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(DIARY) 2016年1月~

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■今年はほんとうにありがとうございました
 今年も余すところ9時間ほど。75回も大晦日を迎えることになると、それほどの感慨はないはずなのですが、個人的なことですが今年4月に脳梗塞を発症、多くの方の励ましやお叱りのおかげでヨレヨレながらも「オリオン311」も続行でき、なんとかここまで余命を繋いで(こんな言葉ってあるかしら)くることが出来ました。八百万の神さま仏さまはじめ、皆さま方のお力添えのおかげと心から感謝しています。
●喪失集落の模型復元
 遂次お知らせしてきましたように、おかげさまで11月のワークショップで間垣・釜谷エリアが完成。来年3月に長面・尾ノ崎のワークショップがあって全エリアが完成する予定です。地元の皆様のご尽力を耳にするにつけ、遠くにいる私たちにも何かできないものかと、オリオンでもご寄付のお願いをしましたところ、12月29日までに総額353,000円のご芳志をいただきました。
 特に私たちの同級生ばかりでなく、津波で亡くなった“釜谷の豆腐屋の弟”さんの同級生の方々やご親戚から多くのご協力をいただいたことを感謝しております。ありがとうございました。
 3月の長面・尾ノ崎のワークショップには管理人もなんとか参加させていただき、復元された全域の懐かしい姿をゆっくり拝見させていただこうと思っています。
●復興住宅の状況
 しばらく前の故郷からの風の便りによれば、復興住宅の入居予定は次の通りだそうです。
・第1工区の入居開始は平成29年12月(雄勝の半分と尾の崎)。
・第2工区は平成30年7月(長面、釜谷、間垣)。
・第3工区は平成30年12月(雄勝の半分と北上の全部)。
 最近の予定がどうなっているかはわかりませんが、震災からまるまる6年以上というのは、いかにも遅々とした進捗という感じがします。むかし、何か災害があって住民を村から追い出すことを「亡村」といったそうですが、間垣~尾の崎はまさに「亡村」政策ではなかったかと思います。
 こういう状況の中でのおもちゃのような模型復元には、個人的にはいささかの躊躇もありました。事実、ご寄付をいただいた方のお便りにも、「家のあった方へ行くのも少しは平気だったのですが、3年目ぐらいから学校の前を通るとドキドキするし、まともに見られない。墓参りに行っても家のほうを見ないで帰ってきます。ですから写真も本も不要です」という趣旨の述懐もあり、これも偽らざる心境だろうなと申し訳なく思った次第です。
 ただ、遠くにいる者にとっては、故郷のあの美しい風景をもう一度見てみたいという思いが強いのも事実で、ジオラマの完成を少し複雑な気持ちで期待しているところです。
●横山祖道歌曲集
 少し浮世離れした話になりますが、管理人のもう一つのサイトの中で『草笛禅師・横山祖道歌曲集』がようやく完成しました。下の永沼夢郷さんの記事とも少し関連しますが、祖道師は登米出身の曹洞宗の禅僧です。沢木興道老師のもとで20年間修行の後、長野県・小諸市の公園の笹やぶのもとで、坐禅を組んだり草笛を奏でたりして22年間を特異な修行に打ち込みました。
 昭和30年代前半まで、自作の和歌や詩ほかに自ら作曲、時には自ら唄い草笛を演奏したシンガーソングライターでした。『草笛禅師・横山祖道歌曲集』はその全作品(歌詞と楽譜)を収録したものです。もしお暇と関心がございましたらこちらをご覧ください。       (12/31)

■東光園・永沼夢郷さんの書
 下の記事の写真で、右端の襖に流れるような字で賛が入っているのですが、「読めなくて意味がわかりません」と書いたら、齋藤政裕和尚さんから解説が届きました。
 ここでは詳しい説明は省きますが、右の写真をクリックしていただくと解説ページが開いて大体のことがわかります。内容は曹洞宗の宗歌(しゅうか)になっている「正法御和讃」(しょうぼうごわさん)という歌の歌詞だそうです。書体が現在はあまり使われない変体仮名なので管理人は読めなかったのですが、『源氏物語』や『枕草子』ほか、多くの歌集などで使われた筆文字です。
 絵描きの夢郷さんはおぼろにですが知ってましたが、変体仮名をものする夢郷さん像は初めて知りました。改めてあの松原に凄い教養人がいたのだなあ、と思いました。       (12/25)
 
■Galleryを更新しました(写真をクリックしていただくとそれぞれのページに移動します)
 先日、鈴木惟司さんの作品を追加更新しましたが、大崎市・松山の眞源寺ご住職・齋藤政裕師から、松原長面海岸付近で撮影した猛禽類の写真と、東光園・永沼夢郷さんが晩年に描いた襖絵の写真が届きました。
 齋藤師は震災まで雄勝・分浜の高源院のご住職(震災後は松山の眞源寺におられ両寺を兼務しています)で、東光園の夢郷さんのお孫さんにあたります。
●夢郷さんの絵
 夢郷さんは在郷の日本画家として、大川各地、特に長面、尾ノ崎の皆さんの依頼により、掛け軸の絵や襖絵などを多く手がけましたが、時代とともに失われるとともに、東日本大震災の津波で僅かに残っていた龍谷院所蔵の画などもことごとく消失しました。
 今回、困難な修復作業を経てようやく復元された襖の絵は、雄勝の分浜・高源寺の襖4本の裏表で、晩秋の水辺の白菊の図と齋藤ご住職が「釈迦成道図か」という静謐な情景が円熟した筆致で描かれています。
 昭和30年代の初めごろ、高源院 の庫裡が修築された後、夢郷さんが病を押して分浜を訪れ、雄勝で紙を手配するなどして描き上げたもので、夢郷さんはその後胃がんで亡くなりましたから晩年の作というべきものです。「釈迦成道図」にある古木は、当時境内のお不動さんの横にあった馬酔木だそうです。
 震災時、この襖は本堂わきの納戸にしまわれていましたが、ここにも津波が押し寄せて浸水。もともとそれほど上質な紙ではなかったうえに、海水に洗われたものをボランティアさんたちが天日に干したりしたために、惨憺たる状態になっていたそうです。
 不可能かと思われた復元が、このほどようやく完成して写真が送られてきたわけですが、齋藤和尚さんの手紙には
 「病気を押して分浜に来て、その場で画いた作品で、私ら家族にとって、幼少時より観ていた思い出深いというか、もっと根源的な所に結びついた存在で、物心ついた時より毎々毎日一緒に居た先祖様や家族のような不思議な画でした。復元出来てよかった」とありました。
 ご家族の皆様だけでなく、東光園に遊んだことのある私たちにも、夢郷さんはこういう絵を描かれていたのかと感慨深いものがあります。
●齋藤政裕さんの猛禽類の写真
 震災前の松原海岸付近、北上川河口付近は日本でも有数の猛禽類の棲息地なそうですが、齋藤さんはずっと以前から鳥類、特に猛禽類の姿や眼光に魅せられ写真を撮り続けています。今回寄せていただいた写真も震災前の大川付近、松原海岸周辺で撮影されたもので、ワシやハヤブサ、チョウヒなどの躍動の一瞬がとらえられています。たぶん齋藤さんには夢郷さん譲りの鋭い観察眼があるのだと思います。
 大きい写真で見ると、翼や羽毛の質感はもとより、筋肉の躍動や鳥自身の思いまで伝わってくるようなので、クリックした後の写真をできるだけ大きく収録しました。クリックした後、カーソルに⊕マークがあるときは、クリックするとさらに写真が大きくなりますので、存分にお楽しみください。          (12/17)
 

■間垣・釜谷「模型復元ワークショップ」写真集
 事務局から11/21~11/26に開催された間垣・釜谷地区「模型復元ワークショップ」の写真が届きました。準備段階も含めると数100枚もあるので、特にセレクトしたわけではないですが期間中の30枚弱をこちらに収録しました。初日の白模型の展示から最終日までの会場風景を並べてありますのでご覧ください。最終日の11/26(土)の写真はほとんど完成した写真です。
●展示予定

 常設展示場は今のとこありませんが
 ①来年3/15~3/18(長面・尾の崎のワークショップが開かれる週の後半)=ビックバンで展示。
 ② 〃 ゴールデンウィーク以降は河北総合支所のロビーに間垣~尾の崎の全模型が展示の予定です。
  ※河北総合支所のロビーは4/23の市長選挙時は使用できないので、その後になるとのことでした。
●ご寄付

 また、ご協力いただいておりますご寄付は、12/12日現在44名の方から31万1000円が寄せられています。ありがとうございます。        (12/14) 

