TOP はじめに 大川村の位置と地図 ふるさと写真集 忘しぇねがらね 津波そのとき 学校のこと はなし語りしすべ LINK

(DIARY) 2017年2月~

2017
2017年分はこちら 2016年分はこちら 2015年分はこちら 2014年分はこちら  2013年分はこちら   2012年12月~2011年7月はこちら


■夏になりました
 東京の日中は30℃近くなって夏のようです。故郷はどうでしょうね。そろそろ田植えの準備でしょうか。仮設からの転居もこれからが本番のようですが、期待に胸が膨らみます。
 管理人も体調がやや回復(そう思い込むことにしています)したので、今年もこれからは長野で過ごそうかと思っています。それで、いくつかオリオンを見直したのですが、気になった点をいくつか挙げておきます。

●『つぶやき集』の完成が遅れていてすみません。
 いま、進行具合を担当の方に聞いていますので、もう少ししたら何かお知らせできるかもしれません。すみません、もうしばらくお待ちください。

●音のアルバム「大川小学校」
 昨年夏だったか、オリオンのTOPページがクラッシュした時「音のアルバム 大川小学校」のページが消えてしまいました。復活しましたのでお聞きください(こちら)。
 大川小学校が間借り校舎から新たな仮設校舎へ移転した際の、震災後の支援に対する感謝のメッセージで、「校歌・未来をひらく」「ぼくのひこうき」「COSMOS」が歌われています。
 このCDは同窓生のFSさんから送られたもので、FSさんからは2/24に、
「大川小学校の閉校式があると毎日新聞が伝えています。
大川小は震災後、飯野川小学校に間借りして授業を再開。14年1月、二俣小学校敷地内の仮設校舎に移り、現在に至ります。1985年の落成から33年、震災前108人だった生徒数は7年を経て、29人に減少し、今年度を最後にやむなく閉校となり、二俣小への統合が決まったそうです。
 記事には「大川小校歌 未来をひらく」の歌詞と共に作曲者の曽我道雄氏の思いが語られています。
 校歌は、本日の閉校式において、在校生と卒業生により最後の合唱がされるそうです。」

というメールがありました。
 大川中、大川小とも我らが母校はこれで記憶以外には無くなってしまったんですね。
 なお、音声を聞く場合、横にある音声バーをクリックしますが、ブラウザがgoogleChromeやmicrosoftEdgeの場合は右側の空白部分をクリックしてFlash Playerを許可してください。

●オリオン311の動画
 youtubeのことが良くわからないままやっているので、1か所にまとめようと思ったのですが失敗しました。
 ①こちらに10数本、
 ②こちらに2本(大川中新校舎落成記念〈前)と永遠の校歌)      (4/21)


■永遠の大川中校歌
 昨日(4/13)、大川地区復興協議会会長の大槻幹夫さんから1枚のDVDが送られてきました。ケースには「please take care of your memory=忘れないで」とあり、DVDには「大川中校歌」とあり、今年の3月に作られたもののようです。大槻さんによれば、
 作ったのはある年齢の関東圏の方々の同級会で校歌を歌うことになり、その中の一人が中心になって制作されたということでした。
 さっそく開いてみると、6分10秒の動画で、ほとんど大川中の校舎と校歌だけのシンプルな動画なのですが、とてもしっとりした情感にあふれていて感動的でした。どなたの制作かわかりませんが、画面中のコメントも良く練られていて、“永遠の校歌”というのにふさわしい内容だと思いました。
 オリオンへの掲載については、管理人にお任せということでしたので、youtubeへそのままアップさせていただきました。ぜひご覧ください。(こちら)

 動画はまず、復興支援ソング「花は咲く」をバックに以下の前文があります。
 平成30年3月……
 震災から7年が経過し、大川中学校が閉校してから5年が経過した。
 そして私達は大川中学校のすばらしさを改めて実感しています。
 
 大川の未来を信じよう!
 故郷が世界一災害に強い豊かな大地に生まれかわる日は近い。
 そこには必ず新しい道が開ける筈である。
 「新生大川」の誕生とその後の歴史を楽しみにしよう。

 大川中学校とその校歌は……
 私達の絆の原点であり、大川の象徴であった。
 そして私たちの心の中に永遠に不滅である。
 
 大川中校歌を大川の力に!
 私達は災害で母校を失った。そして「命を守る学校の再建」という使命を帯びた。
 この動画は「私達も故郷の力になりたい!」という思いで作ったものです。


その後に校歌をバックにした以下の本編につづきます。
 「永遠の校歌」~大川中学校校歌を歌い継ごう!!~
  第一部 大川回想と私たちの思い
  第二部 校歌を歌おう!

