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(DIARY) 2021年1月~


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■2022年になりました。今年もどうぞよろしく。
 昨年の10月~12月まで不良が続いていましたが、ナントカようやく普段通りに回復しました。あらためて新年おめでとうございます。で、思いついて「風だより」に何か書こうとしましたが、ここは2021年の頁だといま気がつきました。うまくできるかどうかわかりませんが、2022年のページを作ってみます。(こちら)です。            (1/07)

■地獄の 私家版緊急事態
 地獄といえばちょっと大げさですが、最近やっと人ごこちがついて毎年の健康診断とかに行ってきました。
 石巻で3日通夜、4日葬儀なので痛い足を引きずって新幹線で出かけました。はじめは仙台でレンタカーを借りて車で石巻に行くのが良いかなとと思いましたが、仙台駅始発の仙石線快速というのがあるのを知って、石巻まで電車にしました。
 快速と言ってもほとんど仙石線を走るようですが、塩釜駅はありましたが松島海岸駅はないという不思議な電車。仙石線の1時間半は退屈で嫌いなのですが、快速は1時間ちょっと。それでもちょっと退屈でした。

●通夜の戸惑い
 電話によると3日の通夜は新しく蛇田にできた合同庁舎(誰に聞いても何が入ってるのか知りませんでした)近くのセレモニーホールで親族関係が17時から、18~20時が一般ということで、東京式に私服で行ってよいのかどうか迷いました。ホテルの人に聞くと「こちらでは喪服で行きますね」ということで慌てて着替え。17時開始の通夜には遅刻してしまいました。
 東京と違って通夜も厳かな式典らしく、導師の齋藤文隆和尚に久々にお会いできました。親族の通夜は、イトコ、イトコの子、その他久しぶりの懐かしい面々で兄貴も微笑を浮かべた寝顔で楽しんでいたようでした。なかでもイトコの子さくらちゃんに出会ったときはなぜか涙が出そうになりました。でも話をしたのはさくらの隣に住む福地の同級生YHちゃんの話ばかりでした。
 さて問題は一般の通夜のお客さま。石巻では地域の新聞に通夜と葬儀のお知らせを出すのが通例だそうで、それを見た友人知人が三々五々やってきます。こちらは一応喪服を着た親族なので、出入り口近くで立ってお辞儀をしないといけない。田舎を出て50年も経つし最近の兄の付き合いはまったくわからないから、ほとんど義理のお辞儀なのだが膝が痛くてそのたびに立ったり座ったりするのが辛い。
 私の同級生の針岡のSUちゃん(川崎)のお兄さんで、兄と同級生の一本杉のTSさんご夫妻も来ていただいたそうだが、顔を知らないために挨拶はできずじまいでした。それでも五郎先生のご長男の永沼悦夫先生の奥さまが見えられて、悦夫先生のご著書『夕照』を頂けたのは幸いでした。

●葬儀から納骨まで
 4日の葬儀は朝から齋藤和尚が大活躍、私と同級生で幼なじみなのだが、声も朗々、かくしゃくとして元気だった。ただ、最近白内障がひどくて対向車の光がまぶしく、昨夜の帰りは怖かったと言っていた。葬儀では本当に久しぶりに松風(まつかぜ=イトコの子、ナガコーの孫で、サクラとかマツカゼとか変わった名をナガコーさんがつけたという)君に合うことができて嬉しかった。
 葬儀は百か日までの法要が昼ごろに済んで、直会の会食があるのだけどコロナのせいで会食は禁止とのことで、でっかい三つ重ねの詰め合わせが用意されていた。今日のうちに長面の墓地に納骨までしてしまうとのことで、その詰め合わせも車に積んで同道。
 私たち夫婦は登米・寛二郎さんの長女・T子ちゃんの車に乗せてもらって、長面から尾の崎の寺まで案内してもらった。といっても巨大な堤防の下を通るだけ。「なんなの? この橋は」と姪もつぶやいていました。義兄・寛二郎さんも昨年亡くなったが、コロナで葬儀にも行けなかったので、今回はぜひ登米にも行きたかったが、T子にもK子にも会えたので登米にはいかなかった。
 墓地でみんなが落ち合い、納骨が終わるまで私は永沼の墓や羽生の墓、玄栄さんの墓にお参り、玄栄さんの丸石は水をかけると文字もはっきり見えました。
 蜂窩織炎で9/25と27に抗生剤の点滴を二日間したのですが、看護師さんがこの点滴で下痢をする人がいますが、大丈夫ですか」と言ってましたが、この墓地のあたりから腹具合がおかしくなって苦労しました。

