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(DIARY) 2013年1月〜
2011年7月〜2012年12月はこちら
このホームページでは性別がわかるように、同級生の男性には「君」、女性には「ちゃん」をつけていますが、
実際には今でも同級生は男も女も多くは「ちゃん」づけ、もしくは呼び捨てです。
もちろん、同級生以外は「さん」づけが普通です。


■今年もありがとうございました
 今年もあと2時間ばかり。もし、来年が来ない(明日が来ない)とすれば、今何をするだろうかとさっき考えてみましたが、やはりうつらうつらしながらテレビを見ているだろうなという、なんともなさけない結論でありました。

 掲示板にも書きましたが、このオリオン311のホームページで「お神楽の動画掲載」「石巻弁の特集」「忘しぇねがらねの思い出収録」「大川追想の充実」」ほか、やりたいこと、やらねばならないことがたくさんあるのですが、来年に先送りになってしまいました。皆さまのお声やお叱りをエネルギーに、来年は実現したいと思います。できるだけ早々に。
 もう一つ来年の夢を語れば、大川地区のどこかに住めないかなあ、ということ。永住は難しいかもしれないけど、数年ぐらいならなんとか体も動きそうなので……。円空と木喰の仏像や伝記からの一時的な感傷かもしれませんが。
 ほんとうにこの一年、勇気をありがとうございました。 (12/31)
 

■『南三陸町からの手紙』
 管理人の自宅近くにボロ市通りというのがあって、12/15、16の両日、「ボロ市」が開かれた。15日は日曜で混雑が激しいので、16日の夕刻、ちょっと寒いけどブラブラ。400年以上も前からの古着、古道具の市だが、最近は古着、骨とう品、電気製品、新品の衣類まで約700店の屋台な店が並ぶ。
 通りの中心部に茅葺の代官屋敷というのがあって、この庭に入ってみたら「宮城県の物産」「気仙沼、南三陸町」の出店があり、ここで『南三陸町からの手紙』という冊子を奨められた。南三陸町の48人の方々が自ら記した貴重な3.11の記録でした。
 それにしても南三陸町の情報発信力にはいつもすごいなと感心させられます。まあ、雄勝の発信力もなかなかですが、雄勝は昔の町名がそのまま残っていますが、南三陸町は以前の志津川より知名度が高いように思われます。
 やはり地域情報の発信には、ある程度限定された地域のイメージが必要なのかなあ、と思わされました。 (12/18)
 

■サケ、ワカサギ、初雪……
 復興作業に飛び回っているKS君から、パソコン復帰との便りがありました。

 今晩は。今年も師走に入りましたね。一年過ごす事の早いこと、歳を重ねると余計に感じるのかね。
 石巻も寒くなってきました。昨日は12度ぐらいで比較的暖かかったですが、今日(12/7)は午後から寒く、夕方には初雪がふりました。

 復興作業の方は一週間ほど施工業者との関わりのなかで休んでいますが、来週9日より作業再開の予定です。予算的にみて作業は10日ほどだとおもいます。
 針岡地区については26年度より作付にはいりますし、長面地区に於いても復旧工事に入り、26年度には一部(6〜7ヘクタールぐらい)試作を行う予定なそうです。
 田圃の姿は復旧復興の下に整って行く中に農業再開への心の準備、農政の見直しに伴う問題等々、まあまあ歳だから流れにながされながら、出来るところまで無理せず、頑張らずに行こうかと……。

 今年はね、鮭が三年ぶり?に生まれ故郷に帰ったのか道を間違えたのか、芦早の小沢や原の小沢まで、産卵ために体に傷を負い遡上してます。今は役目を終えた鮭の死がいが見られます。
 ワカサギもまた富士川にたくさん。回遊なのか産卵のためなのかわかりませんけど、毎日のように20〜30人の太公望が3年振りに川面に釣り糸を垂らして釣り談義に花を咲かせています。釣れる日で300〜400匹ぐらい。
 自分も今日、下手と思いつつワカサギ釣りに行ってきました。ワカサギの方で餌食ってくれて200ぐらい。上々です。
 しかし、ワカサギ釣りも大変、冬の風物だけに、かじかむ手で小さな針に小さな餌、凍える体、好きな人でないとなあ……。

 ほとんど素人(と思われる)KS君が、寒い中で背を丸めてワカサギを釣る姿、なんとなくユーモラスです。それにしても200匹とはすごいですね。
 来春の針岡地区の作付開始、待ちに待った春ですね。長面の方も一部の試作が行われる由、ほんとうに皆さん、体に気をつけながら頑張ってください。 

*鹿肉は「道の駅・上品の里」にもあるそうです
 下の鹿の記事に関連してKKさんから追伸があり、「加工した鹿肉は道の駅にもあるようです」とのこと。このことは掲示板の方でお知らせしますので、ご覧ください。     (12/7)

■「ガケから鹿が降ってきて……」
 11月末、KKさんから「鹿と、かもしかのこと」と題した大川の近況が届きました。

半島へ通っている時(牡鹿半島の縄文前期遺跡の発掘)は、行き帰りに一週に一、二度は鹿を見ました。桃浦や月浦周辺の道路そばに降りてきて草を食んだり、家族連れで何頭もゆうゆうと道路を横切っている姿も何度か見ました。
一緒の現場に通う知人は、、軽トラで鹿とぶつかり、ドアがへこんで開かなくなったとこぼしていました。乗用車の屋根にガケの上から鹿が降ってきて、修理に大金がかかったとこぼしている工事関係者もいたそうです。
遺跡現場にも時々鹿が現れることがあり、声だけ聞くとピーピーとまるで野鳥のさえずりのようです。

さて、本題。大川耕土にも鹿がだいぶ増えているようです。
釜屋の沼の周りにはたくさんの足跡がいつも見られるそうです。
「なにクサン、針岡山など、どごもかごもスカ(鹿)だらげだどー」といとこのテケチャンは言ってました。
実際、長面の蛇沼前の田んぼ地のいたるところに鹿の足跡が見られました。
知り合いの年長者は「これは大きい鹿だなあ」と足跡の刺さり具合、深さ、大きさなどで見当をつけているようです。、
確実に鹿は里山に降りてきているようです。

津波前、二軒となりの家の塀に、ちょこんとお猿さんが乗っていたとか、尾の崎のお墓のそばで猿を見たとか、稲荷神社のガケから落ちたカモシカが路上で死んでいたという話も聞きました。
私が避難していた飯野川中の前の山で、カモシカ出合ったことがあります。北上町でもカモシカが多く見られるとか、この仮設の近くの道路を横切っていたという話も聞きました。

富士沼、富士川には寒風の中、ワカサギの釣り人が何人か来ており、入れ食い状態だったようです。現場の知人が昼休みにいたずらしたら、たちまち30〜40匹揚げたそうです。
針岡のもう一人のイトコの話だと、この夏、富士沼と富士川ですごくウナギが釣れたそうです。おおいひはなんと100匹も揚げたそうで、「本当か」と念を押すと、
「本当だよ、あまりの多さに釣るのが嫌になった時もあったよ」と笑っていました。
    以下略

 鹿については「畑の周りに柵を作った。まるで人間のほうが檻に入っているみたい」という話も聞いていました。鹿が増えたのは狼がいなくなったのが原因と聞いていますが、困りましたね(わが畑にも鹿の足跡らしきものがずいぶんありました)。
 今もあるかどうか、昔、東京には「十勝レストラン」という北海道・十勝町直営のレストランが何軒かあって、十勝ワインと鹿肉ステーキがとても旨かったです。長野県の高校で鹿肉レシピの数々の試食会を開いたというニュースを最近見ました。

 何年か前、『ストレート・ストーリー』(監督ディヴット・リンチ 99年)という映画に感動しました。物語は73歳の爺さんが、お金も車もないので、自宅の芝刈機(の原動機にリヤカーをくっつけたもの)に乗って、アイオワ州から560km離れたウィスコンシン州の兄を訪ねるロード・ムービー。
 この中で、爺さんを追い越した女性の車が鹿にぶつかるシーンがあるのですが、その夜の爺さんは野宿の焚火で、大きな鹿肉を木の枝に刺してあぶっていました。今にもよだれの出そうな表情で。
 で、翌日の芝刈自動車の頭には、大きな鹿の角が誇らしげに飾られていました。

 もうひとつ。
 爺さんのよれよれ芝刈自動車は、何百人という若者たちの自転車群に追い抜かれますが、その夜は同じキャンプ地に。
「爺さん、トシとって何かいいことがあるかい」と若者の一人が馬鹿にしたようにからかいます。すると爺さん
「そうさなあ、トシとっていいことは何もないが、ホンモノとニセモノの区別はつくようになったよ」
 そのときの、若者のはっとしたような表情もよかったです。

*映画のことなんか書くつもりはなかったのに。でもいい映画ですから、まだでしたらご覧ください。 
 それと食糧自給率を上げるためにも、人間は狼になったつもりで鹿肉をもっと食べないといけませんね。農業を守る意味でも。  (12/1)

■「ボラ色のこと」〜尾の崎・長面の大イベント・ボラ漁〜
 冬だったか春だったか、突然ゴゾヤマから「ホー、ホー」と叫ぶ声が聞こえ、半纏だか上着だかを振っている人影が小さく見える……。
 するとアッという間に、尾の崎や長面から櫓や櫂の数を増やした若者集団の船が、はやてのように尾崎橋をくぐり、松原の護岸を経て外洋に漕ぎ出していく……。
 われわれ子どもはもちろん、集落の人々は、漁業にまったく関係のない人も、バケツや鍋をもって松原の砂浜に駆けつけ、何十トン、何百トンと大きなボラの入った網曳きを手伝う……。

 ずっと気になっていたこのボラ漁(そうそう、当時はこれをボライロと言ってました)について、「尾の崎KK」さんが詳しいレポートを送ってくれました。
 『大川追想』のこちらにまとめましたので、ご覧ください。   (11/28)

■「紅葉の鮮やかさが薄れて、たくさんの白鳥が……」
 「元尾の崎:KK」さんから大川の近況(11/23メール)が届きました。

大川地区の田圃んぼのガレキ撤去アルバイト中、針岡のKSさん、イトコのテケちゃん、
同級生のMО君達と毎日顔を合わせます。今は間垣、入釜谷方面の作業中です。
先日、更地になった中学校の跡地で弁当を広げ、よき往時をしのび、少し感傷に浸りま
した。「小山っこ」だけがひょこんと変わりなく座っています。
富士川で今、ワカサギが大量に釣れており太公望で賑わっています。多い人で一日に800
匹位あげた人もいるとか。
雄勝峠、硯上山の裾野も紅葉の鮮やかさが薄れてきました。長面耕土、三ノ輪田耕土にた
くさんの白鳥が飛来しています。  尾の崎KK  11/23

 「元尾の崎:KK」さんからは、いつも貴重なお便りを達筆のお手紙やメールでいただいていますが、先日は尾の崎、長面のボラ漁についての、詳しい回想談を送っていただきました。往時のボラ漁はほんとうに心躍る出来事(?)でした。近々、『大川追想』にUPさせていただきたいと思っています。 (11/23)

■ロスのホテルから見るオリオン座
 「Old間垣boy」さんから、ちょっと感動的というか感傷的というか、ともかくお叱りに近い励ましのメールをいただきました。

先月の10月、南米を旅する機会があり、成田から飛びました。
乗継のロスで1泊した折りホテル
のバルコニーから燦然と輝くオリオン座を偶然見つけ、
あそこが長面、あそこが釜谷と、異国から
眺める星座に何かしら感傷的な気分になり、消
失したふるさとの早期復興を祈りました。
今やオリオン星座は衛星通信ではないですが、あれを眺めるとふるさと大川が跳ね返ってく
る。
そんなシンボリックな存在になりました。
オリオン311も来年は3周年を迎えるわけですが根っこにある「絆」の広がりが点でより
深化
し、面でより拡大するよう念じております。

 私(管理人)も最近、夜空のオリオン座をしばしば眺めますが、そうか、異国でもオリオン座を見て”大川を想う”ことができるんだと、改めて気付かされました。
 ともすればさぼりがちなオリオン311の更新、「Old間垣boy」さんの励ましを肝に銘じて活きたいと思います。
 もう読まれた方も多いと思いますが、「Old間垣boy」さんの『大川懐想』(こちら)をぜひ。  (11/22)

■かんこかなさんの「幼い日の思い出」
 遅くなってすみません。だいぶ前(9/27)に、トロントの「かんこかな」さんから次のお便りがありました。

「楽天のリーグ優勝おめでとうございます。
 長面のお神楽をみに行かれる様子。 そういえば、お神楽のことを書いていたエッセイがあったなとファイルを見ましたらありました。 2011年3月11日の7日前の3月3日にこんなことを書いてました。 
 このエッセイはトロントの日本女性のエッセイグループが春夏秋冬と4回出版するものです。 神楽舞台のやぐらを組んだ長面の通りは今は無くセンチメンタルになりますが、きっと60年以上も前のことを書いてます。
 拙文ですが読んでみてください。何か思い出されるかもしれませんね」


 管理人が子どものころ、女の子たちはどんな遊びをしていたのだろうと常々思っていたのですが、このエッセーでは小さい女の子のお手玉や日常の暮らし、祭りの思い出などが鮮明に描かれています。
 Old間垣boyさんの『大川懐想』に通じるものがあるので、どういう形でジョイントしたらいいか考えたのですが、いい知恵が浮かばず、とりあえず「懐想」につづく「追想」ということで、「はなし語りしすべ」の中に『大川追想』(昭和中期の遊びと暮らし)(こちら)というコーナーを作ってみました。
 で、ここにM和子さんの「幼い日の思い出」が入っていますのでご覧ください。
 子どものころの印象に残っている遊びなど、集めていきたいと思っていますので、皆さまもどうぞよろしく。 (11/18)

■鶴岡八幡宮の長面「打ち囃子踊り」 
 下の写真の4番目『長面伝承太鼓』の踊りの写真が、当日一緒に見に行った間垣のYT君から届きました。

 長面には10月にお神楽が奉納される北野神社のほか、6月か7月にお神輿が巡行する八雲神社があり、正月には獅子舞があります。
 これらの祭囃子が「打ち囃子」「胴囃子」といわれるそうで、それに振付した踊りが「打ち囃子踊り」です。管理人が子どものころはなかったと思いますが、長面の方々の結束と努力で新しい伝統が生まれているようです。
 八雲神社のお神輿はちょっと変わっていて、神輿を担ぐ人は白装束、白い紙を口にくわえて黙々静々と進みます。普通の神輿とは一味ちがう厳粛な感じがしました。祭神はスサノオノミコト(?)。担ぐ人に聞くと、紙を口にくわえて神輿を担ぐのはけっこう苦しいそうです。 (11/13)

■鶴岡八幡宮のお神楽
 10/26(土)、鎌倉・鶴岡八幡宮でのオラホのお神楽を、みんなで見てきました。”みんな”というのは観客の中に大川地区の方々が10人前後もいらしていたからで(もっといらっしゃったのかもしれませんが)、サプライズいっぱいの出会いの中でのお神楽でした。

 台風27号のせいで関東は朝から雨。それでも鎌倉駅で11時、間垣のYT君(東京)、針岡のSUちゃん(川崎)、それに私の3人が待合せ。傘をさして八幡宮へ行くと、舞殿(結婚式が何件か行われていました)の左、本殿への階段下の、大銀杏(今は枯れた根もとのみ)の前という素晴らしい場所に舞台が組まれていました。

クリックすると大きく見えます

雨中の開幕。右=舞殿、奥=本宮

「釜谷長面尾崎」「北上町女川」「本吉」各
法印神楽保存会の奉納なので「陸前浜」と

「ガンバレ大川」のプレート

長面の「打ち囃子」の面々
(肝心の踊りの写真を失敗しました
どなたか送ってください)