そして最後に、次のように結ばれています。
 ありがとう大川中学校
 私たちはこの校歌、あの学び舎、あの先生、あの仲間を決して忘れない。
 大川中学校校歌は私たちの「こころの歌」である。
 (制作)大川中校歌を愛する仲間たちの会


同級会での斉唱はさぞ盛り上がったでしょうね。管理人もこの動画を見ながら目が潤みました。
     (4/14)
 

■続報 やはり松原にお寺?はあったようです

 昨日(3日)、「松原にお寺がありましたよ」と知らせていただいたJIさんと日比谷でお会いしました。5、60年ぶりぐらいの再会で、ご家族の消息や長面のお墓のことなどいろいろ詳しくお聞きすることができました。
 まずお寺の件ですが、「私は建っているのを見たことがあり、記憶に残っています。写真も探せばあるかもしません」」ということでした。ただ、いつ頃のことか、お寺を建てた目的について詳しいことはわからないということで、今日(4日)、龍谷院の文隆和尚さんに電話で聞いてみました。

 和尚さんは、「昭和28年に庫裡(住まい部分)を建て替えたが、その古材を永孝さんが譲り受けて、東光園とMNさんちの間ぐらいに移築して寺とした。中には仏像もあり、永孝さんは私の祖父さん(龍谷院の先々代ご住職齋藤月舡=げっこう)からもらった古い衣を着ていたこともある」と話してくれました。
 僧籍はなく、住まいも終生長面の江畑でしたから、寺院というものではなかったようですが、少なくとも永孝さんの中では大切な寺だったようです。
 ちょうどそのころ、龍谷院のMSさんに嫁いだ東光園のASさんは、「松原の寺のことは知らないけど、永孝さんが建てたとすれば、戦死した長男・次男の菩提を弔うためだったでしょうね」とおっしゃっていました。二人の戦死を痛ましがっていた永孝さんは毎日のように墓参りをしていたそうですが、その日も墓地近くの県道でバイクに跳ねられ亡くなりました。

 先の記録集(つぶやき集)データにあった
 「東光園さんが寺がを作った」(60代女性)
 「東光園の遊びやすい木などでよく遊んでいたが、東光園の和尚さんに蛇を食べさせられた」(女性)
 「尼寺で、ヒゲ伸ばした学者みたいなおじいさんが絵描いてた。今で言うアトリエみたいな。(中略)いい人には書いてくれる。気に入った人にだけ書いてくれる。(70代男性)
という「つぶやき」はこの永孝さんの寺と東光園の記憶が入り混じったものだったんですね。お寺のことは管理人はまったく知りませんでした。JIさん、KKさん、ありがとうございました。   (4/4)
 

■続報 松原にお寺がありました(そうです)

 下の3/23の「松原にお寺があった」という記事で、管理人はその存在に半信半疑で、どなたか何かご存じでであればお知らせくださいとお願いしました。
 さっそく尾の崎のKK(近藤孝悦)さんから「永孝さんのお寺はありましたよ」というメールをいただきました。まず第1便の要旨は次の通りでした。

 永孝さんのお寺は確かに松原にありました。
〇 龍谷院(長面のお寺)を建て替える時、その古材を引き受けて松原に移設したと聞いてますがそう古いことではないはずです。
〇 檀家も無く永孝さんも住職の資格も無いと推測しますが、どんな形態で、暮らしていたか私にはわかりません。
〇 私は平成16年船を下りて自然児となり、松原の中を駆け巡っていたので、無人になり朽ち果てて地べたと屋根が合体したお寺?のそばにはいつも行ってました、場所は東光園とは離れており、ずっと河口寄りの方でした。むしろ管理人さんの家が近いように思います。  寺号は不明です。