●すしかウナギか弁当か
 石巻のホテルへはイトコ潤ちゃんの弟SA君に送ってもらい、悦夫先生の奥さまに合えなかったのを残念がっていたので、奥さまにいただいた『夕照』を一部差し上げた。石巻に行けば必ず矢本の潤ちゃんを訪ねるのだが、今回は車が無かったので寄らずに帰った。
 10/5に東京へ帰り、長野の小屋の冬支度をしていなかったので、7日には御代田の小屋へ。8日にタイヤ交換ほか物置など外回りの冬支度をして、あとは衣類の冬支度だけとなった9日、夕方に39.8度の高熱が出た。平熱が5.7ぐらいの私なので、歯の根が合わず、身体はガタガタ震えて止まらない。これは80年の人生で初めてのことでした。
 心配したカミさんが救急車を呼んで、小諸医療センターというところへ。ここで3時間ほどの長い点滴をしながらPCR検査なども。てっきりコロナかなと思ってましたが陰性でした。「原因はよくわからないが、熱も下がってきたので今日は自宅へ帰りましょう」ということで深夜12時過ぎにタクシーで小屋に帰りました。
 ところがここからが地獄。モーレツな下痢が始まってトイレに行くまでに垂れ流す始末。息子に電話して明日迎えに来てもらうことにした。10日になっても下痢は収まらず、トイレに行っては用心しながら冬の衣服の持ち帰り準備。
 10日の午後に家について、11日にかかりつけの医者に。下痢止めと熱さまし、それにふだんの薬をもらって、一度飲んだら下痢も熱もぴたりと収まりました。かかりつけの千恵子先生の診断は「当たったね、食あたりです」。食あたりでもひどい時は熱が出るそうです。(他の人は大丈夫だったかなあ)
 千恵子先生の父上の代からお世話になってるクリニックだが、いつか何かの時に先代の先生に「これで私の寿命もおしまいですか」と言ったら「馬鹿言っちゃいけない。人間はそう簡単に死ねないんだよ」とおっしゃってましたが、ご本人は死ぬ3日前まで診療を続けていてスッと逝ってしまったそうです。
 考えてみるとお墓にもっていった詰め合わせを夕食にしたのが間違いのようです。ホテルの近くにおいしいすし屋があり、ホテルには美味しそうなうなぎ屋もあって、今日は寿司かウナギにしようかなどと言ってたのですが、持ち帰った巨大な3段重ねの詰め合わせを開けてみると、それはそれは美味しそう(に見える)豪華で巨大な代物。石巻の人はすごいねなどと言いながら、私は刺身と寿司を食べ、カミさんんはほとんど手を付けずにフロントの人に廃棄してもらいました。通夜にもこういう詰め合わせがあったので、二晩続けてフロントの人も困ったと思います。
 10/27現在、今はもうすっかり回復しました。昨日は自転車で皮膚科と眼科に行きましたが、上り坂で左ひざが少し痛むぐらいで、ほとんど大丈夫なようです。
 ちなみに蜂窩織炎(ホウカシキエン)は皮膚科に行くのだそうで、足のむくみや頭がボーっとしているのが気になって、腎臓内科に行ったら診察拒否されました。      (10/27)


■里山の悪魔 蜂窩織炎のこと
 カボチャ畑の東側がカラマツの林になっていて、下草というか灌木やツルが下の方に生い茂っている。ソゾメ(ガマズミ)、アケビ、ウルシ、スイカズラ、その他何の木か分からない繁みが、屏風のように立ちふさがっていて、風も日光も通らない。
 9/10、意を決してこの繁みの取り払いにかかった。古い幹にもトゲの残る灌木や青くてトゲのある蔓バラなどと大格闘。思いのほか風も日光も届かなかったが、農道が広くなって気持ちが良かった。
 この日に鎌の先を左ひざにチョコンと当てたのと、バラのトゲを右手中指の先に手袋の上から刺してしまった。1ミリにも満たない傷だったが、一応マキュロンを吹きかけ、なんとかマイシンという薬を塗って絆創膏を貼っておいた。
 この山仕事は1日おきぐらいにやって9/16に終了。東京の病院で9/22に膀胱鏡検査をし、抗生剤を3日分もらった。右手中指がちょっと腫れていたので、この抗生剤で直るかなと思ったが、3日分を飲み終わるころ突然左ひざが痛み出し、歩けなくなった。ともかくものすごい痛みで山を勝手にいじった祟りかと思った。
 近くの整形外科に行くと、超音波で診て「中で膿んでいる」とのこと。抗生剤の点滴をして、さらに3日分の抗生剤をもらった。全然良くならずにまた医者を訪ねるとさらに点滴をもう一本と5日分の抗生剤をもらった。こんなに抗生剤を続けて大丈夫かなあ、と不安になります。
 念のためにМRIを撮ると、蜂窩織炎(ホウカシキエン)だとのこと。膿が一ヵ所に固まってなくて皮下に散らばっているので、切開して膿を出すわけには行かないそうだ。それに半月板にヒビがあるという。お相撲さんが蜂窩織炎で休場という話をよく聞くが、なるほどこにの痛みでは相撲は取れないだろう。
 膝の痛みが廻りの筋肉を弱くしたのか、膝が逆方向に曲がりそうで不安。サポーターでガードしてもらって、なんとか歩けるようになった。
 早朝、石巻から電話。謙輔兄が今朝亡くなったとのこと。しばらく病んでいたことなので仕方がないです。コロナで義兄の葬儀にも行けなかったので、しばらくぶりで石巻に行ってみようと思います。    (10/01)


