横山祖道師 年表 補足資料

■登米(とよま)町と伊達家
 祖道師の生家の現在の地名は、宮城県登米(とめ)市登米(とよま)町寺池桜小路。

登米伊達家と横山家
 登米(とよま)伊達家は、正しくは「仙台伊達藩62万石の登米伊達家」。
 寺池城とも呼ばれた登米城は、伊達一門の白石宗直が入城し、新田開発の功などにより元和2年(1616)から伊達姓を名乗ることが許され、登米伊達(伊達式部)として明治維新の廃城まで統治した。
 横山家の初代・横山和泉平義輝は、信州梅津に住し地名を以て氏となしていたが、天正5年(1577)横山と改め、会津芦名善広に軍法を以て仕えた後、白石宗直の養父・白石宗実に仕えて以来、代々登米伊達家の要職を勤めた。

登米町の史跡
 旧城下町であり商業の町であった登米町は、現在も10棟の武家屋敷と町屋を残し、また明治初期には水沢県の県庁が置かれるなどして、「宮城の明治村」というにふさわしい多くの史跡を残している。急速に西洋化した当時の洋風建築の学校や警察庁舎ほか、史跡などはこちらをご覧ください。
 http://www.toyoma.on.arena.ne.jp/japansheet.pdf

登米尋常小学校
 祖道師が通った登米(とよま)尋常小学校は、現在も生家の真向かいにある。建てられたのは明治21年、当時の洋風学校建築そのままで、木造2階建の校舎中央の2階バルコニーが特徴的。国の重要文化財に指定されており、「教育資料館」として公開されている。


横山家系譜と祖道師

横山家と祖道師
 横山家の初代は前期の通りだが、4代・横山信濃平善安の次子・兵左衛門が伊達宗倫(登米伊達氏第4代当主)より2貫文をもって召し出され、横山家の別家として一家を創立、現横山家の初代となる(1貫文=仙台藩では10石で、60g俵で25俵分)
 
その後、代々兵左衛門を名乗り、2代と5代が登米伊達藩の家老職を勤めている。祖道師の祖父は8代・横山兵左衛門平善明(幼名・運平)で、慶応4年会津征討に軍功があったが、明治2年伊達藩28万石削封の際に帰農している。

祖母・数見
 
代兵左衛門の妻・数見は博識で話術が巧みな人だったようで、祖道師は「私は一番初めに祖母から歌をききました。幼き日、私は祖母にいろいろ“むかし”をきかされました」と述懐している。祖道師の歴史や古典文学の素養もこの幼年時代に培われたと思われる。
 
数見は大森忠平氏の長女で、祖道師の在郷時代の無二の親友・大森五郎氏の大伯母にあたる。大森家と横山家とは親戚で、横山家で何かあるときの席次はいちばん上だった。

父・栄と兄・兵庫
 
父・栄は機業(絹織物)を家業にして横山家の生計を立て、明治34年から大正8年までの長期間、郡会議員、郡参事会員、町会議員を勤めた。
 兄・兵庫は東京府立織染学校(八王子)を卒業後、帰郷して父と共に機業を営む。昭和19年、東京杉並区桃井第4小学校児童の集団疎開を受け入れるなど活躍。戦後の混乱期の昭和213月、脳溢血のため急逝。50歳。