 ということでした。永孝(ナガコー)さんというのは通称で、長面・江畑の塩田近くに住んでいた永沼孝次さんのことです。永沼家の別家筋の三代目ぐらいの人で、伝説では漢学者だったそうで、没後しばらくの間、屋敷の外に朱子学者永沼孝次屋敷跡という木製の碑?が立っていました。(屋敷にはまだ娘さんや孫が住んでいましたが)。
 けっこうやり手だったらしく、松原の砂浜寄りの広い土地を所有しており、うち3町歩は弟(東光園の夢郷さん)に譲ったそうです。
 寺の場所は東光園の北側、河口よりということですからその後お孫さんのMNさんの屋敷があったところあたりでしょうか。
 永孝さんがどんな動機で寺を作ろうとしたのかわかりませんが、戦死した長男と次男を弔おうとしたのかもしれません(管理人の推測です)。
 KKさんが言うように、僧侶の資格があったのかどうかわかりませんが、いつだったか緋の衣を着ていたという話を聞いたことがあります。
 お寺がちゃんとできたのか、その寺に誰か住んでいたのかなど、まだまだ分からないことがたくさんあるので、親戚の方々などにもう少し聞いてみたいと思っています。いまだに信じられない管理人の、たぶんに個人的な興味ではありますが。

 また、KKさんのお便りには
 「永孝さんのお寺さん跡は、松林の真ん中でなく松原の2本目の道路のすぐ右側にありました。そこから海寄りの松林の中に、自生か誰が植えたかわかりませんが、かなり広い黒竹の林があり例の壁掛け(KKさんの工芸品)の土台にするのに、その黒竹を毎年少しづつ頂いて使ってました、竹の芽生え時期に根っこを少し掘って、尾の崎の自宅の裏山に植え今も元気に育ち居ります、墓参りに行った帰りなどに寄り繁殖ぶりを確かめております」
とあり
 「田舎は穏やかな春日和です。桜は少し先ですが梅が咲き始め、家の前の河川敷の雑木林でウグイスの声が聞こえます、まだ鳴き方はぎこちないです」
 とありました。KKさん、お寺の貴重な情報をありがとうございました。JIさん、私の無知を恥じております。
 東京はもうすぐ夏日になるとか。なんか気候がおかしいですね。どうぞお気をつけて。  (3/26)

■松原に“個人のお寺”があった?

 一昨日、JIさんという方からお叱りのメールをいただきました。なんとJIさんは親戚の方で、従姉妹の息子さん。思えばJIさんが大学生のころにお会いしたきりで、ずほらな私はその後まったく連絡を取っておらず、たぶん50年ぶりぐらいの再開のような気持がしました。個人的なことですみません。

 メールの内容は
「個人の認識で、みんなが見ているホームページ上で歴史を曲げるのは良くないと思います」という厳しいもので、
「松原にはお寺がありました。通称永孝(ナガコー)さんが寺の材木を買ってきて、MNさんの敷地に建てていたと思います」ということでした。
 これは昨年までの模型復元の際の記録集(つぶやき集)データに「松原に個人が作ったお寺があった」というコメントがあり、これら“つぶやき集”の内容の一端に触れるとともに、遅れをお詫びした文(こちら)に「東光園がお寺だったというのは間違い」と書いたのですが、JIさんはたぶんこれをご覧になってのご意見だったと思います。

 JIさんの祖母は私には伯母さんにあたりますが、昭和40年代まで渋谷・並木橋で日本茶のお店を営んでおり、親戚中の東京の中心的存在でした。
 松原のお寺にはその伯母さんが住む計画もあったそうで、これも私には初耳でした。
 もしどなたか松原のお寺について何かご存知の方がおられましたら、ぜひお知らせください。時期などもはっきりしませんが、たぶん戦前のことでしょうから詳しいことはわからないかもしれませんけれども、私もナガコーさん周辺の方などに聞いてみたいと思っています。

