩田開墾に着手したのは、40歳ごろと推測されます。
 平六さんは仰ぎ見るように背が高く、痩せ型でスラッとしていたそうです。でも、(上から目線ではなく)温かい物腰で人に接する態度が、村民に敬愛される所以だと記されています。肖像画が無いのが残念です。
 碑銘の作成者は、「松平正直篆額、永沼庄太郎謹撰、羽生玄榮拜書」となっております。
 この碑文は、のちに、統計書に引用されたり、地方誌に採録されたりしました。
引用:「大日本塩業全書第2編(10)」明治40年(1907)刊
採録:「桃生郡誌」大正12年(1923)刊
採録:「大川村誌」昭和31年(1956)刊
採録:「河北町誌・下巻」昭和54年(1979)刊
 今年、友人が撮影してくださった墓碑銘の写真などにより、建立当時の姿が思い描けます。
 以上、最近まで、このレベルの知識にとどまっておりました。
 
 ★刈田郡越河村ってどこ?
 この疑問が突然起きたのは11月の末でした。「河北町誌」の、「大槻翁碑」和文読みの後に付け足されたような、「余録」をながめていた時のことです。
 「河北町誌 下巻 河北町摘録」(1979年刊)の862pに、次の記述があります。

【3 越河、大槻家の平六左衛門墓碑
 大槻平六左衛門の居家は、越河宿の町並にある。平六左衛門は長面で亡くなり、長面に墓所もあるが、越河大槻家にも墓はある。法名は、遠い桃生郡長面で塩田を開き、長面で生涯を終わったので、
長面、龍谷院墓碑:開場軒長面塩取居士
越河、大槻家墓碑:桃遠軒長面塩取居士】
 今年9月は、「大槻翁碑」建立から130年。平六さんの命日の10月26日を過ぎた頃から、落ち着かない気分で過ごしておりましたが、早速、郵便番号簿で調べてみました。
 「宮城県白石市越河」という地名が見つかりました。
 地元の図書館に走って行き、「白石市史 5巻 史料篇下 316風土記御用書出 越河村」235p以下を読み、1750年ごろの越河宿の様子が、おぼろげながら理解できました。
 次に、インターネット検索でヒットした、「白石市 史跡のまち ガイドブック」を、白石市観光協会に照会し、市役所観光課さんから現物を送っていただきました。12月8日の到着です。
 目次を見て驚きました。

★市のガイドブックに平六さんのお墓が
 「10 史跡・歌枕・伝説のルート B定光寺と大槻平六左衛門の墓」とあります。本文の57〜58ページにかけて説明文と、「定光寺」および「大槻平六左衛門の墓」の2枚の写真が載っています。
 矢も楯もたまらず、12月13日、仙台の妹を誘い、一緒に白石蔵王から越河宿を目指しました。
 車で25分、定光寺を探し当てました。 ところが、由緒あるお寺さんなので、山中の墓地には、江戸時代からのお墓が何百基?も建っていて、「大槻家之墓」が点在しています。お寺の住職さんはあいにく不在で、1時間あまり徘徊しても見つからず、もうダメだと諦めかけたころ、ガイドブックの写真に似た背景のブロックが前方の斜面に見えました。数日前に降ったらしい雪でぬかるむ山肌をよじ登り、やっと辿り着いたところに、真新しい「大槻家之墓」があり、その左側に、写真にある通りの丸くて白っぽい古ぼけた石碑が建っていました。

 

 午後の明るい陽射しを受け、「桃遠軒長面塩取居士」という文字がくっきり浮かび上がり、まるで私たちを手招きしているように見えました。これを発見した瞬間、喜びで、妹と手を取り合いました。身内に再会した時のような感動を覚えたのです。

 ★私たち姉妹の本籍地
 昭和23年、長面塩田で生まれた妹の出生届の番地は、「大川村長面字平六囲無番地」となっています。平六さんのお陰で、妹は塩田でスクスク育ちました。もちろん私も、小中高を塩田で過ごし、結婚するまでの戸籍は、「長面字平六囲」でした。
 明治38年から塩務局が調査を開始し、明治40年に発行された「大日本塩業全書第2編」の大川村長面塩田の沿革という中に、「長面塩田ハ開墾者ノ名ヲ付シ平六囲ト云フ」とあります。
 明治43年(1910)、第1次製塩地整理で、大川、十五浜は、製塩禁止区域に指定され、太平洋戦争末期に専売法が改正(廃止塩田の復活奨励)されるまで勝手な塩づくりは許されず、「雑種地」として放置されていたものと思われます。
 戦後、数年間長面塩田が復活するのに伴い、「長面字平六囲」の番地も復活し、日の目を見ることになりました。
 平六さんは、長面塩田育ちの、今ではバッパになった私たちを見て、喜んでおられたでしょうか。もっと早く知っていれば、若い時にお参りができたでしょ


平六さんの墓碑 
 
長面塩田最後の塩

うに。お迎え間近の今頃になって何だ、と皮肉られそうです。お花を供え、お線香をあげ、長面塩田最後の塩と、長面浦のアサリの貝殻を墓前に飾りました。平六さんは、旬のアサリを毎日食べ、魚介類で丈夫な骨格を形成し、歌詠み、碁打ちに興じられ、長生きされました。
 見下ろせば、江戸に通じる街道筋が真下にあり、東北本線の貨物列車がちょうど通って行くところでした。海が見えなくて可哀想な気がしました。長面のどのあたりに住んでおられたかはわかりませんが、毎日、長面浦の潮の満ち引きを眺めながら余生を送られたことでしょう。
 長面塩田開設から186年経ちますが、3・11の津波の被害を受け、塩田は跡形もなくなりました。しかし、賑わっていた頃の塩田の記憶は人々の心に刻まれ、文字によって記録された文献は全国各地の図書館に所蔵され後世まで残ります。忘れられることなく、これからも折に触れ思い出す人々がいてくださり、不滅の長面塩田であり続けることを願っております。
 東京オリ・パラの2020年は、平六さんの生誕230年ではないかと思います。1790年生まれと類推する私の計算が当たればですが。
 「大槻翁碑」建立から130年という記念の年に墓参が実現し、安堵して年が越せます。
        2018年12月  F. S.


◎塩田のあった村 FSさん(長面、国立市)からの投稿

 昨年(2016)、オリオンのホームページで「塩煮釜」や「改良釜」にまつわる思い出を話題にしていただいたのをきっかけに、塩田のことを調べてみようと思い立ちました。
 長面塩田に住んでいたのに何の記録も残せなかった、と母が生前悔やんでおりました。
 墨田区の「たばこと塩の博物館」を訪ねた際、学芸員さんに「大日本塩業全書」を紹介していただいたことが、大川村塩田の歴史を知る大きな手掛かりとなりました。
 大川村塩田の沿革と明治38年当時の現況はわかりました(パラパラ図書室に紹介)が、下総国行徳から改良釜を伝受しに大川村に来てくださった秋山仙太郎さんとはどういうかた?それに、下総行徳ってどこ?という疑問が起きました。
 9月から、千葉県市川市の行徳を中心に徘徊し、松戸市の秋山駅にも何か手掛かりはないかと行ってみました。千葉県には初めて行きましたが広いですね。家を出て片道3時間かかりますが、「犬も歩けば」のたとえ通り、訪れた先々で貴重なヒントを得ることができ、行徳塩田の全貌もわかってきました。
 まだ不十分ではありますが、大川村塩田がたどった道を、今までわかっただけ簡単にまとめてみました。この流れのなかで、浜辺の塩煮釜、改良釜、自給塩のことなど考えていただければ幸いです。


