昭和30年ごろの 大川中学の先生たち

もう、1年ほども前ですが、福地のYHちゃんが、紫桃先生の本から抜粋した写真を送ってくれました。
わさわざ紫桃先生の奥さまの了解もとっていただいたのに、掲載が遅くなってすみません。
あのころ、先生方も子どもたちも、ほんとうにイキイキしてました! (2013.1.10)

写真と文 紫桃正隆先生著『白雲悠々』から

 ●間垣山から針岡沼を望む(昭和30)

 釜谷から移った新しい大川中学校の裏に小さな山があって、間垣小山と呼ばれた。山に登ると右に大河北上川、左に硯上山連山や、その下に広がる針岡沼(富士沼)が見渡せる。
 三月の卒業式を終えると生徒たちはこの山にのぼり、将来を語りながらふるさとへの尽きせぬ思いを心に刻み、美しい自然風土へしばしの別れをつげた。

 ●仲良し教師

 中学教師時代の同僚、後藤仁治郎、湯田良一両先生。体系も趣味も異なる二人だったが、妙にウマが合い、仲良く語り合っていた。話題は教育方針だったか、下宿のオカズの話だったか。

 後藤先生は下駄ばきが好きで、冬でも足袋をはかない先生として有名だった。

 ●大川中運動会仮装行列(昭和32)

 秋の運動会の出しものの一つ。
 当時の生徒は純朴で教師を親以上に尊敬し、問題行動を起こすものは余りいなかった。この出しものも彼ら自身で考案し演出したものだ。

可愛い中学生(昭和28)

 学校の遠足の帰りだと思うが、「写真を撮ってやろう」というと、喜んで土手の斜面に座ってポーズをとる。
 教師に対する信頼感、近親感が笑みとなって現れる。この子たちはその後どうなったのだろう。

 ●冬の職員室 (昭和34)

 冬の職員室はストーブのまわりが一番。話題の噂、ニュースの花が咲く。しばしの暖をとって彼らは再び教室へ。「鐘が鳴ったら直ぐ教室へ行って下さい」と校長の声。
 大川中学校の或る冬の日に。

 ●個性ゆたかな教師像(昭和30)

 「弱い者イジメをするヤツは断じて許さん」
 戦後の中学校には戦場帰りや、耐乏生活に鍛えられた個性豊かな、野武士のような教師がいっぱいいた。
 右から加藤昭吉先生、斉藤次郎先生、そして私。昭和14年生まれの担任を三人でスクラムを組む。
 それにしてもズボンが太いね。

 ●硯上山から針岡沼を俯瞰する(昭和31)

 標高520米、河北、雄勝の両町にまたがる硯上山は北上川南岸連山中の雄峰。
 春の山菜、秋のキノコの宝庫で、また大川中学校の遠足の定番コースでもあった。
 山頂、山腹から大河の流れや針岡沼のたたずまいが眼下におさめられ、子供らは歓声を上げた。

 ●大正生まれの卒業写真(昭和9)

 昭和9(満州国誕生の年)、横川、福地部落の同級生34名は福地分校を卒業する。皆姿勢正しく目が輝いている。
 洋服姿は一人だけ、あとは着物姿。男は軍人となって天皇の統治する日本帝国を守る。女は良妻賢母となって夫に仕える。それが使命感だった。分校主任の津田先生は賀茂小鋭神社の神官で、礼儀作法をきびしくしつけられた。
 のちこの中の畠中廉平(太田)君は石巻市消防長、高橋芳助君は宮城開発会長となった。

*紫桃先生は大正10年生まれ。一番下の写真はご自身の小学校卒業写真。
 ほんとうに当時の先生は野武士みたいでした。頭をゴツンとやられて、かえって嬉しかった……。


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