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(DIARY)2011.7〜2012.12
2013年1月からは新ページ こちらです
このホームページでは性別がわかるように、同級生の男性には「君」、女性には「ちゃん」をつけているが、
実際には今でも同級生は男も女も多くは「ちゃん」づけ、もしくは呼び捨てである。
もちろん、同級生以外は「さん」づけが普通です。

■今年もあと何時間か
オジイサンとオバアサンが里山の麓でぺったんぺったん……臼と杵で搗いたお餅がYHちゃんから届いた。
お爺さんお婆さんなどと言っては叱られる。ふるさとの空気のせいかお二人ともとても若く、ご主人は私より7歳か8歳年上なのに里山を駆け巡り、餅つきができるというから敬服。

その福地の小川には毎年サケがたくさん登ってくるが、今年はほとんど見なかったそうだ。
北上川のシジミも激減、川の底が砂だったのが、ヘドロに覆われたせいだろうという。
しかし、長面では牡蠣がとれるようになったし、アナゴも獲れるというから、徐々には回復してほしい。

遠くに住んでるイトコから「長面の神楽の写真を見て懐かしかった。立派に続けているんだね」という電話があった。また
「龍谷院の墓地の入口に、羽生玄栄、永沼庄太郎、大槻保之助の碑があったと思うが、どうなっているだろう」と言っていた。
どなたか知っていたら教えてください。

今年もあと数時間。
まあ、例年になく忙しい年だったが、結局何もできずに終わってしまった。
オリオンは考えていることはたくさんあるのに、さっぱりできずじまい。
畑は夏も秋も暑すぎて散々。
アパートの改修工事だけは12/28でなんとか終了。今は1/8までに配布する文書をとりまとめ中。これが終われば少し時間ができるはずなので……と、例によって高望みの期待。

来年は、まだアップできていない「皆さんから頂いた資料を1日も早くアップしたい」「大川のお神楽を動画で見れるようにしたい」「伊能忠敬の地図に大川がどう描かれているか」「長面の松原はいつごろ誰が植えたのか」などなど、たくさん課題があります。
来る年もまた、お力添えをどうぞよろしく。 (2012.12.31)

■ふるさとはホワイトクリスマス
尾の崎KKさんから故郷の近況がとどきました。


◎……本日は大川地区の瓦礫撤去作業は積雪のため休み。先発隊は長面耕土にすでに入ってるが、わが班は明日からの予定。今日はスノークリスマスとなりました。針岡のKSさんとは時々いっしょになり、オリオンも話題になりますよ。
◎……TTさん(タコ大工さん)ご夫妻も ガレキ作業に出ています。その合間に松原のあったところで、今は海にカゴ(筒)を入れて漁をしており、アナゴが大漁とか。
 
◎……仮設での長面の神楽、後日談。……神楽を舞った一人に、私の仮設のすぐそばの大谷地小学校の教師、SKさんがおりました、父上と兄さんと三人で、向いの女川地区からの助っ人です。
 その後、私の父の実家との縁でKSさんとTELしたところ、
「尾の崎の津波の様子を聞きたい」と彼女のおばあさんが直接仮設を訪ねてこられ恐縮でした。
 彼女をMSさんが高校生と間違えたのもどおり、もうそれは素敵なお嬢さんです、年はナイショ。
   仮設にて たおやかに勇ましく 女教師が神楽舞う

◎……カンコちゃん、紅白審査員おめでとう。
 毎日丸恵さんの前をとおるけれど、皆さん忙しく働いております。気仙沼に打ちあがっている漁船、18共徳丸は義姉の弟さん、(T君)が機関長で乗っていたことがある船ですよ。


*ふるさとの雪景色、懐かしいなあ。それにしても松原荘とか我が家の庭とかが、今はアナゴさんの庭ですか、えーっ?!です。
*女の先生の神楽、やはり女形でしょうか。昔、「シンヤの義一つぁんの女形は天下一だ」と言っていたのを思い出しました。
*KKさん、またお便りをどうぞよろしく。
 (2012.12.24)