1、.『大日本塩業全書第2編(10)仙台塩務局渡波出張所之部』

<長面塩田・尾ノ崎塩田の開墾>
 文政10年(1827)の頃、白石藩片倉氏に仕える大槻義秀(平六左衛門)が藩に建言して長面塩田の開墾を許され文政13年(1830)起工、天保3年(1832)4区の塩田を完成する。その後塩田は仙台藩の直轄に帰しその利益は白石藩と平分することに。次いで3区を増設する。長面塩田開始以降、源蔵なるものが尾ノ崎塩田を開墾する。口碑に伝えられているが、今この起源を詳らかにすることはできない。製塩法は渡ノ波・野蒜と同じ入浜法塩田である。
 維新前まで産塩は藩の専売に帰し、製塩者にして密売等不正の行為あるときは罪の軽重により重きものは地場を取り上げられ、軽きものは其の地を追放され、現行犯なるときは捕縛者にその塩を与えた。

<明治維新後>
 明治維新廃藩と同時に専売制度も廃せられ人民の自由に製造販売するに至る。明治3年(1870)の秋、民業となり古来の制度は一変し、粗製濫造に流れ、後漸く改良発達の機運に向かう。

<行コ製塩士・秋山一族の活躍>
 明治31年(1898)、渡波塩田に下総国行徳より秋山常二郎なるものが来て改良釜を所々に築造する。
 明治33年(1900)の頃、大川村の有志者阿部雄吉なる者下総行徳に赴き釜屋及び煎熬法を視察して帰る。
 明治34年(1901)、行徳の人秋山仙太郎なる者を大川村に招聘し改良釜を築造する。

<煎熬ニ關スル操作及其方法>

 當出張所管内ニ於ケル鹽ハ渡波及ヒ大川村ノ改良釜(各一個釜屋アルノミ)ヨリ製出スル眞鹽ヲ除クノ外悉ク熬鹽トス而シテ其ノ操作モ略相同シケレトモ野蒜村ノモノハ煎熬中火力ノ斟酌ニ於テ多少異ナル點ヲ有スル(大日本塩業全書第2編(10)第3章乙15)

《明治39年(1906)、元塩務局が調査した各地の塩業の詳細が、大蔵省主税局に於いて、「大日本塩業全書第1編」として上梓される。第1編のトップに掲げられているのが、「東京塩務局行徳出張所之部」です。明治40年、専売局の編纂により、残部が「第2編」として出版される。第2編の10番目が、「仙台塩務局渡波出張所之部」で、大川村塩田の沿革と現況が盛り込まれています。この資料では、行徳の秋山一族の詳しい事情は不明。市川市の図書館や行徳の図書館、博物館に赴き、「秋山一族」の探索をお願いし、検索していただきましたが、大川村塩田の恩人である秋山さんの手掛かりは、今のところありません。司書さん、学芸員さんには多数の参考文献を紹介していただきました。》


2.『郷土読本 行徳 塩焼きの郷を訪ねて(鈴木和明著 2014)』

<明治33年、大川村の阿部雄吉視察団が見た行コとは?>
 ・1590年(天正18年)徳川家康、行徳塩搬入のため、小名木川開削の突貫工事を命ず。
 ・1608年(慶長13年)家康、行徳領塩浜開発手当金として金3千両を与える。
 ・その後、秀忠は2000両、家光は1000両下賜した。
 ・江戸城へ塩を船で毎日運んでいた。
 ・1632年(寛永9年)行徳船が許可され、1879年(明治12年)まで運航された。
 ・江戸時代初期の行徳の塩田は揚浜式塩田だったが元禄頃には入浜式塩田に変わっていた。
 ・明治時代、行徳塩田は最後の繁栄を迎えた。


3.『東京湾沿岸の塩田製塩について(小沢利雄著1996年)船橋市史研究第11号』

<明治38年(1905) 塩専売法が施行>
 ・政府の許可を受けた者しか製造できない。
 ・製塩地、製造期間、生産高を政府が制限できる。
 ・生産した塩は政府に収納する。
 ・塩の価格は政府が決める。
 ・塩専売法に違反した者は処罰の対象になる。

<明治43年(1910) 第一次製塩地整理>
周到な準備・計画のもとに法律制定される。
 ・経営規模が小規模で生産高が寡少
 ・生産費が高額

<製塩禁止地と製塩許可地の仕分け>
 ・製造禁止地域:17県(全県禁止)
 ・一部禁止地域:16府県(宮城県含む)

<昭和4年(1929) 第二次製塩地整理>
 ・行コ塩田はすべて整理された。
 《「第一次製塩地整理で全県整理の対象から除外された宮城県桃生郡の野蒜村、牡鹿郡の渡波町・稲井村」とあるが、大川村には触れられていないので、どうなったか疑問が起きた。》


4.『製塩地整理事蹟報告 専売局 大正元年(1912)8月』

<大川村塩田は第一次製塩地整理の対象となり廃止される>
明治43年度第一次製塩地整理対象とされた大川村塩田の製塩状況
 ※このあたり右の表をクリックしてご参照ください。 
 ・郡市名:桃生
 ・町村名:大川
 ・製塩場数:9
 ・製造人員:65
 ・従業人員:345
 ・製塩地段別:13,4716(町)
 ・塩生産高:281,464(斤)   

<整理後の処分>
 ・雑種地;12,6023(町)

「製鹽地整理施行後ニ於ケル製鹽地分布ノ状態ハ實ニ多大ノ変化ヲ來シ整理前ニ在リテハ三十五府縣五百四十六箇市町村ニ渉リ全國沿岸至ル處産鹽地ヲ見サルナキノ状態ナリシモ整理實行後ニ於テハ鹽田製鹽は兵庫、岡山、廣島、山口、コ島、香川、愛媛ノ七縣即チ十州鹽田ト汎稍セル地方ニ集團スルコトトナリ十州以外ニ在リテハ僅ニ宮城縣渡波地方、石川縣能登地方、愛知縣吉田地方、千葉縣行コ地方、福岡縣大分縣ノ瀬戸内海ニ面スル一部及鹿児島縣灣内ニ比較的集團地ト目スヘキモノヲ残存セルノミ・・・・・斯クシテ産地ノ集團ニ伴ヒ製鹽地ノ規模亦著ク大ナルニ至リ一人當製鹽高及一製鹽場當製鹽高等モ多大ノ増加ヲ來スニ至レリ」

《大川村は「不服申立」をしないまま「決定」に従い、大正期〜昭和20年頃まで、塩田は「雑種地」のまま放置されたものと想われます。整理から除外された渡波町、稲井村、野蒜村の塩田は、大正から昭和まで継続されたのでしょう。この時期の大川村の事情は不明ですので、今後の課題として残しておきます。》


5.『日本塩業史 日本専売公社 1958』

<戦中・戦後の塩事情>
 昭和17年(1942)8月、「自家用塩製造許可に関する件」として塩専売法の改正がなされ、昭和19年になると戦局悪化に伴い、国内自給自足体制の早急確立が求められた。


6.再び『船橋市史研究第11号 小沢利雄著論文』

<自給塩の生産奨励>
 太平洋戦争の戦中・戦後の塩不足時代には、政府は塩専売法を改正して自給製塩を奨励した。このときには全国的に多くの旧塩田が復活し、東京湾沿岸でもかつて廃止された塩田や、海水直煮法などによる自給塩(生産性が低く、生産費が高い)が生産されるようになった。
 しかし、昭和24(1949)年、日本専売公社の発足と、輸入塩の増加による塩需給の好転によって、塩専売法が再び改正され、自給製塩の生産が禁止されると、自給塩から専業塩に転換した塩製造人以外の製塩は禁止となったため、再び姿を消した。


7.『ふるさと河北の歴史 河北地区郷土史友の会 2000.10』

<長面塩田の廃止>
 「戦後、昭和21年〜26年頃まで、一町六ケ村(飯野川町、大川村、二俣村、大谷地村、桃生村、中津山村、橋浦村)の人達で塩田にたずさわりました」。
 この塩田は昭和26年に廃止されました。