■般若心経のこころ
 釜屋の豆腐やの弟さん鈴木惟司さん(岩槻市・釜谷)から、般若心経の心を樹齢400年ほどのケヤキの古木に刻んだ作品の写真と書が届きました。また、12月初めに東京でミニ同級会があったそうで、そこで故郷の模型復元の話をされたようで、同級生の皆様からたくさんのご寄付をいただいたとのことでした。
●般若心経のこと
 鈴木さんの般若心経の作品は、以前Galleryに収録した分厚いケヤキ材に刻んだものがあり、これは釜谷の観音寺様に奉納されたと聞いていますが、今回のは分厚いケヤキの古木の自然の素肌に、般若心経276文字が刻まれているほか、自然の材の凹凸や肌との調和を図りながら、めでたい鶴や亀のいろいろな姿態が刻まれています。2羽の鶴が向かい合ってハートマークをくわえていたり、仏教には聞恵、思恵、修恵という言葉があるそうで、亀の3つの姿も刻まれています。管理人はたぶんこれは「折々にお孫さんなどに物語りしているのだろうか」などと温かい気持ちになりました。
 味のある書も3点添えられており、これにもいろいろな思いが込められているようですが、これもGalleryに収録させていただきましたので、それぞれご自分なりに味わってみていただければ幸いです。(こちら)をご覧ください。
●鈴木さんの同級生の皆様にお礼
 故郷の模型復元については、これまでも鈴木さんの同級生・友人知人の方々にご寄付をいただいていますが、ミニ同級会でもMFさん(釜屋)、KTさん(釜屋)、KОさん(釜屋)、MTさん(釜屋)、MKさん(尾の崎)、NAさん(長面)ほかに多くのご寄付をいただきました。ありがとうございました。 

■間垣・釜谷のワークショップ&『塩煮釜物語』序章
●間垣・釜谷のワークショップ
 間垣・釜谷の模型復元ワークショップは、26日(土)に終了、27日(日)には撤収作業と聞き取りデータのまとめなどを行って、盛況のうちに終了したそうです。交流会は「まるで同窓会みたい」だったそうで、良かったですね。
 届いた報告によれば、一日平均40組ぐらい参加者が建物の色を塗ったり、思い出の旗を立てたりで、旗の数は約930本立ったそうです。
 旗とは別に『つぶやき記録集』の元となる「つぶやきシート」が連日作成されたそうです。管理人は残念ながら今回は参加できませんでしたが、3月の長面・尾の崎にはぜひ参加したいと思っています。
 またお願いしておりましたご寄付は11/28現在、33人の方から271,000円が寄せられているそうです。ご芳情に感謝いたします。

『塩煮釜物語』序章
 長面や尾の崎の家々にはそれぞれの屋敷の海辺に「塩煮釜」という製塩設備があったそうですが、管理人はほとんど記憶がありません。先に長面の塩田についての記述を『全日本塩業全書』(こちら)から発見したFSさん(国立市、長面)は、長面の塩煮釜の記憶があるそうで、妹さんや同級生のお話から、「改良釜」というものもあったらしいことなど、多くの資料をあたって調べておられます。
 まだ結論的なことはわかっていないのですが、折々に資料の探索や証言集めについてメールをいただいており、その経緯がなかなか面白いので、「話語りすっぺが」~お茶飲んでがいん(こちら)~に収録してみました。皆さまにも何か塩煮釜についてのご記憶がありましたら、ぜひお知らせください。       (11/29)

■間垣と釜谷の模型復元ワークショップ
 11/25、釜谷のHT君が23日午前に模型復元のワークショップに参加したそうで、
「ジオラマは姪と行ってきて我が家の屋根に色塗りしたよ。大川中学校までの冬の通学でゲタスケートや小学校の裏

 
川の上公民館の会場風景
 
釜谷三角地帯周辺
 
大川小学校付近
 
思い出聞き取り風景
 
思い出メモフラッグ

山での竹ソリの事など近くにいた大学生の可愛い子に話したらメモとってくれた……。旗印も付けた。23日は休日のわりにはポツリポツリかな。完成が楽しみですね」というメールがあり、今日は25日に参加されたOld間垣Boyさんから、お願いしていた会場風景の写真が届きました(右の写真をクリックしてください)。偶然だったのでしょうか。「これまで会いたい、会いたいと思っていた幼馴染のSNさんに会えた」そうで、良かったですね。
 ワークショップは今日(11/26)が最終日、明日は撤収と“旗”と“つぶやき”記録のまとめ、撤収作業だそうです。関係者の皆様、そしてご参加いただいた皆様、ほんとうにご苦労さまでした。また、多くの皆様からたくさんのご寄付もいただき、ありがとうございました。来年3月の長面・尾の崎も含めて、思いのこもったジオラマの完成を遠くから祈っております。

 この間、今回のワークショップに参加できなかった管理人は、ちょっと溜まっていた作業に精を出すとともに、来年6月の松島での同期会の仙台の幹事さんから、宴会翌日にマイクロバスをチャーターして被災地の視察に行きたいかどうか、在京諸氏の意向を聞いてくれということで、そんな電話で久しぶりに同級生たちと懐かしい話をしてました。
 ・もう年で田舎に行けるのはこれが最後だろうから、ぜひ実現してほしいなあ。(KS君)
 ・おとといも同級生のKОさんとその話をしたばかりで、二人ともぜひ行きたいと思ってますよ。(ОN君)
 ・数年に一度は帰っているけど、みんなと一緒に行けるのはいいわね。(YTさん)
それに針岡や横川の女性陣も「完成したジオラマも見たいしぜひ行きたい」という意向で、24人乗りマイクロバス82,000円は何とかなりそうなので、幹事さんに計画をよろしくとお願いしました。

 同期会の被災地訪問は6月19日(月)の予定ですが、バスは松島のホテル大観荘を10時発、仙台駅に午後4時着の予定だそうで、ジオラマの見学と「はまなすカフェ」(まだ知らない人が多い)あたりでの昼食ができればいいなあと思ったりしています。    (11/26)

■また地震と津波
 天災は忘れたころにやってくると言いますが、模型復元がスタートしたばかりの22日朝、また震度5地震と仙台港で1.4メートルの津波。大川地区は大丈夫でしたでしょうか。皆さんびっくりされたことでしょう。東京も小さいですが、ちょっと長い時間揺れが続きました。
 模型復元のスタートに再び地震や津波が起こるのはなにか因縁めいていますが、皆さま無事でありますことを遠くから願っています。  (11/22)
 ●22日、大川の影響
 とりあえず地震お見舞いのメールを事務局の中島さんに送信すると次の返信と追波川の写真が届きました。
「長面浦では津波のため潮の流れが強くなり、海に中に張っていた防潮堤工事による汚濁防止のフェンスがクシャクシャに丸まるなどの被害がありました。
 私は、止まっていたホテルがコンテナを積み重ねたタイプのものだったので揺れときしみがひどく、少し怖い思いをしました。
 追波川の水位はかなり高く、工事は全面ストップ。学校も休校になっています。ワークショップは特に影響なく進められています。」

 ということでした。写真は追波川の高い水位の情景ですが、先日、復興協議会の大槻会長が津波の予測では追波川の水位の変化を見ることも大切だとおっしゃっていたことを思い出して、ちよっと伺ってみた次第です。空を見ると今日は快晴のようですね。ともかくあまり大ごとにならず幸いでした。   (11/22)

■模型復元がスタートします
 間垣・釜谷の白模型が無事完成し、11/18(金)、三反走の仮設団地に搬入されたそうです。
 11/19(土)、20(日)の両日は白模型の組み立てや会場設営が行われ、実際のワークショップは
11/21(月)10:00からスタートします。管理人は体調不良で残念ながら今回は参加できないのですが、仙台の同級生HT君や名取のOld間垣Boyさんなどが参加します。管理人も3月の長面・尾の崎にはなんとか参加したいと思っています。

 
完成した白模型と学生さん
 
完成した白模型の一部

 今回のだいたいの日程は
11/21(月)から11/23(祝)は三反走仮設団地の集会所で 毎朝10:00スタート
 ※23日は午後4時ごろから会場移動の準備や白模型を作った先生・学生と住民の方々の交流会が行われます。
11/24(木)~11/26(土)は川の上公民館に場所を移して行われます。
 ※27日は撤収と旗の記録や部焼き記録のまとめなどが行われます。
期間中、神戸大学、名古屋市立大学、東北工業大学などから毎日15、6名、のべ100名を超える学生諸君がボランティアで手伝ってくれるそうです。

  足の便がある方は、ぜひぜひご参加ください。
なお、この模型復元についてのFacebookが立ち上がってます。
https://www.facebook.com/ookawakioku ぜひご覧ください。
 最後になりましたが、皆様にご参加やご寄付のお願いを致しましたが、いろいろな形でのたくさんのご支援をいただいております。誠にありがとうございます。      (11/19)

■「故郷の模型復元」うれしいお便り
 先日来お伝えしている「間垣・釜谷・長面・尾の崎の模型復元」について、「必ず参加しますよ」とか「○○日に行くので写真を送ります」など、うれしいお便りが連日寄せられています。管理人の世代はネットを見る人が少ないので、同級生や一部の知人にチラシほかをペーパーでお知らせしましたが、次のようなお便りもありました。

 「遠方にいると詳しいチラシなどが届かないと思うので、同級生や親しい方々に配りたいので、お知らせのチラシをまとめて送ってください。我々の年代になると、ふるさとのイベントに参加するのもそう簡単ではなくなりますね。故郷でみんなが集まれる数少ない機会になると思うで、ぜひ多くの方に知ってもらいたいと思います」

 ありがとうございます。もしそういうご要望があれば、すぐ手配しますので、ご一報ください。オリオンのメールアドレスはこちらです。    (11/7)