■お便りあれこれ

●長面のお神楽の解説書
 長面のTTさんから長面のお神楽の台本というか解説書というか、くわしい文書が届いた。200ページを超えるものをコピーしていただいて、ほんとうにありがとうございました。
 大川地区の神楽は法印神楽で、あの太鼓と笛の音、舞には男の子の魂を揺さぶるものがあったけれど、登場人物や物語の内容についてはほとんど知らなかった。それが鮮明にわかる資料です。
 間垣少年さんからの『大川懐想〜心の原風景〜』などもそうですが、新たに特別企画のページを作る必要があるかな、などと考えています。

●米軍撮影、昭和23年の大川村
 北上川ガイドのNさんから 旧大川村の集落の資料として、「昭和23年に米軍が撮影した旧大川村の航空写真がありましたよ」とお知らせをいただきました。

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R1910-A&photono=7

*昭和23年といえば、管理人が小2ぐらいで長面分校に通っていたころ。松原はまだ小さい方の松林は植林されておらず、須賀地区が開墾されたばかりの時期のようです。解像度を上げると、いろいろはっきり見ることができますので、機会がありましたら、ぜひ。

MKさん「トロント紅白歌合戦」審査員に
 3.11後の5月にMKさんと一緒に福地、釜谷、長面などを歩いてフィルムに収めた石原牧子さんが、それを70分のドキュメンタリーに編集中とのこと。完成したらぜひ石巻のビッグバンかどこかで上映したいというご意向です。
 また、トロントのドキュメンタリーフィルムメーカーのディレクターから「西海岸に続々と流れついている瓦礫の一部をトロントに持ち帰るので翻訳してほしい」というメールがあったそうで、新年早々に打合せとか。その漂着物(バスケットボール?)を持ち主に返すまでのドキュメントを作るようです。
 ところでMKさんはトロント紅白歌合戦の審査員をおおせつかったそうで、「選考理由は3.11の義捐金集めなどに貢献したということみたい」とありました。
*相変わらず忙しいですね。体に気をつけてがんばってください。
(2012.12.21)

■瀬戸内海の島、そして針岡と近況報告
瀬戸内海の蒲刈島にいる福地の同級生YK君から電話。
「今年は寒いのう、今はメバルとイカがよう釣れるんじゃが、夜釣りはしんどいけん、もう行かんようになったわ」
べつに彼は漁師ではなく、住まいのある丘を降りるとすぐ海なので、気が向いたら岸から釣るのだそうだ。
「ところで福地の前に沢みたいな小川があっぺ。あそごさサケが遡って来んだね。オラが子供のころサケ登ってきたがや」と私。
「いやー、サケは来んかったじゃろ。来たら食うてるはずじゃ。食うた覚えはないけんな」
いつごろからサケが来るようになったのか、土地の人に聞いてみたい。

明治時代から昭和35年まで、北上川の上流、岩手県松尾村(現在の八幡平市)に松尾鉱山(硫黄、黄鉄鉱を産出)というのがあって、一時は東洋一の硫黄鉱山であったという。
しかし、鉱毒が北上川に流れたというから、その影響で我々の時代はサケも敬遠していたのかもしれない。
kappa clubの北上川ガイドにゴーストタウン松尾鉱山が詳しくあります。
『松尾鉱山残影〜栄華と代償〜』(写真と文:北上川ガイドNさん)

偶然、針岡のKSとも電話で互いの近況報告。
「釜谷、長面のガレキ処理も始まったよ」
「長面のガレキ処理って、どの辺」
「長面から甚平閘門さの堤防が出来たすべ、それで排水が出来たから」
「ずいぶん広くて大変だなあ」
「あー、広いねえ。おなご衆は機械の後をついて、土をふるって出たガレキを拾って整理。男衆は土手の修理や草刈りとかだ」

寒風の中の作業、ほんとうにご苦労さまです。
もちろん遺体捜索も含まれた作業でしょうが、松原の松がないと風がまともに吹き付けているとでしょう。
明日への希望につながる作業、なんとか頑張っていただきたいと思います。 (2012.12.18)

■ご提案を二ついただきました

@このサイトのイニシャル表記について(尾の崎KKさんから)
このサイトを本当に愛して、観られておる方がたくさんおられます。
でも、なんかイニシャルで
KK,MS,TS,KS なんてやっていても隔靴掻痒、まどろっこしくてかないません。
なにか横槍を入れてくる者があればそれでも
いいと思います。
私の知己の方は全部、本名を名乗り、HPを運営してます。
川向こうの北上・追波の千葉五朗さんの(蘆原日記)、河北・三ノ輪田の(日野測量事務所)のHPしかり。
でも、時によるかなあ?