■安斎桜かい子と自由律俳句
 安斎桜かい子の“かい”は「石+鬼」

登米町の俳人
 祖道師の在郷時代、登米町には中央俳壇でも著名な二人の俳人が住んでいた。安斎桜かい子(あんざいおうかいし)と菅原師竹(すがわらしちく)である。
 
菅原師竹は安斎桜かい子より年長で、文久3(1863)年8月、登米の隣の若柳町伊藤に生れ、登米の菅原家を継いだ人で、明治大正初期に中央俳壇に輝き、一頭地を抜いた存在であった。はじめは旧派俳諧に属したが、自由律俳句にひかれ河東碧梧桐(かわひがしへきごどうの指導を受け、東北俳壇で桜かい子とならび称された。
 在郷時代の祖道師が師事した安斎桜かい子(本名・千里)は明治19(1886)年2月登米に生れ、17歳から句作に耽り碧梧桐の指導を受けて中央にも輝いた自由律俳句の人。安斎家も登米伊達家の家老職の家柄で、たくさんいた弟子の中でも祖道師は特別扱いの個人指導を受けていたという。
 このころについて、祖道師は
「私ふる里にてそのかみ安斎桜かい子に俳句を学んでおった当時、桜かい子先生はよく次のことを言われた。俳句などこんなことやらんでもいいのだけれど、われわれ一度禁断の果を食ったのだからしかたがない。右に等しいことは芭蕉も語っている……云々」
 現在、登米市寺池の高山勝子美術館には「師竹・桜かい子」の句碑があり、次の句が刻まれている。

   舌に残る新茶一露や子規   師竹
   晩学静か也杉は花粉を飛ばす  桜かい子

 また、登米町には芭蕉が『奥の細道』で「戸伊摩というところに一宿」したことを記念する「芭蕉翁一宿之跡」の碑があり、これは河東碧梧桐の書による。碧梧桐は旅の途中で師竹・桜かい子が住む登米に
10日ほど滞在(明治391112)するなど登米とは深い縁があった。

祖道師の在郷時代のうた
 祖道師が在郷時代につくった句はほとんど残っていないが、「ふるさとのうた」()()、「川沿ひに」などが『安泰寺歌曲集』に収録され、自由律俳句の目僕を残している。(「ふるさとのうた」(一)〜(四)はこちら参照) ♪マークをクリックしてください。

 「ふるさとのうた」(五)
   君を俤に咲き乱れコスモス  菅野欽吾 作
   何草となく濡れてゐる君眠るこの山  大森五郎
   いきれる草をふみ戻り西に二日月  横山運平
       右三句昭和5年8月31日登米町龍源寺本堂に掲揚の安斎里治氏の追悼句額より写し
       安斎里治 昭和5年8月2日仙台衛戍病院に於歿逝23歳

   屈み見る奥山翁草の花
   草萌黄奥山四方は空
       ふるさとに在りし折の句より

「川沿ひに」
       そのむかし北上畔にありてわがよしと思い見しことのひとつ
   川沿ひに牛飼憩ひ乳牛角の影して草食み
       ふるさとにおりし折の句 昭和8、9年の頃と覚ゆ北上河畔に在りて機を織りつゝ作曲したき気持にて
       かゝる旋律をつくりしを思い出でて書きぬ ふし略 昭和25年鷹峯にて萩の花に雨ふる日

前小路のおばさんの俳句
 何年のことかわからないが、ふるさとの“前小路のおばさん”が作った俳句を絶賛し、家に大切に保管するように書をしたためている。前小路のおばさん=清野家の叔母のことで、親戚の清野家には子どもがなかったので、祖道師の父・栄の弟が養子に入った家。

祖道師が絶賛した“前小路のおばさん”の句と兄嫁にあてた手紙

■安泰寺

安泰寺と祖道師
 安泰寺はそもそも日本近代の禅匠丘宗澤老師が、駒澤大学の大学林として、真の禅者養成のため創建されたもので、丘老師亡きあと衛藤即応駒沢大学長が預かっておられた。
 それを澤木興道老師がお借りして弟子の修行道場として使うことになり、落ち着き場所ができたのである。

    安泰寺一室間借し少林寺 一室間借の古風思ほぬ (『空のもと』より)
 祖道師は安泰寺をかくの如きものとして、昼は寺の維持のためばかりでなく、托鉢を経行とし、寺内にあっては只管打坐に打ちこんでいた。
    子どもよりおもちゃの札をもらいつる京の托鉢楽しくあるか
 右の一首は昭和24年8月28日の歌。これをはじめとして32年まで7年を安泰寺で修行。その間京の町を縦横に托鉢して、子どもを友とし、その折々に出合ったことども、風物を歌に詠み作曲している。  (『草笛禅師』より)


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