長面・龍谷院の奇蹟  斎藤文隆和尚 石巻市長面


5月31日(2013年)、管理人の母の37回忌があって、長面・龍谷院住職の齋藤文隆和尚に久しぶりに会えた。
幼馴染で小学校も同級、でも会うのは震災後は初めてなのですぐ津波の話になった。

九死に一生を得た彼獅子のことはもとより、その日のことはまるで今昔物語や宇治拾遺仏教説話を地でいくような話だった。


●庫裡の2階だけがボートのように浮いて
 龍谷院は津波など非常時の避難場所になっていたので、本堂も庫裡もながつらの人たちでいっぱいで、裏山に上る人々もいた。ただ避難に手間どって遅くなる人も多く、まだ車で駆け込んでくる人が続いていた。
「大きい津波が来る!」ということで、本堂や庫裡にいた人もほとんどが裏山に上った。しかし、山に登るのが困難なお年寄り3人は2階に上ってもらい、和尚も一緒に津波に備えることにした。


崩れそうな本堂。手前は庫裡の土台跡(11年12月)

位牌堂に設置された須弥壇と斎藤和尚。手前は鍋になった鐘(13年5月)


 ところが、津波の巨大さはそんなものではなかった。庫裡全体がガラガラッと傾いたかと思うとたちまち持ち上げられ、津波の海を流れ出した。
 あとで分かったことだが、庫裡の1階はすっぽりと無くなり、2階部分だけがボートのように海に浮かんでいたのだという。
 そしてそのまま、幾度もの津波に翻弄されながら、雪交じりの夕暮れを迎え、真っ暗闇の中を翌日まで流されていたのである。

 しかし、船のように水平に浮かんでいるわけではなく、傾いて半分は水没状態。4人は必死に柱や互いにしがみつくが、ずるずる滑って水に浸かる。濡れた体に厳しい寒気が襲ってくる。押入れの上段はまだ濡れていなかったので、乾いた衣類など使ったが、4人とも低体温症になり、お年寄りのお二人は翌朝までに息を引き取った。

●元の場所に流れ戻る
 
翌日、なんと4人のいる2階は、本堂の横の庫裡のあったほとんど同じ場所に落ち着いていたという。
 庫裡の2階は海水に押されて長面浦の方向へ向かったが、県道沿いに立つ電信柱に引っかかって、浦まで流されずに済んだのだという。境内の山と電柱・電線が庫裡の2階が外へ流れ出すのを防いでくれたのである。
「あの電柱がなかったら、浦まで流されて自分たちも全員がダメだったろう」と和尚は言う。

 
翌朝、ようやく津波は収まって外に出ることができ、山へ逃げた人たちと合流することができた。奥さんの無事もここでようやく確認できた。
 山中で焚かれていた焚火でようやく暖がとれたという。

 山へ逃げた人たちが救助されるまでの3日間については、『海に沈んだ故郷』(堀込光子・ 堀込智之著 連合出版)に詳しいのでぜひお読みください。(関連記事こちら)

●本堂の鐘で粥を炊く
 さて、本堂はかろうじて屋根を残していたが、床も壁も流されていまにも倒壊しそうな姿だった。天井の装飾は残っているが、床に設置された須弥壇などは跡形もない。
 ところが奇跡というかなんというか、和尚が本堂で経を読むときの大きな鐘が、泥まみれで近くに流れ着いていた。

 「洗えば鍋になっぺや」(なるだろう)
「米、ねが?」(米はないか)
「水はあっが?」(水はあるか)

 精米した米はすっかり流されていたが、玄米なら袋で積んである場所に少しは残っているはずだ。龍谷院には名水の泉が昔からあって、津波のあとも清水がチョロチョロ流れている。
 皆で鐘を洗い、和尚が見つけた玄米を洗い、焚火に乗せて粥が炊かれた。
救助隊が入るまでの3日間、なんとか飢えをしのぐことができたのだった。


*暗闇の中、4人のいる庫裡の2階があちこち流されているころ、境内の山際の鶏舎の屋根では、〇〇さんがたった一人で寒気と睡魔と闘っていた。(こちら)
*同級生のゼンつぁん(JT君)
は、山門の入口に、木に寄りかかるように倒れているのが見つかったという。あと一歩のところで間に合わなかったようだ。
*ご本尊は勿論、現在の位牌堂の装具のほとんどは泥の中から発見されて修復されたもの。昔の建築のせいか本堂はかなり頑丈で、天井からつるされた装具はほとんど無傷だったという。

戻 る