5時を過ぎてもたくさんの観客が
クライマックスに見とれていました

 神楽は午前10時からの予定でしたが、雨で午前の部は中止、小降りになるのを見計らって午後1時30分開始とのことでした。
 始まる前、長面の高橋宮司さん(同級生の故・美邦君の弟さん)と立ち話できたのですが、若いころこの鶴岡八幡宮で修行され、兄上の死去によって長面に帰ったとのことでした。
 「まあ、どの世界も人の縁ということが大切なんですね」とおっしゃってましたが、昨年の明治神宮、今年5月の出雲大社、そして今度の鶴岡八幡宮と、高橋宮司のご尽力と保存会メンバーの強い結束力と実行力に頭が下がりました。

 さて、時間になってもけっこう雨は強く、ヤグラの上は白いタープが掛けられたままの開演。建物内での奉納も可能だったそうですが、一般の参詣客が訪れる場所ではないので、舞殿横の屋外にこだっわったとのことです。雨は3時ごろにはやみましたが、雨中もかなり多くの方々が傘をさしてみていました。
 舞殿の結婚式では優雅な雅楽が演奏されていることが多いので、力強くて勇壮な神楽の笛、太鼓にひきつけられるようです。

 開演まもなく、同級生横川のTY君(船橋)、長面のKS君(葉山)が現れ、またSUちゃんには針岡のEK君の妹さんや親類なども偶然出会ったそうで、TT君も出番のない時は久しぶりに積もる話をあれこれ。

 驚いたというか、嬉しかったというか、「釜谷の豆腐屋の弟」さん(岩槻)ほか、釜谷の鍛冶屋のMTさん(横浜)、松原荘の(息子さん?)尾の崎MKさん(横浜)がいらしていて、どなたも初対面だったのですが、いろいろなお話をたくさん伺うことができました。いずれこのことは「はなし語りしすぺ」などでご紹介させていただきたいと思います。
 「釜谷の豆腐屋」というのは、今度の津波でご夫婦とも犠牲になった同級生の啓二君(愛称トーフ屋のケンちゃん)のことで、同級会でもいつも人気も元気も一番の好漢でした。その弟さんが目の前にいることがしばし信じられない思いでした。
 「釜谷の豆腐屋の弟」さんは”ガンバレ大川”という手書きのプレートまで用意してくれていて、こんなところもいつも明るいトーフ屋のケンちゃんを思い起こさせました。

 また「釜谷の豆腐屋の弟」さんは、大のお神楽愛好家(敬神家?)で、おしまいまでじっと舞台を見ていましたが、懐には神楽の演目『橋引き』の乙鶴姫像を忍ばせておられました。
 この乙姫像はご自身の手による作で、ケヤキの板のいろいろな自然色を利用した寄木細工。見事な出来ばえにビックリしましたが、神楽の姫の雰囲気がとても魅力的でした。いずれお神楽のページに『橋引き』の物語も紹介させていただきたいと思います。

 それと「釜谷の豆腐屋の弟」さんには、「釜谷の名誉にかかわることなので」とお叱りもいただきました。管理人が以前、「釜谷には水がなかった」と書きましたが、それについてのことで、これはまたのちに「はなし語り」のページでふれたいと思います。

 さて、奉納神楽の演目は雨による短縮もあって、「初矢」「笹結び」「鬼門」「魔王退治」「道祖」「日本武尊」の6番、それに長面の1月、7月の神輿の時の囃子に合わせた女性陣の「打ち囃子」「胴囃子」「打ち囃子踊り」があり、新たな祭の展開が行われているようです。
(すみません、肝心の踊りの写真を失敗。どなたかに補足していただきます)
 それにしても、お神楽のメンバーに長面の方々が多くいらっしゃるというのに、さっぱり思い出せなくてすみません。次の機会、もっと勇気を出してお尋ねしたいと思っています。

 雨は3時ごろには上がりましたが、けっこう気温が低く、5時すぎまで立ちつづけて見ていると足が震えてきました。それでも最後まで60〜70人の方が見ているので、演じている方や裏方の方々は方はもっと大変だったと思います。
 「鎌倉のこういう所で、50年ぶりぐらいで見せてもらった。こんなありがたいことはない」
 どういうご縁の方かわかりませんが、そういうつぶやきも聞こえました。ほんとうにありがとうございました。 (10/27)

■アバイン、ゴザイン
 しばらく東京を留守にしていて今日(10/25)戻ってみると、近藤孝悦さんから10月11日発行の『石巻日日新聞』が届いていました。切手のてのスタンプは10月14日、こんなに見るのが遅くなってすみません。オショシです。
 記事の内容は「知っ得 特別企画 石巻弁」という特集で、石巻弁=われらが方言100語を集めたもので、語源や成り立ちも明快に説明した貴重なもの。
 この「知っ得 石巻弁」当記事は、同紙が平成20年11月から毎月第1、第3月曜に、渡波法音寺住職谷川正明氏が執筆したもので、震災の年に一時中断したものの25年9月まで足かけ5年の労作を集めたものです。
 たいへん面白く参考になるので、いずれ何らかの形でご紹介させていただきたいと思います。

 今回東京へ帰ったのは、鎌倉・鶴岡八幡宮でのお神楽奉納を見に行くため。釜谷・長面・尾の崎法印神楽、女川法印神楽の奉納で、首都圏で7〜8時間にもわたってオラホ神楽が行われることはめったにないことなので、長面の保存会メンバーTT君や関東の同級生諸氏などと「一緒にアパイン」「見さゴザイン」というわけ。
 ただ、台風27号の真っ只中になるので、鶴岡八幡宮に電話すると「今のところ決行の予定。直前にならないとわかりません」。それでTT君に電話してみると、「25日夜に予定どおりバスを仕立てて行くよ」とのこと。
 なんだか両者とも、絶対に出来ると確信しているみたいで、少々驚きました。
 東京周辺の雨はこれから激しくなるようですが、間垣のYT君、針岡のSUちゃんも行くと言っています。故郷の祭りの吸引力ですね。

 最近知ったことですが、鶴岡八幡宮は伝統文化の継承に熱心であるとともに、東日本大震災の復興活動にも熱心です。
 今年も10月23日に「東日本大震災物故者慰霊と復興の祈り」が執り行われ、10月1日から11月30日まで「宮城県の小中学生の作品展『こころの自由帳』展」が直会殿で行われているということです。  (10/25) 

■尾の崎、長面、釜谷のパラグライダー写真
 「旧大川村写真集」の「集落ごとの思い出写真」に、泉ヶ岳パラグライダークラブさん製作の動画から、一部をキャプチャーさせていただき、収録させていただきました。(こちら)
 youtubeのコメント欄にまだごあいさつ、お礼が出来ないでいますが、近々、必ず。

 台風27号、何事もなければいいですが。26日の鶴岡八幡宮のお神楽奉納に行くつもりでいますが、台風の動向が気になるところです。 (10/21)

■台風後の尾崎橋
 昨日、仙台のSMちゃんから、電話で
「尾崎橋は満潮になると船が通れないんだよ。地盤が下がって、水面が上がってしまって」という話を聞きました。
 それで今日、復興状況はどうかなと「潮生山海藏庵」さんのサイトの「復興状況」ページをみると、台風で尾崎橋が通行止めとのこと。
 10/16の記事には、「台風がいなくなったので尾の崎に物を取りに行きましたら、橋のたもとが波で削られ通行止めになっていました。業者さんによると復旧はすぐできるかもしれないが、今日の時点では未定だそうです。長面の仮道路も波が上がり土砂がのっていました」とありました。こちらの「大川地区復興状況」に写真もあります。
 橋の長面側が大きくえぐられており、舗装された長面の道路にも土砂が打ち上げられています。
 首都圏のテレビは、台風が関東を過ぎるとほとんど報道がなくなり、まれに石巻とかが取り上げられても旧市街のあたりのニュースだけになる。それに今回は伊豆大島のことがあって、田舎のことはそれほど気にしていませんでした。反省。(10/18)

■想いでの北上川河口域 バラグライダー映像
長面のお神楽でヒトボさんからお預かりしたDVDをじっくり見ました。すべて震災前の美しい映像です。
このDVDを制作した泉ヶ岳パラグライダークラブの高橋さんに連絡でき、ヒトボさんの話などして、快く画像の転載などご了解いただきました。
オリオンのホームページでは動画の載せ方がわかりませんが、youtubeにこの動画がとスチール写真集がありますので、ぜひご覧ください。
【動画】http://www.youtube.com/watch?v=R8HnF_yEgcg
【スチール】http://www.youtube.com/watch?v=m9FLCduzDEc

DVD 『想いでの北上川河口域を飛ぶ』から(クリックすると大きく見えます)

松原の砂州の河口から上流を望む

長面浦入口。松原の砂州 弘象山 長面集落

手前松原荘 尾の崎北端 長面 

手前葦原 中央松原 弘象山と長面浦

松原から釜谷へつづく肥沃な耕地

左・谷地中と釜谷 富士川 北上川

新北上川大橋と釜谷、大川小学校

新北上川大橋と間垣 小山・大川中学

以下、上の【動画】からのキャプチャー写真、それに想いが綴られた字幕のコメントを掲載させていただきます。

『想いでの北上川河口域を飛ぶ』
モーターパラグライダー映像2008〜2010年

震災前の想いでを集めてみました。あの穏やかな美しさを忘れることなく復興されますよう応援いたします。
 撮影・編集 竹内 徹
 製作     高橋健一 

東北の大河、北上川の河口は、広大な砂浜と長面湾を有し、たいへん風光明媚な地域だ。
穏やかな風に乗って空から少し眺めてみよう。きっと悠久の時の流れが見えてくるに違いない。

長面湾の入口は大きく蛇行していて、とても不思議な形だ。

北上川河口からゆっくりと遡上してみよう。

河口から5キロ上流の新北上大橋を目指して。

ゆったりと流れる川と大気は、まるで時間さえも穏やかに過ぎてゆくようだ。

追波湾はリアス式海岸の壮大な景観をもっている。

悠久の遥か昔から続く波の音は、これからも時に激しく、そして優しく過ぎていくのだろう。
  (以上、TVDの字幕より)

被災地への深い思い、そして震災前の貴重な映像をありがとうございます。
泉ヶ岳パラグライダークラブは「現在、被災地上空を飛ぶのは自粛している」とのことです。まあ、たしかにパラグライダーというとスポーツや遊びといった感じで見られるからでしょう。
でも、復旧の状況など、あまり遠くない時期にパラグライダーでの撮影をぜひお願いしたいです。こんな間近での上空からの映像はほんとうに貴重ですので。  (10/10)

■10/26(土)、鎌倉・鶴岡八幡で「おらホのお神楽」奉納
長面のTT君から、「鶴岡八幡のお神楽は26日(土)だよ〜」と連絡がありました。
八幡宮に確認したところ、時間、場所などは以下のとおりです。

 『仙台復興祈念 奉納神楽』
 日時:平成25年10月26日(土) 10:00〜18:00ごろまで
 場所:鶴岡八幡宮 舞殿の左側 大酒樽の前の特設舞台
 神楽:「釜屋・長面・尾の崎」「北上町女川」の法印神楽保存会の面々
   *時間内に結婚式が数組あり、式中は神楽は休憩になるそうです。


屋外で行われる観覧自由の舞台です。気が向きましたらこの時間内にフラッと覗いてみてください。
当日の演目はまだわかりませんが、どんな内容の舞いかは、「祭囃子、聞こえっぺが」(こちら)をご覧ください。昨年、長面の神楽で舞われた演目の解説があります。
背骨に響く笛と太鼓、勇壮な舞が魅力です。関東近縁の皆さん、ぜひぜひ。

また、去る5月25日(平成25年)には、60年ぶりの大遷宮が行われる出雲大社でも、復興祈願の奉納がありました。
その新聞記事も「祭囃子、聞こえっべが」(こちら)に収録してありますのでご覧ください。

■お神楽、見てきました
9/29、60年ぶりぐらいにお神楽を見てきました。

28日、途中の福島・須賀川で同級生TN君と蕎麦の昼食。TN君すこぶる元気で野菜作りの話、今後の計画などに話が弾みました。
夕刻、仙台で長面NT君、釜屋HT君、尾ノ崎SMちゃん、針岡EYちゃんと会ってイッパイ。皆さん元気でHT君などは去年大手術をしたのに酒も強い。話は田舎のこと、幼馴染のこと、祭りの思い出、それにまあ健康のこと。
喜寿までもつかどうかわからないので、前倒しの喜寿の会をやろうかなんて話も冗談交じりに。

29日、仙台のコンビニでお握りを買って一路大川へ。
中学校の跡地はまったくの更地で、校庭跡の西端に「閉校記念碑」と「大志」の碑がポツネンとありました。後からヒトボさん(後述)に聞いたのですが、釜谷、間垣、長面の集団移転地は校舎裏の山を削って造成されるそうで、今のところここに移転


校庭跡にポツンと立つ閉校記念碑

谷地の方を向いています

尾の崎・海藏庵

藏庵前から浦海・長面方向を

長面から松原への道に沿った堤防工事
左側の緑野はまだ海でした

釜屋の霊園

観音寺を偲ばせるのはこれだけ

新しい観音像

釜谷・大川小グランドの慰霊碑遠景

昼のお神楽

舞台を見ながらの笛(保存会会長さん?)

舞台も揺れる「産屋」の熱演

予定のお宅は6軒だそうです。

釜屋・大川小の慰霊碑はあとでじっくりお参りすることにして、まず長面の墓地へ。
慰霊碑、わが家の墓所に参って本殿(元の位牌堂)うしろのトイレを借りに行くと、斎藤和尚が作業服で一輪車を押してました。庫裡の基礎を除去した後が穴になっているので、津波でほぼ埋まってしまった池を掘ってその土で穴を埋めているそう。龍谷院のこの池はサルスベリの根もとにあって、私(管理人)も鮮明に覚えている池。再現されればうれしいですが、掘るのも運ぶのもかなり重労働、気をつけてください。
和尚はいま仙台から通っているが、鹿又の住まいの手配がだいたい済んだようで、近々、鹿又から通えるようです。津波の時の話など、新たに聞いた話もあるので、近々、追加したいと思います。

間垣、釜屋と同様、目印ひとつない長面を過ぎて、私が中学までいた塩田を通って尾の崎へ。塩田の元我が家のあたりは写真のような状態で写真の左側はテトラポットなど堤防の建築資材置き場になってました。

尾の崎は無人の町でしたが、休日を利用して片づけなどしているのか、乗用車などがあちこちに停まっていました。それと小型船舶がいくつか浮かんでいて、浦海での漁業の復活が垣間見えました。
海藏庵を訪ねましたが、もちろんここも震災後は居住禁止で、和尚さんは別院(相野谷)のほうでしょう。あとでお電話したら、この日は針岡の松山寺(兼務)と海藏庵にも来られたそうで、どこかですれ違ったかもしれません。
海藏庵前の護岸に腰かけて、長面浦を眺めながらお昼にしました。

長面周辺の堤防工事は、一見したところそれほど進捗があるようには見えませんが、遠方の松原までしっかりした道路ができていて、仮設道路はほぼ完成したように見えました。
万年橋付近から甚平閘門方向への堤防もかなりしっかりしたものになっており、この堤防の釜谷側は砂州の草地になってますが、右の松原側はまったくの海。復旧も復興もまだまだでしょう。

釜屋の観音寺(曹洞宗長谷山観音寺)跡の新しい観音像にお参り。
この観音像と万梨阿像を建立されたのは、熊谷市の八木賢十郎さんという会社社長で、とくに大川地区にゆかりのある方ではないそうですが、ありがたいことです。
この観音寺から大川小が目と鼻の先に見えるのが、異様に感じました。震災前は釜屋の街から少し離れた郊外に観音寺があったと思うのですが、人家が一つもなくなった今は、ごく間近に見えました。