■電子レンジと電子顕微鏡 高橋勘次郎さんのこと
 高橋勘次郎さんとの初めての出会いは、昭和50年代の初め頃だったと思う。当時、高校の東京同窓会に月1回の会合があり、幹事が面白い人を見つけてきて1時間ほどの口演を依頼していた。
 その月のゲストは戦時中の海軍技術研究所でレーダーなどの開発にかかわり、戦後の何もない時代に風戸健二さん(同研究所所長)らと電子顕微鏡の開発に成功した人ということだつた。
 当時は日本電子㈱の専務で、話の内容は高周波とか電磁波とか文系の私にはよく分からなかったが、電子レンジの原理を発明したした人だと聞いて親しみがわいた。しかも終戦直後の混乱の中で電子顕微鏡の開発に成功したというので驚いた。
 見かけは品の良い近所のおじさんという感じで、学者のような雰囲気もバリバリのビジネスマンという感じもまったく無かった。
 敗戦の年の昭和20年、千葉県の茂原に日本電子(㈱)の前身である㈱電子科学研究所を風戸健二さんが設立、1年後に高橋さんも参加した。戦時中の風戸さんは海軍少佐で「電波誘導式対空ロケット」の開発などしていたが、高橋さんは軍艦のレーダー開発などをしていた。
 そんな話は何となく男の子の冒険心をくすぐるので、「もう少し詳しく話を聞きたい」と申し出た。「いつでもいいですよ」と快諾してくれて、立川のご自宅にお招きいただいた。レーダーの開発とかも大変面白く、風戸さんと電子顕微鏡をやろうと決心した話などはビジネス教養書としてもおもしろいと思った。
 ただ私は科学技術には詳しくないので、Fさんというゴーストライターをお願いして本の執筆が始まった。結果は立派な原稿が仕上がったのだが、Fさんは大変筆が遅く、本になるまではずいぶん時間がかかったことを記憶している。
 その本は『先端技術への挑戦~マグネトロンからオプトメカトロニクスまで~』として1981年の1月1日に出版され、各方面からかなりの好評を得た。高橋さんはその前後『高周波の基礎と応用』『高周波の工業への応用』など、オーム社や東京電機大学出版局などの科学技術系出版社から多くの本を出版している。
 前に書いた山下博典さんを紹介して頂いたのも高橋さんで、山下さんが三菱電機時代に蛍光灯をもっと早く点灯するように苦心していた時代に一緒に研究したのだそうだ。私が別の版元で企画に困ったときには『技術の眼技術の芽』という本を書いていただいたこともある。
 最後の本は『日本電子㈱産業機械事業の黎明~その人と技術の懐古~』という本で、日本電子㈱の草創期からの事業の詳細が懐古されていた。この本は私が始めた小さな出版社から出版されたが、後輩の皆さんの尽力で盛大な出版記念会が催された。
 このとき高橋さんは「岩澤さんは私の恩人だよ」とおっしゃった。「えっ?なぜですか」と聞いたら「本を書いて、こうして皆さんに喜んでいただく楽しみを教えくれたのは君ですよ」とおっしゃってくれたのが忘れられない。
 この出版記念会の後、1カ月もしない内に高橋さんは亡くなった。
 この高橋さんや山下さんは、私の成人してからの大恩人で、幼年時代の古里の方々と同じように私の生き方を支えてくれた恩人と思っています。  (9/30)


■カボチャのお写真
 8月、草原状態の畑の草を刈りつつ、坊ちゃんカボチャを採りました。桃の実ぐらいの小さなカボチャで一株の苗から10個ぐらい採れます。畑の手入れができないので、雑草が繁っても大丈夫なように棚仕立ての空中カボチャです。
 思いついて塩田の幼なじみFSさんに2個送ったら右の写真が帰ってきました。この写真を長面の現在の風景などを撮っていただいているFSさんの同級生ヨッチャン(石巻市)に見せたら
「S(同級生だから呼び捨てなんですね)のセンスに感心しました。素晴らしいカボチャの顔を表現できるセンスを持ったSを見直しました。ピンともしっかりしていて拡大しても綺麗です。写真付きでオリオンに投稿してください。期待してます」と絶賛されたそうです。
 というわけで写真をご覧ください。残念ながらあまり大きく拡大できませんが、下は管理人のカボチャ畑で、手前は刈り払い前の雑草、ピラミッドみたいなのがカボチャの棚です。       (9/15)


■愚翁の世迷言
 このコーナーは『ふるさと風だより』」ということで、ふるさとの風の便りを管理人自身の懐かしさを加えて「ふるさとの今」を少しでも紹介できたらと思って書き連ねてきましたが、最近は私自身の気力体力の衰えもあって、これといった情報収集も出来なくなっています。
 最近ようやく80歳になって、少し田舎から離れた話題でもいいかななどと思い始めました。いわばブログ風に身辺雑記を綴ろうと思うわけですが、これも長続きするかどうかわかりません。その前に、大川の情報そのもののお知らせをしておきます。
 間垣の遠藤仁雄さん(オリオンではヒトボさんというお名前でもたびたびお世話になっています)がFacebookで折々の情報を発信しています。『大川まがき
(こちら)、そしてその名も『遠藤仁雄』(こちら)そのもののFBです。元々は試行錯誤しつつ携帯用とPC用をつくったそうです。私はFBがあまり好きではなく、アカウントがないので詳しい内容は分かりませんが、新鮮な大川情報が詰まっているはずです。ぜひ覗いてみてください。
 今日も長野の畑は昼から雨で、午後は大雨、明日も大雨になるそうです。大雨関連の災害のニュースも多いですが、子供のころ長面で暮らしていて感じたことは自然の大きさというか、スゴサです。
 ①東北地方の大雨の後の追波川の満水
 ②松原から見る追波川上流方向の夕焼けの美しさ
 ③コチ風に乗って尾の崎の山を越えて長面浦に流れ込んでくる雲?
 他にも幾つかありますが、雄渾というか雄大というか子供心に畏敬の念を抱く風景でした。