■ふるさとの模型復元・大きなレガシーづくりにご協力を!
 いま故郷に帰っても、かつての家々はもちろん、目印になるようなものは何一つなく、ただ無人の荒野が広がるだけです。人々の営みやざわめきを思い出そうにも、その痕跡すら目にすることができません。
 以前の家々や家並みが消え、地形や風景すらも一変した今、故郷では「このままではここに人々の生活の場があったことさえ忘れられてしまう。なんとかしなくては」という思いが高まり、「記憶の街」(500分の1模型による)の復元の動きが具体化しています。
 “模型は小さいけれども、そこに込められた記憶や思いは大きな本物”という思いで、家々や街並み、地形や風景のジオラマ作りや思い出の収集が行われます。実際の制作会は間垣・釜谷地区と長面・尾の崎地区の2回にわたって行われ、それぞれ1週間ほどの日程ですので、都合のつく日にぜひご参加いただき、思い出話などのご協力をいただければと思います。詳しいご案内はこちらをご覧ください。(左の写真は過去に制作された某町の模型の例です)
 ご案内にはご寄付の依頼などもありますが、ともかく参加してしていただいて近隣の方々と思い出話に花を咲かせていただければと思います。家々や街並み、風景の立体模型はもちろん、そこでのお話の集大成「つぶやき記録集」は後世に残る大きなレガシーになると思います。     (11/2)

■『釜谷浜の歴史を探る』をパラパラ図書室(こちら)
平成15年11月、「2003・フェスティバル・インかほく町民文化祭「特別企画展」の際にまとめられたものでしょうか『釜谷浜の歴史を探る』という冊子が河北地区郷土史友の会の編集、河北町・町民文化祭実行委員会発行でまとめられています。しばらく前にパラパラ図書室に収録させていただいた『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』と同シリーズの冊子で、地域の歴史や特色がコンパクトにまとめられています。
 以前、「昔語りすっぺが」(こちら)にもページをバラバラ収録しましたが、今回釜谷のHT君の長姉が原本を持っておられるとのことで、全頁のコピーを送っていただきましたので、パラパラ本にさせていただきました。普通紙の両面コピーでしたので、すこし裏ヌケしたりしてあまりきれいにはできませんでしたが、資料として十分読めると思います。どうぞご覧ください。
 それにしても震災の前に釜谷、長面、尾の崎の歴史などがまとめられたのは幸いでした。

■大川の秋 ~説明会の翌日9月23日~
 ビッグバンでの「記憶の街」模型復元説明会(こちら)へは、管理人は長距離の運転に自信がなかったので、電車とバスの一人旅でした。長野の佐久平というところから仙台へ新幹線で3時間弱。仙台から追波川仮設近くの川の上まで高速バスで1時間ちょっと。意外に短時間で川の上に着きましたが、問題は現地での足で、この日は『まがき』の遠藤さんに川の上のバス停まで来ていただいて、以後すっかりお世話になりました。

●『百俵館』
 説明会の定刻まで少し時間があったので、昨年4月にオープンしたという近くの『百俵館』というカフェでお茶を一杯。『百俵館』はなかなかお洒落なたたずまいで、「まちを耕し、ひとを育む」という石巻・川の上プロジェクト(理事長・三浦信行国士舘大学学長)の理念のもと「居場所」「教育」「暮らし方」を3つの柱とするコミュニティの場になっているそうです。
 名前の由来は小泉元首相が引用して有名になった「百俵の米精神=人材育成こそが復興にとって肝要である」ということからつけられたそうで、この場所は三浦学長の生家のようです。詳しくはこちらをご覧ください。(写真はカウンターにあったワラ細工のランプ)

●『まがき』
 説明会と懇親会の後、ザーザー降りの中(この日は長野、仙台も雨でした) 遠藤さんの車で大槻幹夫さんと共に会場を後にしました。稲の刈入れ時なのに雨ばかり続く最近の天候に、大川再生をかけて100町歩の米や大豆ほかの集約農業に挑む㈱宮城リスタ大川の大槻さんも、気がかりそうでした。
 さて、その日一泊させていただく『まがき』に着いたのは深夜の11時過ぎでしたが、それから積もる話に花が咲き、震災時の話から『まがき』のスタートや間垣の慰霊碑についてはもちろん、北上川、富士川、富士沼で獲れる魚やそ

 
『まがき』での昼食
 
昼食後の『まがき』前

の食べ方など、気がつけば1時半になっていました。
 私はすぐ用意の2段ベッドにもぐりこんで休ませてもらいましたが、遠藤さんは明日の昼は名古屋大学の先生や学生などの昼食の準備があったようで、しばらく台所でゴトゴト用意をしてました。
 翌日の朝食も遠藤さんがすべて準備してくれて、かんつか(ハゼ)の刺身、骨切りしたアナゴ(大川ではアナゴをハモといい、遠藤さんは関西のハモより美味しいといいます)の梅みそあえ、開いて一夜干ししたアナゴの塩焼き、それに近くの山でようやく採れたというアミタケの味噌汁……、みな遠藤さんが自分で獲った食材の珍味尽くしでした。
 大川小で調査の学生さんたちと合流するはずでしたが、どこかで行き違って私は釜谷の阿部区長さんに学校付近をゆっくり案内していただきました。「釜谷の住民も油断していたからなあ」という言葉が印象的でした。
 さて、昼食も皆さんと一緒に『まがき』でご馳走になりました。写真のような昼食に手長エビの天ぷら他が次々に追加されるので、普段のお昼は蕎麦かソーメンぐらいのお腹は超パンパン。名古屋大の久野先生は学生諸君に箸の持ち方やカニの食べ方を厳しく指導する面白い先生でした。

●KS君の稲刈り
 私(管理人)は昼食後は皆さんと別れて、針岡の同級生KS君宅へ。車がないので迎えに来てもらったのですが、稲刈りのシーズンだというのに、本当にありがとう!
 KS君は後期高齢者が一人で10haを耕作する珍しい農家ということで、記者さんにつかまって質問攻めされていましたが、そこそこに自宅にもどると奥さまもいつも通り温かく迎えてくれました。
 私はと言えば、昨夜の寝不足と昼ごはんの食べ過ぎで、しばらく奥の座敷で休ませてもらいました。KS君宅の夕食はわりと早いので、私は消化剤をもらって奥さまの料理にはほとんど箸がつきませんでした。すみません。

 
コンバインを操るKS君
 
橋浦にあるカントリーエレベーター
 
広大に広がる大豆畑

 お風呂をいただいてゆっくり休ませていただき、翌日はKS君の稲刈りに同行。家の周囲の物置には大豆用のコンバインとか選別機とか巨大な農業機械が並んでいました。ここは高台なので大丈夫でしたが、このような巨大で高価な耕作機械が津波で埋まったりしたら、農業の再開は困難だろうなと感じました。
 軽トラで田んぼに向かうとKS君は道端に止めてあるコンバインに乗り込み稲刈りの開始。昔の稲刈りは家族や親戚の団欒を兼ねたお祭りのようでしたが、今は戦闘服に身を固めて、戦車で田んぼに乗り込んでいく騎士のように見えました。
「あ、幹夫さんも始めているな」というKS君の視線を追うと、遠くに数台のコンバインが収穫の最中でした。大槻幹夫さんが社長を務めるリスタ大川は高齢者などの耕作地を集約して100町歩の耕作を行っているそうで、今後、長面耕土の耕作も視野にあり、さらなる活躍が期待されています。
 コンバインからは軽トラの荷台のカゴにモミが流し込まれ脱穀も終了、これを直ちに橋浦のカントリーエレベーター(河北・北上地区の収穫を一手に処理している)に運び、自動的に乾燥・袋詰めされて出荷手続きも終わるそうです。だいたい一反歩で一つのカゴがいっぱいになるようですが、刈り取りから出荷まで30分ぐらいのようです。
 KS君は今年は大豆を含めて10町歩の耕作だそうですが、今年は雨が多く大豆は過湿を嫌うので心配だと言ってました。大豆の収穫は11月いっぱいかかるそうで、休めるのは冬のほんの数か月だそうです。「なーに、機械がやるんだから」と言ってますが、ともかく体に気をつけて頑張ってください。
 帰りぎわ大槻幹夫さんが綴った『大川の悲劇はなぜ起きた』という11ページのプリントを預かりました。帰りの電車でざっと目を通しましたが、大川小学校の悲劇や松原海岸の浸蝕、復興への取り組みや今後の問題点など、なかなか言いにくいことも冷静に分析された大川地区の貴重な記録でした。よく読んで、いずれオリオンでも紹介させていただこうと思っています。  (9/30)   

■掲示板が新しくなりました
 今日は“釜谷の豆腐やの弟”さんから電話があって、新掲示板の提案が“釜谷の豆腐やの息子”さんがしていますよ、と教えていただきました。実をいうと今の掲示板が来月初めに廃止されることを忘れていたのが一つ、掲示板にあまり利用価値がなかったかなと思っていたことが一つあって、新掲示板の設置を忘れていたというのが偽らざるところでした。
 でも、いろいろなお知らせや身近な出来事の便りには便利なので、やはりあった方がいいと思いなおしてサゼッションいただいた「ロケットBBS」に取り組んだところ、申し込み方法や問い合わせの方法がどうしてもわからず、ついに断念。先ごろちょっと個人的に検討していたweb spaceというところの無料BBSを利用してみることにしました。
もう使えるようになっているので(こちら)を覗いてみてください。
 テスト投稿を一つだけしてみましたが、大きめの写真はアップできない、返信の返信ができない(新規投稿[1]の「返信」を使えば関連の返信投稿はできます)、認証コードがないので“荒らし”や“スパム”に無防備らしいなどということに気がつきました。
 しばらく使ってみて問題があるようでしたら他を検討するとか有料版を考えるとかしますので、皆さんもぜひテスト投稿などしてみてください。どうぞよろしくお願いいたします。 (9/29) 

