音のアルバム@ 「安泰寺歌曲集」から  

肥後の野の(麦の根もとに) 作詞・作曲 横山祖道

  肥後の野の麦の根もとに何草の咲きいし花の麦と刈らるゝ (註*)
  風そよぐいほりの門に出立ちて野のはて見れば夕やけにけり
  
       昭和17年作歌 同年肥後の野にて作曲
 又
  我姉を母とおもへば母上は
今も在せりわがふるさとに
  わがあねをはゝとおもへば母上は今もおはせりぐみの熟れつゝ
  夕空にほのかゝりたる三日月の早苗植ゑたる田の面にうつり
  ゆふ暮れにくだくる月影早乙女の手甲を洗ふにくだくる月影
  冬の野の野の果て空の一ところ赤きは夕日の沈みし所
        右一首は「麦の根もとに」に寄せる

*初めての和歌と作曲(横山祖道師遺稿「光の野」より抜粋)
 昭和17年肥後の野のへまいり、生れて初めて麦刈をした私が、麦の根もとに咲いていた草の花を麦と一緒に刈ったとき、痛い腰を伸ばして、こう思いました。
「こういうこと(麦の根もとの草の花が麦と一緒に刈らるるということ)は歌に詠んでもよまなくとも一つの歌ではないか」と。私このことから宇宙人生一切は題しらず読人しらずの歌と申してもよいと。
「什麼物恁麼来」という道著もあることであるから、それでその時私生れて初めて歌を作ったのでありました。

   肥後の野の麦の根もとに何草の咲きゐし花の麦と刈らるゝ
 宇宙人生を題しらずの歌又は読人しらずの歌という方、却って大和の国の人たちにはわかりやすいではないか。古今集の題知らず読人知らずの歌は、何という題か、何人の作品か、そうしたことはどうでもよい、そこにたしかに一つの歌(実物)さえあったらよいのである。実物が大切なのである。
「なにものかいんもらい」も実物をいうのであって、まさにこの実物は題しらず読人知らずにて、このゆえにこそ「なにものかいんもらい」なれ。「什麼物恁麼来」たしかに題しらず読人知らずの歌である。このこと私は肥後の野でおそわったのでありました。この記念に一つの歌を作りこれに曲をつけておこう、これが私の歌曲の動機でありました。
 それから肥後の野の麦刈終わったあと、これも思いがけないことでありました。庵の座敷の縁側の上に生れ立ての小さいかまきりがいたのを見たとき
「ああ天地が新しくなった」
と思いました。(以下略=「かまきり生れぬ」参照)


●演奏 (演奏 fx5)

 (00:35)

●楽譜



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