あとがき
 長面塩田に私たちが移住したのは、昭和22年前後だと思いますが、記憶が定かではありません。23年4月、大川小学校長面分校に入学しました。その当時は、塩煮釜の巨大煙突から立ち上る煙を眺め、長面浦の海の幸、弘象山の山の幸の恩恵にあずかりながら、今から振り返ると豊かな暮らしを送っていました。塩田の「藻塩の煙たなびきて〜(長面分校のうた)」の時期は相当長かったようにも思いますが、昭和26年、廃止されたとあります。
 渡波から専売公社のトラックがやってきて、カマス入り塩の抜き取り検査をしたあと全部積み込まれ、あわただしく走り去る車を見送った時の光景が甦ります。
 廃止後しばらくして、煙突の解体工事があり、物陰からこわごわ見ていました。コンクリート製の土舟(どふね)は埋め立てられましたが、発掘すれば残骸が出てくるかも知れません。
 昭和26年の5月から父は大川村役場に勤めました。残務整理をしながらだったでしょう。塩田の事務所で使っていた物差しの一部が父の形見として私の手に遺されました。母の遺品にあった長面塩田最後の塩は、塩田生まれの妹の手に。
 私の本籍地は結婚するまで、「桃生郡河北町長面字平六囲1番地」でした。昭和31年、大川村が合併で河北町になった後の改製原戸籍に記載されています。「平六囲」の意味も知らず、求められた時には書類に記入していました。「いつもの平六さん」に由来する地名だったということが今頃になって解り申し訳ない気がします。幻の大川村塩田は天保3年(1832)に開墾されました。今年で185年になります。感慨無量です。

◎『塩煮釜物語』序章
 以前、パラパラ図書室(こちら)に『大日本塩業全書 第二編』大蔵省塩務局(明治40年刊)から国立市のFSさん(長面)が抽出・整理された、長面、尾ノ崎の塩田に関する記述(こちら)を収録せていただきましたが、その後、長面、尾の崎の家々には塩煮釜という設備があったというが出て、何のためのどんな製塩だったのかをFSさんが追跡しています。
 いずれ本格的な『塩煮釜物語』ができると思いますが、以下、発端となったFSさんからの報告や皆さんからの反響をまとめてみたいと思います。
 
 ●塩を煮て生業に
 パラパラ図書室に『日本塩業全書』のFSさんの抜粋を収録すると、尾の崎のKKさんから製塩の思い出として次のような便りがありました。
 仙台での現職警官時代に、赤紙をもらい中国戦線に臨み,何とか生き延びて帰国した父は、同僚や上司からの再三の復職の誘いにも、この混迷期に、闇物資を取り締まることは忍びないと、尾の崎に帰り、直後は塩を煮て、ノーパンクの自転車で桃生方面まで売りに出かけました。その難儀や、今思うと涙が出ます、何度かおまわりさんに捕まったそうですが、元警官の肩書が効いて、なんとかお目こぼしがあった模様です。
 文中、尾の崎への帰還直後は「塩を煮て、ノーパンクの自転車で桃生方面まで売りに出かけました」とありますが、終戦直後に自宅で塩を作って、それを内陸の需要地に販売したということは、戦前には当たり前のことだったのかもしれませんね。
 管理人の両親は一時、大川地区で豊富な米や麹を名振や船越の漁村に売るヤミ商売をしていましたが、それは戦後に突然始まったことではなく、遠い昔からの慣習が困窮の時代に復活したものだろうと思います。
 長面の塩産業は、明治の初めごろに書かれたと思われる『長面濱村の濫觴記』(こちら)に
 「薪木は日用に足り、米穀は村内人員用に給すべし」
 「土民(住民)はつねに耕漁、製塩を以って営業とす」
 とありますから、塩づくりは昔から重要な産業だったのかもしれません。
 
●「改良釜」と謎の阿部勇吉さん
 FSさんの第2信には、小学生時代、よく遊びに行った同級生・YAちゃんの家には海辺に小屋があり、中には五右衛門風呂のような鉄製の釜があって、それを「塩煮釜」と呼んでいた記憶があるとありました。
 ただ、15年ぶりに会ったYAちゃん(魚屋さん)に聞くと、いつごろ作られて、いつ頃まで使われていたかについては、まったく記憶がないそうでした。

 
昭和256年頃の長面塩田


 実は、FSさん自身も、長面の家々の浜辺に沿って「塩煮釜」が安置された小屋がいくつも並んでいたのを記憶しているそうで、「戦時中、塩田が中断されていた時期に各家庭で自家製造したものではないか」と考えていたそうです。
 「管理人さんのお友達の家にはなかったですか。それが分かると新発見かもしれません」ともありましたが、管理人には「塩煮釜」の記憶がないので、そのうち誰かに聞いてみようと思います。
 また、『全日本塩業全書』の中には、
 「明治33年ごろ、同地(長面?尾の崎?)の有志者阿部勇吉という者が千葉の行コに赴き、釜屋(塩を煮る釜のある家屋)および煎熬(センゴウ=煮詰める)法などを視察して帰り、翌年には行コの秋山仙太郎という人を招いて"改良釜"を築造し、この製塩法の伝授を受けて製塩を行ったが、阿部勇吉以外にこれを見習うものはなく、みな旧来の製塩をしていた」
 という記述があり、FSさんのメールは「阿部勇吉さんって何者でしょう?」と結ばれていました。
 
 ●不明な「塩煮釜」の詳細
 長面の「塩煮釜」のことをKKさんに伝えると、
 FS先輩の言う通り私等も「塩煮窯」と呼んでおりました、父は復員後実家の空き地に自分で「塩煮窯」を作って製塩してました。
 鉄製の弁当箱を大きくしたような 平たい流し缶のようだったと記憶してます。幼心にも随分の重労働だったようで、できた塩を自転車で何10キロの道を売りに行ったことを今思うとその苦労がしのばれます。
 政府の規制(専売法?)か採算が合わないかで短期間で父の製塩業は終わりました。尾の崎の他の方も製塩にかかわった人もいるようでしたが、遠い記憶で定かでありません。

 というお便りがありました。
 長面だけでなく、尾の崎にも個人の家に「塩煮窯」があったわけで、長面の五右衛門風呂風、尾ノ崎の平たい流し缶風など、詳しい製塩方法はわかりませんが、いずれも小規模な製塩設備だったようです。もちろん大槻平六さんが長面などに作った大規模な入浜式製塩法とは違うようです。
 FSさんの便りには、
 竈に釜を据え、その上に竹棚を渡して刈り取ったホンダワラを乗せて汲み置いた海水を注ぎ、これを煮詰めて塩を作る「藻塩焼」製塩法は、松島湾周辺や塩釜で、古代から行われてきたそうです。
 とありましたから、あるいはこれに似た製法だったかもしれません。
 
 ●「改良釜」という屋号の家が長面に
 ところで、FSさんの妹さんが「苗字などはわからないが、長面に"改良釜"という屋号の家があった」とおっしゃったそうで、FSさんからは、
 前回、「明治33年の頃、改良釜を築造した阿部勇吉さんとは何者ぞ?」と疑問符にしましたが、「改良釜」の屋号を持つ家の方たちは、もしかして阿部勇吉さんのご子孫にあたるのではないかと思えてきました。記録の裏付けになりますよね。ご自宅に遺された文書類があったとしても、津波に流されてしまっていれば、『大日本塩業全書』は、わずかにご先祖の事跡が残された資料ということになります。