*おっしゃる通りまさに隔靴掻痒、管理人も本名で書けたら事情を知った人にはパッと背景がわかるのに……、と思ってしまいます。ただまあ、ネット社会ではいろいろ問題が起こっているようだし……。皆さんのご意見もお聞かせください。


A情報を冊子にしてはどうですか(かつての間垣少年さんから)
 【要旨】
 このサイトは、
不特定多数の人々に大川について関心を持って頂く事が勿論大きな目的に違いないが、ネットを利用できる一部の方々だけでの問題共有に終始する側面があり、それだけでは勿体ない気がする。
 
ネット環境を持たない方々も含め、オリオンの内容を広報できれば何かしら心の支えになるのではないか。
 集まった情報を冊子にまとめて関係の方に配布したら、特にふるさとを離れている被災者の方々にとっても、同郷人の手によるふるさと情報、ふるさとを思う気持ちが伝わつて励みになるのではないか。
 印刷屋に依頼すると膨大な予算が必要だが、手作り冊子であればそれほどかからないと思う。いつの日かそいうものが出来たら良いなと心から思っています。

*ご提言ありがとうございます。実は同級生だけには年に3、4回ペーパーの通信を送ろうと思っていたのですが、雑事に追われてというか、まとまった記事が出来なかったというか、(ほんとうは管理人の怠慢で)実現できませんでした。いつかそういう冊子が実現できたらいいですね!
 で、間垣少年さんに「大川の少年期の想い出があったら何か」とリクエストしたところ、懐かしい話がたくさん届きました。ゲロッパ、ケッポキャンデー、手作りミゼットなど、当時の大川少年の姿がよみがえる話題ばかりでした。いずれ何らかの形でご紹介いたします。

 (2012.12.14)

■「かつての間垣少年」さんからのお便り
 遅くなりましたが、間垣に昭和32年から4年間、小学生時代を過ごされたというYAさん(かつての間垣少年=名取市在住)からのお便りをご紹介します(お便りは11月25、26日にいただいたもの)


実は私の父親は教員をしておりS324月に大川一小に赴任した際、間垣の永沼先生には住まいの事で大変お世話になり、医院の隣にあったご自分の持家をご提供いただいたのでした。永沼家と私の関係はそういう事がベースになっているのです。
 教頭だった父は赴任した年に学校火災に遭い、その翌年春の異動で管理職と云う事で横川の大川二小に更迭されましたが、任地が近くということもあり、そのまま間垣の住人で4年間を過ごしました。

 サイトに登場した永沼家のこうちゃん事、幸四郎さんはその当時、一旦入学した東北大学を中退し早稲田に入学のため浪人をしていた時期で、いつも家におり、時おり遊んでいただいたものでした。
 その行動テリトリーは小学低学年の私達が単独では無理な範囲(長面から谷地、富士沼迄)を連れられ、それ故に大川の印象の全てがこのテリトリーに集約される羽目になっているのです。
 時には飯野川、石巻、雄勝峠の麓(芦早、入釜谷)等にも行ったと思いますが、記憶が全く欠落しており、長面から谷地までが「私の美しい大川」の中核を為しています。
 その幸四郎さんもOrion座の一角になったという事で深い寂寞を禁じ得ません。
 (写真は間垣に居住された方々なら毎日眺めたであろう雄勝峠の風景。白地に幾条かの赤ラインが鮮やかだったボンネット型の仙北バスが砂ぼこりをたて喘ぎながらコトコト走りゆく光景がこの写真を見るとよみがえります。S40年3月の写真です)