 ちなみに記録集(つぶやき集)データにある松原の「寺」「和尚さん」などは次の通りで、私は東光園のことをお寺だと記憶されていたのかな、と思った次第でした。
「東光園さんが寺を作った」(60代女性)
「東光園の遊びやすい木などでよく遊んでいたが、東光園の和尚さんに蛇を食べさせられた」(女性)
「尼寺で、ヒゲ伸ばした学者みたいなおじいさんが絵描いてた。今で言うアトリエみたいな。(中略)いい人には書いてくれる。気に入った人にだけ書いてくれる。(70代男性)
 あるいはJIさんのいうように、ナガコーさんが寺?を建てて、それを画家の永沼夢郷さん(ナガコーの弟)がアトリエとして住んでいたのかもしれませんね。                (3/23)

■春は花 夏ほととぎす 秋は月

 管理人はまだ桜の下を通っていませんが、昨日17日、東京は開花宣言がありました。桜への思いは人それぞれにいろいろあると思いますが、私個人としては長面分校の桜、釜谷の小学校の桜が記憶に残っています。もっとも釜谷・大川小の桜は震災の前年かの桜が満開の写真が記憶に強く、そのせいか桜満開の便りはそれほど楽しくはありません。

 もう一つは年を取ったせいか、また桜の咲く季節になってしまったかと、焦燥感のようなものにとらわれることもあります。昨日は同級生のFTちゃんや一つ下のFSさんなどから連絡があって、ご本人や周囲の方の老いを痛感させられました。
 それにしても申し訳ないのは、FTちゃんやFSさんはじめ模型制作に寄付をいただいた方々に“つぶやき集(記録集)”をお送りする予定だったのですが、編集制作に遅れがあって未だに延び延びになっていることです。現状などを問合せしていますが、もう少しお待ちいただければとおもいます。

 昔の人は梅や桜で春を感じ、ほととぎすのさえずり(ポットサケタカ)で夏の到来を味わったといいますが、ほととぎすの声はめったに聞くこともなくなりました。でもわが田舎ではどうでしょうか。原野のようになっているので、野鳥もかなり増えているのではないでしょうか。ポットサケタカのさえずりを聞いた方がおありでしたらお知らせください。もっとも旧暦では1、2、3月が春、4、5、6月が夏、7、8、9月は秋なのだそうで、今日の暦とは40日のずれがあるそうですから、田舎もほととぎすはまだでしょうね。
 いずれにしてもほととぎすの季節ぐらいには、なんとか“つぶやき集(記録集)”もお届けしたいとは思っているのですが、どうなるかまだ分かりません。       (3/18)
 

■7年目の3.11に

 7年目の3.11を前に、大川地区復興協議会の大槻幹夫会長から、大川小旧校舎の遺構化計画や現地で開かれている歴史講演会などについてお知らせと資料が届きました。大槻さんには前にも励ましの言葉をいただきましたが、今回も「オリオンの再開をうれしく思っております。全国に散らばった大川人とその関係者をつなぐ何よりのツールであり、ネットワークですので末永く続いていってほしいと願っております」との激励をいただきました。ありがとうございます。力不足ですが、ご期待に沿えるよう努力したいと思います。

●お知らせ① 大川小学校旧校舎の震災遺構化について
 大川小校舎の震災遺構としての遺し方について、調査や基本設計等の業務をどこが行うかプロポーザル(公募)が選定委員会のもとで行われていましたが、2月25日、優先交渉権者は「AL・総合設計・西澤徹夫・オンサイト・構造計画設計共同企業体」に決定したそうです。詳しいことは石巻市のホームページをご覧ください。(こちら)
 下段には「選定結果・審査講評」がありますのでご覧ください。なお7名の審査員には大槻さんのほか卒業生の永沼悠斗氏が加わっています。

●お知らせ②歴史講演会 「よみがえる北上川河口の歴史」
 大川地区をはじめ北上川河口地域の古い歴史はあまり知られていないのが実情ですが、このところ何回かに分けて東北大学災害科学国際兼研究所の佐藤大介准教授を中心に歴史講演会が開かれているようです。
 今回、大槻さんから送られたものは「仙台領長面塩田の開発」と題された3月3日の資料で、13点の大きな図版と講演内容のサマリーが添えられていました。
 長面ではおなじみの“いつもの平六”さんのことはそれほど目新しくないにしても、追波浜の丸山佐々木家の積極的な開発や名振の永沼家の深い関与など、大川地区ではあまり語られることのなった話も多く含まれていたようです。
 2月10日には『雲容水態』」という県内の旧家から見つかった片倉小十郎(白石の領主)が北上川河口を遊覧した際の紀行文にそって当時を振り返るシンポジュームが行われたようです。
 近年、新進気鋭の先生方によって地域に密着した歴史研究が盛んなようですが、震災で失われた資料があまりに多いために、その反省からも古い資料の整理が急がれているようです。大震災が生んだとても大切な仕事だと思います。