小学校グランドの山際に立つ慰霊碑は、5月に訪れた時は左右に二つでしたが、いまは中央に大川小の悲劇の慰霊碑が建立されていて、一層しめやかさを増していました。中央の碑は「恩愛」の言葉のもとに犠牲になった子どもたちの名が刻まれ、左右に大川小学校の全景、校歌が刻まれていて、悲劇の大きさを物語っています。
ただ、碑の前の「慰霊碑の前での写真撮影はご遠慮願います」「報道関係者を含め、慰霊碑の撮影を禁止します。遺族の心情を考えてください」、「慰霊碑前での焼香は大川小学校、大川地区関係者のみです。一般の方は道路脇の校舎前祭壇にてお願いします」という掲示は少し違和感を感じました。
碑の前でピースサインの記念写真を撮るなどの行為もたびたび聞きますから、その心情はわかるつもりでいるのですが……。

横川のSF君ちにちょっと寄ってみるも不在。メモだけ玄関に残したら数時間後に電話があって「裏の北上川さカンツカ釣りに行ってたんだ。あまり釣れねがった」とのこと。カンツカというのはハゼのことです。
その足で福地のYHちゃんちへ。テーブルには茄子の漬物、茹でた栗(ご主人が「まだこんなにあったよ」と、新しい栗をたくさん拾って来てくれました)、季節の果物などたくさん。
2時ごろにはお神楽の会場に行きますとMSさん(津波で亡くなった長面・JT君の姪御さんで北野神社の総代長夫人)にメールで言ってあったのに、その時間がとっくに過ぎているので、話もそこそこにおいとましました。お騒がせ、すみません。

さて、お神楽。会場は長面の方々が多く住んでいる石巻市川前の追波川仮設団地。ここの集会所前の広場に特設舞台が組まれていました。
午後1時開始のところを2時間以上も遅刻しているので、ゆっくり遠くまで駐車スペースを探していると、徒歩で後をついてくる方がいらっしゃる。そして
「管理人さんですか?」と声をかけられました。祭りか団地の管理人ですか?と聞かれたと思って、「いや、違います」とか返事をしていると
「ヒトボです」とおっしゃる。
突然のことで、なかなかオリオンのホームページのことが思い起こせず、しばらくしてから「Old間垣Boy」さんの幼馴染である「ヒト坊」さんであることがわかりました。間垣の遠藤オートさんの近くにお住まいで、ご自身は仙台でお仕事だったけれどもご両親と奥さまを亡くされた方です。
間垣、釜谷、長面、尾の崎の集団移転を早くから考えていて、先にふれた中学の裏山のこともこのヒト坊さんに聞いたことです。大川地区の復興に全力を尽くして行こうという覚悟が感じられました。
オリオンの管理人に渡したいものがあると、駐車場の入口でずっと探しながら待ちつづけられたようで、ほんとうにすみませんでした。渡されたものは、
「モーターパラグライダーフライト映像 2008〜2010
『思い出の北上川河口域を飛ぶ』 撮影/編集 葛舟
=進呈= 泉ケ岳パラグライダークラブ 高橋

というDVDでした。
震災前の美しく豊穣な北上川河口域を上空から撮ったもので、松原の砂浜、ゴゾ山、遠景ですが釜谷、間垣などがきれいにおさめられています。これをオリオンに動画で載せたらどうかというのがヒト坊さんのお話でした。オリオンへの動画の取り込み方がわかりませんが、泉ヶ岳パラグライダークラブさんの許諾を得たうえで、研究したいと思います。

神楽の会場に入るとすぐ、MSさん(先にふれた長面・JT君の姪御さん)が私を見つけてくれて初対面のあいさつ。まあ、60年ぐらい前はJT君たちと一緒に遊んだ幼馴染なのですが、やはり会っても顔はわからないので初対面。MSさんのご主人にも初めてお会いしましたが、片時もコップ酒を話さないあったか〜いユーモアあふれるほのぼの総代長さんでした。
またすぐ尾の崎の近藤さんが現れて(近藤さんも震災の年にちらっと会っただけだったの幼馴染?)で、積もる話が山のよう。ご両人ともメールのやり取りはしていたのですが、会えばやはりびっくりすることが数々ありました。
その間にも親戚の方や知人がひっきりなしで、神楽はそっちのけで回顧談。やっと太鼓をはたきつづけていたTT君と話ができて、去年の神楽の6時間ビデオのお礼を言うことができました。

昼の部と夜の部の間に3時間ぐらいの余裕があるものと勝手に思い込んでいたので、夕食は針岡のKS君宅でいただくことになってました。ところが昼の部は1時から5時まで、夜の部は6時から9時までということで、MSさんが会場で食べるオコワとカラシ大根(?)のお弁当をつくってくれていました。
そこでそのお弁当をもらってKS君宅へ。KS君ご夫婦、甥御さんご夫婦、それにわれわれ夫婦の6人で、奥さまのたくさんの手料理とともにいただきました。KS君の奥さんは
「泊っていけばいいのに。せっかくふとんもハシャガシタ(天日干しした)んだから」と残念そう。
翌日の予定もあったので、残念ながら泊はあきらめて、KS君ご夫妻とテケちゃんも一緒に夜神楽へ。

夜神楽は昼とは一味違った趣で、観客は昼にもましていっぱい。会場を良く見れば、挨拶しなければならない方、お礼を言わなければいけない方がおられたはずですが、なにしろほとんどは60年ぶりに見るお顔なので、その機会を失してしまいました。すみません。
昼にちょっと姿を見た北野神社の宮司さんにもお会いしたかったし、楽屋にもお邪魔して、保存会の現状などもお伺いしたかったのですが、果たせませんでした。いずれ何かの機会にぜひ。
夜は少し集中して舞台を眺めました。とくに『産屋』の闘いの場面では、舞台全体が揺れ動く迫力に圧倒されました。

あちこち駆けまわったので少々疲れましたが、故郷のお神楽を60年ぶりで生で見て、また故郷の方々の息吹を肌で感じて、励まされる思いに包まれて東京へ帰りました。ありがとうございました。  (10/5)

■「Thanks 大川中  I love 大川中」 〜凛として立つ大川中学〜
大川中学の閉校に関するいろいろな写真を、旧友のSTさんから送っていただきました。
・校舎が解体されることを知った生徒たちがワークスペースに記した寄せ書き
・いつ掘り出されるのかわかりませんが生徒たちのタイムカプセルの埋設
・閉校記念碑の除幕式
・歴代校長の肖像 (震災まで校長室に掲額されていた肖像で、解体にあたって関係者に返却された写真)
・解体目前の大レリーフなど校舎内風景
・解体工事
などなど。

写真の全部は収録できませんでしたが、一部を「学校のことなど」のコーナーに「Thanks大川中 I love大川中」にまとめました。
このタイトルは生徒たちの寄せ書きから拝借しています。

左の写真は校舎解体の1シーンで、7月1日(2013)の夕刻の写真です。
なぜだか、切腹に臨む経帷子のサムライのような、凛とした気配を感じます。形は滅びても気概と誇りは永遠に、ということでしょうか。
写真集「Thanks大川中 I love大川中」はこちらです。

■田舎の台風など
針岡のKS君からの便りでは、台風は当初300ミリの警報だったが、風雨ともたいしたことなく通り過ぎて一安心ということでした。

それに右の写真と観音像建立のお便りが。
「津波で流された釜屋の観音寺跡地に台座を含め7mのに観音像が建立され、開眼供養式が営まれました。埼玉県越谷市の自動車部品製造会社の社長さんの善意の寄進によるものだそうです。
観音像は南無大慈大悲聖観世音菩薩。
「遺族の方もそうでない方たちも足をはこんで供養してほしい」とありました。
とのことでした。
この観音像建立については、尾の崎・海藏庵さんのHP(こちらの『蔵』)にも記事と写真があります。

同HPの『大川地区復興状況』には、尾崎橋の下1メートルぐらいまで海水が迫っている写真、満潮が近づくと堤防の下から海水があがってくる写真、長面の集落全体が海になっている写真などがあります。
9月19日の記事なので台風か高潮の影響なのかもしれませんが、管理人は見たことのない異様な風景です。  (9/19)

■福地のお神楽

画面をクリックすると大きく見えます

福地のお神楽が9/8(日)に行われ、横浜のTさんから写真が3点届きました。福地の父上が撮ってくれたものです。お便りには
「こんにちは〜♪ 昨日メールきまして、写真を貰いました。が!! 雨のため公民館でやったそうです」
とありました。雨でなければ賀茂小鋭(かもおとの)神社の山門の広場に舞台を作って行われるそうです。

去年、TT君が長面のお神楽のビデオを送ってくれ、その短縮版コピーを瀬戸内海の島に暮らす同級生のYK君(福地)に送りました。遠くにいるから「懐かしいだろうな」と思って。

ところがYK君は「ワシらの神楽はこんなだったかなあ」とちょっと怪訝そう。まあ、60年ぶりぐらいに見る神楽なので記憶違いかもしれないし、あるいは釜谷や長面のお神楽と福地はちょっと違うのかもしれませんね。今度TT君に会ったら聞いてみます。

とにかく、お神楽のある秋祭りは子どもたちにとっては大イベント。先日も別件で電話した仙台のNT君(長面)と、本題そっちのけでお祭り談義になる始末。大がかりな「杉門」を作る話、小学生が夜、分校に毎晩集まって、街中を飾る万国旗や花を作る話……、このことも記録に残しておきたいと思うのですが、まだ手がついていません。 (9/9)

■尾の崎・海蔵庵のホームページ
尾の崎の近藤孝悦さんから
「尾の崎のお寺さん潮生山海藏庵、管理人さんと同級の佐竹国男さんの実家ですが、国男さんの甥ごさんである現住職が『潮生山海蔵庵』というブログを開いています。津波時の尾崎の写真や津波直前の松原の写真も見られます」
というお便りをいただきました。
もちろん国男君(早く亡くなった)は覚えているし、国男君のお兄さんで先代のご住職は佐竹典雄先生。長面分校三年生(だったかなあ)の担任でした。

さっそくサイトを覗かせていただくと、スッキリとまとまっていて読みやすい現代的なデザイン(われらがオリオンとは大違い)。
お寺さんのサイトですから、曹洞宗の教えや歴史があるのは当然ですが、特に「東日本大震災」は現住職さんが体験した津波の一部始終を記録した迫真のドキュメンタリー。息も継がず読みました。
また、「大川地区復興状況」は各地の直近状況まで、写真で伝えてくれています。ぜひご覧ください。
http://www1.ocn.ne.jp/~kaizouan/1-1frame.html

リンクのご了解を快くいただきましたが、ご住職の返信には
「故郷を離れている皆様に少しでも懐かしんでいただければ幸いです」とあり、
「私は鶴見の総持寺で修業した後、父の存命中はずっと川崎のお寺さんのお手伝いをしていました(震災の前年父が他界しましたので尾崎の住職となり震災のひと月前の二月に尾崎に引っ越しました」とありました。
震災のひと月前ですか……、きっと先代や故郷が呼んでいたのでしょうね。今後もいろいろ大変と思いますが、地域の支えとして頑張っていただきたく思います。

尾の崎のご住職は針岡の松山寺の住職も努めていますが、松山寺の総代KS君から時を同じくして便りがありました。
「長面方面の工事は、鋼板の打ち込みは終えたかの様に見えますし、土砂の埋め戻しによって車の往来もでき、松原までつながったようにみえます。鋼板の手前(かっての田んぼ)は海水の下です」
実は写真も送ってくれたのですが、どちらかのパソコンが不調で、乞次回ご期待。   (8/29)

■津波で形は失っても……「聞き書きプロジェクト」さんのお仕事
「RQ聞き書きプロジェクト」というボランティアグループの方からお便りをいただきました。
直接の用件は、以前「オリオン」にあった大川地区の昔の遊び「下駄スケート」のイラストを使わせてほしいという依頼で、もちろんその件はOKなのですが、このグループのお仕事に感動と共感を覚えました。以下、ご紹介します。

「RQ聞き書きプロジェクト」は2011年8月から、南三陸・気仙沼の皆さんかの自分史を聞きとって書き起こすというボランティア活動で、現在まで60名を超える方々のお話をがまとめられ、2012年6月からは順次WEVサイトで公開されています。
http://kikigaki.rq-center.jp/
とてもいい内容です。ぜひご覧ください。

同プロジェクトは現在も関東在住のメンバーを中心に各週末に現地に行って活動を続けており、
「伝統文化に彩られた小さいころの遊び、祝い事や行事、自然の美しさなど、津波で形は失っても今なお人々の記憶に残るこの地域の豊かな歴史が浮かび上がり、私どもも改めてこの地へのみなさんの愛着や思いを胸に刻む日々です」ということでした。
また、
実は私個人は震災後初めて片付けに訪れた場所が石巻の雄勝周辺でした。大川にはボランティアの仲間が今も子供を中心に支援活動をしています(リオグランデという団体です)。今は南三陸から唐桑にかけての聞き取りが中心になっていますが、活動地域周辺のみなさまにもお世話になっており、いつか聞き書きをさせていただきたいと思っております。もし、「自分の人生を語って残したい」というようなことや、口述筆記の形でお手伝いできることがあればお気軽におっしゃってください」
ということです。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

*冒頭の「下駄スケート」の話は、オリオンの初期にあったもので、”Old間垣Boy”
さんの『大川懐想』(こちら)に続けようと思って作業を忘れていたものでした。近々、見られるようにしたいと思います。   (8/23)

■暑いお盆
震災から三度目のお盆、ただただいろいろな思いに身をゆだねるだけ。

KS君の便りでは、大川地区もうだるような暑さだとか。
しかし、一時は冷夏の予報もあったので、この暑さは作物にとって恵みかもしれないとありました。
「今年も復興作業がはじまりました。11日から18日は作業の方は休みで、先祖の供養しながら充電です」
とのことでした。

復興作業の写真は「掲示板」にもありますが再掲します。
芦早の上手から釜谷橋方向を見たところで、草の茶色いのは、塩水に強いコーチヤガラという雑草が生えはじめたので、除草剤を無人ヘリ撒いたためだそうです。
かつての緑の田園が、塩水に強い雑草に占領される……、それを除草剤で枯らして刈り取る作業……、なにか異様な感じがしますが、これも来年に備えての重要な仕事。
熱中症に気をつけながら、頑張ってください。

同級生の針岡TS君(テケちゃん)、長面・龍谷院の斎藤文隆和尚に聞いた話を「津波そのとき」(こちら)に収録しました。
どちらも断片的な立ち話だったので、細部があやふやですみません。いずれまた詳しく確認したいと思います。 (8/16)

■暑中お見舞い
 東北がようやく梅雨明けだとか。
 遅ればせながらというべきか、早々とというべきか、ともかく暑中お見舞い申し上げます。
 関東以西の猛暑やゲリラ豪雨もまた、想定外のことばかり続きます。これについてもこころからお見舞い申し上げます。

 それにしても長かった東北の梅雨、田舎からの便りでは低温も続いていて、冷夏の心配もあるとのことでした。
 なんとか夏の日差しが復活して、作柄も復活してほしいと思います。
 まあ、大川地区の針岡、釜谷、長面、尾の崎の耕作地は、大部分が耕作できない状態のままですが。

 子どものころ、夏になると毎日のように横手海岸(長面海水浴場)で遊んでましたが、お盆を過ぎると「土用波が立つから危ない。泳ぐな」と言われたものです。
 で、お盆を過ぎると(もう夏が終わるのか)と寂しかったものですが、やはり波が荒く海が冷たくなりました。

 いま管理人がいる長野の畑では、カナカナがアブラゼミより早く鳴きはじめ、夜には虫の声が聞こえはじめています。
 なんだか夏が短い予感がするのですが、私だけでしょうか。天変地異もほどほどにと願うばかりです。 (8/3)

■大川中学、まもなく姿を消しそうです
 針岡のKS君から「中学校がまもなく姿を消しそうだ」という便りがありました。

 「雨あがりの田んぼ巡りの途中に撮った大川中の解体の様子です。体育館とプールの解体は終了、学び舎もあと少しです。
 ついこの間の閉校式につづいて、大川中が消えゆく時を迎えています。 7/21」
 「今日も近く通りましたが、間もなく終わりそうです。後の利活用はまだ分りません?です。7/23」

 写真を3枚送ってもらったのですが、こちらのパソコンの不調で1枚しか受信できませんでした。右の写真はその1枚、7/20頃のものです。
 校庭の富士沼よりの場所から撮ったもので、正面が校舎、その背後が堤防道路。右の小山が学校の裏山。(クリックすると大きく見えます) (7/25)

