はなし語りしすべ〔大川(石巻市)追想〕 昭和中期の遊びと暮らし


幼い日の思い出 〜「ぶつぶつ仏草和子独り言」より〜  「かんこかな」さん

 

 一列らんぱん破裂して

 日露戦争始まった

 さっさと逃げるはロシアの兵。。。。。

 

田舎で遊ぶものの少なかったなかで、お手玉は女の子の遊びとして定着していて、雨が降ると決まって数人が集まってお手玉遊びを始めた。縁側や座敷に丸―く座り小箱に10個ほどの色とりどりのお手玉を持ち寄って数え歌を唄いながら、どこまで歌を続けられるかの競争をしていた。

最初は二個のお手玉、それから三個と数は多くなるのだが、ほとんどの子たちは三個のお手玉では最初の歌が始まってすぐに落としてしまい遊びは終わりになる。

着物や布団の切れ端で作られた色とりどりのお手玉はそれぞれの家庭の祖母や母達が作るのだが、軽くてはだめだし、かといってあまり重いものでも扱いに困るのだが、計算されたように同じ大きさと重さがあり、子供ながらに不思議だった記憶がある。

私の田舎では、かちる(ジャグリングのこと)に飽きると次は手の甲から腕に何個ものお手玉を乗せていく遊びをした。私はそれが得意で20個ほども乗せることが出来、いつも夕食のときに母に自慢をしていた。“かんは上手なんだね。良かったね。”とおかっぱ頭を撫でてくれる母の手の暖かさを求めて必死に頑張っていたのかもしれない。

 

終戦直後でもあり、ほとんどの家庭は子沢山の貧乏生活だったが、何故か皆、いきいきと精一杯頑張っていた。私の家は祖母、父と母、二人の兄、二人の姉、弟、妹と私の三世代10人家族、それに豚、羊、山羊、鶏も飼っていたから本当に賑やな大所帯だった。

夕方になるとそれぞれに仕事が割り当てられていて、私は鶏に餌をやる仕事だった。あぜ道や畑で取った青草を包丁でみじん切りにして、砕いた雑穀米と合わせてあげるのだ。夕方、私を見た鶏たちは飛べない羽を広げてこっここっこと大合唱をしながらわれ先と飛んでやって来た。その鶏たちを鳥小屋に入れ所定の場所に餌を入れて、明日もたくさん卵を産んでねと声をかける。取立ての卵は黄身がこんもりと盛り上がっていて本当に美味しかった。

ある日、一羽が少ないのでどこかに迷いこんではいないかと探しあぐねていると、弟がその鶏を母が料理にしたことを教えてくれた。私の頭をなでてくれる優しい手で残酷なことが出来る母に愕然として泣きながら抗議をした。夏祭りの料理に美味しいものを食べさせたいとの親心だったらしい。

 

山の上の神社から どーんどーん、どんつくどんどんと町中の家をなめつくすように這いわたるように大太鼓が鳴り渡り、祭りの始まりの合図を告げる。

母が子供達に一張羅の着物を着せてくれた。私はなぜかその着物の上からふりふりのついた白い前掛けをさせられた。汚すと困るからなのだが、それでも幼いながらに胸が高鳴り興奮した。おかっぱ頭の妹はほっぺもまっ赤で人形みたいに可愛かった。

やがて町のど真ん中にやぐらが組まれ神楽の舞台が出来上がり、その周りには出店が広げられた。父が商売をしていたので、私の家も出店を広げ私はその手伝いをした。

町の年寄りや若者、隣町からも応援があってお神楽が始まる。神楽面の下からの声はこもって、聞きずらくその意味さえも全く解らなかったが、おかめとひょっとこが大好きで、その踊りが始まると、父が私を抱き上げて舞台の端にちょこんとかけさせてくれた。

笛のぴーひゃら、太鼓がどーんどーんと鳴り、若者集の袴が波をうち、ばちが宙に舞うと、にわか舞台の畳が振動する。その太鼓の音と振動が幼子の魂までも揺り動かしたのか、いまだに心の奥底に鮮明な記憶としてある。

     

母は私が幼いころに子宮ガンの手術をし、その後放射線治療を受けた。そのせいで下腹部は焼け爛れていて、お尻の肉を取っては下腹部に移植手術を何度か繰り返していた。そんな母だったから床にふしていたことが多々あった。

そんな日は小さな妹がかいがいしく、水を運んだり手ぬぐいを取り替えたりとちょこまかと台所と寝室を往復していて、てぐすねを引いて待っている私についに看病の出番は回って来なかった。

唯一、私が母を占領できたのは母の髪をセットする時だった。縮れ毛の母の髪をまとめるのは本当に大変だったのだが、シャンプーをした後、椿油を満遍なく付けて前後左右と櫛を入れ縮れ毛と格闘をした。そのうちに母は気持ちよくなるのか、こっくりと居眠りを始め、そこで私の出番はお終いとなるのだった。

 

三世代家族が一つ屋根の下で暮らしていたのだから、いざこざは多々あったのだろうが、一つとして思い出せない。生きるのに必死で、お互いのことを構っている暇が無かったのだろうか。ご近所皆で助け合って支えあって分けあって、自分の子もお隣の子も皆一緒に分け隔てなく同じように成長した。

白砂清祥、素晴らしい風土、その大自然のおおらかな懐に抱かれ、育まれた環境にあったからなのだろうか。母がすげてくれた赤い鼻緒のこま下駄を履いて駆け抜けた幼き祭りの日、父が抱き上げてくれた日、そんなことが走馬灯のように駆け巡る。

これといって強烈で劇的な思い出は無いけれど、平凡な家庭で平凡に育ち平凡な思い出、そして平凡なままでこのまま行くのかもしれない。 

 それでもいいではありませんか

                          2011年3月3日


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