 
渡波の改良釜装

  というお便りがありました。屋号"改良釜"さんがどなたかわかれば、『塩業全書』の阿部さん秋山さん、それに記述の周辺事情も分かってきそうです。
 そして次の便では、「改良釜」の家は長面の同級生・TTちゃん(旧姓Sさん)の家ではないかと思い、電話してみたところ、即座に
 「私の家です」との答えが返ってきたそうで、TTちゃんは
 「子供の時は、改良釜と呼ばれるのがとてもイヤで、どうして改良釜なの?」と親にきいたら、
 「昔、おじいちゃんが改良釜を造って塩を煮たから、そう呼ばれるようになったんだよ」と教えられたそうです。
 ちなみにこの改良釜家は大川小学校・長面分校の近くにあり、現在はTSさんがご当主ということです。
 お祖父さんの名はSさんで、曾祖父から先のお名前は不明ですが、問題は阿部姓や秋山姓に結びつく人の心当たりはないということだったそうです。
 それでFSさんのメールには次のようにありました。
 考えられるのは、「行徳製塩士」の秋山仙太郎さんが長面に招聘されて、TTちゃんの曾祖父SSさんに改良釜の築造法を伝授した。それで、改良釜の屋号を持つようになったということでしょうか。
 
 ●長面・尾崎の改良釜は千葉県行徳塩田起源?
 長面・尾ノ崎の塩煮釜、改良釜のルーツに関心を掻き立てられたFSさんは、往復3時間かかる本八幡野の「市川市中央図書館」に2度も出向き、『アチックミューゼアム彙報 第49』(1941)として出版された「下総行徳塩業史」を発見、《長面・尾崎の改良釜は千葉県行徳塩田起源?》というメールと同書の関連部分を寄せてくれました。
 FSさんの精力的な資料探しと図書館めぐりなども臨場感があってなかなか面白いのですが、それはさておき、行徳の改良釜のことや大川村の塩田についての記述を見てみましょう。
 
@ 行徳塩田の製塩法が東北各地へ伝播したこと
 『アチックミューゼアム彙報 第49』「下総行徳塩業史」(1941) 18頁
  行コ鹽田は、、、西に於ける十州鹽田に對して、東の製鹽を代表するものとして、その歴史の古い點から云っても、關東、東北地方の製鹽業を常にリードする地位にあった。

 
大川の製塩釜屋の様子

  例へば關東地方に於ては神奈川縣の大師河原、金澤等の鹽田は行コの影響を蒙ること多く笊取法その他行コの慣行に従って製鹽し、又、千葉縣夷隅郡内之浦に於ては天保の頃行コの人が來って製鹽に從事したと云はれてゐる。東北地方に關しては仙臺渡波に於て、鹽田起工に際し、寛永四年、流留村の人菊池惣右衛門を行コに遣はし、老練者二名を雇はしめてその技術を傳へ、享保年中の改良に至るまで行コの臺壺を模倣した。又明治三十一年には行コの人がこの地に來りて改良釜を築造し煎熬法を傳受した。同じく大川村に於ても明治三十三年有志者が行コに赴き釜屋煎熬法を視察し、翌年行コの人を聘して改良釜築造の傳受を受けた。また、松ヶ江に於ては、元和元年行コの某~詞者玄蕃なるもの來り、鹽田開發を勧誘し彼を師として鹽田を開き釜屋を築造したと傳へられてゐる。松ヶ江附近の松川浦には行コ島なる島があり十二景の一に數へられてゐるが、口碑によればその島に行コより來って鹽を燒いたとある。尚後述の貞享二年津輕藩に於ける行コ製鹽士招聘の事實は行コの影響が遙か津輕にまで及んだ證査であらう。
 
 A改良釜のこと 同書138頁
 尚明治二十八年の頃まで行コに於て製鹽法の改良に從事した平井太郎氏は、燃料の節約、鹽質の改良に關して、第一號より第六號までの各種の改良釜を考案、それぞれ特許を得た。それ等の改良釜は、行コの當業者間によく普及し、鹽業の改良に貢獻した様である。
 「元来私が、改良に着手致しましたのは行コに於て致しましたる者で以來此處(註、小名浜)で致しました者でございます、其始めの研究は彼眞鹽は行コに於て行われて居る眞鹽でございます、其小さいものより段々研究を致しまして、或は御會堂には行コ地方の御方もあるか存じませぬが、私が初めてやったのは則ち二尺に三尺ある小さい釜で、それから十八平方尺の釜で研究して段々進んで一百平方尺に至った、其物を見た船橋の長谷川金右衛門と云う人は率先して自分の釜を改良した、それから陸續と行コの當業者も改良をした、是れが抑々行コに煙突の立ちましたる初でございます。」
 
 以上から、行徳では塩煮釜の研究・考案が行われ、畳半分ぐらいの小さなものから900uぐらいの大きな改良釜が使われていたことが分かります。それが長面の塩田にも伝わったものでしょうが、FSさんは次のように言っています。
 私の推測ですが、長面では、四角の改良釜は他に真似する者なく、五右衛門タイプの従来型を使用していた。尾崎に四角の改良釜を真似する者あり、ですかね。
 
 さて、皆さんのご感想はいかがでしょうか。長面・尾の崎の家々に「塩煮釜」があったことを覚えていらっしゃる方がありましたら、どんなことでもいいので、お知らせください。
 FSさんの手元にはまだまだ資料がたくさんあるそうですから、いずれまとまったレポートが届くと思いますが、とりあえず序章はこの辺まで。
※図版2点は『大日本塩業全書』付図から。国会図書館のデジタル版があまりきれいではなく、渡波の改良釜(同書には長面の製塩はほぼ渡波と同じとあります)はカマドの改良なのか、塩水製法の改良なのかよくわかりません。大川の釜屋(塩煮釜の入っている家屋)はたぶん長面塩田のもので、平六さんの時はこういう釜屋だったのでしょう。 (文責=管理人 2016.11.19)
 追補、以上の諸氏のメールをまとめた翌日だったか、尾の崎のKKさんからどんでん返しのようなメールが届きました。KKさん、掲載するのが遅くなってすみません。
 さて、長面のカイロカマ(改良窯?)の由来を午前中、尾の崎の千葉さんという80歳代の方に聞きました。長面のカイロカマの現当主TSさん(80代)のおじいさんかが、台所で煮焼きする窯を工夫改良して、効率よく便利に使用できるように造りそれが周囲に広まったかで、改良窯と呼ばれいつしかそれが長面語でカイロカマとなりやがて屋号として現在にいたっているそうです
 残念ながら塩煮窯とはつながりがないようです。

 なるほど、各家庭のカマドのことだったようですね。ただ当時の各種塩業資料には、渡波=大川塩田の改良釜についていろいろ書かれているようなので、長面の屋号・カイロカマさんの由来が家庭のカマドのことなのか、別な由来があるのかまだはっきりしません。管理人は一つの可能性として、行徳の改良釜を平六さんの長面塩田に導入する際に、TSさん(80代)のおじいさんかが関わっていたかして、そういう屋号がうまれたのかな、とも思ったりしています。      (2016.12.11)

◎昭和28,29年ごろの釜谷
 しばらく前“釜谷の豆腐屋の弟”(TS)さんから「昭和28、29年頃の釜谷」という手書きの住宅地図(?)をいただきました。ちょっと忘れていてすみません。遅ればせながら掲載させていただきます。
 TSさんとその同級生が少年時代の記憶をもとに作ったもので、遊び場だった釜谷のメインストリートが主になっています。記憶にもとづくものですから、必ずしも正確とは限りませんが、たいへん面白い郷土史の史料にもなりそうです。

 地図は右の通りで、クリックしていただくと大きく見えます。パソコンの画面に合わせて小さくなりますが、カーソルの+をクリックしてください。
 管理人が不明のところをTSさんに電話で聞きましたが、その主なものは以下のとおりです。

●大開墾地(ダルマズ)
 管理人の同級生たちはダルマツと言ってますが、名の由来はこの山が達磨さんを横にしたような形からきているのではないか、とのことです。

●壁土取場
 家屋の土壁をつくるのに適した、良い赤土の粘土の採取場で、TSさんは取っているのを見たことはないが、洞穴になっていて中に入って遊んだことがあるそうです。

●忠魂碑
 開墾地に行く途中に建立されており、前はちょっとした広場になっていた。桜の木(・印)が10本ほどあり、畑への行き帰りの休憩地で、忠魂碑に腰かけたら叱られたことがあるそうです。