■長面の集落の一部は蛇沼にもあった?
 長面のお寺、龍谷院は昔は蛇沼の奥の、坊主ヶ入という所にあったそうです。
 これは龍谷院の先代和尚・齋藤文雄氏が書かれた『長面濱村の濫觴(らんしょう)』という冊子に、今昔の地図入りで説明されています。
 ちょっと驚いたのは、蛇沼の堤防の手前に人家らしきものが何軒か、方角まではっきり描かれていることで、昔はここにも長面の一部があったのかもしれません。

 以前、トロントのMKさんが「屋号がなぜモンゼンなのか」わからないとおっしゃってましたが、あるいは古い時代、このあたりにお店かお宅があったのかもしれませんね(これはまったく管理人の推測デス)。

 この冊子には、長面の歴史や長面尾崎の言い伝えなどが詳しく載っています。いずれ転載していきたいと思いますが、とりあえず「見取図 龍谷院古蹟関係図解」(右図)と図に書かれている内容を「昔語りすっぺが」(こちら)に入れました。(地図はクリックすると大きく見えます)

 なお、この冊子は川向う牧野巣山のSTさんから送っていただいたもので、先日、斉藤文隆和尚に会った時、「ウチのものはすべて流されてない」とのことで、コピーを一部お渡ししました。STさん、ありがとう!   (7/4)

■「4車線の堤防道路」は幻だったようです
 先に掲載した右の写真、「辻堂から福地方向へ向かう堤防道路」が4車線になっていたと書きましたが、これは4車線の道路が作らわけではないと針岡のKS君から指摘がありました。
 「あの左の2車線はお役目御苦労の道路です。本来の道路が地震で亀裂陥没が生じ、それを復旧するための仮設道路でした。いまは波消しテトラの置き場に使われているようです」とのこと。
 なんか、存在感のあるがっしりした堤防になったな、と思ったのですが、残念。
 
 KS君は6/20、長面、尾の崎に行ったそうですが、その便りには「長面の解体はほぼ終え、尾崎も解体が進みつつあり、やがて集落の存在すら記憶から薄れてゆくのかと思わざるいませんね」とありました。  (6/24)

■堤防・護岸の復旧工事
 長面付近を歩いた5月末、工事の概要がよくわからなかったので、昨日県の東部土木事務所に電話で聞いてみました。
 現状の航空写真などがあると便利なのですが、適当なものが見つからないため、震災直後の国土地理院の写真を使わせてもらって、へたくそな作図ですが、だいたいのイメージを作ってみました。

クリックしていただくと大きくなります

堤防・護岸工事の概要

横須賀海岸の堤防復旧(「復興へ頑張るみやぎ」から)

@長面、尾の崎から松原に向かう道路から松原荘あたりまで、矢板という鋼板が塀のように打ち込まれています。これは横須賀海岸の(長面海水浴場)護岸工事のための仮設道路を作るためのもの。
Aこの仮設道路は県の工事とのことですが、これに沿って市の堤防道路が建設されるようです。
B横須賀海岸の護岸は県の工事で、谷地のMOさんほか関係者の尽力でできた前の護岸も利用してすぐ内側に作られるようです。
C追波川の堤防は国(国交省)の工事ですが、富士川の堤防は県の工事とのことです。
D堤防はいずれも既設の東京湾平均水位から3メートルだったものを8.4メートルの高さに復旧するとのこと(右図)。
 右の図の右下の説明では、追波川の堤防、横須賀海岸の護岸、長面からの堤防道路の接続部がよくわかりませんが、まあ、このままということはありえないでしょう。
*左図の写真は震災直後で海が広がっていますが、現在は尾崎橋から直線的に万年橋(龍谷院近く)に道路が伸び、甚平閘門あたりまで道が伸びているようで、海水に浸かっている地域はだいぶ少なくなっています。目印がまるでないので、現地ではどこがどこやらわかりませんでした。
*釜谷に積まれている大量の土砂は、堤防、道路、護岸等の建設用土で、釜屋そのものに使うものではないとのことでした。 (6/21)

■ついに大川中学が……横浜Tさんから 
 6月13日、Tさんという方から初めてお便りをいただきました。横浜在住のお若い方でご実家は福地・賀茂の神社のお近くとのこと。ご実家の父上が撮った大川中学の写真(こちら)を送っていただきました。
  初めまして。ちゃんとメールが届いているのか不安ですが、折角見つけた生まれ故郷についてのHPだったので居てもたっても居られずにメールしてしまいました。
 震災以来、地元のことばかり考えて『石巻』『福地』『大川』のワードを検索する毎日です。そこでこちらのサイトに辿り着きましてまだ見たことのなかった写真などをみつけては地元に想いを馳せていました。
 とにかく素晴らしいHPをつくって頂き感謝しております。いつみても懐かしい風景などを眺められるので癒しのHPです。大川の訛りも、涙がでる程嬉しく思いました! おばぁさんがわたしに語りかけてくれていた思い出が甦りました。
 これからもヨロシクお願いします( ̄▽ ̄)ゞ

*いやー、お恥ずかしい。なかなか更新できないホームページですが、こちらこそよろしくお願いします。
 で、6/18に2枚目の写真が届きました。ついに解体が始まった大川中学です。(クリックすると大きく見えます)
 メールの本文には次のようなことも。
 昨日父と電話で話したときに、飯野川の川っぺりにテトラポットがいっぱぃあって船でどこかに運ぶみたいでした。
 「長面のほうに運ぶのかな」って言ってました。
 早く海水が町に入ってこなくなれば、また捜索できますね。

 今後ともいろいろな情報をぜひどうぞよろしく。  (6/19)

■KKさんからいろいろ
●6/9、お神楽のこと
 ご無沙汰してます。変わりなく半島の縄文遺跡発掘アルバイト中、いにしえ人と対話しながら過ごしています。
 5月末、長面と北上の神楽保存会の有志が高橋宮司(長面・北野神社)のお骨折りで、伊勢神宮か出雲大社かで神楽を奉納したよし、その縁で石巻市へ100万円だかの支援金が寄贈されたと23日前の地元紙に乗っていました。

 *KKさんが切り抜きを知人にあげてしまったというので、ネットを見ると、右の出雲大社の「平成の大遷宮奉祝ガイド」にちゃんと載っていました。それでTT君に電話すると、先に書いたような次第。
 それで10月には鎌倉の鶴岡八幡宮でも奉納があるそうです。日時がはっきりしたらまたお知らせします。ぜひ見に行きたいですね。。

●同じく6/9、KKさんから、遺跡発掘のこと
 メールに「牡鹿半島の縄文遺跡発掘中」とあったので、どんな遺跡なのか聞いてみました。
 半島の中沢遺跡は縄文前期から平安時代あたりまでの長いスパーンの遺物が埋まっているとのことで、学問的にもなかなか興味があるとのことです。ネットで(石巻市中沢遺跡発掘作業状況)を検索すると動画で見られます。
 新潟糸魚川産のヒスイもあるとのこと、900年くらい前の十和田湖噴火の火山灰の層も10センチくらいの厚さできれいに出ております。
*牡鹿半島に縄文前期からの遺跡があったことも知りませんでしたし、十和田湖の噴火のことも知りませんでした。ありがとうございます。ゆっくり発掘状況などを見てみたいと思いますが、「石巻市中沢遺跡発掘」のサイトは
http://blog.arcpot.com/?eid=18
などをご覧ください。

●同じく6/9、KKさんから、「木遣り」や「ボラ漁」について
 2月に、牧野巣山のSTさんから送られた以前このページで、尾の崎の「地曳網木遣り」(こちら)などを掲載しましたが、よくわからない歌詞について、KKさんから貴重な情報が寄せられました。
 木遣りの文句、私には記憶がありませんが、あんなしゃれた言葉が使われているとは……。
 カコ=漁師、乗組員 亀=魚倉 など今でも通じる言葉があるようです。むかし母が、「大椀で5杯も飲ませるぞう」と、ときどき鼻歌まじりでやっていたのだけが記憶に鮮明です。
 船玉=船魂様(おふなださま)船の守り神様で船首のいちばん神聖な場所に鎮座してます。女の神様と聞いています。
 当時のことがわかる先輩たちも多くは鬼籍に入り、詳しいことが聞けなくて残念です。MKさんとこも網元でした。

*私が概要の追波湾で行う尾の崎の壮大なボラ漁を思い出して「もうボラ漁はないでしょうが、ボラは昔のように群れているんでしょうか」と聞いたところ、
 長面湾のガレキ撤去に通っているとき、大げさに言うならそれこそ湾内一面に大小のボラが群れており、一日に何匹も船上に飛び込んできてました。松原近くにあった田んぼ跡にも悠々とボラが泳いでいました。
*ちょっと想像できない情景ですが、いつの日か長面湾で船に乗りたいです。それとゴゾ山からホーホーと叫ぶボラ漁、これは何とか記録しておかねばと思っています。 (6/19)

■KS君から「針岡〜福地の山道整備も」 
 6/6の便りです。
 無事のお帰り御苦労さんです。あの夜テケちゃんと集落の会議があって一緒になりましたが、「俺あの日、一日中家にいたから会いたかったなあ」と残念がっていました。次回には連絡するよという事で。
 YHちゃんとも会えてよかったよかったですね。震災当時、YHちゃんちの前の畑地に何日も車を預かってもらって、奥山の道なき道を山越えしたところです。その山にも27年度までには避難道としての道路が整備されると聞いています。
 竹の花見ましたか。自分は一度遭遇してます。何十年サイクルで花が咲いて竹藪全体が枯死しますけど、再生もそんなに時間はかからないと思います。
 竹も昔は需要があって(イカダ材、足場材、竹細工等)、何年かに一度は換金できたましたが、今は殆ど需要もなく無用の長物化しましたね。
 今度来るときは我が家に泊ってゆっくり酒でも飲みましよう。

 *ありがとうございます。テケちゃんも元気そうでよかったです。今度はぜひ。針岡も林業の町だったこと、茶飲み話のうちで知りました。竹も木材も、もっと使い道を考えなくてはね。 (6/19)

■5/31の帰途、針岡と横川で茶飲み話
 故郷に帰っても、長面、尾の崎、釜谷にお茶っこ飲みに寄るところがなくなったから、というわけではないけど、針岡のKS君、福地のYHちゃんとこでお茶飲んできました。
 数日前、KS君が明るい声で「大川地区の430町歩の田んぼのうち、13町歩だけだけど今年は田植えができたよ〜」と知らせてくれたので、その田を見ていこうと釜谷の三角地帯から雄勝峠の方へ。
 でも、右手の田圃は雑草畑がほとんどで耕してあったりなかったり。13町歩といえばかなりの広さだが、発見できないままKS君のところへ。TS君(テケちゃん)にも会いたかったが、前回聞いた津波遭遇談とサバイバル談をまだ書いてない。バツが悪いので次回に(近々、『津波その時』に書きます)。

 KS君ご夫妻はいたって元気でした。農業談義、料理談義、同級生その他の消息、震災後の生活の変化など時間を忘れてしゃべった。
「富士沼の塩分がどうなるかわからないが、来年はなんとか耕作出来そうだ」 
「タコちゃんが出雲大社でお神楽奉納をしてきたそうだよ」
「昔の針岡は林業の集落だったけど、時代は変わるからなあ」
「震災で何もかもが不便になったよ。ちょっとしたことでも飯野川さ行がねがねもの」
 見てきた釜谷長面方面の話をすると
「んだね、ようやく少し変わって来たね」

クリックすると大きく見えます

大川中学遠景(5/31) 手前の田は
耕されいいてますが作物はありません

横浜 Tさんから送られた写真 (6/8)

と表情が明るかった。「泊ってがいん」と引き留めるのを、またの日を約しておいとました。

 鳥屋森から「谷地の牛舎の隣」さんあたりを通って、大川中学校へ。
 閉校の記念碑が建って、校舎の解体が始まっていると聞いていたが、ぐるりと塀で囲まれているので、遠景だけ撮りました。

 2枚目の写真は、偶然にも横浜のTさん(福地)が送ってくれたもので、お父さんが6/8に撮影されたもののようです。
 Tさんは大川小や大川、福地の情報を探しているうちに「オリオン」に遭遇したとのことでした。私たちよりずっと若い世代の方です。今後ともどうぞよろしく。

 横川はそれほど広くないメインストリートをダンプがひっきりなしに行きかうので、とくに八幡神社あたりのカーブは、車を止めて行きかうほど。
 横川のSF君の顔を見たいと思うが、約束事を果たしておらず不義理を重ねているので、首をすくめて自宅前を通り過ぎた。申し訳ない。

 福地のYHちゃんを訪ねるのは、もう2年前ぐらいに借りた本を返すのが目的。というのは口実で、もしかしたらシドケを食べさせてもらえるのではないかというのが本当の目的。

 借りていた本は紫桃正隆先生の『葛西氏と山内首藤一族』、『水軍 福地左馬之助一族』、『石巻地方の歴史を訪ねて』の3冊。私は福地、横川のことをよく知らないので、「何か資料はないかな」と言ったら貸してくれたもの。
 紫桃先生は福地出身の郷土史家にして作家。私たちがの学時代の恩師でもあるし、その後石巻高校の先生もし、葛西氏、伊達氏、郷土を中心にした著作が50冊ほどもある。
 わかりやすい語り口が親しみやすいが、考証がすこぶる綿密なので、私の頭ではなかなか整理できない。それで長期間の借用になった次第。今でもよく読みこめていないのだが、先生がいちばん言いたかったことは、横川、福地は伊達氏の前の葛西氏の時代から繁栄していた由緒ある地だということだと思います。
 余談だが数十年も前、雄勝・名振の葛西氏の末裔だという人に会った。この葛西さん、日本の敗戦後は毛沢東の八路軍の将校だったという変わり種で、「伊達は俺のカタキだ」としきりに強調していました。

 さて、シドケ。去年の5月初めにお邪魔した時に、ご主人が近くの山からどっさり採ってきてくれて、しこたま頂いた山菜。長面でも信州(カミさんは信州人でけっこう山菜オタク)でも見たことがないし、食べたこともない初体験の風味。
 すっかりファンになって、「今年は遅いからもうダメかなあ」と話しながら行ったところ、まず出てきたのがシドケ。
 「2番だから少し固いかも。お父さんが今朝、山から採ってきてくれたの」
 このご主人が山の人というか風流人というか、キノコ、タケノコ、山菜など近くの山を知り尽くした自然人(?)で、お会いするたびに心を和ませてくれます。

 シドケがどんなところに自生しているのか、YHちゃんの案内で、うっそうとした杉林の林道へ。途中二又に分かれるところがあって、たぶん左へ入れば針岡への山道だと思うがその時は聞き忘れた。
 右の林道をそうとう距離上って、車止めの空き地まで。シドケ畑はここからさらに徒歩で上ったところにあるという。このあたり、昔は瑠璃鳥がたくさんいて、独特の鳴き声を味わえたというが、いまは数が少なく、数日前ご主人が声を聞いて会話を試みたそうだ。
 ご主人が短時間に大量のシドケを採ってくるので、もっと近いところかと思っていたが、これは相当の距離。ほんとうにご馳走さまです。

 おいとましようとしたところへ、田仕事からご主人が帰ってきて、
 「見慣れないものがあると思ったら、竹の花だね」と見せてくれました。
 大川への道々、黄ばんだ竹林が気になっていたところなので、初めて見る竹の花にびっくり。小麦の穂のような実の先端それぞれに黄色い花が咲いています。

 いつもびっくりとおだやかなかんどぅをくれるご夫妻にお礼もそこそこ、福地を後にしました。

 「花が咲くと全国一斉に竹が枯死する」という説を信じていた私ですが、のちにKS君のメールでそうではないことを知って、安したような、少し残念なような、……。なにしろ山が竹に侵略されていくのは、ちょっと無残な気もするので。

 (ふー、5/31の雑感はこれで終わり。これっぼっちのことに2週間以上もかかるのは歳のせいでしょうか。すんません。 6/18)