●東京大空襲 10万人死亡
 10日未明、米軍の爆撃機約三百機が東京都内の下町地域を中心に空爆した。午前零時10分ごろから約三時間にわたり大量の焼夷弾が投下され、浅草、向島、本所、深川、城東各区などがほぼ焼き尽くされた。
 という書き出しではじまる「東京新聞」32面全ページを使った記事で、「この誌面は東京大空襲当日の様子を、現在の視点で取材、編集したものです。当時、被害の実相は隠されていました」という断りがあり、
 ・B29 300機低空から
 ・国内最悪の被害
 ・防空法順守で被害拡大か
 ・消火活動で逃げ遅れ  などの見出しがたっています。
 昭和20(1945)年3月10日の大空襲をなぜ今、全誌面を使う形で特集したのかわかりませんが、我が家もこうした空襲を恐れて長面に疎開した一家です。それからの年月は、村の人々の協力や助けなしには成り立たなかった日々でしたが、そういうことも“風化”していきそうな日々です。東京新聞の記事はあるいは3.11を前にして何事も“風化”させてはいけないという思いからかもしれません。      (3/10)

■7年目の命日 語らいのある慰霊碑

 ●間垣慰霊碑建設実行委員会報告書から
 間垣慰霊碑の実行委員会・ヒトボさん(遠藤仁雄氏)から実行委員会の第14回報告書が届きました。
 今年の3月11日は、間垣の慰霊碑が完成(昨10月1日完成)して初めての慰霊祭になりますが、当日の予定は次の通りとのことです。
  日時:平成30年3月11日(日)午前10時
  場所:間垣慰霊碑前
  持ち物:花と線香は実行委員会で用意
  作業:慰霊碑の掃除とお参り
 間垣のヒトボさんは3.11でご両親と奥さまを亡くされましたが、愛郷心のあふれる方で、中学校の裏山後に自宅を再建し、傍らに大川の方々や出身の人たちの語らいの場として食事処「まがき」と簡易な休憩所を設けています。慰霊碑とはすぐ近くなので、「語らいの場つき慰霊碑」ともいえ、多くのことを語り伝える理想的な慰霊の場になると思います。ヒトボさんは今後もいろいろ考えてやっていきたいとおっしゃっています。
 右の報告書には当日の駐車場案内や行事の後の「お茶っ子会」 のおしらせ、今年の今後のスケジュールがありますのでご覧ください。

●NHKスペシャル3月4日、夜9時から
 右の報告にありますが、3月4日(日)夜9時から全国放送のNHKスペシャルで「死角! 河川を遡る津波」(仮)が放映されます。間垣に慰霊碑が建てられたのを機会に、海岸から離れた間垣でなぜ壊滅的な被害が生じたのかという問題を探った番組のようです。ぜひご覧ください。          (2/22)
 

■ビックリ それは私です
 ちょっとビックリ。東京在住のTさんという方から、「それは私です」という嬉しいような楽しいメールをいただきました。義父さんが釜谷のご出身で、大川小学校の並びにお住まいだったそうです。何度も遊びに行っていた大好きな大川の写真などを探しているうちにオリオンに出会い、釜谷の街並みの写真に父上のご実家とTさん自身が撮られた写真を発見したということでした。

 その写真は「ふるさと(旧大川村)写真集」(こちら)の「釜谷」に載っているのですが、少し下の方にKY君MUさん提供の釜屋の街並みの写真2枚があります。その一枚、釜谷のメインストリートを逆方向から見て、三角地帯への坂が突き当りに見える写真の手前左に植物を植えてある家が父上のご実家。また、釜谷の町裏付近で 遠くに北上大橋が見える風景には人物が映っていますが、「ここに写っているのが自分です(笑い」とあり、「KY君MUさんがご提供された写真の撮影者です」とありました。