●船場
 追波川の対岸・橋浦への渡舟の船着場。渡しの責任者はマサオさんだった。

●秋葉山碑
 明和9(1772)年に無火災を祈って建てられた秋葉大権現(火伏の神)の碑。

●カツオさん
 追波川のウナギほか川魚を獲る漁師さんで、とくに甚平閘門近くで獲れるベッコウシジミは逸品として有名。

●最上屋
 初代・最上屋は山形県の最上地方から来た人で、TSさんの祖父になるそうです。

●手水舎
 忠魂碑に向かうときに手を洗った。近くに飲料水の井戸“お裏の井戸”があった。

●飲料水の井戸
 各家に日用水の井戸はあったが、飲料用の井戸は3つしかなく、ここはその一つ。ほかは役場の近くの地蔵院の近くの井戸、それに観音寺の井戸が飲料水の井戸だった。釜谷の「中」に住んでいた管理人の同級生HT君は、「観音寺の水を汲んで天秤で担いでくるのはたいへんだった」と言っています。
*釜谷の地区
 武酉旅館から役場までをカミ(上)、学校からスガワラさん、高橋さん、宮下医院までをナカ(中)、佐々木さん、ハタゴヤからシモカジ(鍛冶屋)までをシモ(下)といった。
*水道設備
 地図の左端に「水タンク昭和35」とありますが、釜谷の水道設備は昭和35年に完成、そのタンクです。水源は釜谷沼の背後の山の沢です。

●大川小学校
 教室の数まで正確(たぶん)に書いてありますね。校門から教室をぐるっと回って運動場に出る配置は管理人もよく覚えています。
 ・印は桜の木。
 左側の校舎は2階建てで、昭和27年まで大川中学校と共用でした。同28年から大川中は針岡に新築移転し、中学校が使っていた教室の一部は、飯野川高校大川分校(定時制)でした。
*教室のスジカイ
 2階の教室には、図のようなスジカイが入っていましたが、1階にも入っていたかどうか、小学の1階建ての校舎にもあったかどうか、覚えのある方はぜひ連絡を欲しいとTSさんは言っています。
 このスジカイは校舎が竣工した後に、あとから取付けられた物で珍しいとのことです。最上屋の初代が、関東大震災(大正12年=1923)のあと、スジカイの必要性を強調したのですが、耳を貸す人は少なく、わざわざ村会議員に立候補して当選後に実現したものだそうです。

●大川音頭歌手
 歯医者の高橋雅美さんは釜谷の生まれではありませんが、むなかなかのノド自慢で盆踊りなどには大川音頭や民謡を唄っていました。

●マッカさん
 本名は武山藤夫さんで、マッカーサー(占領軍最高司令官)のごとき実力者という意味のあだ名。法学士で日本古文書学会員。長面・龍谷院の古文書を精読したり西門を建立したりしている。「コーシャクを始めたらタイヘンなので我々は敬遠してた」とTSさんは言うが、武山家に飾ってあった日本刀をイタズラして、友達を傷つけてしまったことがあるという。

*ところで、TSさんちはどこかというと、ナカの一番下「オエちゃん」(屋号?)とあるところです。ケーちゃんがここで豆腐屋を始めるのは石巻、仙台での修業を終えてからだそうです。


 それにしてもこの地図、労作ですね。釜谷をよく知らない管理人でもあちこち心当たりがあって懐かしいです。鍛冶屋さんでスケートを打ってもらったし、床屋さんも釜谷でした。ザルやカゴをつくる仕事もあったんですね。
 ついでですが、冊子『釜谷浜の歴史を探る』の詳細がこちらにあります。あわせてご覧ください。
                                  (2015.11.16)

◎釜谷の山の畑
 今、間垣のジオラマ制作に取り組んでおられる大宮の“国土夢想”さん(谷地)から、しばらく前、ジオラマの資料である釜谷、長面方面の写真を数枚みせていただきました。
 写真は昭和50年ごろの航空写真で、新北上大橋が完成間近ですがまだ工事中、大川小学校もまだ木造の旧校舎です。間垣や釜谷の家並みがきれいに写っているのもさることながら、小学校の裏山に大きなゴルフ場のようなものがあるのが不思議でした。

 で、“釜谷の豆腐屋の弟”さんに聞いてみたら、なんとそれは釜谷の皆さんの畑だったそうで、子どもたちの遊び場でもあったそうです。
「釜谷には畑地が少なかったし、戦中戦後は疎開や復員で急に人が増えたので、食糧自給のために山の平らなところを開墾したんですね。僕らも天秤で肥やしを担いでよく行ったものですよ。担いで登るのも大変だけど、滑って転んだりしたら……」
 山道を肥え桶担いで転んだら……、今の人には想像もできない大悲劇です。それでも釜谷の皆さんにはそこを遊び場にしたり野菜を育てたり、いろいろな思い出があるようです。

 管理人はあの山の上に畑があるとはまったく初耳だったので、“国土夢想”さんに写真の見方を教えていただきました。それが下の写真で、拡大したり移動したりできますのでご覧ください。


 で、これをジオラマ応援団の“Old間垣Boy”さん(名取)、“ヒトボ”さん(間垣)などに見ていただいたところ、
「小渕山の稜線部は畑だったんですね。昔、三角地帯のでっぱりから林をかいくぐり、なおも進むと急に広場に出くわしましたが、作物が植えられている記憶はなく、畑という認識はありませんでした。学校行事の薪採取を含め、あのコースは4、5回は登った思い出の山です」(Old間垣Boyさん)

「私も間垣Boyさんがおっしゃる“だるまつ”(なんでかわかりませんが“だるまつ”と呼んでました)に登りました。武酉(たけとり)旅館の裏からちゃんとした道があり、途中開けたところに、4体ぐらいの大きな石碑があり、桜の木も何本もあり、お花見をしたり木イチゴを取って遊んでいました。その石碑の裏側が一面の畑で眺めがよく、そこでもよく遊んだことを思いだします」(ヒトボさん)

「釜谷の山にかつて畑があったとのことで、国土地理院の地図で1975(昭和50)代と最近の写真を比較してみましたが、最近の方は樹木で覆われて畑の痕跡もほとんど消えているのがなんとも不思議な印象です。
 人が切り拓いた場所も、30年40年もすれば山林に飲み込まれてしまう様を見ると、震災後、長面の水没地帯の埋め立て用に切り崩された谷地の墓地の裏山も、いずれは元通り木々が戻るのかなと、そこはかとなく期待感が募ります」(国土夢想さん)
 などなど、それぞれに深い思いが込められたコメントがありました。

 私事ですが松原の我が家も、長面海岸の松原の一部を払下げてもらって開墾してつくった疎開家族なので、釜谷の山の上の畑には、なにか特別なものを感じます。
 あの時代、とくに疎開や復員の家庭は食べるものもろくにない日々でしたが、長面・尾の崎の人々、そして大川全体の人々との強い連帯というか、深いところでの絆に支えられて過ごしたように思います。
 松原の家は、父母が亡くなってからは、敷地を耕す人もないので自然に任せていたら、35、6年の間にうっそうたるクルミの林になりました。なぜクルミなのかわかりませんが……。人間が拓いた場所……、それを自然が覆い尽くすのはほんとうに早いですね。その林の中の別荘代わりに使っていた家も今は海の底ですが。

 ちなみに、ヒトボさんから追伸があって、
「国土夢想さんがおっしゃっていた谷地の土砂搬出跡地は、大川小学校、郵便局、交流センター等の候補地の一つになっています。先月見学会がありましたが、なかなか眺めもよく、広さもあり、好感をもって受けとられたようです」とありました。
 国土夢想さん、これからは谷地が大川の中心になりそうですね。

 とまあ、一枚の写真からいろいろな思いを書きましたが、“だるまつ”はじめ、皆さんの思い出などもお寄せください。            (2015/07/09)