■ともかく何かが動き出している
 被災した人びとの心や生活がどのように動いているかはうかがい知れないが、復旧に向けたダンプの群れが、「何かが動き出している」という明るい気持ちを抱かせた。
 これまで何度か帰郷したが、行くたびに涙雨の空模様で、暗澹たる気分に襲われていた。しかし、この日(5/31)は快晴のためもあってか、どこか気持ちも晴れやかで、いつもはあまり撮らない写真も、気兼ねなくシャッターを押せた。
 故郷で暮らしている友人知人が現状をどう感じているかはわからないが、「どういう方向であろうが、動かないよりは動いたほうがいい」という気持ちがした。(写真をクリックすると大きく見えます)

復旧工事のダンプ群 (5/31撮影)

辻堂から福地方向へ向かう堤防道路。左に2車線(未使用?)が拡幅されていた

大川小学校前を行くダンプ

「長面下流」「釜谷下流」「資材運搬」などのダンプが並ぶ

●長面
 長面は街の痕跡すらなく、記憶を総動員しても誰がどこに住んでいたのか思い出せない。前夜、石巻の兄の自宅で、ゼンリンの古い住宅地図を見ながら、「親戚の誰それはここ、同級生の○○君、○○ちゃんはここ」などと振り返ったのだが、何の目印もないところでは見当がつかなかった。

長面の今(5/31撮影)

長面の中心街

長面集落の全体遠望

●尾の崎
 ほとんどの家が一階を破壊された尾の崎は、ライフラインもないため大部分が無人である。まあ、無人であってもなり人家が残っているので、縁戚関係や友人知人の家がたぶんこれだと思い出すことができた。尾の崎の板碑群も大方無事だったようで、尾の崎のお寺・海蔵庵の前から引き返した。

尾の崎の今(5/31撮影)

右端が尾崎橋

海蔵庵の前あたりの道路工事

海蔵庵

南北朝時代と伝えられる板碑群。大型のものは別に

●松原方面
 一面の海だった松原方向に、長い、長い堤防(?)工事が行われていた。長面から松原へ行く元の道路から、松原、松原荘、弘象山の裏手まで至る長大なもので、どういうものが完成するのかよくわからない。
 工事概要を知らせる掲示には「追波湾(横須賀地区海岸)(宮城県石巻市長面)仮設道路の概要について」とあったが、ヒニールの覆いがかかってよく見えない。国、県、市、の工事が入り混じっているかもしれないのでいずれ概要を聞いてみたいと思います。
  それにしても、正式地名が「横須賀海岸」だと初めて知りました。子どものころは「横手」と言ってましたが、いまの住居表示では「須賀」が正式になっていますので。

松原方向の仮設道路(?) 護岸(?)工事(5/31撮影)
↑ 左右の2枚の写真をつなぎ合わせた感じで、護岸(?)工事がゴゾ山の裏まで続いています
下の掲示のように「仮設道路」であるなら、これを基盤に大きな堤防が築かれるのかもしれない

「仮設道路」をつくっているという掲示

「横須賀地区海岸災害復旧工事」の看板

●谷地中、釜谷
 釜谷の中心街が整地されて久しいですが、そこに大量の土が積まれているのが印象でした。どういう計画があるのでしょうか。
 また、釜谷の橋から谷地中、長面方面に向けて、新しい高い堤防が建設されているようです。遠くて確認できなかったですが、高さも増したようです。

釜谷の墓地と谷地中、釜谷(5/31撮影)

釜谷の墓地は一段高く整地されていました

上がってみると1軒の墓石が建てられていました

釜谷の膨大な量の土砂。釜谷沼の前面にも

橋から河口に向けての堤防

 もう15、6年前、長面の同級生TN君に会った時、私が「田舎は変わらなくていいなあ」と言ったら、TN君は「バカ言え。変わんねがら何もいくなんねだべっちゃ」と嘆いた。
 悲劇的な変わり方ではあるが、変化の中から何かが生まれてくればいいと思う。 (6/16)

■北野神社にて/出雲大社のお神楽奉納など
 「北野神社の参道入り口に大槻平六翁(長面の塩田創設者、天保3年)の功績碑があったが、健在かどうか機会があったら確かめてくれ」と、遠いところにいる高齢のイトコに頼まれていたので、龍谷院から北野神社に。
 長面の入口までは舗装されていたが、人家は一つもなく、遠く左手に尾の崎の人家(ほとんどは無人)が見えるのみ。

 北野神社、八雲神社の入口(社務所前)は浦海に突き当たって右に折れた数百メートルのところである。
 社務所の前は津波で破壊された堤防がそのままで、漁業関係者の作業場になっているようだった。カキ棚が浮かぶ浦海の奥を眺めると、2艘ほどのボートで7、8人が働いていた。
 もしかすると同級生のTT君(カキの養殖、お神楽の保存会メンバー)もいるかもしれない。まだ昼休みには早いので、北野神社に参詣してから電話してみることにした。

 北野神社に参るのは50年ぶりぐらいのことなので、以前の記憶と参道の様子が違っていた。子どものころは八雲神社付近が主な遊び場で、そこからときおり北野神社まで行った記憶があるが、今は参道を素直にどこまでも昇って行くと直接北野神社に着く。参道の両側には山百合が群生していて、夏にはさぞ見事だろう。

 八雲神社の方向に戻る途中、五十鈴神社と常盤魂水神社(水神様)という小さい社があった。水神様は昔、もっと小さな祠だったように記憶しているが、あるいは思い違いかも。水神様の祭神は〇象女神(みずばのめのかみ)と永沼昌孝翁と書かれており、永沼翁は実在の人。
 「お茶飲んでがいん」(こちら)に書いた永沼庄太郎さんの父だが、なぜご祭神になっているのか、どなたかご存知でしたら教えてください。

写真をクリックしていただくと大きく見えます(5/31の写真です)

長面中心街への入口(ここまで舗装道路になっていました) 右=北野神社方向 左=塩田、尾の崎方向

社務所前の壊れたままの堤防と漁業作業船

北野神社参道入り口

北野神社 古びた彫刻が歴史を感じさせます

手前=水神様 奥=五十鈴神社

八雲神社 拝殿前のスペースがなくてアップに

左=高橋宮司さん 2/10アンバサンの一コマ 石巻河北から

 八雲神社の庭は子どものころはもっと広かったと思うのだが、カメラを構えて後ろに下がる余裕がないほど狭く、社の一部しかフレームに入らなかった。その狭い通路に、ツヤツヤした子供のシマヘビが現れて、いっしゅんこちらを眺めた後、くるりと頭を反転させて急斜面の藪に隠れた。ヘビは吉兆というから、なにかいいことがあるに違いない。

 神社でよく遊んだのは、先代の宮司の高橋美邦君が同級生だったからだ。美邦君は若くして事故で亡くなり、いまの弟さんの高橋範英さん(写真)が宮司である。写真の「アンバサン」というのは、長面の墨つけ祭りの名称です。

 社務所前の海岸へ戻って、TT君に電話をかけてみた。ところがソフトバンクは残念ながら「圏外」。浦海のカキ棚の仕事をする諸氏の健闘を祈って神社前を後にした。
 これには後日談があって、東京に帰ってから針岡のKS君、尾の崎の KKさんからこんな便りが。

「五月末、長面と北上の神楽保存会の有志が高橋宮司のお骨折りで出雲大社の聖地で神楽を奉納したよし、その縁で出雲大社から石巻市へ100万円だかの支援金が寄贈されたと2、3日前の地元紙に載ってました」

 それでTT君に電話すると、
「んだ。行って来たよ。5月24、25、26の3日間。舞台は25日の午後だったな。出雲大社の”平成の大遷宮”の奉祝行事の一つでね。演目は『笹結び』『鬼門』『日本武尊』の3番だけ。オレは踊らねげっとも、太鼓をずっとはたいてた」
 すごい、すごい! 「釜谷長面尾崎法印神楽保存会」「北上町女川法印神楽保存会」そして高橋宮司さんはじめ関係者の皆さん、ご苦労さまでした。
ちなみに出雲大社の「奉祝行事ガイド」には、次のような内容説明がありました。
「400年近い歴史を持ち、修験者たちにより伝えられた神楽です。東日本大震災で仮設に暮らしていますが、秋祭りには神楽を奉納し、人びとの心を癒しています」
 ※お神楽については、「祭囃子聞こえっべが」(こちら)をご覧ください。

 なお、携帯の圏外の件は、
「その日も浦海にいたな。社務所の前は山の陰で電波状態が良くないんだよ。牡蠣むき場のあたりからだったら通じるんだ」とのことだった。  (6/13)

■龍谷院にて
 5/31、オフクロの37回忌があって龍谷院に行った。ふだん、田舎のことはすべて兄夫婦にしてもらっているので、大きな顔をして出向ける

クリックすると大きく見えます

龍谷院の山門付近から

サルスベリの古木と位牌堂 横に津波到達点の石柱

佐藤文隆和尚 手前は鍋代わりなった鐘

復旧工事のダンプの列

わけではないが、父母の法事に出席できるのもこれが最後かなという気持ちである。

 和尚さんが来るまで少し時間があったので、たった一つ残った位牌堂の周囲を歩いてみた。
 ようやく残ったこの位牌堂も壁が抜かれて、位牌もほとんどが流されたという。現在は壁などがきれいに修復されているが、いかにも小さい。それでも中は30人ぐらいが列席できるという。
 震災直後、人々の命を救った湧水が今もチョロチョロ流れ出ていて、美味しい。その上の山腹に「津波到達点」という控えめな石柱が見え、それからすると位牌堂の屋根近くまで、津波は押し寄せたようだ。
 位牌堂の前は本堂と庫裡があった場所。その庭と参道は一面にクローバーや雑草に覆われて平坦に広がっていた。
 懐かしいサルスベリはほとんど枯れかけている。しかし、ところどころから新芽を出し、「死んでたまるか」というような意地を見せている。根元の池も今は見る影もないが形をとどめていた。

 文隆和尚が仙台から到着。幼馴染の同級生なので、定刻までやはり津波の話になった。九死に一生というか、奇跡のような津波の直後のことは、稿を改めて書き留めておきたいと思うが、ほんとうに久しぶり(たぶん10数年ぶり)なので話がつきない。

 位牌堂の正面からは、なぜか私の心に焼き付いているサルスベリの古木がよく見える。二人でそれを眺めながら、和尚が話してくれた。
「子どものころ、山で友達とシマヘビを捕まえて、長面の○○さんにあげたら小遣いをくれてな。北海道屋でアメを買ったのさ。嬉しいから当時ここにいた叔父に話したら、あのサルスベリに縛りつけられて、『殺生をするんじゃない』とこっぴどく叱られたよ」

 位牌堂の中は思ったより広く、30ぐらいの椅子がならべられ、本堂のように須弥壇や各種装飾が整えられている。
「本堂の建物はダメだったけど、上部にあったものはあまり大きな被害はなかった。ここにあるものの大部分は修理して移したもの。ご本尊の正観音菩薩も無事だったし……」
 手前に見える鐘が避難者がおかゆの炊き出しに鍋代わりに使った鐘。この鐘のことも別項で記録しておきたいと思う。

 法要を終えて、またしばしよもやま話。
「あんたのオフクロさんもオヤジさんもなあ、あの松原に苦労して家を造ったのに、今はこんなだ。まあ、長面、尾の崎、みんな同じだけど」
 松原の方を見れば、何もない砂場をダンプが行きかい、その向こうに北上川と海が広がっていた。

 仙台から通うのはたいへんだが、近い将来もう少し近くに移れるかもしれないという。ぜひ、そうなってもらいたい。
 いずれにしろ、津波で倒された全墓石の修復、古くからの顕彰碑などをきちんと修復してくれるなど、斉藤和尚ほか関係者に感謝、感謝。なにしろ墓地はやはりみんなの心のよりどころだから。 (6/12)

■釜谷に「大川地区物故者慰霊碑」
 大川小学校グランドの山際に、建立途中かもしれませんが「東日本大震災大川地区物故者名」が刻まれた慰霊碑が建っていました。
 中央に大きな空白があり、また刻まれた犠牲者の方々の名も全員ではないので、まだ未完成なのかも知れません。
  (写真は平成25年5月31日)

写真をクリックしていただくと大きく見えます

右の碑に釜谷の、左に谷地中、間垣、針岡、尾崎、長面の物故者名が刻まれています

谷地中、入釜谷、間垣の方々

釜谷地区の方々

入り釜谷、尾の崎、横川、針岡の方々

長面の方々

 大川地区で亡くなられた方は418名と記憶していますが、碑に刻まれているのはこれより少ない気がします。しかしこのことが、ご遺族のいろいろな思いをより強く伝えているように感じました。
 こういう碑は半永久的に残るものなので、いつの日か完全な記録として残される日が来るのでしょう。そしてここでもまた、お名前とお歳だけでなく、お一人お一人の横顔、人生の一幕を知りたいと思いました。 (6/11-2)

■長面の墓地に慰霊碑
 5/31、オフクロの37回忌があって、長面の龍谷院へ行ってきました。
 

写真をクリックしていただくと大きく見えます

長面の墓地入口の慰霊碑

碑文

墓地から見る松原方向の復旧工事

 県道から墓地に入ると、正面に立派な慰霊碑が建てられており、3月に建立されたそうです。
 中央に大きな観音(?)像、右に深く刻まれた「鎮魂」の石文、左に津波の記録と長面地区の「震災横死者名」が刻まれた碑が建てられていました。
 
 中央に大きな観音(?)像、右に深く刻まれた「鎮魂」の石文、左に津波の記録と長面地区の「震災横死者名」が刻まれた碑が建てられていました。
 碑文(下記)には津波の記録と後世への教訓、犠牲者への万感の思いが刻まれています。


    東日本大震災(未曽有の大津波)
 平成二十三年(二〇一一年)三月十一日 午後二時四十六分、三陸沖を震源とする震度七の大地震が発生し、およそ四十分後、当地に十数メートルの大津波が押し寄せた。
 風光明媚な松原海岸の砂浜や、百年以上の松林十万本と海岸線から釜谷地区までの住宅地、農地全てが濁流に一気に呑み込まれた。長面地区百四十五戸の家屋も瓦礫と化し、壊滅状態になり、住民百八名の尊い生命が奪われた。
 生かされた我々は、「地震が起きたら津波の襲来」を教訓に、速やかに高台に避難することが自らの命を守る道であることを後世に伝えたい。
 茲に遺族の賛同のもと、この碑を建立し、犠牲となられた諸霊の冥福を祈るものである。
       平成二十五年三月
           東日本大震災長面遺族会


 碑には98名の方の名前と年齢が刻まれていました。早く故郷を後にした私には、すべての方がわかるわけではありませんが、、親戚、友人、知人も多く含まれており、ひととき生前の面影をしのびました。
 できれはひと言でいいから、生前のエピソードなどを残したいなあと思いました。

 墓地から松原のあった方向を見ると、復興工事のダンプや重機、新堤防の基礎工事などが望めました。どういう形の復旧・復興が果たされるのかわかりませんが、明るい槌音を聞いた思いがしました。 (6/11-1) 

■430町歩のうち13町歩に田植え
 数日前、久々に福地YHちゃんと電話。東京同期会の話、大川地区、雄勝地区の同級生の話、それに被災地復興の様子などなど。
 復旧は遅々たるものだけど、釜谷、長面、尾の崎方面へ向かうダンプの数はたまげるほどだという。長面の入口まで立派な道路ができたという。
 横川はたまたま被害を免れたが、街中を往来するダンプの数に複雑な思いのようだ。横川の堤防を強化してバイパスにするなど、復興予算で恒久的な対策は出来なかったのだろうか。

 今日、針岡のKS君と久々の電話。
 大川地区の被災した430町歩の田んぼのうち、今年ようやく13町歩に作付けができたという。約3%の復旧だが、ごく一部でも復旧できた意味は大きい。
 ただ、作付けできた場所は富士沼とは別の水源のある入釜谷周辺で、富士沼の水を農業用水とする地域は塩分濃度の関係で今年も耕作はできないとのこと。ましてや釜谷、長面方面の田園風景の復活はしばらく望めそうもないようだ。

 近くオフクロの37回忌があるので、ついでに復旧の様子を見てきたいと思う(いつも長兄に任せっぱなしなのだけど)。 (5/28)
 

Old間垣Boyさんから
 (見硯山とは硯上山のことですか?)と、やんわりミスのご指摘をいただきました。
 いやー、お恥ずかしい。少し前に「閉校式」の写真を収録しました(こちら)が、「群読」と「応援歌」の中の硯上山を見硯山と誤記?していました。平にご容赦を! 訂正いたしました。
 大川への思いの深いOld間垣Boyさん、大川一小のご卒業ですが、父上(青沼先生)の転勤のため中学は別。それにもかかわらず大川への思いを持ちつづけておられます。以下、お便りから。

 ……どんな旋律かは知りませんが、校歌 ♪清き流れの追波川 千代に変わらぬ大川の♪ 歌詞がすばらしいですね。又、群読『嗚呼 富士沼の青き水 嗚呼 見硯山雲なびき』も旧制中学の雰囲気を醸し出し、伝統ある中学校の印象を強く受けます。こんなすばらしい学校がと、ことのほか残念至極な結果であります。(見硯山は硯上山のことですか?)