■「小さな模型であっても、記憶や思いは本物」~模型復元説明会ご報告~
 報告が遅くなってすみませんが、9月22日、石巻のビッグバンで開かれた「記憶の街」模型復元説明会に参加してきました。
 説明会は長面浦海人理事長・小川英樹氏の司会進行で、まず大川地区復興協議会・大槻会長の挨拶で始まり、さっそく復元模型制作の目的や意義、手順について下支えをしてくれる諸先生の説明がありました。
 今回は実際の模型製作にかかわる神戸大大学院准教授・槻橋先生、名古屋市立大教授・久野先生、東北工大講師で建築家の福屋先生のフルメンバーの参加をいただき、ほかに名古屋市立大の建築家の学生2人の参加もありました。
 大川地区は被災地域が広いので、3大学が連携した上で、全国の建築学科家の学生諸君にも協力してもらうということでした。
 会場には各集落から60余名の方が集まり、マスコミ関係の方も6、7名、それに先生方などビッグバンの視聴覚室は定員いっぱいぐらいにごった返していました。(右 会場風景)

●制作の手順
①白模型の制作
 発泡スチロールを素材にした縮尺500分の1の白い立体模型を、航空写真や住宅地図を基にして、各大学の学生さんたちに製作してもらう。この白模型は1メートル四方に分けて作られ、一辺1メートルは実際の500メートルに当たります。(左は模型制作範囲。1マスが1㎡)
②自分の家の修正や塗装など
 制作した白模型を各集落の仮設集会所など、足の便の良い会場に搬入。白模型の修正を行い、自分の家の屋根などを塗装していただく。予定としては間垣・釜谷は11月下旬の3日間、長面・尾崎は来年3月中旬の3日間、住民の方々、先生方や学生さん、聞き取りスタッフら共同でのワークショップで街並みを仕上げていただく。
③公共施設の制作など
 学校や公園、各地の名所などは単に形を模型にとどめるだけでなく、そこでの催しや記憶に残る出来事を形にしていく。たとえば桜の季節に運動会はないけれども、桜が満開の校庭で運動会が行われている情景などを形にして、その場所の記憶を鮮明にしていきたい。
④『思い出の旗』と『つぶやきシート』
 自分の家に色をつけたりするワークショップの会場では、「ここでプロポーズされた」とか「ここに○○の伝説がある」とか、場所の説明、震災時のこと、歴史や伝統のこと、四季の自然などに色分けされた透明の旗にコメントを記して立てるほか、学生さんなどによる“聞き取りスタッフ”が「いま何を思い、何を感じたか」を伺って、それを『つぶやきシート』としてまとめたい。

 説明の中で、特に管理人が大きな共感を感じたのは次の2点でした。
 「街並は小さな模型であっても、思い出や記憶は本物だから、本当の大川が再現されるのではないか」
 「率直で飾らない個人的な“つぶやき”には多くの思いが込められているはずで、『つぶやきシート』は失われた街の思いの集大成になるでしょう」(右 石巻中心部の模型を前に)

 会場にはオリオンでもお馴染みのお神楽のTT君、初対面でしたが民謡の長谷川律子さん、のんびり村の坂下さんもおられましたが、時間がなくてほんのご挨拶程度でお別れしました。次回ワークショップのときにでもゆっくりお話しできたらと思います。
 初対面と言えば大川地区復興協議会の大槻幹夫会長も初対面でした。が、まるで旧友みたいに互いの思いを語り合うことができました。幹夫さんの姉上が同級生で、以前から友人のような気持でいたからでしょう。

 翌23日は久野先生と学生さん、それに事務局の中島さんらが、間垣・釜谷・長面・尾崎を視察というか現地調査(震災前の航空写真と現状の印象のちがいなど)をされました。
 復興庁との予算の折衝などに当たっている中島さんは「模型を作る範囲がどんどん巨大化して、どうしましょう」と困っておられましたが、それは「思い出の場所を重視したい」という趣旨から、たとえばあまり人家の密集しているわけではない松原海岸なども制作範囲に組み込んだ結果のようです。

 22日の説明会のあとはヒトボさんの『まがき』で泊めてもらい、23日は大川小付近を阿部区長さんにゆっくりご案内いただき、夜はKS君宅に泊めてもらいました。これらについてはまた後ほど。 (9/28)

■「喪失集落」の模型復元作業がいよいよ
 先にもお伝えした「大川地区・喪失集落の模型復元」作業がいよいよ本格的に始動するようで、右のチラシが届きました。この22日の説明会で具体的なことが最終的に決まるようなので、私(管理人)も何ができるかわかりませんが参加してみようと思っています。
 “心の復興”というキャッチフレーズのとおり、今は帰っても目印ひとつない故郷に喪失感を覚えますが、そういうところにたとえミニチュアであっても故郷の街並みが再現されると思うと胸が躍ります。
 実際に街並みを再現するワークショップは、間垣、釜谷、長面、尾崎の4集落を、11月と3月の2度に分けて実施されるようですが、現地の人も私たち遠くにいる者も入り混じってワイワイガヤガヤ思い出話を弾ませながら作り上げれたらほんとうに嬉しいと思います。9/22の参加結果はまたご報告させていただきますが、皆様も完成までにぜひご参加を!  (9/12) 

■「まかない処“まがき”」の写真
 KS君が送ってくれた「まかない処“まがき”」の写真がしばらくリンクが不調で大きい写真が見られませんでしたが、なんとか復旧しました(こちら)。管理人の不勉強というか、勘違いでした。 (9/8) 

■『大日本塩業全書』その後 「塩煮釜」
 国立市のFSさんがまとめてくれて、パラパラ図書室に収録した『大日本塩業全書』(こちら)の大川村塩田に関連して、その後いろいろなお便りや新証言がありました。終戦直後の長面、尾の崎の家々に「塩煮釜」という設備があったようなのですが、どなたかご記憶でしょうか。
 まず、尾ノ崎のKKさんから「それにしても長面の塩田のことが公式な文書で残っていることに驚きました。FSさんのご苦労に感謝です」という感想が寄せられ、その中で
 中国戦線から尾の崎に帰還したKKさんの父上は、塩煮釜で自分で製塩したこと。その塩をノーパンクの自転車で桃生方面まで売りに出かけたこと。その塩を煮る釜は鉄製の弁当箱を大きくしたような、平たい流し缶のようだったと記憶しているとありました。
 FSさんからは、長面の魚屋の同級生YAちゃんの家へよく遊びに行ったそうですが、母屋から浜辺に出たところに小屋があり、中には五右衛門風呂のような鉄の釜があって、これを「塩煮釜」と呼んでいたという便りがありました。さらに長面の集落の浜辺には「塩煮釜が安置された小屋がいくつも並んでいたのを記憶しているそうです。そして『大日本塩業全書』の
「明治三十三年ノ頃同地ノ有志者阿部勇吉ナル者下總行德ニ赴キ釜屋及煎熬法等ヲ視察シテ歸リ其ノ翌年行德ノ人秋山仙太郎ナル者ヲ聘シテ改良釜ヲ築造シ之レカ傳授ヲ受ケ現ニ其ノ方法ヲ行ヒツゝアリ然レトモ他ハ未タ之レニ倣フモノナク皆旧来ノ式ニヨレリ」
という一節について、FSさんの妹さんが「長面に屋号を“改良釜”という家があったとおっしゃったそうで、FSさんのお便りは「もしかすると“改良釜”の屋号のお宅は、
『大日本塩業全書』に出てくる阿部勇吉さんのご子孫でしようか」と結ばれていました。

 「改良釜」や「旧来の式」というのがどういうものか詳細はわかりませんが、長面、尾の崎の「塩煮釜」についてなにかご記憶の方はどんなことでもかまいませんのでお知らせください。
 明治初期に書かれたと思われる皇国地誌の残稿を整理した『長面濱村の濫觴』(こちら)には
 「土民(住民)は恒に耕漁、製塩を以って営業とす」
とあり、あるいは長面の製塩はずいぶん古い時期から生活の糧だったのかもしれません。 (9/5)

■台風一過
 岩手や北海道の大きな被害を思えば、まことに身勝手ながら「仙台・石巻・大川といった直撃コースではなくてほんとうによかった」と昨夜から安堵の胸をなでおろしています。各地とも、朝からテレビの予報に緊張して待ち構えていたが、それほどのことはなかった」ということで、人身、家屋など皆無事だったそうです。大川の耕地も稲の倒伏もわりに少なく、大豆畑の水も今日中に引くのではないかとのこと。このまま大過なく実りの秋を迎えられればといいですね。
 ヒト坊さんは嵐のあとあちこち見て回ったそうですが、「尾ノ崎橋のすぐ近くまで波が来ていたが。3、40年前の“沖ぶくれ”ほどではなかったようだ」とおっしゃってました。“沖ぶくれ”って懐かしいですね。高潮のことを管理人たちが子供のころはそう言いました。  (8/31) 