◎「1枚の手紙」の優秀賞『ふるさとの山々』
 昨年、国土緑化推進機構による「君たちに伝えておきたい日本の原風景 1枚の手紙」の募集がありましたが、優秀賞に入選した尾の崎・近藤孝悦さんの『ふるさとの山々』が、この7月に発行された「国土緑化」に掲載されました。
 巨大津波でも持っていけなかったもの、それはふるさとの山々。その美しい四季がみずみずしく描かれています。
 PDFなのでちょっと読みにくいかもしれませんが、右の写真をクリックして、すてきなイラストやレイアウトなどとともに味わっていただければと思います。 (2014/08/10)

◎長面、尾の崎の地名

 長面と尾の崎の地名について、尾の崎・近藤孝悦さんから次のお便りをいただきました。
●近藤孝悦さんの『長面、尾の崎地名由来』
 (尾の崎はいつの間にか「の」の字が抜けて尾崎と表示されるようになりましたが、今回は旧来どおり尾の崎と書きます)
 昔々(いつ頃だったかわかりませんが、とにかく昔話の定番です)、長面浦に白馬が住んでいたんだと。白馬はいつもその長〜い面(ツラ)をナガツラ方面へ、尾ッポをオノサキ方面に向けていたんだと。
 それで長面、尾の崎と呼ぶようになったんだか。  どんとはれ、おしまい。
※まあ、かたい事はぬきにしてあくまでもメルヘンですから、白馬はカツカやカキ、エビを喰っていたのかなあ、と思いを馳せるのもよし。
 尾の崎は尾根の先がストンと海に落ち込んでいるから尾の崎だとか、長い素浜(津)が続く浦だから長津浦だとか、まんずそんなことを言ったら夢がなくなりますから……」(後略)
 
 ついでですから『長面濱村の濫觴記』にある地名由来。
●『皇国地誌』編さん資料の長面、尾崎地名由来(概略)
「……本村は元長洲賀(ながすか=波に寄せられた長い砂浜のこと)と称し、のち浦海ができたことにより長津浦といい、その後、中世から長面濱と称したが、その年号はわからない
 土人の諺に、昔、本村の浦海に色白く像(かたち)海馬の如き獣住みて、あるとき突如現れ本村(当時長津浦)の方に顔を向け、大崎(今の尾の崎)へ尻尾を曳きしより、本村を長面浜、大崎を尾の崎浜と称して今日に至っており、両村ともに白馬を飼わずという」
 *海馬の如き獣 海馬=辞書を見るとタツノオトシゴの異称とあり、ネットではセイウチ? アシカ? ジュゴン?などという見方もあります。
 まあ、馬ぐらいの大きさの白いタツノオトシゴみたいな獣だったのでしょうね。

●管理人が聞いた地名由来
 管理人が子どものころ、オフクロがこんな風に言ってました。
「……〇〇の戦の時に、死んだ武者が乗った白い馬が流されてきて、頭を長面のほうに、尾を尾の崎の方に向けていたので、長面と尾の崎という名になったんだよ。それ以来長面も尾の崎も白馬は飼ってはいけないことになっている」
 子供ながらに(ウソー!ホント?)と思ったものですが、『長面濱村の濫觴記』には長面の始まりは頼朝が平泉を攻めた頃らしいので、この戦いで敗れた武将が、北上川→追波川→追波湾→長津浦に流れてきたのかも。(笑) 

 さて、どの言い伝えにも白い「馬」または「獣」が登場しますね。これは何だったのでしょう。
 *『長面濱村の濫觴記』については近々、詳しいことをお知らせします。      (2014/7/7)

◎チリ津波と松原海岸 木下政義さんのことなど
 ある人が被災後の大川小学校を見て「チリ津波の教訓はどうしたのだ。そもそもこういう場所に学校を作ることが論外だ」というようなことを言ったと聞ききました。

 チリ津波は東北に大きな被害をもたらしましたが、大川地区の被害はあまり資料もないくらい微々たるものだったようです。
 管理人は当時、仙台にいて、長面でもあまり海抜の高くない塩田の実家に2日後ぐらいに帰りましたが、床上浸水があったかどうかはっきり記憶がありません。長面、尾の崎の各家も床上まで来たのはごくわずかだったと記憶しています。どなたか、チリ津波による長面、尾の崎などの被害状況をご存知でしたらお教えください。

●チリ津波と長面の松原海岸


チリ津波直後の松原海岸。
波浪はこの砂丘で阻止された

長面海岸林横断図

クロマツの植栽。いつの植栽かは?

 チリ津波は長面や尾の崎でも被害はそれほどでもなかったので、大川小のある釜谷では津波の懸念など誰にもなかったのが現実でしょう。
 立地云々は、今回のことがあった後に言われてみればなるほどそうなのですが、大川小が長い間避難場所とされてきたことからも、釜屋は安全だという認識が学校にも住民にもあったと思います。
 管理人の同級生その他にも、大川小で学んでいて危険を感じたという人はほとんどいませんから。

 チリ津波が志津川など十三浜や雄勝に大きな被害を与えましたが、長面、尾の崎になぜ被害がなかったか。それは長面海岸の松林や砂の堤防が大きな役割を果たしたという報告があります。
『チリ地震津波における防潮林の効果に関する考察』という論文で、著者は「宮城県立農業試験場 佐々君治山報恩会」です。右の写真、図は同論文からの借用です。

 論文の詳細は(こちら)をご覧いただくとして、チリ津波では長面の松原海岸に約2mぐらいの津波が押し寄せたようです。
 にもかかわらず、尾の崎、長面の被害が軽微ですんだのは、松原海岸に防潮林と砂丘があったことと、長面浦への入口が狭かったことがあります。
 津波は右の横断図の波浪編柵を越えて右の砂丘まで到達したとあり、管理人の記憶ではごくわずかに植林したばかりの松林に波の跡があったと記憶しています。

 つまり、松原海岸に押し寄せた津波は、人口の砂丘(小規模な砂の堤防)にさえぎられて松林にはわずかしか海水の侵入がなかったということです。。

 それに、長面浦への湾口が極端に湾曲しているうえに狭いため、長面浦への海水の流入が緩慢になり、大きな被害を生む前に波が引き始めたわけです。

 松原の存在は、防風、防潮、そして砂浜の砂飛散を防ぎ、蓄積するという重要な役割を担っていますが、チリ津波の時は長面海岸の砂浜と松原は見事にその役割を果たしたわけです。
 ただし今回の津波の規模は松原の能力をはるかに上回るものでした。

●昭和の植栽事業と木下政義さん
 長面海岸の松原は2段構えになっていて、古い方の松林がいつごろ誰によって植栽されたのか、よくわかりません。松の太さや高さからして、たぶん藩政時代か明治の初期の植栽かと思うのですがどうでしょうか。(こちら)
 さて、戦後に植栽が開始された海側の松林ですが、この波浪編柵やクロマツの植林には、管理人自身も思い出があります。中学だったか高校だったか、春休みか夏休みに、松原海岸の砂浜に穴を掘って、太い杭を打つアルバイトをしました。幼い松も少しですが植えた記憶があります。

 上の図の波浪編柵づくりで、この植栽事業のリーダーは松原荘の木下政義さん(尾の崎)で、自ら陣頭指揮をとっていました。
 ネットの「日本の海岸」の「長面海岸」(こちら)に木下さんの「黒松十万本植付記念碑」の写真がありますので転載しておきます。
 碑には次のように刻まれていました。いましたと過去形にするのは、今は松原荘もこの碑も海の下だからです。

  浜の松老いて姿を整えて
  数来る災害肌身で守らん

  昭和二十八年より一万本宛
  十年間約十万本植栽す

    昭和六十年一月建立
      宮城県海岸林長面保護組合長 木下政義記


 そのほか松原海岸の砂浜の様子もこちらでたくさん見ることができます。
                                    (2014/6/13) 