 又、卒業生名簿までオンして戴き、これには頭が下がりました。私は中学はS39年卒ですが、そこを見たらあの人もこの娘もと名前が判るといろいろ思い出すことしきりで、しばし釘付けで眺めました。永沼家の京子さんが「恭子」が正しい事も思い出しました。

 私は小・中9年間のうち5回、小が3校、中は2校を父親の転勤に伴って転向しましたが、4年間在籍の大川一小が最長と云うこともあり、ことさら大川への執着が強いのかもしれません。ともあれこの名簿は私にとってはありがたいデータであり、大事にしたいと思います。
 またの新情報、心待ちにしております。

 Old間垣Boyさん、ありがとうございます。ミスのご指摘もさることながら、『閉校記念誌』から転載させていただいた「卒業生名簿」がお役にたって嬉しいです。
 卒業生は多いし、遠方にいる方も多いので、『閉校記念誌』を見られない方もいるかと、転載させていただいたものです。(こちら)
 なお、Old間垣Boyさんの大川時代の想い出、『大川懐想』(こちら)はとてもみずみずしい大川の記録です。どうぞご覧下さい。管理人も思い出などを追加させていただきたいと思っています。 (5/11)

■トロントのMKさんから
 『長面―きえた故郷』の再上映が決定したとのお便りと写真が届きました。

3月22日、満員の上映会場と義援金の贈呈

 3月22日の遊楽館での『長面ーきえた故郷』上映会は420名の会場に約600名近くの人達が来てくださり、嬉しい悲鳴でした。
 大川中学校の同窓生、5名が受付を手伝ってくれて、とても助かりました。
 その後、上品の郷の太田実駅長さんのもとに「まだ見ていないという声が多く届き」6月14日(金)にビッグバンで再上映されることに決まりました。
 制作者の石原牧子さん、それに私も帰国しようと思っています。

 22日には、トロントヘリテージ日本語学校と私の友人達からの義援金、約二百万円は大川地区復興協議会、東日本大震災長面遺族会の慰霊塔、大川地区慰霊碑建設委員会、その他へ渡すことが出来、皆様に喜んでいただけたと思います。

 被災地は毎日が復興ですが、他所では大震災は風化の一途を辿っていますが、これは仕方の無いことだと思います。 トロントではトロント新企会というグループ(私もメンバーです)があるのですが、過去二年、宮城教育大学の被災学生に奨学金(返済しなくても良い)を渡しました。 今年は被災学生をトロントの英語家族へホームステイさせる計画です。 

 とのことでした。

 このお便りや写真は少し前に届いていたのですが、遅くなってすみません。
 5/8のお便りには、
「トロントの今日は23度もありました。 ハイパークというところに桜見物に友達と行って来ました。 先週の金曜日が満開でしたので、少し葉桜になりつつある木々がありましたが、まだまだ見ごたえがありました。 花吹雪も乙なものですが、周りから聞こえる会話はタガログ、英語、韓国語、中国語とさまざまで 多民族国家、カナダならではの花見見物ではありました。石巻はまだまだ寒いと聞きましたが……」とありました。  (5/11)

■久々に同級会
 4/23(火)、久々に東京地区の同期会をしました。総勢23名(男の子9、女の子12)。
 昨年はいろいろなことがあってできなかったため、久しぶりという感じですが、皆さん一昨年より若返った感じでなによりでした。震災後まる2年を経て、少し落ち着いたというところでしょうか。

 ちょっと体調不良だった針岡のHKちゃん、しばらくぶりの福地のFT君の参加もあって、いつになく盛り上がりました。
 とくにFT君の妹さんは一家が犠牲になった長面のJT君の奥さん。その話にはため息をつくよりほかはありませんでした。彼にはJT君のほかにも犠牲になったり大きな被害を受けた縁者が多く、震災直後にいち早く故郷入りして遺体確認もしていました。

 FT君だけでなく、今回参加できた人もできなかった人も、被害に関係のなかった人はいない。できれば一人ひとりの物語を記録しておきたいと思います。

 牧野巣山のSTさんから送られた大川中学校の『閉校記念誌』、それに『卒業式・閉校式』『閉校記念』のDVD各5部を希望者に。『閉校記念誌』も5部あったのですが、卒業者名簿や学校の歩みを見たい人が多く、STさんに予備があったら送ってくれるようお願いしました。
 それとTT君が送ってくれたお神楽のビデオを57分にダイジェストしたDVD10枚を希望者に。TT君、ありがとう! その場では見られませんでしたが、みんな神楽を懐かしがってました。各集落とも神楽は行われていたそうで、福地は小鋭神社の前の広場で舞われたそうです。 (4/27)

■『大川小学校 遺族の2年』
 昨日(4/18)、NHKの『わが子へ 〜大川小学校 遺族の2年〜』を見た。
 他からは容易に近づけない痛みや悲しみが静かに語られていて、とてもいい番組だった。
 失われた子や孫について語ることの難しさ、困難さを改めて思った内容だったが、さらに多くの方々に心情を吐露していただきたいと思う。亡くなられた方々が私たちの中で生き続けるためにも……。
 語っておかなければならない、と思う人がたくさんあるのだけど、どこまで真情にふれられるかと思うと躊躇ししてしまう。管理人もそんな思いにとらわれています。

 NHKの放送は、ちょうど大川中学の『閉校記念誌』の「卒業者名簿」を眺めていた時で、大川小の子どもたちの写真をみて、この子たちもこの名簿に加わるはずだったのに、と思ってしまいました。

 『閉校記念誌』にある詳しい中学校の「あゆみ」と「卒業者名簿」を、同誌が手に入らなかった方のために、当ホームページに転載させていただきます。「あゆみ」はこちら、「卒業者名簿」はもう少々お待ちください。 (4/19)

■大川中「閉校式」の写真
 近々、東京の同級生との会があるので、TT君から送られたお神楽のダイジェスト版を作ろうと、夢中になってました。というか、悪戦苦闘。いやー、デジタル時代というのはむずかしいものです。
 送られてきたのは5時間以上のDVDなので、これを1時間ぐらいにまとめようとしたのですが、画面が荒くなったり、小さくなったり、なにも解決しないまま時間切れ。まるで私の人生みたい……。

 さて本題。4月の初めでしたが、大川中学校の『閉校記念誌』『平成24年度石巻市立大川中学校 閉校記念DVD』、それに『大川中学校第66回卒業式・閉校式DVD』がSTさんから届きました。

 もっと早くまとめなければいけなかったのですが、いろいろあってようやく「閉校式」だけをこちらにまとめました。
 それと、『閉校記念誌』には詳細な「学校の歩み」と「卒業生名簿」が掲載されていますので、近々収録させていただきたいと思っています。

 それにしても「閉校」という事実には言い知れぬ寂しさがありますが、地域の方々の喪失感はひとしおと思います。
 「……校舎はなくなっても、心にはいつまでも存在し続ける……」
 PTA会長の思いを、私たちも共有していきたいと思います。  (4/15)

■『希望、勇気そして未来 〜海を越えた友情のレクイエム〜』
 所要でしばらく東京を留守にしてましたが、帰ったら大川中学の閉校ほか、いくつか便りが届いていました。

 皆さんに情報や資料のご提供をお願いした横浜のケーブルテレビ局、YOUテレビ鰍ゥら、番組完成の報告をいただきました。
 番組名は『希望、勇気そして未来 〜海を越えた友情のレクイエム〜』

 内容は、昨年11月6日、ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者ヴェルナー・ヒンクさんとチェロのフリッッ・ドレンシャルさん、それにピアノの田中拓未さんが合流して「鎮魂と復興を願う」チャリティ・コンサートを行いましたが、そのドキュメンタリーです。

 三人は11月6日、大川小の慰霊碑前、ビッグバン、それに仙台の太白区文化センターでと、1日に3回のコンサートを強行しましたが、仙台もビッグバンも超満員の聴衆の拍手に包まれました。
 ビックバンでの演奏には、廃校が予定されている大川中学の生徒たちが最前列に招待され、演奏後には生徒たちの校歌を笑みをたたえて聴くなど、満員の聴衆に希望と勇気を与えました。

 大川小の慰霊碑の前はあいにくの雨になりましたが、フリッッ・ドレンシャルさんは「ここでこの曲を弾かなければ日本に来た意味がない」と、小さなテントの下でパブロ・カザルスの『鳥の歌』を演奏。亡くなった方々の鎮魂と被災地の復興を願いました。
 右の写真の2番目、背後は釜谷の三角地帯で、走り抜ける作業中のダンプが写っています。ウィーン・フィルの世界的な奏者ですが、ここで弾ける満足感のようなものが感じられます。音をお届けできないのが残念。

 再放送の予定などがわかりましたらまたお知らせします。またDVDはたぶんコピーできると思いますので、見たい方はお知らせください。

※STさんから、大川中学の『閉校記念誌』ほか、記念DVD、卒業式・閉校式DVDが届いています。なるべく早く整理して(心の整理も含めて)、まとめたいと思います。
  (4/9)

■長面海岸の松は、いつ、誰が植えたのか
 結論から言えば、いつごろ植栽されたものかなど、まだ全然わからないでいます。
 でも、誰がいつ植えたにせよ、国家百年の計……、あれほど広大な砂州にゴゾ山にならぶ屏風を立てるという、見事な計画だったと思います。まあ、百年以上たって、今回の津波で姿も役割も消滅してしまいましたが……。

 陸前高田の松原は1667年(寛文7年)、高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられ、その後も着々と増林が行われたとありますから、長面海岸の松も藩政時代から植林されたのかもしれませんね。

 砂州の変遷や田畑の拡大など、古い地図から読み取れそうなので、こちらにまとめてみました。(3/23)

■大川中学校の「津波そのとき」写真
 旧友のSTさんから、大川中学を津波が襲った際の写真が届きました。「津波そのとき」にまとめました(こちら)。小学校に比べて被害は少なかったとはいえ、想像を超える惨状です。 

大川中の閉校を伝えるニュースと校庭を進む津波(クリックしてください)

 この3月9日、結局は閉校ということになり、東京でもテレビ・新聞のニュースが繰り返し報じられました。なんとも言葉がありませんが、私たちの心にはいつまでも生きつづけると思います。 (3/20)

■「大川ふるさと祭り」の写真頁
 遅ればせながら、3月2日にビッグバンで開かれた、「大川ふるさと祭り」の写真をまとめました(こちら)。子どもたちの心にながく残る祭りになればいいですね。 (3/19)

■あれこれ、11日を前にして
 トロントのモガールさんからとてもいい、懐かしい長面の写真が届いています。「大川ふるさと祭り」でご覧になった方もおられると思いますが、「ふるさと写真集」の「長面」(こちら)に収録しましたので、ご覧下さい。
 八幡様のお祭りや長面海岸での大川小生徒の地曳網など、とてもいい写真です。

 明日、大川中学校の閉校式が、卒業式につづいて行われるそうです。牧野巣のSTさんかが閉校式の告知がとどいており、「大川小、中学校の沿革」(こちら)には入っていますが、改めてここにも入れておきます(画像をクリックすると大きく見えます)
 満2年を迎えるのに寂しいことばかりですが、「心に太陽を!」と願わずにはいられません(ずいぶん古いフレーズですが)。

 先ほどここに書くのを忘れたのですが、STさんから新旧含めた大川の写真が多数届いています。まだ場所などの確認と分類が出来ていませんので、済み次第UPしたいと思っています。r.

 このところしばらく、TT君が送ってくれたお神楽のビデオをなんどもも見返しました。
 全部で5時間以上もあるので、1時間ぐらいのダイジェストを作りたいのですが、なかなか……。でも神楽の太鼓と笛を聞けるだけでなにか豊かな気持ちになります。
 さらに、同時に送ってくれた解説書のおかげで、神楽の内容がどういう物語なのかがようやく、少しわかりました。これらのこともわかりやすく残しておきたいと思うのですが、さて、いつのことになるやら……。  (3/8)

■「大川ふるさと祭り」、ありがとさんです
 3月2日(土)、ビッグバンで開かれた「大川ふるさと祭り」(主催大川復興協議会/ふんばろう東日本プロジェクト)が盛会のうちに無事終了とのことでした。主催された方も、ご参加の方も、お疲れさまでした。
 オリオンは管理人がちょうど身辺バタバタのときだったので、皆さんにご提供いただいている写真を、主催者側に自由に展示していただくという消極的参加しかできなかったのですが、「お茶っこ広場」のコーナーでふるさとの皆さんに見ていただいたとのこと、ありがとさんでした。
 
 会場はたくさんの人で、「入口でお手伝いしているとポンと肩を叩かれ、振り返るとなんと仙台のHTくん。さっき針岡のKSくんとも話したので、探したんだけど、見つからなかった。それほど多くの人でごった返していましたよ」とのこと。 あちこちで懐かしい笑いがはじけていたそうです。

お茶っこ広場の写真展示コーナー 写真集『大川の記憶』


 それと「谷地の牛舎の隣」さんが自費制作した、大川地区の震災前の写真集『大川の記憶(上)』が無料で配布され、谷地の牛舎の隣さんのその他の写真も展示されて大評判のようでした。
 オリオンにもご恵贈いただきましたが、なにしろたいへん美しい写真で、豊穣の緑野だった頃がひしひしと胸に迫る写真集です。
 現時点では品切れ状態とのことですが、だいたいのことは以下で見られると思いますので、どうぞよろしく。
 http://page.mixi.jp/view_page.pl?page_id=191637

 ●「Old間垣Boy」さんからのお便り。
 昨日はヒトボさんと同行で尾の崎、長面、釜谷、間垣と「震災後2年の大川」をぐるっと廻り、無表情な廃墟のシーンを感慨深く見てきました。現場でないと感じ得ない―ふるさとの消滅―のほんとうの無念さがこみあげてくる。
 啄木の
   ふるさとの空遠みかも 高き屋にひとりのぼりて 愁いて下る
 の心情と重複するのは私だけなのか

 飯野川ビッグバーンでふるさと祭りは多くの人で盛況でした。
 会場では管理人さんと同級生の孝一さんともお会いでき、しばしの間オリオンの話に花を咲かせました。
 写真コーナーにはオリオンの写真や@国土夢想さんの写真集『大川の記憶』が用意されており、懐かしく拝見。写真集は無料プレゼントとのことでいただきました。

 大川地区内の移転地は8世帯規模で決定し、入り釜谷の高台を整地、来年中には建築・入居できるようですが、10世帯に満たない状況は生活の利便性を優先すれば止むを得ないところなんでしょう。

●仙台のHT君からのお便り
 大川ふるさと祭り、チョットだけ顔出してみた。
 当日は暴風警報発令のなか、走行中、車体が浮いて2年前の地震を感じさせるほどだった。
 会場にはいろいろな催しが至る所にあり、老若男女、楽しそうに、にぎやかに談笑してましたね。