■台風
 最悪のコースをたどっている台風10号のニュースに釘付けになってますが、各地の避難勧告情報などを聞くにつけ、兄弟はじめ、友人知人の安全を祈らずにはいられない。ようやく耕作も順調になったという長面耕土はじめ各地の作物も、せっかく収穫期が間近なのに、ほんとうに気のもめることである。
 自然には逆らえないと思いつつも、何か奇跡が起こって故郷が安泰であってほしいと願っています。 (8/30)

■台風
 台風10号が30日夜ごろ、宮城県あたりに上陸するかもしれないという予報。数日前は東京あたりを直撃して長野県を通過するというので、いま長野にいる管理人は今日、小屋の瓦が浮いて雨漏りしそうなところに、小さな土嚢を載せて台風対策をしました。
 長面の塩田に住んでいたころは、今のように天気予報がなかったせいか、嵐は突然来たような気がします。ある強風の夜中、消防団の人(どなたかは覚えていません)に、「高潮だ、すぐ逃げろ!」とたたき起こされ、すぐ外へ出ると腰まで海水が押し寄せていたことがありました。大風による高潮でした。
 ようやく尾ノ崎橋を渡って、その夜は海蔵庵でお世話になったと思いますが、翌日家に帰ってみると屋根の一部が飛ばされ、1㎡ぐらいの穴が開いていました。室内も膝の高さぐらいまで水に浸ったらしく、その高さの土壁が全部溶け出して家じゅうがドロドロ。
 震災の津波に比べたらどうということのない被害ですが、それでも翌日の片づけは大変。片づけに追いまくられているところに県会議員か誰かが視察に来たとかで立ち寄ったが、オフクロは「視察がナンになる。オニギリの一個でも持って来い」と毒づいていたのを今も覚えています。
 たぶん台風だったと思うが、こういう大嵐のあとには、松原海岸に大きな船がよく打ち上げられた。だいたい1か月ぐらいは放置されているので、子供たちの遊び場になった。大きな船なので、砂浜から5mぐらいの高さにトモ(船尾)があり、そこには窓のような穴があった。その穴から首を出して下にいる友達を「オーイ」と呼ぶと「それは便所だどーッ」と返されて、無知な自分が恥ずかしかった。船はいつの間にか姿を消すが、たぶん次の大潮の時にでも、曳航されて行ったのだと思う。
 三陸沿岸の荒天のニューには、いつもこんなことを思い出すけれども、今の松原には砂浜さえもないようだから、心配しても仕様がないことかもしれません。しかし、長面浦の漁労もあることだから、 どうか直撃だけは避けてほしいと風神雷神様にお願いしたいところです。 (8/28)

■『長面濱村の濫觴記』図書室に追加
 長い間大雨が続きましたが、今日はこちら(長野)は晴れています。大川はどうでしたでしょう。上流が大雨のときの北上川は、正に大河の風情であったと思い返しています。
 パラパラ図書室に『長面濱村の濫觴(始まり)記』を追加させていただきました(こちら)。この冊子も以前「昔語りすっぺが」(こちら)にやや詳しく紹介させていただいたものですが、龍谷院の先代和尚齋藤文雄師の熱意が伝わってくる手作り感いっぱいの資料で、パラパラ本のほうが感じが伝わると思った次第です。
 明治の初め、国家事業として『皇国地誌』という郡村誌編纂事業がスタートして全国の市町村の地誌・歴史が集められましたが、そのほとんどは関東大震災で焼失し、全国的に見ても残存資料は数えるほどしかないということです。
 そのとき提出された長面濱村の地誌の控えが龍谷院に残っていたものを文雄師が発見、解説を加えながら書写したもののようです。コピーにコピーを重ねているため、読みにくいところがありますが、当時の雰囲気を味わっていただければと思います。

 この冊子は大川中学校が閉校する際、職員のSTさんが廃棄処分品の中から見つけて送ってくれたものです。龍谷院でもすべて流されて残部はないということですから、貴重品と言っていいでしょう。

 パラパラ本の作り方は、パソコン素人の管理人にはたいへん分かりにくく、最近やっと出来るようになりました。車の運転ができるようになった子供みたいに、面白がってやっています。皆様がお持ちの各種資料や文集など、公表して差し支えないものがございましたらお寄せください。
 以前、釜谷のHT君に見せていただいた『釜谷浜の歴史を探る』という冊子もあるはずなので、そのうちまたお借りして図書室に加えたいと思っています。ページをバラバラにしたものはこちらにあります。  (8/25)

■パラパラ図書室

 電子ブックと言えば格好がいいですが、本をめくる感じで冊子が読めるソフトがあったので、これを利用して「大川村、河北町パラパラ図書室」というページを設けました。本のスタイルは板垣優喜さんの『大川地区昭和の昔がたり』と同じで、パラパラ本をめくる感じの閲覧方式です。板垣さんの本もこのページから読めるようになっています。
 本のめくり方は頁の下隅のピコピコしている所にカーソルを置いてドラッグするか、下の▲をクリックするなどしてください。字や誌面を大きくしたりもできますから、いろいろ試してください。(こちら)
 今のところ板垣さんの本のほか、『長面浜、尾ノ崎浜の歴史を探る』(河北町・河北町民文化祭実行委員会)、FSさんが『大日本塩業全書 第二編』大蔵省鹽務局 明治40年出版から苦労してまとめてくれた長面の塩田の沿革を収録してあります。
 あまり分厚い書籍や大きい画集などは収録できませんが、数十頁までの冊子などは収録できますので、珍しい資料や文集などがお手元にございましたら、お貸しください。ぜひ多くの方に見ていただけるようにできればと思っています。 (8/21)

■大川からうれしい便り二つ
 ロス五輪で寝不足のため、しばらくぼーっとしていたら、故郷から嬉しい便りが二つ届きました。

●喪失集落の復元模型が……
 岩月のTSさんから「掲示板に尾ノ崎のKKさんが大川のジオラマが制作されると投稿してますよ」と、電話で知らせてくれました。慌てて掲示板を見ると
「大川地区のジオラマ制作に復興庁から予算が付いたそうで、例の中島さんと神戸大学 槻橋教室の院生さんがこられ本日(8/16)午後から仮設で報告会がありました。釜谷から尾ノ崎までが範囲とのこと、11月と3月の2回に分けて、神戸大学工学部の何人かが来て作業に当たるそうです」という投稿がありました。
 じつは少し前に、長面浦海人の中島さんから「模型制作の予算の目途がつきました。16日ごろ、現地で打ち合わせを行いたいので、岩沢さんもこの時期、帰省されましたらぜひ」というお誘いをいただいていたのですが、お盆には帰れず、気になっていたところでした。
 当日のことや今後のことは『石巻かほく』(8/19)のこちらにありますので、ぜひご覧ください。
 私個人としては、故郷に帰っても記憶にあるものは墓地と山以外は何もないので、せめてジオラマでも小学校あたりに展示されていればいいなあ、と思っていました。ただ現地の方々の意向がどうか気になっていました。
 中島さんのお便りによれば、「現地の皆さまは、とても熱心で、特に長面地区の説明会では模型製作範囲をめぐって要望がたくさん出ました」ということで一安心しました。
 制作範囲を広げると費用が大きくなるわけですが、「予算的には神戸からの飛行機をANAからピーチにすれば、何とかいけそうです(笑)」というコメントもあり、オリオンも何か協力できないかと考えています。

●大川小学校敷地に“北限のオリーブ”畑が……
 これも岩槻TSさんからですが、『読売新聞』(8/18付)の切り抜きが送られてきました。「北限のオリーブ 大川小周辺で栽培へ」という記事で、今年4月、旧校舎周辺に農業生産法人「リスタ大川」(社長・大槻幹夫さん)の皆さんの手で苗木40本が植えられたそうです。
 オリーブは地中海地方原産で暖地を好み、日本では香川県が最大の産地だそうですが、石巻の気候は小豆島に似ており、同島の「アライオリーブ」が調査の結果、北限の産地化が可能と判断し、栽培指導に当たることになったそうです。
 (読売新聞の記事を転載させていただきました。詳しくは右をご覧ください)
 オリーブ・オイルやピクルスでおなじみのオリーブは常緑の高木で、なんとなく健康的なイメージがありますね。大川小周辺が「北限のオリーブの森」になると同時に大きな産業となる日が楽しみです。 (8/19)
 ※今年は畑は放置状態で何も作ってませんとで言ったら、たくさんのゴーヤとモロヘイヤが同封されていました。TSさん、ごちそうさまです。

■お盆
 震災から5年目のお盆、今年はぜひ帰りたい事柄もあったのですが、病み上がりだから運転するなと言われると、万一のことも考えてやはり帰省は中止しました。兄弟からの電話によると、龍谷院には一家に一人ということであったが、多くの親戚にも出会えたようで、懐かしい名前とともに近況を聞くと一層「帰りたいなあ」という思いが高まってしまいます。
 まあしかし、へんに無理をして事故でも起こしたら困るので、これも天命だとしばらく静かにしていようと思います。これからはやりたいことがあっても、だんだん出来ないことが増えていくのでしようね。
 時間だけはあるのだからと、下の記事のリンクの改善を図ろうといろいろやってみるのですが、一向に改善しません。これも理解力の衰えでしょうか。すみません。もう少しお待ちください。 (8/15)