●愚翁の千慮
 畏敬の念と言えば、成人して仕事をしていたころ「凄い人だと」感じて私淑というか親炙(しんしゃ)というか、今でも心から尊敬する人が二人いる。一人は山下博典、一人は高橋勘次郎という。山下さんは三菱電機の部長時代、社長と大喧嘩して飛び出し、リコーの副社長、コニカの副社長として活躍した人だ。コニカの副社長に就いたときは「業界三段跳び」と話題になった。
 知合ったのはリコーの副社長時代で、環七沿いの工場長をしていたところに何度も通って話を聞いた。この時の話などをまとめて頂いたのが『同志技術者諸君』。けっこう評判になって中公文庫で再版された。当時の技術者は、文系の経営者たちに牛耳られていたが「それではいかん」、技術者も経営感覚を持ったトップになれという趣旨の本だった。なかでもほとんど一人でアメリカに工場を建設した話などはおもしろかった。
 以後、私は企画に詰まるとハクテンさんにお願いして『技術バカではあかん』なども書いてもらった。大阪出身の阪大卒、工学博士で繊細かと思えば豪胆に事業を進める姿は素晴らしかった。
 一般市販の本の外に、私が伝記出版に興味を持ったときは、「市販のビジネス書には書けないから」と三菱電機社長との1件を詳細に書き記してくれた。なんとケンカの原因ははっきりと実名は書いていないが、どうも私の高校の同窓会長を務める西澤潤一氏らしい。半導体の世界的権威で飛ぶ鳥を落とす勢いの西澤氏を向こうに回してのケンカである。
 タイトルに迷って私は愚考を重ね、『愚翁の千慮』という案を示した。奥さまが「そうね、もう翁でもいいか」とおっしゃられて一決した。私は翁という柄でもないし、千慮というほど思いも深くないが、愚翁の千慮みたいなタイトルで何か書いてみたい。でももう千慮は使えないから、世迷言にしようと思います。
 ハクテンさんにはもう1冊『指』という自費出版の本もあった。職人の指は、高価な機械よりも精細で、ミクロンクラスの歪みも察知するという話や指紋の話、果ては女性が喜ぶ指使いまで触れてあった。
 そういえばリコー時代だったと思うが、当時の半導体そのものを黒い七宝焼きに閉じ込めたカフスボタンを作ってくれて、私は、「これが半導体だぞ」と私はしばらく会う人ごとに自慢していたことがあった。片方はごく最近まで残っていたが、もうないかもしれない。

●電子レンジと電子顕微鏡
 高橋勘次郎さんは電磁波の専門家で、ハクテンさんを紹介してくれたのも高橋さんです。高橋さんについては機会を改めて書きます。    (9/8)

■懐かしい古里からの便り その1
 前回の更新が5月ですから5カ月ぶりに近い更新です。本当にすみません。昨年の今頃は膀胱がんの治療で何もできませんでしたが、今年も例年と違って身辺はコロナとかマンションの大規模修繕とか、それに雨と高温の春、夏でホッとする間がありませんでした。
 今年も長野に来ていますが、畑は雑草が太ももあたりまで密生(雑草にコロナはないようです)。一応、畑であるという面目を保つために毎日草刈りでした。草取りではなく刈払い機での草刈り。普段の運動不足もあって全身が痛みます。年ですね。
 針岡のKS君も「今年は草のオガルのが早い」と言ってましたが、庭も畑も荒れ放題(去年病気で何もしなかったからでしょう)。畑は春に浅間山から取ってきた山のフキを一坪ばかり植え、ニラ、ゴーヤの種をまいて、カボチャを6株植えました。棚仕立ての坊ちゃんカボチャで8/20に一次収穫。
 種をまいたニラ、ゴーヤ、エダマメは草に埋もれて一本も見つけることはできませんでした。つまらん管理人の近況はともかく、懐かしいふるさとの便りが東京から転送されてきました。消印を見ると8/1前後です。対応が遅くなってすみません。

①久々に尾の崎のKKさんから
 「当方なんとか三疎状態でひっそり生きております」という書き出しで、猛暑に続いて長袖にベストを羽織っている。コロナは石巻地方にもじわりじわりと押しよせているよう。
   ・僕三疎 外食なんぞ二年もない
 私も家内も対コロナでは全くの優等生です。趣味の松かさの壁飾りは最近はさぼりがち。ただ、川柳の方は健在のようで、
   ・青い鳥 探しあぐねて喜寿の秋
 というのが市長賞(平成2年11月)に輝いたそうです。
  二子団地のみなさんは息災とのことでした。一人ひとりお名前を挙げてくれて変わりのないことを喜びたいと思います。タコちゃん、ムッチャンも齋藤和尚も元気なようでなによりです。針岡のテケちゃんはイトコだそうで、「腰は曲がったけど一本気な気象だけは衰えずに健在だそうです。
 たまにオリオンも開いて見るそうで、「尾の崎橋の突き当たり、おにぎりのように残った下に我が家がありました。直ぐ対岸が管理人さんの家でしたね。全地100万円で日本国に買い上げてもらいました。工事はのり面が崩落して一時中断していたようですが、またチンタラ始まったようです。人の住めない郷に巨額のゼニをかけて、日本国はゼニがあるんですねぇ」
 「高橋幸男さんとはコロナ前に会いました。ビッグバンで東北大学の歴史講和があった時です。帰りにお声がけしようと思ったのですが、幸男さんはせわしそうに帰られて出来ませんでした。」
 終りに 「オリオンや思い出の中でよき往時をしのんでおります。」とありました。ありがとうございます。