 誰か一人ぐらい知っている顔がいないかなあ〜と周囲を見回すと、どこかで見たような感じはするが、半世紀以上も経っているから、お互いわからないね。
 ただ、ここに集っている人は、大川の人たちと思うと、懐かしく思った。
 そうそう、福地のYHちゃんを見つけ、声かけたらびっくりしてた。グループ何人かでボランティア、仮設住宅廻り(3つ)で吊るし雛の作り方を教えながら約7ケ月。展示コーナーにいっぱい飾っていたよ。吊るし雛とかカバンなどなど……。中国の飾り物みたい、赤が多くて……。
 KS君も近所のお年寄り数人を車に乗せて来ていたとのこと。
 いずれにしても、支援プロジェクト、ありがたいですね。皆んな若くて、活発に動き回って、気持ちよかった。


 以上、とりあえずオリオンに届いたお便りの要旨です。  (3/4)

■明治24年と大正2年の大川村
 国土地理院に大正2年の地形図を申請するついでに、「もっと古い明治の地図はありませんか」と聞いたところ、明治24年、25年測量の2万分の1地形図がありますとのこと。
 しかし、全国の各地とびとびにしか残っていないというので、調べてもらったら運よく長面、釜屋の一部が含まれたものがありました。下の明治の地図はその一部です。
 残念ながら間垣から下というか、針岡などの南部分、横川、福地などの西部分の地図はありませんが、右の大正2年の地形図と比べながら眺めてみてください。気がついた点など「むかし語りすっぺが」(こちら)にメモしてみました。
 いずれにしてもこういう地図を見ると、大川という地が、何百年も前から、先祖代々が着々と築いてきたんだなあと実感します。

明治24年と大正2年の大川村付近(クリックしてください)
明治24年(1891)の長面、釜屋付近 大正2年(1913)の大川村付近

 ところで、長面の砂浜の形が明治24年から20数年後、ずいぶん形が違っています。
 明治の地図でも砂浜に松が植えられていますが、いったいいつごろ、誰があの松林を計画したのか、知りたいところです。
 先日、大川復興協議会の大槻さん(同級生Kちゃんの弟さん)と電話で少し話をしましたが、その話を含めて次回、松原を考えみたいです。  (2/24)

■『長面・きえたふるさと』、上映会
 石原牧子氏のドキュメンタリー『長面・きえた故郷』上映会(3月22日(金)午後6時から石巻遊楽館)について、整理券の入手方法について問い合わせがありました。
 モガールさんからの連絡では

・映画は入場無料でどなたも見られます。(映画は70分)
・整理券は、上映後のレセプションのためのもので、2月23日以降、遊楽館、道の駅などで手に入ります。
 電話での申し込みもできます。 (0225)65−2556

ということのようです。
 どうぞよろしく。  (2/21)
  

100年前(大正2年)、釜屋と福地の堤防

kappa clubのNさんから「大正2年の大川地区の入った地図を某所で見ました」という情報を寄せていただいた。大正2年といえば1913年、今からちょうど100年前ですね。そのころの追波川の堤防工事が行われたと聞いてましたが、それ以前の追波川はどんな形をしていたのでしょうね。

さっそくNさんの情報を頼りにあちこち検索したり、国土地理院に問い合わせたりして、エエーッとびっくり。100年前の釜谷・間垣の地形は今とまったく違うのですね。さらに福地も、あの水門あたりが大きく違っています。
 あるいは皆さんはご存じなのかもしれませんが、私はまったくの初耳(目)だったので、今の釜谷と福地の地図に大正2年の姿を重ねてみました。
(ヤフーの現在の地図に国土地理院の大正2年の地形図を参考に重ねたもの)
 子ども落書きみたいに稚拙ですみませんが、たいへんな堤防工事だったことがわかるのではないかと思います。

現在の地図(ヤフー)と大正2年地形図(国土地理院)を合わせた参考図
釜 谷 福 地

 それにしても、雄勝・分浜の和尚さんの被災直後の「壊れたのは人間がつくったものだけ」という言葉が思い出されます。
 堤防工事のやや詳しいことは「むかし語りしすべ」(こちら)に入れました。(2/18

■法印神楽、後日談
 尾の崎・近藤孝悦さんから次のようなお便り。
 遺跡発掘アルバイトで一緒になる雄勝出身の方から耳にしたこと。(三人おりますが皆船員あがで、「近藤局長、しばらくだなあ」と仲良くやっております)
 国立劇場での神楽の中に、兄弟が覇権争いをして弟だかが負けて敗走する場面があるそうです。
 何かにと弟殿下との確執を噂される皇太子様の前でそれを演じるのはどうなのかと、雄勝の関係者たちは冷や汗ものだったそうですが、さすが皇太子ご夫妻、最後まで身じろぎもせず、熱心にご覧なされた由。
 殿下が退場されたあと神楽関係者はほっと安堵の息をついたとか。

 殿下も見た法印神楽、大川でももちゃんと行われています。
 長面のTT君から送ってもらった神楽のDVDを、なんとか皆さんにも見てもらいたいと思って、目下研究中。紙と鉛筆で育ったアナログ管理人にはけっこう難問ですが、「やればできる」と信じてやってみます。いつになるかわかりませんが、乞ご期待。 (2/17)

■尾の崎の大漁唄い込みほか
 川向こう牧野巣の古い友人STさんから、大川地区に関係したさまざまな資料や写真が届きました。
 長面の龍谷院の先代(洞雲山龍谷院二十九世大龍文雄和尚)が著した『長面濱村の濫觴記』など、初めて見るものばかりです。これはかなり分量もあるし、長面の草創期についての貴重な資料なので、いずれ新しいコーナーを作って掲載したいと思います。
 今日はとりあえず、送ってくれたもののうち、尾の崎の「大漁祝い唄」、「木遣り」、「浜甚句」などをご紹介します。
  (画像をクリックすると大きくなって文字が読めます)

尾の崎浜地曳網大漁舟入三拍子唄込祝唄 浜甚句 地曳網大漁きわり(木遣り)
網中の魚を網袋の中へたぐり入れるときの唄

 祝言の席などで今でも唄われているのでしょうか。右の二つは歌詞も雰囲気もよくわかりますが、左の祝い唄はどういう情景なのかよくわかりません。尾の崎の近藤さんにでも聴き覚えがあるかどうか聞いてみたいと思います。
 尾の崎には、かなり大がかりなボラ漁があって、管理人も2回ぐらい海水浴場の砂浜で網曳きに加わった(実は野次馬)ことがありますが、大量のときは大きなボラが何10トンも獲れたように記憶してます。
 この唄の情景そのままに砂浜は人の波、網曳きに加わった人は必ず、鍋に1匹か2匹のボラを入れて帰るんです。このことは『尾の崎浜、長面浜の歴史を探る』という冊子にもありますから、そのうち詳しく報告します。  (2/16)

■大川地区3月の予定と『第4回 大川地区復興協議会懇談会』報告
 2月10日、『第4回 大川地区復興協議会懇談会』が開かれ、ヒトボさん(間垣・現仙台)が「掲示板」に報告を寄せてくれました(2/12)。以下はその転載です。

 ●今後のスケジュール
・3月2日()13時からビックバンで「大川ふるさと祭り」なるものを、大川復興協議会・ふんばろう東日本支援プロジェクトの主催で開催されます。
【震災後2年が経とうとしていますが、【中略)大川地区の皆様が一堂に会する事が出来ないか、という思いから企画しました】との主旨が載ったパンフが有りました。
・3月9日(土)午後1時から、大川中学校の閉校式がビッグバン文化交流ホールで午後1時から開催されます。参加者と地域住民の方々には「大川中学校閉校記念誌」を配布するそうです。全部で千部用意したそうですが、要望があれば増刷も出来る様な話でした。
・3月23()には昨年に続いてだそうですが、遠く千葉県から鴨川市を中心に活動されている、鴨川少年少女合唱団の「スプリングコンサートin石巻」が遊楽館かなんホールにて午後6時から開催されますが、大川地区の為にとして、当日午後3時から大川小学校跡地で「大川小学校校歌」や「花は咲く」等数曲合唱して頂けるそうで、その案内報告が有りました。

●懇談会の内容
 まず大川地域(部落)別に
1)大川小学校の校舎の解体について
2)大川小学校の運営存続について
3)その他地域復興について
の報告が有り
1)ではほとんどの人が地域感情を考えて解体という意見でしたが、感情が強く入っていることも有り、また今文科省の調査も行われていることも有り、少し冷却期間をおいてみようということになりました。
2)では小学校は小さくとも大川に設置する方向で進めていくとし、地域コミュニティの場としても活用できるように、どこにするかの意見を集約していくことになりました。
3)では大川地区居住者による今後の大川の方向性等について懇談会を設けることになりました。

※詳しいご報告をありがとうございました。遠くにいてはわからない故郷の息遣いを感じます。機会があればまだどうぞよろしくお願いいたします。  (2/13

■お知らせ二つ (画像をクリックしてください)
●『大川ふるさと祭り』 3/2(土)13時〜 ビッグバン
・主催:大川復興協議会(代表・大槻幹夫さん)/ふんばろう東日本プロジェクト
・趣旨:大川地区の多くの方が分散を余儀なくされていますが、一堂に会する日がほしいということで企画された催し。
・内容:カラオケ、ミニコンサート、大川お茶っこ広場、居酒屋大川などいろいろ盛りだくさん。
※オリオンも写真展示に協力します
・ 「ふんばろう東日本……」の天野さんという方から、「震災前の大川各地の写真を展示したいので写真を貸してほしい」という申し出がオリオンにありました。天野さんの母上は釜谷の方で、その弟さん佐々木忠司さん夫妻が今度の津波で亡くなられています。
・これをお読みの方で、震災前の大川の写真(風景、町並み、ご自分の家、家族などなんでもいいです。公表(展示)して差支えない写真がありましたら、オリオン311あてメールでお寄せ下さい。

・会場展示用の締切は2月25日。当ホームページの「大川写真集」への掲載する写真はいつでもかまいません。

●ドキュメンタリー・フィルム『長面・きえた故郷』 上映会 3/22(金)午後6時上映開始 石巻遊楽館 河南ホール
カナダのトロントにお住いで、被災地の実情をを世界に発信しておられるM和子さんのドキュメンタリー・フイルム。実家の兄夫婦ほか、長面のすべてを喪失した和子さんと妹の祐子さんを中心に、映像ディレクター石原牧子氏が1年をかけて制作した作品。

・製作・監督:石原牧子
・撮影:石原牧子
・編集:石原牧子/マイケル・レーン
・音楽:佐藤賢太郎/上田絢香
・音響:キッチンシンク
・製作費協力:カナダ・トロント市 トロント・アート・カウンシル

(2/13)

■長面の墨つけ祭り「安波山(アンバサン)」
 尾の崎KKさんから、2月10日、長面で催された安波山(アンバさん)の墨つけ祭りの様子が「石巻河北新報」に出てますよ〜との便り。

 記事の要旨は、
「長面の大杉神社で、大漁、豊作、息災を祈る祭り「アンバサン」が開かれ、震災でちりぢりになっていた地区住民ら30人が集まり、一にも早い復興を祈った」というもの。
 詳しくは『三陸河北新報社のリアスの風』(ニュースファイル「2月」)をご覧ください。

 子どものころ、TN君らと大根の切り口に油か何かを混ぜたススをたっぷり塗り、後ろ手に隠してドキドキしながら街を歩いたのを思い出しました。あの冬の行事は今も続いていたんですね。記事には300年以上もつづく行事で、昨年も実施されたとありましたが、ほんとうに地区の皆さんのおかげだと思います。
 記事の写真では、長面の鈴木区長さんが高橋範英宮司(管理人の同級生美邦君・故人の弟さん)に墨を塗られるシーンが写っています。

 ところで、あれをアンバサン(安波山)ということを初めて知りました。また、大杉神社というのも初めてで、北野神社か八雲神社に合祀されているのでしょうね。
 ネットを見ると、大杉神社は関東、東北に広く分布しており、茨城県稲敷市の大杉神社が総本社。気仙沼の大杉神社も有名で、通称アンバさま。海上や水上の安全の神ですから、一日も早い復旧を! (2/12)

■飲料水の話、法印神楽の話
 
●飲料水の話

 ずっと前(もう1年以上も)、釜谷のHT君(仙台)から「子どものころの一番イヤな手伝いは水汲み」という話が届いていて、また同じく釜谷の同級生EFちゃん(東京)から「お祖父さん(曾祖父さんだったか?)は釜谷の堤防工事のときに水を売りに来ていて、それで釜屋に居ついたそうよ」という話もありました。

 釜谷の水事情はよほど悪かったのだなあと思っていたところ、長面も同じような悪条件で困ったあげく、竹管の配水による井戸が4カ所に作られた話が、『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』河北町・河北町民文化祭実行委員会発行(平成8年)にあったので、こちらに収録させていただきました。
 ●法印神楽の話
 長面のTT君が大川地区の神楽「法印神楽」のオーソリティだったおかげで、お神楽の内容がだんだんわかってきました。近々、送られた資料から簡単にお神楽の案内をつくりたいと思っています。
 これもずっと前、やはり釜谷のHT君から送られた『釜谷浜の歴史を探る』河北町・河北町民文化祭実行委員会発行(平成15年)に「釜谷法印神楽について」という1ページがあり、簡単な歴史がありましたので、こちらに収録させていただきました。

河北町・河北町民文化祭実行委員会発行の『長面浜、尾の崎浜……』、『釜谷浜……』は20数ページの冊子ですが、とてもいい内容で、今となれば「よくぞ残してくれた」という思いのする冊子です。編集協力のお名前には、同級生ほかの知った方々や今度の津波で犠牲になられた方もおられます。貴重な記録を残していただいてありがとうございます。 (2/9)

■尾の崎KKさん、「日本一短い手紙」大賞に!
 「尾の崎のKKさんこと近藤孝悦さんが大賞を受賞したよ〜!」
SK君から電話をもらってネット見たらありました。すごい! 
朝日新聞』(2013125)の記事をそのまま引用します。

 日本一短い手紙のコンクール「新一筆啓上賞」(福井県坂井市、丸岡町文化振興事業団主催)の入賞作品が25日、発表された。今回のテーマは「ありがとう」。
 赤ちゃんにあてた
「仮設内に、元気な赤ちゃんの声が聞こえるようになった 皆で耳をかたむける。ありがとう」
=宮城県石巻市、アルバイト近藤孝悦さん(70)=など5編が大賞に選ばれた。
 近藤さんは東日本大震災の津波で自宅が流され、100戸ほどの仮設住宅で暮らす。「仮設に新しい住人が増えてうれしかった」と話した。国内外から6万3745通の応募があり、うち約2割が東日本大震災関連だった。
 
6万4000通の中のトップ、ほんとうにホッとするような情景ですね。仮設の中の灯りのようなに感じました。
当の近藤さんからは、
「投稿したことすっかり忘れておりました、なんか面映い感じです。かっての活字読書症候群の自分でしたが、最近とんとご無沙汰です」
という便りでしたが、今後もますますがんばってください。  (1/30)

■大川地区、復興事業と作付予定
 針岡SK君から、KKさんの「日本一短い手紙」大賞受賞のニュースと近況が電話で届きました。
 KKさんの「日本一短い手紙」大賞受賞は別掲しますが、大川地区の近況は以下のとおりで、残念ながら目覚ましい進展はないようです。

復興事業は今年度の締めくくりとして、17日から2月いっぱいの予定で行われている。
・築堤と排水によって作業はだいぶ進んでいるが、風をさえぎるものが何もないので、寒風激しく、砂ぼこりがひどい。
・いまのところ行方不明の方に結びつく発見は無いよう。

・富士沼周辺の農地は、今年から耕作開始の計画だったが、富士沼の塩分濃度がまだ高いため、今年の作付は見送り。平成26年度からということになった。


 「しかしまあ、たった5分かそこらの地震でこんなことになるとはなあ。自然というものはすごいものだよ」
 SK君の言葉です。   (1/30)