■大川あれこれ
●シカ・クマ・農作業
 管理人が今年は体調不良で畑仕事ができないといったら、福地の同級生YHさんがキュウリその他をたくさん送ってくれました。相変わらずシカの害はたいへんで、敷地の周りにシカよけの柵をめぐらしているとか。「シカと人間、どちらが主役かわからない生活ですよ」とのことでした。また最近は近くでクマの目撃談もあるらしく、「ここも安心して住めないところになった」とのこと。
 針岡のKS君は今年は長面圃場の大豆を含めて10町歩の耕作だそうです。いくら機械化といっても一人で10町歩はたいへん、特に大豆の播種は湿り気が必要なために、天気の具合で一挙に終わらないのがつらいと言ってました。管理人が「病み上がりせいか、少し動くと疲れてダメだ」とこぼすと、「いやー、同じだあ、歳だべ、歳」といつも慰めてくれます。同年輩の茶飲み話もそういう話が多いという。
●大川小学校
 大川小学校は同じ河北地区の二俣小学校敷地のプレハブの仮設校舎で授業を行っていましたが、児童数は29人と少ないため、来年4月から二俣小学校と統合されることになったそうです。
 なるべく多くの学友があったほうが良いと思いますので、よかったと思います。

●東京の同級会
 6月13日、東京の大川中同級会があったが、例年より少し少なく19名。皆さん元気で、あまり疲れた顔はありませんでした。ただ、皆さんなにか不調部分を抱えていて、お一人は2週間も昏睡状態だったそうです。でもまあ、総じて皆さん元気。来年6月には松島でみんなが集まれるよう、仙台の幹事さんたちが尽力中とのこと、なんとかそれまでは元気で過ごしましょうと、話し合って別れました。
●まかない処『まがき』
 そのKS君が『まがき』のヒト坊さんの料理をご馳走になってきたそうで、写真が送られてきました。
最近は外人さんのグループもヒト坊さんのお料理を堪能されたそうです。 (8/5)
(写真をクリックしていただくとお料理もチラッと覗けます。すみません、お待たせしました。なんとかリンクが復旧したようです)

 
ご自宅横の『まがき』全景
 
カウンターとヒトボさん
 
椅子席

お座敷 

■「掲示板」が10月から利用できなくなります。
 催しや会合などのほか、オリオンへの連絡にもご利用いただいていた「「ふるさと旧大川村(石巻市) 掲示板」は10月4日から使えなくなります。富士通の子会社ニフティ株式会社のレンタル掲示板だったのですが、「昨今利用者の減少が著しくサービスを維持していくことが困難となったためサービスを終了します」とのことでした。
 改めて新しい掲示板を探すほど利用頻度が多くないので、オリオンでもこれを機会に利用中止にしたいと思います。あしからずご了承ください。(8/4)

■どなたか「古い大漁旗」をお持ちではないでしょうか
 松戸の人形作家・菅原泰子さん(横川出身・作品等はこちらをご覧ください)から
「実はしばらく前から大川音頭の人形に大漁旗の古布を使ってみたいと思っているのですが……」、というお便りをいただきました。
 なかなか大漁旗が手に入らずに実現していないということです。できれば大川で使われていた大漁旗が望ましいと思いますが、どなたか不要になった大漁旗の古布をお持ちではないでしょうか。もしございましたらご一報いただければ幸いです。菅原さんの人形はそれほど大きくないので、旗の一部でもよいと思います。 (7/15)

 ところで、ヒトボさんの「まかない処『まがき』の記事について、ヒトボさんから訂正がありました。
「食材はすべてヒトボさんが釣ったウナギ、ワカサギ……云々とありますが、すべて自前は不可能です。大川、北上、雄勝、石巻の地元の産物を中心にということで、私が直接取れるものはもちろん、自分で採れないものはこれから直接漁師さんに会って交渉していくつもりです」とのことでした。

■間垣に“まかない処「まがき」”
 間垣の、大川中裏山の高台に小料理店“まかない処「まがき」”がオープンしました。亭主はオリオンも開設当初からいろいろお世話になった間垣のヒトボ(ヒト坊=遠藤仁雄)さん。ヒト坊さんという呼び名は間垣で小学生の一時期を緒に過ごしたOld間垣boy(現・名取)の命名。
 ヒトボさんは大川中昭和44年度卒で、私(管理人)とは一回り以上も違うのですが、震災後のある年、長面のお神楽を見に行くとは言いましたが、いつ着くともわからない私を延々会場の入り口で待っていてくれました。お知り合いの方がパラグライダーで撮影した長面海岸のDVD(こちら)を渡してくれるためでした。
 大川の心というか愛郷の心をとても大切に思う人であることをこのとき強く感じました。震災で間垣に住むご両親、奥さまを亡くされていましたが、調理師免許を持つヒトボさんは「私は何としても間垣に残って、間垣、釜谷、長面、尾ノ崎の方々が大川へ帰ったときに、一息ついて歓談できる場所を作りたい」とことあるごとにおっしゃっていました。
 大川中裏の集団移転地に自宅を再建したヒトボさんは、この5月、敷地内に“まかない処「まがき」”をオープン。念願の第一歩がスタートしたようです。営利度外視のお一人だけの店で、食材はすべてヒトボさんが釣ったウナギ、ワカサギ、スズキほか追波川や藤沼で獲ったものを使うそうで、今のところ完全予約制ということです。
●まかない処『まがき』の連絡先
 住所:石巻市針岡字山下60-15
 ☎&Fax:0225-24-6237
 携帯:090-8788-2965
 メール:turihito-o@yellow.plala.or.jp

 6月12日の『読売新聞』に「震災5年 亡き妻との夢かなえ開店」という詳しい記事があって、管理人たちの東京の同級会に間垣出身のTIさんが切り抜きを持ってきてくれました。そのときはチラッと見ただけですが、切り抜きが手に入りましたので、改めて転載させていただきます。ぜひご覧の上、中学校付近を通るときは、ぜひ立ち寄ってみてください。※右の写真をクリックすると記事が読めます。
 なお、遠藤さんらが中心になって進められている間垣の慰霊碑の建立は、堤防の修復に合わせて、来年の5月かお盆ごろになりそうだとのことでした。 (7/4)

■羽生玄栄翁の遺影
 管理人が脳梗塞で倒れる前の3月末、『はなし語りしすぺ』に「尾ノ崎の塩田と羽生玄栄(凌雲)」という記事を書かせてもらいました(こちら)が、これに目を止められた“とよま禅の寺・玉秀寺”の佐竹孝喜ご住職から、玄栄翁の写真が送られてきました。写真は龍谷院の本堂に掲額されていたものだそうで、震災後はじめて文隆和尚にお会いしたとき「玄栄さんの写真も流されてしまったよ」と聞かされていた貴重な写真です。
 玄栄翁の話は親戚からいろいろ話は聞いていたものの、写真を見るのは初めてでした。写真は20歳のころ、京都時代の42歳のころ、それに晩年と思われるころの3種で、いずれも幕末に生きた志士の風貌をうかがうことができます。
※ 写真上は龍谷院本堂に掲額されていた玄栄翁の写真。下は晩年とおもわれる写真で「大日本国維新開国之国志 長面墓地に永眠する」と龍谷院の先代和尚の筆で記されており、同志勝海舟先生 佐久間象山先生 高野長英先生とも記されている。寄贈者の羽生春枝は管理人の母方の伯母で、羽生家の養子になった人でした。
佐竹ご住職さま、ありがとうございました。
なお、佐竹ご住職の父上は尾ノ崎海蔵庵の先代ご住職で、管理人たちが小学生の時は長面分校で担任をしていただきました。 (7/3)

なお、「とよま禅の寺 玉秀寺」さんのHPがこちらにあります。

■『大川地区 昭和の昔がたり』

● 私事の言い訳
 長い間ご無沙汰して申し訳ありませんでした。4月の意識混濁以後、約1か月間の言語療法、作業療法というリハビリ(内容は幼児のゲームのようなもの)を終了。いくらか回復したのかどうかはわかりませんが、ともかく日常生活には支障がないだろうと無事解放されました。
 まあ、症状的には高次脳機能が少し落ちているとかで、二つ以上のことを同時に処理しにくい、つまり複雑なことが苦手になっているとのことでした。で、しばらく何もせず静養していた次第です。
 以上、しばらくオリオンを放置していた私事の言い訳ですが、この間、メールやお電話その他、たくさんの励ましと叱咤をいただきました。ありがとうございました。

●『大川地区 昭和の昔がたり』
 静養中、ずっと気になっていたのが間垣(谷地?)の板垣優喜さんが書かれた『大川地区 昭和の昔がたり』(平成8年刊 ひたかみ出版社)という冊子の電子化のことでした。この冊子はずっと以前、トロントのモガールさんから送られたもので、昭和20~30年代の大川地区の習俗や情景がたくさん書かれています。
 ごく一部はオリオンに転載させていただいたこともあるのですが、どのページも捨てがたい話が満載なので、いずれ機会があったら全文が読めるようにできないかなあと思っていました。昨秋、ご遺族の了解が得られたという連絡があり、電子化のソフトなどを検討中でした。今回、血の巡りの悪いアタマでちょっと苦労しましたが、なんとかUPできましたのでご覧ください。(右の写真をクリックしていただくと電子版で全文が読めます)
・文字が読みにくいときは拡大できます。
・誌面の読み方はいろいろ試してみてください。