 もう1通、まがきの遠藤仁雄さんから「まがき慰霊碑保存会報告書」と最近の大川地区のくわしい近況が届いているのですが、写真のスキャンなどがうまくいかないので、次回にご報告いたします。       (8/23)


■懐かしい古里からの便り その2
 上のKKさんの便りと一緒に“まがき”の遠藤仁雄さんから「まがき慰霊碑保存会報告書」その他が届きました。
① まず慰霊碑のご供養は8/8(日)午前10時~11時 間垣さくら広場慰霊碑前での開催予定があり、
 9/4(土)午前10時~午後4時まで
 9/5(日)午前10時~12時までの2日間は
「さくら広場の草刈りと桜の木への追肥作業のお知らせがありました。
※8/24の追伸で、「宮城にもまんぼうが適用されたこともあり、間垣さくらひろばの桜への追肥作業と草刈作業は、11月までの延期にさせてもらいました。“まがき”も912日まで休業します。」とありました。


②大川の近況が写真と共に
 さて「2021まがき慰霊碑保存会報告書」には8枚の写真とともに、大川の近況が語られていました。PCのスキャンが不調で写真掲載の方法も忘れかけているので

 
大川震災伝承館

  伝承館内部
 
伝承館内部
 
デ・リーフデ大川

、うまくいくかどうかわかりませんがやってみます。

●大川小学校の震災遺構施設および学校周辺の整備作業が完了して7/18から一般展示が始まりました。この4連休にはのべ2300名の方々が訪れ、平日でも40~100名近くの方々が訪れる施設になっています。
 震災遺構は20日で完成一か月になりますが、このコロナ過の中全国から大勢来て頂き、入場者数が1万人を超えたとの事です。いつ見ても車は10台以上止まっています。展示の中身については市長も改善していく方向だと言っているのでこれからだと思います。

●大川小学校の下流側、釜谷の裏地区にはオランダの野菜工場のシステムを取り入れたパプリカ、トマト工場“デ・リーフデ大川”が旧谷地中近くまでの大きさでできました。本当に大きな建物で、昔で言えば久道酒屋のあたりから釜谷裏のはじまで続いている建物です。


オリーブの林 

コミュニティセンター内の体育館
 
 
実ったオリーブ
 
大川コミュニティセンター

●また、大川小学校並びの旧釜谷木村鉄工跡地には北限のオリーブ=石巻オリーブとして生産3年目のオリーブ園もできています。今年は雄勝、大川、北上地区で1000㎏の収穫を見込んで、この秋には試験販売も予定しています。


●最直近では7/30オープン予定の大川コミュニティセンターが完成します。格子模様の写真は同センターの体育館の内部です。外側が木製の格子になっていて少し 柔らかい感じの体育館になっています。バレーボール、バトミントンが1面、卓球台は2設置できます。


●あわせて大雨が降ると陸の孤島になってしまう針岡地区へのアクセス道路がかさ上げされ増水でも陸の孤島にならない手だてが整います。少しずつではありますが、暮らしやすさも改善されていくことと思います。
※写真をクリックすると少し大きな写真が見られます (アタマも体もボケたせいか、なかなかうまくいかなかったのですが、なんとかリンクさせることができました)

以上、まがき慰霊碑保存会事務局の遠藤さんのお便りから引用させていただきました。新しい大川のスタートがひしひしと感じられます。遠くから願うだけで何もできませんが、頑張って下さい。       (8/23)