◎釜谷の水、再考
 10月26日(2013)、鎌倉・鶴岡八幡宮の法印神楽の奉納のとき、偶然というか必然というか「釜谷の豆腐屋の弟」さんに出会いました。もちろん、初対面。

 で、開口一番(だったかな)、
「釜谷の名誉のために、これだけは言っておきます。オリオンのあちこちに”釜谷は水事情が悪い”と書かれているが、釜屋は水は豊富なんですよ。どこの家も庭に井戸を掘れば水はたくさん湧いてくる。それほど深く掘らなくてもね。
 だから洗いものとかお風呂とかの水はぜんぜん不自由ないんですよ。ただ、水質はあまりいいとは言えないから、それで飲料水はお寺の水を汲んでくるんです」

 観音寺のこの水を「お裏の水」というそうですが、そのいわれは伊達正宗だったか中央の偉い人に、
「この水は旨い。どこの水か」と聞かれたとき、単に「裏の水です」と言っては権威がないので、「お」をつけて「お裏の水でございます」と答えたのが始まりだそうです。
 それほど美味しい水だから、釜屋の人たちはここまで汲みに行ったのですね。

 もう一つ、釜屋の同級生EFちゃんが「ウチのお祖父さんか曾お祖父さんかが、釜谷の堤防工事のときに水を売りに来ていた」と言っていたのも、水を売りに来ていたわけではなく、ここでいう「水」は「お酒」のことだそうです。
 なるほどそれで納得。EFちゃんちは酒屋さんでした。

 以上、「釜谷の豆腐屋の弟」さんとの立ち話でしたので管理人の記憶違いもあるかもしれませんが、下の記事を訂正してお詫びする次第です。  (2013.11.15)

◎釜谷の水汲みの話と長面の竹管水道
 もう、一年以上も前ですが、釜谷のHT君が「家の手伝いの主なもの」として次の二つを知らせくれました。

風呂たき…竹に穴をあけた「火吹き竹」で、口から空気を吹き込んで火を起こす。なかなか燃えないので、目が真っ赤になった。
水汲み(飲料用)…近くのお寺かと思うが、バケツでくみ上げ、バケツ2個を棒で担いで、フラフラしながら汲んでくる。休みながらだけど、20〜30分かかったかな? 一番いやな手伝いだったね。(イラストもHT君)


 今の若い人は経験があるかどうか……、天秤棒で荷を担ぐのはたいへんな作業です。特に水ものはチャプチャプこぼれるし、バランスをとるのも難しいし、中学生以下の子どもにはホントに辛い仕事です。
 HT君のこの話やEFちゃんお祖父さんか曾お祖父さんかが、釜谷の堤防工事のときに水を売りに来ていたという話もあって、釜谷の飲料水事情はほんとによくなかったのですね。
 水の事情が悪かったのは長面も同じでしたが、長面はメインストリートにいくつか井戸があって、この井戸が出来る経緯が『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』という冊子に詳しく書かれていますので、紹介させていただきます。

●永沼悦之輔翁と竹管水道 (抜粋)
 
(『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』河北町・河北町民文化祭実行委員会 平成8年発行)から

 長面地区一帯は海岸に近く、俗に海抜0メートル地帯といわれ、昔から井戸を掘っても飲料水に適さず、水には大変難儀をしていた地域でした。
 永沼家11代の主・
永沼悦之輔翁は、地区民が飲料水に困っている日常の暮しをみて、常々深く憂い、解決の方法はないかと一心に探索調査を続けていました。
 たまたま山合いに水脈らしきを発見し井戸を掘ったところ、良質豊富な湧き水をみたので地区民と共に大いに喜びあったのでした。

 しかし、水源と地区集落は相当の距離があるので、手桶をかついで水汲みをするにはあまりにも遠い。
そこで研究をかさねて考えついたのが、竹を使っての配水です。
 
その工法は、太い真竹の節を抜いて次々と継ぎ合わせて延長するもので、つなぎ目は丸太をくリ抜いてジョイントにし、その上に杉長丸太をニッ割りにして中をくり抜いたものを土圧防止にかぶせ覆土しました。

 受水用井戸は集落の道路に四カ所に、まったく同じ型の井戸が配置されました。
 源の大井戸から第1号井戸まで275m、第2号まで416m、第3号まで581m、終点4号まで731mあり、水源地は特に高台でもないので、総延長731mの勾配計算等では、測量技術の未発達な時代なので大変に苦労したと語り伝えられています。
 (この工事は明治19年に完成。永沼悦之輔翁は明治2366歳で没)

 
大正6年には、この水道は竹筒から土管に替えられましたが、この方式は昭和32年まで使われました。
 大正14年、地区民はその恩に報いるため悦之輔翁を水神様に祀ることにし、一社を建立し永遠に感謝奉祀することにしました。その社の石碑には翁の功績と地区民の心情がよくあらわされ、またこの水道事業の完成は当時としてはまことにユニークなもので、郡・県当局などの称賛多大なものがあリ、広く世の注目を集めた有名な水道であったと言われています。

 
昭和32年、天王山に丸型タンクを作って大井戸からポンプにより汲み上げ、各戸に蛇口を取付け、町営長面簡易水道として近代的設備が出米たので、その一切が撤去されました。
 実に71年間にわたっての歴史的使命を果し、発展的消滅となったものです。その後、水量に不足を来すようになったので、昭和42年滝浜に水源を求めそれぞれの施設を拡大しました。
 昭和53年、大川地区の一斉町水道の開始にともない、長面簡易水道もこれに編入され現在に至っています。


●永沼家のお屋敷 この永沼悦之輔という人は私たちが知る永沼五郎先生のお祖父さんにあたる人です。お屋敷が長面の集落から少し離れた龍谷院に近い山裾にあり、郷士風の門構えの家でした。
 疎開して住む家のない我が家(管理人)は、この屋敷の下男部屋? 養蚕部屋?に住んでいたので懐かしく思い出します。山を背負った屋敷の裏庭には”つるべ井戸”があり、もう一つ特別なお茶用の水を汲む岩清水の井戸?(常盤清水」というそうです)があり、そこから20畳ほどの古池に年中絶えることなく注いでいました。
 池や常盤清水のまわりはいつも森閑としていて、「古池や蛙飛び込む水の音」というのはこういうところで聞いたのだろうと子供心に思ったものです。
●井戸端会議 井戸は長面の入口あたり(祭の杉門をつくるところ)
、長面分校の近く、それとモンゼンのちょっとシモにあった記憶がありますが、もう一つがどこだったか思い出せません。
 管理人が塩田に住むようになったときは、長面のいちばんシモの井戸からHT君と同じように天秤で飲み水を汲んできましたが、私は担いだ記憶はありません。ただ、井戸の周りの記憶はあって、いつも数人の女性が井戸端会議を開いていたように思います。
●水神様 文中の水神様は北野神社の少し下にあったように記憶してますが、子どものころの元朝参り(初詣)のときオフクロが「悦之輔さんが神様として祀られている」というのをきいて、へーっと思ったものです。
 後年、まったく別のことで神社本庁に取材に行ったときに、「田舎のこういう人が神様になるという話はありますか?」と聞いたところ、「いやー、その方は敬神家だったのでしょうね」という答えでした。 (2013.2.6)

◎I校長のワイシャツ講話 (MKさんのお便りから)
 
 〜紫桃先生に『北へつづく星空』をいただきましたが、大川中学のI校長について「“酒飲み校長”とあだ名され、酒による失敗も二〜三あったが、教育者としては随一、これ程人情味ゆたかな人間は他に知らない」と書かれ、こんなエピソードもあげています〜

***********************
 I校長が男子生徒の前で話すのを聞いたことがある。
「お前ら、ワイシャツを知っているか」
「アア、知ってるよ。白くて、ダブダブしたヤツだべ」生徒が答える。
「そうそう。あのシャツさ、裾がうんと長く出来てるんだ。どうしてだか分っぺか」
 やぶから棒の質問に生徒たちは好奇の目を光らせ
「サア分んねナ。なしてしシッ。先生教えてけらエン」とせがむ。
 校長はニヤリ笑い
「それはナ。あの長い裾でキンタマを包むのだ」とズバリいう。
 納得のゆかない生徒たちは