 板垣優喜さんの奥さま板垣しげ子さんの「あとがき」には次のようにあります。

「……彼の作品には故郷に対する限りない愛情がよみとれます。……昔の村のたたずまいや人情、やさしく、ゆかしく、またなんとなく物悲しかった昔の生活がよみがえってきます。そのような作品をとり出して昭和の昔がたりとしてまとめてみました。地域の人々にお読みいただければ幸いと思います」

■突然起こること

熊本でも震度7、テレビのニュースを見ながら5年前のことを思い起こしています。頻発する余震はほんとうに恐怖です。地震を始め、とつぜん起こることはまったくふせぎようがなくただ恐怖のみが増幅されますが、私(管理人)の内部でもあることが突然起こって少し途方に暮れています。以下のことはチョー個人的なことで、どんな書き方をすればいいのか迷いますが、オリオンを積極的に更新していく自信がなく、そろそろこの辺で幕を閉じるのがいいのかなと思っています。私の内部の変化というのは脳梗塞、つまりアタマの血の巡りが悪くなって後頭部に500円玉大の梗塞ができ、位置・空間の認識に問題があるらしく、少しぼーっとした感じで過ごしています。ただ、歩行も会話も日常生活に支障はなく、まあ普通の状態です。ただ、パソコンのキーボードを打つのに指一本分ぐらいがずれるのが不便といえば不便、訂正に時間がかかります。
自分としてはまだまだやり残していることが多く、80までは健常でいるつもりだったし、オリオンも最悪今年の7月までは続けたいと思っていたので、、途中で挫折することはなんだか旅の途中で倒れた感じで、今の心境は“旅に病んで夢は枯野をかけめぐる”といったところでしょうか。
実際、車、自転車、プールを禁じられると何をしていいかわらずこれは痴呆状態だなと自嘲しています。
オリオンはしばらく放置状態になりますが、大川のニュースや新事実などがあれば、どんどんお寄せください、血液サラサラの薬を飲んで血の巡りの回復を図っていますので、もう少し状態が回復したら、オリオン内の各種情報を冊子にまとめたいなと思っています。
私的なことばかり、ぶつぶつ言ってすみません。これまでのご支援、ご協力、本当にありがとうございました。皆さまもどうぞおからだをお大切に。お若い方でも、脳梗塞、心筋梗塞、くも膜下出血などは突然起こることが多いそうですからくれぐれもご無理をなさいませんように。(4/15)
*以上は4/15に一度アップしたつもりだったのですが、昨日(4/21)にチェックしたら消えていました。で、バックアップファイルから拾い出して再度アップしたものです。パソコンの混乱か私のアタマの混乱か?です。

■旧校舎保存のニュース
 大川小学校の旧校舎が震災遺構として保存が決定したというニュースは、東京でも大きく報じられました。右は『東京新聞』(2016.3.26朝刊)の記事です。(クリックすると記事が読めると思います)

 記者会見で亀山石巻市長は「(大川小の)校舎全体を保存することとして、周辺については、慰霊と追悼の場としての環境整備を行なっていきたい」と述べ、具体的にどういう形の保存になるかはこれからのようです。

 保存か解体かについては、現地の意見は半々だと聞いていましたが、無理のない自然な形の保存ができればいいなあ、と卒業生の一人としては感じています。もっとも、私たちの時代の木造校舎は、今は影も形もありませんが。      (3/26)

■杉門(すぎもん)のことなど
 その昔、長面の秋祭りには、子どもたちも準備に大忙しでした。もちろん大人のたちはさまざまな準備で大変だったと思いますが、早く田舎を離れた私(管理人)は多くを知りません。
 覚えているのは主に小・中学時代の飾りづくりや杉門のことで、それも朧げなのですが、「杉門のことなど」と題してメモしてみました(こちら)。記憶違いがたくさんあると思います。お気づきの点などお寄せください。また、尾の崎や釜谷では、祭りの準備に子どもたちがどんな活躍をしたのか全然わかりません。なにか思い出に残ることがありましたら、お知らせいただくとありがたいです。    (3/8)

■いわき市で大川音頭!?
 いわき市の“模型復元プロジェクト”特別展を見に行った時のこと、控室で佐々木律子さんの大川音頭の話が出た時、“釜谷の豆腐屋の弟”さんが「オレ、唄えるよ」と得意のノドを披露、すると釜谷の区長さんの奥様がはじかれたように踊りを披露されました。
 この時の様子が「はまなすカフェ」さんのFacebookの動画に収録されています。音がちょっと小さいですが、踊りの雰囲気はよくわかります。
 https://www.facebook.com/nagatsuraura/videos/1302323193118468/
 Facebookに登録していないとあるいは見えないかもしれませんが、その場合は下をクリックしてみてください。オリオンも管理人もFacebookに登録していないので、詳しくはわかりませんが、たぶん閲覧可能でしょう。
 長面浦海人の家/はまなすカフェさんの他の動画
 最新の動画が「いわきでの大川音頭」で、そのほか「はまなすカフェ」さんのお披露目をはじめイベントの数々などを見ることができます。
 なお、「長面浦海人/はまなすカフェ」のホームページはこちらです。   (3/4) 

■できるかも! 大川地区・喪失地域の模型復元
 2/27、福島のいわき市で開かれた“「記憶の街」模型復元プロジェクト”の展示会を見てきました。東日本大震災で失われた街を模型で復元するプロジェクトで、今回は福島の特別展です。双葉、大熊、富岡、浪江ほかの復元模型が14のブロックに分けて展示されていました。

 会場には、大川から「長面浦海人」の小川代表、中島理事、釜谷・阿部区長、尾の崎・藤村区長がお見えで、オリオンで以前ジオラマの話し合いなどをした“釜谷の豆腐屋の弟”さん(岩槻)、“Old間垣Boy”さん、それに私(管理人)が合流させていただきました。

 実は1週間ほど前に、中島みゆきさん(一般社団法人「長面浦海人」理事)から
「現在、釜谷の区長さんが中心となって、災害危険区域となった釜谷、尾の崎、長面、間垣の4集落について、震災前の街の姿を模型に再現して後世に伝えたいという動きがでています。今度いわき市に『失われた街という模型復元プロジェクトの展示を見に行くので、ご一緒にいかがですか?」
 というお便りをいただきました。

 「失われた街模型復元プロジェクト」というのは、建築模型づくりの技術を応用して街並みを500分の1サイズに再現し

 
「失われた街」模型復元バンプレットから ワークショップ風景

、仮設の集会室や体育館などで地域の方々に模型を見ていただき、かつての町を思い出しながら屋根や壁に色を塗ったり、「ここでこんなことがあった」というような記憶を小さな旗に記したりしていくものだそうです。
http://losthomes.jp/about/
 すでに三陸沿岸や福島県の多くの地域で模型がつくられており、2015年度の日本建築学会賞も受賞しているようです。
http://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/info/2015_05_08_02.html
http://www.aij.or.jp/images/prize/2015/pdf/2_4award_losthome.pdf
 そんなことを聞いて、大川小・中の同窓生として協力できることがあればと参加になったわけです。なお、中島みゆきさんは長面の番屋(はまなすカフェのあるところ)の設立・運営に尽力されている方で、東京大学大学大学院学際情報学府 社会情報学コースに在籍している方です。

 さて、いわき市の展示会場(産業創造館)には、同プロジェクトの代表である槻橋修さん(神戸大学准教授)もいらしていて、いろいろ話を伺いました。 

 
展示会場風景
 
縮尺は500分の1  手前のペンは約15㎝

 槻橋(つきはし)先生の話によれば、、模型は震災直前の航空写真などをもとに500分の1で作られ、制作や搬送の便を考えて1㎡4ずつに分割して作るそうです。
 初めの白いジオラマ模型は建築や街づくりを学ぶボランティアによってつくられ、これを被災したた地域に搬入し、約1週間、現地の方々と「記憶の街ワークショップ」を行い、模型上に色を塗ったり、思い出のコメントを書いたりして、往時の息吹きを伝える模型を復元するそうです。

 大川地区の喪失部分を網羅すると最少40㎡ぐらいは必要になるようで、畳にすると24畳分ぐらいでしょうか。1㎡の費用は5~6万円ということで、全体ではけっこうな金額になりそうです。
 また、展示場所をどうするかなど、まだまだ検討課題がありますが、ワークショップでの思い出話や各地区のトピックなど、将来はアーカイブ化して保存することもしたいということで、オリオンとしてはできるだけの協力は惜しまないつもりでいます。

 津波による故郷の消滅は深い喪失感を伴いましたが、明るい模型の復元で何か一つ新しいことが見つかるような気もします。
 これからもこのニュースについてはことあるごとにお知らせしますので、全国の同窓生、同朋の皆さま、実現に向けて温かく見守っていただければと思います。      (2/29)