■わが大川中学が3月9日で”閉校”
 私たちの大川中学が3月9日で廃校になるとの便りをもらいました。また一つ、私たちの歴史が消えてしまうようで寂しいですが、事情を聞いてみれば致し方ないような気もします。
 あの学び舎で過ごした日々人がつくったものは、いつかは壊れ、きえていくものだという思いがしますが、あの学び舎で過ごした日々、友人、先生、親や兄弟はいつまでも心の中に生きるでしょう。

●大川中学校の現状
・校舎は飯野川中学に間借りをしていたが、教育活動は独自の大川中学校として今年度まで展開。

・現在の在校生 全校生徒20名
  3年生14(男子10名、女子4)
  2年生4名(男子1名、女子3)
   1年生2名(男子2名)
・3/9の卒業式の後、閉校式が行われる予定。
・大川中学の記念碑建立の予定もあるそうですが、場所など詳細は未定のようです。
●今後は河北中学校に統合
・2年生以下の数があまり少人数のため、学級経営が難しいため、4月からは河北中学校に統合。
 *河北中学校 石巻市小船越字山畑
 ・二俣中と大谷地中が合併した中学で、飯野川の橋の手前。道の駅の近く。

 ・現在の生徒数 1年生46  2年生49  3年生45

●大川小学校
・大川小学校は新たに建てる方向にあるが、具体的なことはまだ不明。   (1/30)

 ※参考情報です 大川小・中学の沿革(こちら)  昭和30年ごろの大川中学の先生たち(こちら)

■アテルイと38年戦争と大川村

数日前、うたた寝してて目を覚ましたらNHKのテレビが『アテルイ伝』というのをやっていた。しばらく眺めていて「アッ、38年戦争の事か?」と思い当りました。
38年戦争」のことは震災後に初めて知ったのですが、奈良時代から平安初期にかけて、東北の民が38年間にわたって大和朝廷軍と戦いつづけたという戦争です。

 しかもこの戦争の発端は、飯野川にあった桃生城を“海道の蝦夷”が襲撃して城の一郭を破ったこと。海道の蝦夷といえば、三陸沿岸の先住民じゃないですか。
 私はあんなに近くに暮らしながら、学校でも家でも「38年戦争」のことを教えられた記憶がありません。「中央に歯向かうのは賊だ」という雰囲気があった時代だったからかもしれないし、「われわれは海道の蝦夷なんかではない」という思いがあったのかもしれません。
 しかし、38年間も中央の軍と戦い続けるなんてことは並大抵のことではありません。私はむしろ、東北人の不屈の魂を感じるのですが、いかがでしょう。

 『むかし語りすっぺが』(こちら)に関連の年表を作ってみました。涌谷での日本初の金の発見をはじめとして、仙台、多賀城、桃生城、胆沢城と政府軍が先住民を征服していく様子は、アメリカのインディアン駆逐によく似ています。どこの国も似たようなことをしているのですね。
 
アザマロ、大伴家持、アテルイ、坂上田村麻呂など登場人物も多彩で、わが故郷は古代の戦乱の舞台、もしかしてあなたは、それら古代の英雄たちの末裔かもしれません。 (1/27)

■大川中35年卒の皆さんの忘年会報告&大川音頭
仙台のHTさん(釜谷・武酉旅館)から、昨年末の関東地区忘年会と大川音頭のお便りが届きました。

 今日は、昨年末、35年卒の関東地区の忘年会の件を報告します。
 関東地区の13人に仙台から小生とSA君が参加、東京駅丸の内で待合せ、雄勝のスレートで新装の東京駅を見、地下の雄勝小・中、大須中の生徒がスレートで作った富士山前で記念撮影。

 その後は長面出身のNA君がセットしてくれた銀座の居酒屋まで、丸の内〜有楽町〜銀座通りを歩き、途中時間があり、喫茶店で小1時間ほど過ごし、小生がORION311の4ページのコピーでみんなに説明しました。
 今日、娘さんからパソコンをプレゼントされてORION311を見たとの電話がありました。ひとりでも多くの人が見てくれるといいですね。

 銀座の居酒屋では大いに盛り上がり、大川音頭まで出ました。もうすぐ古希を迎える連中がまた再会しようと2時間半ほど盛り上がりました。

 その時の大川音頭が何故か気になり、ORION311をのぞいていたら、従兄弟の仙台のHTちゃんが手ぬぐいの大川音頭を載せていましたね。
 
尾の崎のKKさんは盆踊りの時は必ず歌い踊っていて、全部歌えるとか。良いですね。
 いろいろ気になっていたので、小中高と同期のSA君(阿部英五郎先生の長男)に言ったら、大川村史に載ってているとのことで早速送ってもらいました。

大川音頭
  作詞 齋藤荘次郎
  作曲 佐藤長助
  振付 大黒 高

 @踊り見るなら大川村に、娘揃ふて花ざかり
  *踊り見るならヨホホイノセ 大川村 娘揃うてコラサット 揃うてナアドッコイショ花盛り
 Aソレヨイ〜ヨイヤサット輪になって踊りや、みんな心もまるくなる
 B春は萌黄の針岡沼にわしが釣るのは釣るのは鯉許り
 C二人揃えて尾崎橋に影も涼しい涼しい夏の月
 Dわしが釜谷の観音様へ拝みや果報の花が咲く
 E硯上お山は宝の山よ、裾に大川 大川長面浦
 Fご象山からどの島見ても 絵にも書きたい 書きたい島ばかり
 G釣りで名所の大川村で客がぞろぞろ ぞろぞろ恵比寿顔
 H縁起あらたな小鋭の榊は 村を福地に 福地に有難や
 I後生願ひに道はるばると まいる横川 横川如来様
 J虹がかかるよ釜谷の里に 紅葉色ます 色ます村時雨


 釜谷の情景がいろいろ出てきますが、大川村を網羅していて懐かしく思いました。

■雄勝の法印神楽、国立劇場で
尾の崎のKKさんからお便り。

〜おがつ新聞(水浜で診療かたがた雄勝地区で情報発信を続けている石井肇医師)によると、この2月2日、午後4時から国立劇場小劇場で雄勝法印神楽が上演されるそうです〜

ほー、国立劇場でお神楽、見たいなぁ。でも2月2日は高校の在京同期会があって行けないのですが、都合のつく方はぜひどうぞ。
国立劇場の分類では民俗芸能となっていますが、私の中では厳かな神事。舞台で見るのはどういう印象でしょうか。

東日本大震災復興支援 東北の芸能U 宮城 ‐伝承の技、つながる心‐ 
 201322日(土) 午後1時開演(終演予定315分)
            午後4時開演(終演予定7時)

【1時開演】
 ・石巻 渡波獅子風流(わたのはししふり)【渡波獅子風流保存会】
   (石巻市指定無形民俗文化財)
  ・
気仙沼 早稲谷の鹿踊(わせやのししおどり)【早稲谷鹿踊保存会】
   (宮城県指定無形民俗文化財)
  ・
仙台 秋保の田植踊(あきうのたうえおどり)【馬場の田植踊保存会】
   (国指定重要無形民俗文化財)
  ・
栗原 小迫の延年(おばさまのえんねん)【小迫延年保存会】
   (国指定重要無形民俗文化財)

4時開演】
 ・石巻 雄勝法印神楽(おがつほういんかぐら)【雄勝法印神楽保存会】
   (国指定重要無形民俗文化財)
   蛭児(ひるこ)/鉤弓(ちきゅう)/産屋(うぶや)  *字幕表示あり

 電話・インターネット予約開始  1211日(火)午前10時〜
 この公演は、インターネット予約の際、座席選択をご利用いただけます。
  窓口販売開始   1212日(水)

1時の部、4時の部ともに   一般 3000円  学生 2100円
 国立劇場チケットセンター(午前10時〜午後5時)
   0570−07−9900
   03−3230−3000[PHSIP電話]

まだ空席があるかどうかはたしかめていません。 (1/19)

■今年のお神楽9月29日?
TT君に送ってもらった法印神楽の解説を読んでいるとき、長面のMSさんから、今年のお神楽の日取りや復興公営住宅の進捗などについてお便りがあった。

・今年のお神楽の日どり=秋祭りは諸々の事情で、これまでよりかなり早くなり、9月29日の日曜日に行われるようです。
・復興公営住宅=集団移転の土地も道の駅の向かいに決まり、復興公営住宅が出来るのを待つばかりになったとのこと。

「もう少しで震災から二年になります。公営住宅の完成も何年先になるのか見当がつきませんが、一歩か二歩位進んだように思います。これも日本全国からの支援を始め、知人、友人、周りの人々のお陰と、感謝してます」と結ばれていました。
TT君も去年会った時、「公営住宅を申し込んできた。これから家を建ててもたいへんだからね」と言ってました。大工さんとしては忸怩たる思いがあるでしょうが、一日も早い完成を祈ります。

今年は、神楽を観にぜひ行きたいと思ってま〜す。本決まりになったらまた知らせてください。 (1/17)

■建築家の眼
ひそかに尊敬している浦野孝さん(一級建築士)から「大川小学校に行ってきました」というお便りをいただいた。


祭壇の下に「大川第一小学校」の館銘板がありました。(Iさんが通われていた頃のものでしょうか?)
また、津波にのまれてしまった新校舎の、恐らく、完成時に撮られた写真だと思いますが、傷ついた額とともに飾られていました。
心を打たれ、言葉が有りませんでした。
機会あるごとに、廻りの建築関係者に写真を見せながら話をしています。


 

建築家といえば、高校の同期生で閖上復興計画などを発表している針生章一君も大川小に行ったそうで、
「田舎のわりにはモダンで立派な校舎なのに、残念だなあ。それにしてもどうしてあそこに学校を造ったんだろう」と言っていました。
でもまあ、自然災害というのはなかなか予見が難しいです。 (1/16)

■伊能図の気仙沼、高田村
国土地理院からお借りしたもう一点「伊能大図47「陸奥 大槌 気仙沼」を「むかし語りすっぺが」に掲載しました。 こちら

伊能忠敬が三陸沿岸を測量したのは1801年で、芭蕉が奥の細道を歩いた100余年後のことで明治維新まであと70年弱。
この時代、大川村がどんな様子だったのか、知りたくなってきました。 (1/16)

■間垣少年の『大川懐想』
あの壊滅した間垣に、昭和32年から4年間、2年生から5年生までを過ごされた間垣少年さんから、当時の想い出集が寄せられました。
少年時代そのままのみずみずしい感性で書かれた「懐想」。回想ではなく懐想というところがなかなかですが、「お茶飲んでがいん」の中に特別ページを設けました。こちら
皆さまも「私もこんなことをした」など、お寄せ下さい。いろいろなエピソードの積み重ねから、人や風土のすばらしさが見えてくると思います。どうぞよろしく。 (1/16)

■「弱い者イジメは断じて許さん!」
私(管理人)たちのころの、中学の先生たちの写真がYHちゃんから送られてきたので、簡単にまとめました。
(いや、送ってもらったのは1年ほども前なのですが、去年はバタバタに取り紛れて今ようやく。すみません)

撮影したのは紫桃正隆先生。写真にはそれぞれ短いコメントがつけられていて、先生の子どもたち、学校、先生方、故郷への愛情が感じられます。
その中の一枚「個性豊かな教師像(昭和30年)」(右の写真)には、
「弱い者イジメ目をするヤツは断じて許さん」
戦後の中学校には戦場帰りや、耐乏生活に鍛えられた個性豊かな、野武士のような教師がいっぱいいた。
右から加藤昭吉先生、斉藤次郎先生、そして私。昭和14年生まれの担任を三人でスクラムを組む。

それにしてもズボンが太いね」
というコメントがそえられていました。
写真ページはこちら『昭和30年ごろの大川中学の先生たち』

いま、イジメの問題が連日報じられていますが、昔もイジメはあったし、ケンカや反目も日常茶飯事だった気がします。
でも、”野武士のような教師”に鍛えられて、私たち生徒にもある種の耐性や正義感が育まれたような気がします。
それにしてもこの写真、颯爽と肩で風を切っておりますねぇ。  (1/12)

■伊能図の追波湾と追波川 
伊能忠敬の追波川周辺の地図がようやくはっきり見えました。
「国土地理院蔵 伊能大図(米国)彩色図」から。
(図をクリックしてください。大きく見えます)
本吉郡側の十三浜は追波浜、吉浜、月浜、立神浜、白浜などいろいろ記載されていますが、わが桃生郡側は長面浜と尾の崎浜があるぐらいで、他の集落名はありません。目的は沿岸の測量だったからでしょうか。

追波湾から横に延びているのが北上川(追波川ではないですね)。
下のオタマジャクシのようなのが長面浦。
拡大してみて気づいたのですが、長面浜から北上川にかけて黄色の海岸線は砂州を示しているようです。

長面・松原の砂浜は、ゴゾ山の突端から直線的に甚平閘門のほうに向かっていて、松原のあったあたりはまだ海だったのでしょうか。
詳しくはこちらをご覧ください。  (2013.1.11)

■初夢?伊能忠敬の追波湾と追波川
追波川の堤防がいつ出来たのか、それに長面の大きな松原はいつ植えられたのか。
そんなことをぼんやり思っていた昨年暮れ、NHKテレビが伊能忠敬の業績を放映していた。
追波川周辺の古い地形がどうだったか、どんな集落がどこにあったか。
もしかしたら伊能忠敬の地図を見ればわかるのではないか……。

国土地理院のホームページを見て、追波湾と追波川が少し見えていたので、メールで問い合わせると長面、釜谷の文字が見えるという。
さっそく閲覧を希望すると、年末の忙しい時期にもかかわらず、「十三濱、金花山」と「大槌、気仙沼」の2枚の図のデータをDVDで送っていただいた。

ところがデータ量が膨大なためか、私のパソコンでは思うような処理が出来ず、図もはっきりせず文字も読めません。
しかし、図形的には小さいながら追波湾、追波川、長面浦など、なんとかわかる。
そこでなんとかUPしようとしたのですが、失敗。肝心の絵が出てきません。
「むかし語りすっぺが」(こちら)にも試みたのですがダメでした。
悪夢に似た初夢、もう少し工夫してみます。

追波湾と追波川が見えて、長面浦がさかさまのオタマジャクシのように見えて、長面の砂浜も長面浦も最近より少し小さい気がしました。  (2013.1.6)

■あけましておめでとうございます
晦日の夜、針岡のKS君からメール。


おばんです、今年も余すところ時間単位になりました。
歳をとると1年過ごすことの早さを感じますね。自分だけかな。歳重ねてゆく証かもしれませんね。

私たちのガレキ撤去作業も28日で切りあげました。再開は年明けて7日から始めます。
当初の計画では、長面地域は捜索後に作業に入る予定でしたが、おまわりさんだけの捜索では大変だということで、捜索を兼ねたガレキ撤去の作業要請があり、その作業に入っています。
小さい骨は(ブロイラーかも)見つかりますが、不明の方に結びつく類のものは見つからないと聞いています。何か1つでも見つけてあげられればとの思いで作業に携わっておりますが、気持ちだけが空回りの状態です。

あれから2回目の正月を迎えようとしています。
徐々ではあっても前に進んでいる感はしてますが、あの未曾有の災害の復旧復興の進捗はこれでいいのかと新政権に期待?しておきましょうか。

自分自身もこの1年、触ったことのないパソコンを甥に勧められ、四苦八苦の操作のなかで少し変わりました。
オリオンの風の便りや掲示板、それ以上に直接話し合ったりメール交換ができたり、新しい喜びを感じています。
来年もまた変わらぬお付き合いをお願いします

  ※賀状はこれからです。年頭にまにあいませんのでこの場をかりて前倒しで……。
新春を迎えおめでとうございます
御家族のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます
今年もどうぞよろしくお願いします
 平成25年 元旦          KS

この文面、管理人の気持ちのほとんどを代弁してくれています。私は70歳を機に年賀状を一切やめました。
KS君の便りに便乗して、皆さま今年もどうぞよろしく。(2013.1.1 ほんとはその前夜)