■気味の悪い地震が続きます
 今日(5/1)の10時過ぎ、宮城北部で震度5強の地震があったそうです。町のゴミ処理場から戻って、連休前のひと仕事が終わったとホッとしてTV�をつけたら地震のニュースでした。
 最近、東北ばかりでなく全国的にも地震のニュースが多く、巨大地震の予兆かと薄気味の悪さを感じていたところでした。宮城県北部が5強ということなので、兄弟や同級生にとりあえず電話。じつは最近は震度4ぐらいは慣れっこになっていて、たぶん大丈夫だろうと電話もしないことが多かったのです。
 石巻・登米・矢本・大崎の兄姉やイトコは本人や家族は無事でしたが、戸棚の中の食器や飾り物がぐちゃぐちゃになったり、仏壇から位牌や写真が落ちたりしたそうです。揺れの大きさとともに、「長~い地震だったよ」というのが共通の感想でした。大崎の寺の庫裏では、台所のドアがひとりで開いて中のものが飛び出したりしたそうです。寺も大きいですが庫裏も大きいので、イトコは「台所のあたりが強く揺れたんですかね。居間はそうでもなかったけど」と言ってました。
 矢本のイトコは「こっちは2月以来、毎月5ぐらいの地震がつづいている。巨大な地震がまた起こるのではないかと気味が悪い」と言ってました。
 針岡のKS君は田圃に行くとき地震が起こり、「原から鳥屋森への坂で車の前に石が落ちてきたよ」と話していました。明日から田植えが始まるそうで、今年は去年と同じ6町歩のお米を作るそうです。代掻きが終わって、明日から田植えを始めるとのこと。
 「今年はコロナもあるし、仙台の息子も孫も手伝いに来れないから、一人でやるしかないな。3日ぐらいかかるだろうけどがんばるよ」とのことでした。しかしまあ、6町歩の田植えを一人でやるなんて、昔は考えられないことですね。もう歳なんだから、あまり頑張らないでください。ちなみにワクチンの予約は連休明けからのようです。
 久しぶりの田舎への電話なので、福地のYHさんの声を聞きたくなって電話してみました。「2階にいたんだけど下に降りられなかった。閉じ込められたらどうしようと一瞬考えた」そうですが無事でした。
 お互いにあっちが痛いこっちが痛いと言いながらの、庭仕事や畑仕事の近況を報告しあいました。家のすぐ前の小川が長いこと工事中だそうで、普段は静かな山間の家の前をトラックが頻繁に通るのが頭痛の種のようです。以前はこの小川にサケが上ってきたのですが、きれいに工事されてどうなるか。コンクリートになるのは両岸だけで、底は砂利なので上って来るかもしれないとのことでした。もっとも太平洋から北上川を登るサケが極端に減っているそうなので、この小川を上ってくる風景はしばらく見ることができないかもしれません。
 ところでテレビによれば、女川原発も福島の原発も異常がないとのことですが、そもそも原子力関係の発表は信頼度ゼロなので、鵜呑みすることはできません。オリンピック招致に阿部某は「福島はアンダーコントロール」と言いましたが、いまだに収拾のつかない状況です。現政権もオリンピック開催のために「コロナはアンダーコントロールにある」と言いたそうですが、これも信頼できる話ではありません。

●写真集〈2021長面 春〉の反響
 さて、4月にFSさん(長面・国立市)、YTさん(長面・石巻市)のご尽力で、長面の今年の春の様子をお伝えしましたが、多くの反響が寄せられているようです。
CHさん=長面はすっかり変わって、どこが何やらわかりませんね。かろうじて、尾の崎橋が目印です。管理人さんがよく編集しています。
SNさん=昔の面影は全く無いですね。堤防と尾の崎橋は違和感を覚えます。思い出に残る風景は記憶の中だけです。それだけ津波の被害が大きかったんですね。
KSさん=福浦の写真を見て、小松先生と男子生徒たちでキャンプをしたことを思い出しました。夜になって、先生にお酒を出してあげられなかったことを、今になって残念に思います。KS。


そのほか、FSさんがボランティアの集まりで写のコピーを回覧したところ
「石巻長面って岩手県?」と聞く人がいたそうです。で、
写真を見た後で、みなさんは「スゴーイッ!」と言っておられたそうです。

また、YTさんからメールがあったそうで、

石巻市河北平六尾の崎橋」をキーワードにネット検索してみたら、ヒットしたトップに出てくる写真の下に、オリオンの「長面写真集2020春」が抜き書きされて出てきたのでビックリした!」とのことでした。

FSさん、YTさんありがとうございます。YTさんの写真に、昔の長面の写真を組み合わせたページを作ってみたいと思っています。また、YTさんにお願いしているのですが、機会があったら北上川の堤防から堤防や、松原方向、長面方向を撮っていただきたいなあと思っております。 (5/1)


●追記
 FSさんにも地震についてのメールが届いたそうです。
 〈2021長面 春〉を撮っていただいたYTさんから
「トイレ掃除の最中だったので、トイレは柱が多く多少安心な場所、と聞いたことがあり、収まるのを待ちました。津波が心配なので、逃げる準備をしながらラジオを聞いた」そうです。
 亘理の妹さんからは
「また地震でした。怖かったですが、被害はありません。大丈夫です」しいう連絡があったそうです。

 大きな長~い地震で、津波が無くて良かったです。なにが津波の有無を分けるんでしょう。         (5/1)