■ビッグバンから「NHKのど自慢」放送
 2/14、携帯を忘れて会合に出席、昼ごろ帰ってきたら針岡のKS君、仙台のKSさんなどからたてつづけに電話。
 「飯野川のビックバンから“NHKのど自慢”が放送されるよ。すぐ見てけらいん。誰か知ってる人がいるかも」とKS君。
 「ビックバンから“NHKのど自慢”が放送されます。福地の福田ゆう子ちゃん(モガール和子さんの妹さん)も出演するみたいですよ」とKSさん。
 皆さんの楽しい熱唱をゆっくり拝見しました。ゆう子さんの“真っ赤な太陽”はカネ二つでしたが、震災で亡くなった姪御さんに届けという思いが伝わってきました。

     

 番組の冒頭は焼き牡蠣を堪能する方々の場面でした。残念ながら長面の牡蠣ではなく、渡波港のようでしたが、とても美味しそうなシーンでした。
 その牡蠣で思い出したのですが、先週、高校の同級会(東京地区)があって、仙台からゲストできていた針生君が、
 「お前ぇ長面かぁ。あそこの牡蠣はうめぇんだ。3月までだがらな、喰いさいぐべ、喰いさいぐべ」と興奮して誘ってくれた。仙台と名取に事務所があるので、来たらいつでも車を出すからという。長面の牡蠣は食べに行きたいが、それまで時間がとれるかどうか。
 針生君は建築家で、宮城スタジアムや七ヶ浜村の国際村やサッカースタジアムほか、多くの公共建物を設計しており、現在は南三陸町の戸建て復興住宅100戸の設計監理もしているそうだ。新国立競技場のコンペにも参加しているが、これは採用にならなかった。
 「大川小学校はなかなか素晴らしい校舎だなあ。誰が設計したの?」と聞かれたが、私も知らない。今日、ネットを見たら、北澤さんという建築家によるもので、河北町庁舎なども設計した人らしい。連絡先もわかったので、いずれ当時のことなど伺ってみたいと思ってます。
 校舎を保存するか解体するか、まだ検討が続いているそうです。当事者でない者にはなんとも言えませんが、卒業生の一人としては、あのままの形で残してほしいと思います。  (2/14) 

■ 『長面―きえた故郷』、4月2日仙台で上映
 久々にトロントのモガールさんからお便りがありました。
「トロントは昨日16度もあり、オンタリオ州の記録を更新しました。ところが、今日は3度とまた冬に戻りました」とのこと。日本も似たような天候ですが、春が近いということでしょうか。

 さて、『長面―きえた故郷』の上映会が仙台であるそうです。
    日時:4月2日(土)7:00pmより 6:30開場
   場所:仙台市泉区、イズミティ21 小ホール
   入場料:無料(要整理券 先着400名様) 
     *整理券の入手方法など、詳細は右のチラシをクリックしてご覧ください。
 お誘いあわせのうえ、どうぞよろしく。      (2/6)
*パソコンの不調というか、ソフトの無理解なのか、しばらくリンクが張れなくてまともな紙面ができなくて、ご不便をおかけしました。なんとか応急修理ができましたので、右のチラシをクリックして詳細をご覧ください。 (2/7)

■春はどこまで?
 いま、ふるさとは雪景色のようです。数日前、久々に電話で話したのですが、先日の大雪が解ける気配はなく、車が頻繁に通る道以外は道も野山も一面の雪景色とのことでした。
 河北町時代は、大雪が降ると集落のかなり奥まで除雪車が入ってくれたのですが、最近は幹線道路は除雪するものの、集落内の日用道路などには除雪車は来ないとのことでした。大川地区は石巻市の僻地になったのでしょうか。

 復興住宅の完成予定もまた延期されて、入居は平成30年になるという説明があったそうです。来年の秋口に着工とのことですが、着工までまだ2年近くもあります。いったいどいう事情があるのかわかりませんが、なぜ1年延ばしに先送りされていくのでしょうか。オリンピックなどより震災の復旧のほうがはるかに重要だと思うのですが。

 平成30年の入居といえば震災から8年、この間を復興住宅の完成に夢を託してきた方々の心情はいかばかりかと思います。いったい、釜谷、長面、尾の崎を居住禁止地区にする根拠はなんだったのか。それで堤防ばかりを造るのは腑に落ちないことです。 
 
 住む権利を奪った土地を巨大な堤防で囲い、そこを何に使うかといえばこれといった具体案はないようで、ただ震災前の現状回復の一点張りだとか。トヨタのサーキットコースとかパラグライダーの基地とか、いろいろな提案も、今のところ無視されているそうで、いったい大川区はどこへいこうとしているのか……。
 当事者でない者が軽々に言うべきことではありませんが、春は遠いようです。   (2/5)

■動画「針岡の祭囃子
 パソコンの動画関係の一部がなんとか復旧、ヒトボさんからお預かりしていた「針岡の祭囃子」の動画を、YouTubeにアップさせていただきました。
 動画は、2015年11月15日「第3回大川ふるさと祭り」での舞台です。
 針岡の神輿祭りは若い人の減少などで、ここ10数年途絶えていたそうですが、このまま絶やすわけにはいかないと、針岡の有志が「「とら舞愛好会」を結成、忘れかけた演目を数か月かけて猛特訓、この日の舞台に臨んだそうです。
 撮影は大川復興協議会副会長、横川の佐々木さんです。
 演目は
  ①神輿を里に降ろすときの「けん囃子」
  ②神輿を練るときの「とら舞」
  ③「獅子舞」
  ④神輿が富士沼の周囲をめぐるときの
   「どう囃子」
の4曲。ヒトボさんも④の小太鼓を打っています。
 写真をクリックするか、こちらをご覧ください。                 (1/14)       

■太鼓の音、祭囃子のことなど
●「長面伝承太鼓」
 掲示板を何気なくのぞいたら、釜屋の豆腐やの息子さんから「長面伝承太鼓」が友への鎮魂として演奏されたという情報が届いていました。河北新報の記事も詳しく読めますのでこちらをご覧ください。
 管理人は「長面伝承太鼓」がどういうものか知りません。ぜひ聴きたいなあ。

●針岡「とら舞愛好会」のお囃子
 少し前、間垣のヒトボさんからDVDが1枚届きました。昨年11月に開催された「大川祭り」で披露された「とら舞愛好会」の皆さんによる、勇壮な祭囃子の演奏でした。
 針岡の祭囃子は貴重だし、了解もいただいたので、さっそくYouTubeに投稿してオリオンからも見られるようにしたいと思ったのですが、パソコンのリカバリのせいか「ムービーメーカー」というソフトが動きません。すみません、もうしばらくお待ちください。
 なお、「大川祭り」では「大川音頭」も踊られたそうで、そのうちその踊りも見られるかもしれません。ご期待ください。

 高校時代の国語の先生が、こんなことを話していました。
「クラシックだ、ジャズだといっても、それはどちらかといえば皮膚の部分のことで、日本人の背骨には笛や太鼓の音が染み込んでいる。誰でも抵抗なしに祭囃子を受け入れるように」
 管理人はジャズもクラシックも大好きですが、お祭りも大好き。特に横笛と宮太鼓の音はいいですね。   (1/12)

■テスト中です
 パソコン初期化後のテストをしています。この文字が見えれば、まあOKなのですが。
 
 ページよっては見えないとか、写真や図版の抜け落ちているとか、何か不都合があるかもしれません。お気づきの点がありましたら、メール等でお知らせください。
 メールは復活しました。メールはこちらからどうぞよろしく。  (1/8)

■遅ればせながら
 あけましておめでとうございます。今年もいろいろなことがあるかと思いますが、一日一日を大切にしていこうと思っています。オリオンも今年の夏で満5年を迎えます。その辺が幕引きの潮時かと思っておりますが、それまでどうぞよろしくお願いいたします。

 新年のご挨拶がこんなに遅くなったのは、パソコンがヨレヨレになったので、暮れからリカバリ(初期化)に取りかかり、それに時間がかかっているからであります。初期化そのものはうまくいったのですが、その後のセットアップやデータの復旧がトラブルが多く、まだ途上です。
 初期化するとパソコンは無垢の赤ちゃん状態になるので、これまで蓄積してきた知恵や技術(大したことはないですが)を再度覚えこませるのが面倒で、目下それの特訓中です。
 オリオンのホームページも15年前のソフトを使っているので、それだと更新ができなくなりました。それで新しいホームページビルダー20というのを入手して、これから勉強するところです。復旧には少し時間がかかるかも。

 かくいう本人(管理人)自身もけっこうヨレヨレなので、暮れから白内障、胃カメラ、大腸内視鏡と病院通いが日課みたい。これでわが身体も赤ちゃん並みに初期化できればいいと思ったのですが、ちょっとそれは無理のようですね。
 白内障の手術は視力も上がらないし、急いでやる必要はなかったなと思いました。
 胃カメラでは、「食べてすぐ寝ると牛になる」といういわれの根拠がわかりました。私見ですがいずれご紹介します。
 大腸内視鏡の結果はまだですが、ポリープをいくつか取りました。「そんなに取ったら体重が減っちゃうよ」といったら、看護婦も医者(技師?)も吹き出していました。まあ、最大でも5ミリぐらいなので、お腹はスリムになりませんでした。

 自分のことばかりですみません。
 皆様のご健康を祈りつつ、今年もどうぞよろしくお願いいたします。           (1/6)

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