 KY君MUさんご提供の写真はほかに2枚あるのですが、たぶんこれもTさんの撮影だと思われます。これらの写真ページを作ったのはずいぶん前で、当時は震災前の写真が少なく、同級会のときに何かあったら貸してねとお願いしたところ、同級生のMUさん(横川・市川市在住)が親戚だったか友人だったかのKY君に借りたものということで送られてきたものでした。
 ご関係の方の目にとまってほんとうによかったです。
 Tさんは「大好きだった故郷がなくなってしまった事を忘れて欲しくない。そして、二度と犠牲者を出したくない、これを後世に伝えることが自分達の使命なのかなと思っております」とおっしゃっていますが、父上は大川地区「記憶の街」模型復元プロジェクトの仮設置式典にもご参加されたそうです。

 Tさんが大川で遊んだのはいつ頃のことでしょうね。写真や思い出がありましたらぜひお寄せください。
 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。           (2/21)

■パソコンの動作確認です
 2月も下旬になりました。今日は東京はようやく少し暖かいですが、また明日から寒くなるようです。皆様いかがお過ごしでしょうか。もうすぐ春が来ると思います。どうぞお気をつけて。
 特に新しいお知らせがあるわけではありません。パソコンの切り替えに伴うあれこれで、まだオリオンへの記事のアップができるかどうかのテストをしているところです。お知らせしなければならない「つぶやき集」の完成時期ですが、編集の関係でまだメドがたっていません。でも必ず完成させますので、もうしばらくお待ちください。たびたび遅延のお知らせばかりで申し訳ありません。「つぶやき集」の内容や遅れのお詫びなどについては昨年末のこちらをご覧ください。 
 なんとかまだオリオンへの情報アップはできるようで、メールなども大丈夫ですので、なにかございましたら連絡をください。ともかく「つぶやき集」のお約束が果たせるまでは、まっとうなオリオンの更新はできないなあ、という気持ちでおります。啄木はある約束を果たせなかったことを「狂せんばかりの地獄」と表現したそうですが、私も鈴木惟司さんも、同じような気持ちでいることを先日電話で話し合いました。      (2/22)

■大雪とか寒波とか
 東京の今朝は、積雪が20数㎝もありました。私も10時ごろ駐車場に行ってみたら、ご近所の方々がもう始めていて、少しでしたが手伝いました。東京から長面に帰る時は必ず通る山手トンネルで、10時間も立ち往生なんてニュースもあって、都市の脆弱さを痛感します。この雪は田舎はどうなのかなと心配していますが、石巻・仙台あたりもけっこう降ったようですね。次は寒波のようですが、どうぞお気をつけて。
 白根山が突然噴火したり、アラスカ方面の海でマグニチュード8とかの地震があったり、日本のどこでもいつ何が起こっても不思議じゃありませんね。針岡のKSさんに見せていただいたスクラップブックの中に、東日本大震災クラスの津波がいま全国を襲ったら、居住禁止区域が30%か何かで、何百万世帯が被災するというような記事のあったことをいつも思い出します。
 それはともかく、“突然”というのはほんとに困ります。正月以来あれこれバカバカしいことが次々に起こって、それに1月中にどうしても片付けなければならないことがあって、こちらをしばらく放置してしまいました。
 まずテレビが突然ダメになったと思ったら、今度はパソコン。ワードをゴチャゴチャいじっていたら、保存もプリントもできなくなりました。幸いメールやネットの閲覧は可能で、オリオンの更新も今のところ大丈夫ですが、いつクラッシュするかわかりません。もしかするとまたしばらく音信不通になるかもしれません。できるだけそういう事態は避けたいと思いますが……。
 体調の方は腰の状態はだいぶ良くなったのですが、別の問題がこれも突然出てきました。テレビもパソコンも10年弱でダメになったのですから、76年間も休まず働いてきた部品の一部がちょっとぐらいおかしくなっても不思議はないですね。人体というのは驚異的なものだと思います。 プライベートなたわごとですみません。      (1/23)


■10日になってしまいましたが

 ずっと気になっていて、松の内になんとかしようと思っていたのですが、分浜・高源院ご住職(大崎市松山眞源寺住職兼務)の齋藤政裕師から送られた昨年夏ごろのお便りをご紹介します。