■写真集『長面(ながつら)2021春』のお知らせ
 FSさん(長面・国立市)、YTさん(長面・石巻市)のご尽力で、長面の今年の春の様子をお伝え出来ることになりました。
 本来の長面ならば、いくつかの年中行事や山河の春の風景が数多くあるはずですが、昨年夏と一昨年春の写真集にあるように長面・尾の崎(間垣・釜谷もそうですが)震災の復興の名のもとにすっかり様変わりしました。
 これが復興と言えるのかどうかわかりませんが、長面・尾の崎の現状はYTさんの写真の通りです。じっくりとご覧いただければ幸いです。(こちら)
 なお、オリオンのトップページの上のほうに『長面(ながつら)2021春』『長面2020夏』『長面2019春』が並んでいますので、1年ごとの変化を見てもらってもいいかなと思います。もっとも今の長面は戦争中の要塞を思わせるコンクリートだらけで、1年ごとの変化はあまりありませんけれども。
 編集しながら、弘象山や長面浦の山々、追波湾の島々は変わらないなあと思いました。いずれオリオンの中にある古い写真と、YTさんの最近の写真を組み合わせて、『懐かしのながつら……』みたいなページを作ってみたいと思いました。
 YTさんの写真がFSさんから届いたのが4/18だったと思います。お知らせが今日になってしまったのは、私の脳力の衰えと事務処理能力、判断力の衰えによるものです。2月にめでたく80になり、作秋から今春までコロナと年のせいにしてプールにもいかず、オリオンも顧みずナーンもしなかったせいでオリオンの編集も間違いだらけ。FSさんに叱られながらなんとか出来た次第です。
 じつは4/20近辺は放射線の予後健診、動脈瘤の再健診、マンションの理事会、大規模修繕の建築士との打合せ、駐輪場拡張の業者との打合せなどがつづいていました。それと東京に戒厳令が出る前に、なんとか長野の畑に逃げ出したいという焦りで、脳内がシッチャカメッチャカでした。
 4/21には長野の畑に着きましたが、来てみると昨年はガン治療であまり来れなかったせいもあり、庭が荒れ放題。畑の雑草も今年は暖かいせいか草の成長が早く、2回もトラクターで起こしてくれたそうです。
 脳内の異常はしばらく続いており、昨日は芝生の除草剤を使うべきところに、ラウンドアップではないけど、根こそぎ枯らす除草剤をジャージャー撒いてしまいました。今日ようやく花壇の一部の草をむしりちょっと一段落しました。
 畑を起こしてくれた知合いは少し下の同年代ですが、「高齢者からワクチンを打つなんて間違っている。それで医療費が高いとか働き手が少ないとか、根本が間違っているじゃないか」と言われ、なるほどと思いました。
 世田谷区はワクチンの接種券が届いたそうで、息子に手続してもらっています。接種の日取りはまだまだです。
 なんだかわけのわからないお知らせになってしまいましたが、ともかく長面の写真集をご覧ください。         (4/24)


■風化…ある程度は風化したほうが
 今日は大阪でコロナ感染者が1000人を超えたという。CT検査と薬の仕入れで医者巡りをしているときにテレビのニュースで知りました。東京の自宅付近の街路はツツジとハナミヅキが咲き始めてにぎやかですが、散歩する人もあまり見かけずに閑散としています。マンボウ令の効果ならいいのですが、死者が10000人近いと聞くと、震災時の30000人近い犠牲者のことを思い出します。
 春が来ましたが、この冬はほんとうに何もしないで家に閉じこもっていました。長面へもしばらく帰ってないし、東京で同級生に会うこともないので「風だより」に書くことも見つかりません。たまに思いついて書き始めてもただの近況報告みたいになってすみません。あまり更新がないものだから、親しい人は身体を壊して寝込んでいると思われるのか、何かつまらないことを書いても「元気で良かった」とか「生きてるんですね」とか、申しわけない便りを頂いたりします。
 3.11付近では、テレビも震災の懐古一色で、風化させてはならないとの意見が多くありました。実際に遭遇された方にとっては忘れたくても忘れられない出来事で、ある程度の風化はあった方がいいのではないかと思うくらいです。喉元過ぎれば熱さを忘れるは人の常で、いつまでもノドが焼けついていたら、苦しくて苦しくて“今”を目いっぱい生きることもままならないでしょう。
 とは言いながら昔の釜谷、長面、松原の景色や人々を忘れることはできず、時に湧き上がる望郷の念と影も形もない古里を思うと苦しさがよみがえります。コロナもワクチン接種がはじまって、うまく行けば来年の今頃には風化しそうな感じです。マンボウ令違反かもしれませんが、しばらく東京を離れて長野の畑に行ってみようと思っています。今年はちゃんとした畑はやめて、行者ニンニク、山フキなんかを作ってみようと思います。    (4/13)


■まだ10年目なのにまたグラり
 昨夕(3/20)、また大きな地震(震度5強)がありました。震源地は宮城県沖だそうですが、地図で見ると大川や雄勝のすぐ近くでマグニチュード6.9だとか。
 「今回は突然ドンと来たのでびっくりした」とKS君は言っていたが、東京は地震警報から少し遅れて微動が始まり、前回同様にユラユラと大きく揺れました。震度は4だそうですが、長野県中部も震度4とかで、南海トラフの大地震もいよいよ近いのかなと心配になります。
 3/11にはどこのテレビも東日本大震災関連の番組で、続けてみていると気分が落ち込むので、出来るだけ録画をし、神経が正常に戻ったところで逐次見直していました。まだ全部は見ていないのですが印象に残ったのはNHKの『あの日の星空』という再放送の番組で、多くの地方で3.11の夜が満天の星空だったことを初めて知りました。
 大川周辺では雪が降る寒い寒い夜だったことを聞いていたので、星空だったことは想像もしませんでした。それでもこのサイトの名が「オリオンの311の星」なのは、東京から想像して、亡くなった多くの方が星になって天空に集っているような気がしたからでした。番組の中でも多くの方が満天の星を見て慰めと勇気をもらったと語っておられましたが、地上の人工の灯りがまったく消えた時、満天の星を見て思い描くのはふる里や父母や幼なじみのことなのだなあと、改めて感じました。
 KS君によれば、大川の桜はまだで紅梅が散ったばかりだそうですが、そろそろ田植えの準備にかかるそうです。2011年の3月も今年のように暖かだったら、犠牲になられた方ももう少し少なかったのではないかと思うこの頃でした。                    (3/21)