「ウソだ。だってパンツはいてるもの必要ないベチャ」と喰い下がる。
「昔むかしのことだ。ワイシャツはな、昔のイギリス貴族の間で流行たんだ。その頃はイギリスにはパンツはなかったんだ。だから長い裾で包んだんダ」
 校長はむきになって説明すると、生徒たちは
「本当かや。変な話だナヤ」と、ともかく不満ながらも納得して、輪を解いて散って行った。
**************************

 MKさんのお便り(つづき)
 〜紫桃先生は『みやぎの戦国時代.合戦と群雄』『正宗をめぐる十人の女』、そして河北文化賞を頂いた『葛西氏と山内首藤一族』などなど多くの本を出版されておられます。
 何年か前に桃紫先生のお宅をたずねた時には 目の手術をされたばかりで不自由をなさっておられましたが、教え子達の名前をしっかりと記憶されていて、その教え子の特徴までをしっかりと語られたので驚きました。
 その時に「時間があったらこの本を読んでね」とくださったのが『北へつづく星空』でした。
 紫桃先生は残念ながら数年前にお亡くなりになられました。〜

◎「狐とトモダチ」
  板垣優喜著『大川地区 昭和の昔がたり』から
   (平成8年4月26日発行 発行人:板垣しげ子 ひたかみ出版社)

 

 新北上川下流沿いの私の古里は、前面に広がる田んぼの中に稲穂がうねり、あたりが夜の帷(とばり)に包まれると、村の鎮守の森でホー、ホーと梟(ふくろう)が鳴いた。
 悪童達は野イチゴや桑イチゴを食べて唇を紫色にし、無心に野山を駆け回った。
 乗合いバスが通る広い堤防の上を頭上にたらいのような丸い木箱を載せた飴売りが通りかかると、陣取り遊びを半分にしてドツと駆け寄り、小遣銭を持たなくて買うこともかなわぬまま、物珍しさにぞろぞろと後をついて歩いた。
 やるせない思いの大人達は、一つ目小僧や人さらいだと言って、飴売り商人から子供達を遠ざけた。
 そんなことどもの鄙びた古里の情景が幼い日々の追憶の中を影絵のように去来する。

 新北上川が太平洋に注ぐ横手海岸の近くに長面という部落がある。
 小柄で、つるつるした禿頭をふり立て、黒っぽい木綿の着物の尻をはしょって、オレンジ色のピカピカ磨いた手製の杖をついて歩く老人に出逢うと、学童達はあの爺さんが狐と仲良しだ、と噂し合った。
「あのオズンツァンがなあ。夜になっと、釜谷で酒飲んで、油げ買って行って蛇沼のどごで、そいづ(それを)投げてやっと、狐が出て来て、油げ喰って、自転車に化げで、あのオズンツァンどご、長面の家まで乗せで送っ行ぐんだどサ」
「そんなごど、あんのガヤ」
「本当だどや。みんなそう語ってんだがら」
「んだンダ。狐は人んどご、バガにすんだから」
 怪しい想像の世界にひき入れられていく面妖な話題は、ズック製の肩かけ鞄を下げて道草を食って歩く帰校途中の退屈な子供心をこよなく満足させた。

*MKさんに送っていただいた『大川地区昭和の昔がたり』には、大川地区の人情・風俗を描いたエッセー29編が収められています。いずれもMKさんがおっしゃるように涙と笑いの心温まる大川地区のエピソード集です。KS君からの蛇沼の話(こちら)も含まれています。
  奥さま板垣しげさんの「あとがき」には

 「桃生郡大川村(現・河北町谷地部落)に生まれ、家族の温かい愛情の中で、追波川(新北上川)沿いの柔らかい草原とおおらかな風景に育まれた心は、年を重ねても純粋で、少年の心そのままで逝ってしまいました。
 彼の残した数々の作品を見ておりますと昔の村のたたずまいや人情、優しく、ゆかしく、またなんとなく物悲しかった昔の生活がよみがえります」(抜粋)
とあります。
 板垣さんは昭和24(1929)年生まれで平成7(1995)年没。陸軍少年飛行兵で『ああ少年飛行兵』ほか多数の著書があります。版元の「ひたかみ出版社」は現在連絡がつきませんが、アマゾンからの検索で入手できるかもしれません。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%BF%E5%9E%A3-%E5%84%AA%E5%96%9C/e/B001I7CYXA

 「〇〇さんはお風呂だと思って肥溜めに入ってきた」「××さんは美人に誘われて一晩中山をさまよっていた」など、管理人のオフクロも狐に化かされる話を信じているようでしたよ。(2012.12.8)



◎ナマリ、オガススカ?

 今は田舎へ行っても、ほとんどの人が標準語を話すが、しばらく前、針岡の同級生KS君がパソコンの練習に打ってみたと、大川地区の方言集を送ってくれた。
「方言は漢字になんねのがしでな」というコメントをつけて。


オバンデス、オバンデガス こんばんは ・KS君との電話はだいたいこの言葉で始まる
オイタミカケル ありがとう ・優雅ですね。「いたみいります」という丁寧語
ゴザリス ございます ・「ござりまする」の略?
ナジョスペ どうしよう
ンダベ そうだろう
ンデネ そうじゃない
ンダネベ そうじゃないだろう
オドデナ 一昨日 ・おととい
オライ 自分の家 ・単純に「オラのイエ」
オガダ ・「オクガタ」でしょうか
オガッツァン お母さん
ガガ ・懐かしい響きです
オドッツアン
オド お父さん
オボコ 幼児
ヤロッコ、ワラス 子供 ・野郎っこ、べこ(牛)っこなど「コ」は愛くるしいものへの愛称
オガル 成長する ・植物の成長も子供の成長もオガルといいます。
モモタ 太腿(ふともも) ・なんか艶めかしい響きじゃありません?
ケナ ・カイナの略?
コノゲ まゆげ ・?
ハナビキ いびき
ニサ、ニス お前ら ・オヌシら? 東北弁はサシスの発音がむずかしい
ホデナシ 馬鹿者 ・うーん、ホデって何だろう
アッペトッペ つじつまがあわない ・聞いたことあります
イズイ 具合がわるい ・? 
ウザネハク 難儀する ・「ウザネハクな」→弱音吐くなと言われました
ナデカデ どうしても ・「なんでもんでも」の略?
ウンダゲットモ しかし ・そのとおりだけれども
ゴシャク 怒る、叱る ・「ゴシャヤケル」は「腹が立つ」でしたかね
ヘラズク しゃべる
ガオル 疲れる
コウェ、コワェ 疲れた ・怖い? 強い?
オドギデネ 冗談じゃない ・オドルケルでない? 冗談じゃなくたいへん
ネマル 座る
キジリ 炉ばたの下座 ・キジリには薪や鍋が置いてあったなあ。逆の上座には家のいちばん偉い人が座る。本家ではおっびさんが座っていた。
ハスリ 台所の流し
キビチョ 急須
ヨワリ 夜の仕事 ・いわゆる「夜なべ仕事」
デロ
タッペ 氷の張ったところ ・道にはタッペが至る所にあり、滑ったり転んだりした
アオノロシ 青大将 ・ノロシってオロチと語感が似てますが……。
アゲズ とんぼ ・アキツはとんぼの別名で、古くはアキヅと言うそうな。
ビッキ カエル ・赤ビッキ、スズメ焼きより美味しいですよ

 方言というかナマリというか、土地の言葉を流暢に使う人は少なくなってしまった。
 でも、同級生ではこれを寄せてくれた針岡のKS君、長面のTN君が情感豊かな大川弁?を話す。
 方言やナマリにまつわること、何かあったらぜひお寄せください。


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