   

 曹洞宗の梅花流ご詠歌の機関紙『みやぎ梅花』の表紙を、師が10数年前に長面の松原で撮ったフクロウの写真が飾っています。師は声明(しょうみょう)の名手で、梅花流特派師範で全国を駆け回っていましたが、現在は松山の眞源寺と分浜の高源院住職も兼務しているため、特派師範は退いているそうです。この写真と文のシリーズは10年以上続けているそうです。
 右の写真をクリックすると文も読めると思いますので、ご覧ください。
 なお、齋藤政裕師は松原・東光園の日本画家・永沼夢郷さんのお孫さんにあたる人で、分浜・高源院の襖に描いた成道図の賛の詳しい解説もいただきました。こちらもどうぞご覧ください。   (1/10)

■新春のお便りあれこれ
 あけましておめでとうございます。私自身は震災以来、なんだか無常感みたいなものにとらわれて翌年から賀状を失礼しているのですが、それでも新しい年を迎えると皆さまから楽しいお便りがぽつぽつと届きます。以下、新春の雑談をお届けします。
●Old間垣Boyさんのデジタル賀状
 名取のOld間垣Boyさんからオリオンの再開を祝うデジタル賀状がとどきました。Old間垣Boyさんは小学校時代を間垣で過ごされた方で、ジオラマの作成などにも当初から協力いただいた愛郷心あふれた方です。少年時代の思い出がこちらにありますのでご覧ください。
 賀状には
 「停止状態が延々と長引き、よもや、状況の悪化では? と、気にかけておりました。が、年末ギリギリのアクセスで杞憂であったこと判明いたし、安堵した次第です」とあり、右のカードが添えられていました。
 かーどには「冬の星座」の歌詞が書かれ、オリオン座の近くにスバルがきらめいています。その意は「オリオンのそばにはいつもスバルもあって、双方がさざめいている」というメッセージのようでした。

●AK君の10000歩
 一昨年、私が軽い脳梗塞を起こす少し前に、大川中同級のAK君が脳梗塞を起こし、去年の同級会でも会えませんでした。そのAK君から「毎日の散歩が日課で、午前午後の10000歩です」というメールがありました。彼とはとても気の合った友達で、教室の廊下や軟式テニスでいつもじゃれあっていました。
 それにしても10000歩というのはすごいですね。私は「今日はずいぶん歩いたな」と思う日でも、2、3000歩ぐらいです。もう少し動かないとだめですね。

●「世界は日の出を待っている」
 敬愛する長面の先輩AIさんと数年前に60年ぶりぐらいに会いましたが、そのとき「毎年元旦にはジョージルイスの“世界は日の出を待っている”を聴く」という話を聞きました。私もジョージ・ルイスのその演奏が大好きで、私もAIさんも同じレコード盤を持っていることが分かったので、毎年二人で同じ演奏を聴く思いでいました。
 ニューオリンズ・ジャスバンドの面々はリーダーのジョージルイスをはじめ、皆よれよれのお爺ちゃんなのに、いったん楽器を持つとシャキッとしてものすごいエネルギッシュなデキシーを演奏します。
 昨年の7月、私がいちばん落ち込んでいた時期に、北斎が70代後半から本領を発揮し、80を超えてから信州・小布施に赴いて大きな仕事をしたと聞いて、元気をもらいに同地の北斎館に出かけてみました。あまりに暑い日で、ぐったりしてしまったが、それにしてもすごい人だなあと思いました。
 ニューオリンズ・ジャスバンドの面々は、きっと北斎みたいな人達だったと思うくらいエネルギッシュなんです。で、今年も「世界は日の出を待っている」を聴きましたよとAIさんと妹さんのFSさんにメールしたら、なんとFSさんから
「ジョージ・ルイス、懐かしい名前です。たしか60年代後半、仙台労音の企画だったと思いますが、ジョージ・ルイスとニューオーリンズジャズ」のコンサートに行きました。終了後、図ずしくも楽屋まで押しかけて挨拶し、握手をしました。大きな手なのに長くて細い指でした。指の色も覚えています」というメールが返ってきました。
 すごい!ジョージ・ルイスと握手した人がいるなんてと、改めて感心しました。