■ちょうど10年目に
 「夜中、枕もとの仏壇がカタカタ鳴り小刻みに揺れているのを見て飛び起きました」。すぐ亘理の妹さんや石巻の同級生に連絡してみるとたいした被害はなく安心したというFSさんのお便りがありました。
 10年ひと昔と言いますが、ちょうど10年目の2021年2月13日に大きな地震(最大震度6)がありました。私も石巻の兄、登米の姉の家に電話しましたが異常なし。針岡のKS君、福地のYHちゃんも揺れは大きかったが異常なしとのこと。福島のTN君も異常なしでしたが「思い出すなあ」と10年前の地震を振り返っていました。奥さまの手掛かりは依然無いそうです。
 テレビで各地の墓地や家屋の被害などを見て、長面の墓地を思い出し、また墓石が崩れたりしていないか文隆和尚に電話してみました。今日も長面に行っており、長面の墓石は異常がないとのことでした。一安心です。大川地区や雄勝地区の人が多く住んでいる石巻氏二子(ふたこ)の団地も地盤がしっかり固められていたようで、どこも変わったところはない、みんな元気だよと元気でした。
 たった10年なのに、またこんな大きな地震が来るなんて地球はどうなっているのだろう。コロナは少し落ち着いてきたようですが、まだまだ油断はできませんね。コロナの用心はしているつもりですが、地震の備えは何もしていません。そろそろ考えなくてはいけませんね。           (2/15)


■明治の羽生玄栄
 玄栄さんの末裔にあたるJIさんから、品川弥二郎宛の書簡と桃生醫院の印鑑についてのお便りを頂きました。じつはJIさんは一昨年の7月、帰宅途中の路上で倒れ(原因も場所も不明とのことでした)、埼玉日赤のICUに運ばれ、そのまま入院→リハビリをつづけ昨年1月に半年ぶりぐらいで退院されました。
 その際はメールを打つのもやっとという状態でしたが、明治24年に内務大臣に就任した品川弥二郎への玄栄さんの書簡があるはず、玄栄さんが医院を開いていたらしい遺品などについて話され、「体調が回復したら送ります」というメールを頂いていました。
 管理人が今年は晴れて80歳になると書いたところ、80なんてまだまだですよという元気づけのお便りとともに、上の書簡や印鑑などの資料を送っていただきました。桃生醫院はどこで誰が開業していた医院なのか、玄栄さんがなぜ八戸なのかなど分からないことが多いのですが、送られた資料を『特集 玄栄さんのこと』の末尾に収録させていただきました。(こちら)
 最近はすぐ目がかすんでパソコンはつらいのですが、冊子化のデータのほうもボチボチと進んでいます。     (1/31)



■もう1月も半ば、もう満10年がすぐ
 本当にこれが“風化”というものでしょうか。今年はお正月以来これまで、オリオンの更新も大川村のこともほとんど忘れてトランプとバイデン、それにコロナに一喜一憂しつつテレビにしがみついていました。何の役にも立たないのにショウモナイことです。ただまあ、子供のころの長面(ながつら)をこのところ何度か夢に見ました。
 しばらく前(去年の今頃)から、オリオンの気になる話題を小冊子にまとめようと思い、とりあえずこの「ふるさと風だより」の初めから日記風の記事にリライトを始めたのですが、あれこれ思い入れの強いものが多くて難儀してました。冊子にしたいと思ったのは、ネット上のものはいつパッと消えてしまうかわからないからです。なんとかそれぞれのサワリでも冊子にしたいと思ったのですが、そのうち体調不良とかほかの野暮用とかに取り紛れて中断しています。
  満10年を迎える今年に出版できればと思っていたのですがちょっと難しくなって来年に延ばそうと考えています。今年の2月、管理人も晴れて80歳になります。コロナから見れば良い標的でしょうが、もう何が起こっても文句は言いません。何かの場合は延命治療などはせずに静かに逝きたいと思います。
 そういえばオリオンの初期のころに「太平洋戦争」「東日本大震災」という千年に一度の災厄を経験できたのは貴重なことかもしれない。二度あることは三度ある、三度目は何だろう」と書いてましたが、三度目は今のコロナかもしれませんね。まあ疫病は100年に一度らしいですが。
 最近はスマホを眺めることが多くなって、『石巻かほく』の記事をよく見ます。今日は雄勝峠や京ケ森、黒森山あたりに風力発電所ができるというニュースを見ました。日立サステナブルエナジーという会社(日立市)が2024年に着工、最大15基で総出力6万3000キロワットだそうです。早く軌道に乗って女川原発などは不要になればいいです。これ以上福島の二の舞はたくさんですから。
 コロナの陽性患者数も石巻市〇人、仙台市○○人などと出ていますが、これはもう全国しょうがないですね。気をつけてなんとか乗り切るしかないですね。    (1/20)


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