●KKさんから幕末の石巻について
 尾の崎の近藤さんから元日に
「本日付の石巻河北電子版「メディアの猫」に、幕末、榎本武揚や土方歳三が蝦夷地に上る途中石巻地方に滞在して無理難題を吹っ掛けた記事が載っています。物語でしか知りえない彼らが石巻で足跡を残していたとは、なんか親しみ、人間味を感じます」という便りがありました。その記事はこちらです。

 この件に関連して、私が別件で集めているものに、長面の榊とくゑさんが「脱走のこと」として語っているものが『河北町誌』(昭和54年刊)にありました。
 ※ここでいう「脱走」とは、明治元年、戊辰戦争に敗れて逆賊となり、仙台藩の降伏を潔しとしない脱藩兵が、石巻沖に投錨していた榎本武揚の艦に長面・尾の崎を通って合流しようとした者たちのこと。

 長面の永沼家(現当主 悦夫氏)は、藩に献金などをして士分扱いを受けるほどの富裕な農家であった。 脱走が来るというので、主人悦之助(悦夫の父)と家族は分家にいき、分家の主人である悦之助の弟小三郎は、死を覚悟して本家にきて使用人の若者と二人居残っていた。
 南條組という脱走が二十人、どやどやとやってきた。小三郎は
「私が主人です」といって応対した。米は一部は分家に運んでおいたので、言うままに倉をあけた。脱走は「長面中の強力者を集めろ」と命じ、その米を尾の崎峠を越えて名振まで運ばせたそうである。永沼家に入った脱走はおとなしく引揚げたという。
 また、別な脱走は高清(たかせい)(現当主哲郎氏)に入った。高清では、産室をつくって産婦に仕立てた女の人を寝せて、大切なものは産室にかくし、脱走が入ってきたとき、
「金はこれだけだ」と巾着に入れておいた金を差出した。脱走たちは産室と聞いてのぞきもしなかったそうである。
 私の養母は小三郎の娘、私は小三郎の孫で、二代榊の家にきたのだが、養母(叔母)はずっと本家にいたので、死ぬまで「仙台の南條という侍は、泥棒で悪党者だ」と語っていた。
 南條は百石の武士で代々八十郎を称し、学者も出た家であったが、酒の好きな家柄であったようだ。
         (脱走と応対した小三郎の孫・榊とくゑさんの伝え聞き)

●KS君の「関東大震災直後の針岡」写真集
 東日本大震災から数か月後だったと思うが、針岡の佐藤孝一君から大川に関連した新聞の切り抜きブックと直後に針岡周辺を撮ったポケットアルバムが送られていました。
 お休みをいただいている間に、震災関係のスクラップブックを改めて見ましたが、久々に見る迫真のドキュメントで、改めてオリオンにも収録したい衝動にかられました。しかし、冷静に考えてみると記事や写真はすべて新聞社や個人に著作権があるので、新聞記事の掲載は断念せざるを得ませんでした。
 同時に送られてきた、富士沼周辺の農地などを撮った孝一君の写真も、改めて見るとこんなひどい状態だったのかと驚かされます。
 7年経った今は、何事もなかったように田畑の耕作が行われていますが、ここに至るまでの苦労は並大抵ではなかったと思います。震災の大きさを風化させないためにも、佐藤君の写真だけでもと思い、パラパラ図書室に収録しました。
 パラパラ本にするにはちょっと面倒なスキャンをしなければならないので、手抜きをしてポケットアルバムをそのままスキャンしてみました。ちょっと見苦しいのですが、お許しください。図書室はこちらです。
 なお、ここに写っている耕作地の大半は、昨年、お米の収穫までは順調でしたが、大豆の収穫時期に台風の雨によって1週間も冠水したそうで、収穫はほとんど望めないということでした。佐藤君は「針岡は山を背後にしているので、大雨の被害が多い。針岡は農業には向かいないので、生まれ変わったらどこか良いところへ婿入りでもするよ」と冗談を言っています。              (1/3) 

TOP はじめに 大川村の位置と地図 ふるさと写真集 津波そのとき 学校のこと はなし語りしすべ 掲示板 LINK