 3.11大川小の大惨事には義憤すら覚えます。未曽有の自然災害とはいうものの、児童の命を守れなかった事に対する大人(先生方)の事無かれイズムが、想定外だ、考えられない事だと言って責任をないがしろにする。人災では?と疑われてもいたしかたない。そんな感想を抱いております。

 私はS35523日のチリ地震津波の時、追波川の下流から波しぶきを上げながら遡上して来る光景を間垣の土手上で見ておりました。小5のときでした。今でも幾重にも重なって次々と逆流する波がはっきりと焼き付いています。

 50代後半以降のそれを体験した大川の方々なら、当時の大異変を学習できてるはずです。何故、先生方に強くアドバイス出来なかったのか悔やまれます。
 更に当時の大川一小は高学年の5、6年生は教室の冬暖房用として、裏山へ登り枯れ木拾いを学校の行事として行なっており、学校裏南側から緩い山道があったはずで、何故、津波対策の避難マニュアルに逃げ道として定めていなかったのか。こういった事から推し測っても人災の感は歪めません。覆水盆に返らずですが憤懣やり方なしの思いです。

 壊滅状態の長面、釜屋、間垣の復興は元の場所で可能なんでしょうか。集団移転等で新天地を模索しているのでしょうか。今後の復興、再建に強い関心をもって見守っていきたいと思います。

 
 名取市閖上の惨状についてはお耳にしている通りで、震災直前のH232月末の閖上地区人口は7,100人、最新のH2410月末は3,100人でその差4,000人の減少です。津波の犠牲者は800人強でしたが3,200人が他所への移転を余儀なくされたわけです。
 中心部商店街は全壊滅、漁業関係者は仕事場消滅で惨憺たる状況です。まず生活の拠点たる住の復興が先決ですが、若い世代と高齢世代との意見が噛合わず、且つ指針を示している市の復興推進室のリーダーシップも弱腰状態で纏め切れない状態で推移しています。
 仮設生活が長引く中、ご高齢の方の孤独死や精神的な問題が様々出てる状況です。早く安心・安全を提供できる環境を整えなければとの思いです。
 拙宅は沿岸から7Km程内陸側にあり津波の影響は全く受けませんでした。ただ津波は内陸5Km辺りまで到達しましたから勢いによっては紙一重と言えます。家屋も震度6強の揺れに何とか持ちこたえお陰様で従前通りの生活ができております。ご心配頂きありがとうございました。

 管理人の怠慢でお便りの紹介が遅くなりましが、「私の美しい大川」……いい響きですね。「間垣少年」さんだけでなく誰にとっても「美しい大川」、一日も早い復興を祈りたいと思います。 (2012.12.14)

■お便り、あれこれ
 今日、大きな地震があり、津波警報も出ました。故郷の親戚はだいたい無事のようでしたが、皆さんお変わりないでしょうか。
 このところ、いろいろ貴重なお便りをいただいていたのですが、去年の春から始まったアパートの給排水設備ほかの改修が、ようやく大詰めになって、野暮用に追われていました。

●針岡のテケちゃん(TS君)、KS君からの11月の便り
……今は復興支援の作業も再開し男性は草刈り作業に女性は土建業者の下で機械による土とガレキの選別工事のガレキ除去作業です。
 長面の海の様子を呈していた田
んぼは、築堤内100万tとも言われた海水も排水作業によって1年9か月振りに田面が姿を現しました、色んなガレキ散在の中に関係機関による捜索が行われています……
とありました。

●トロントMKさん
@板垣優喜さん著『大川地区 昭和の昔がたり』を送っていただきました。大川村の人情と風俗がとても温かく描かれた29編のエッセー集で、とても懐かしい心温まる一冊です。その中の一編を「お茶飲んでがいん」に転載させていただきました。(こちら)
Aそのお便りの中に、我々の恩師・紫桃先生が書かれた「I校長(大川中の昭和30年ごろ)のワイシャツ」についての面白い話があり、これも「お茶飲んでがいん」に転載させていただきました。(こちら)
 
●kappa clubのNさん
 オリオン開設以来、いろいろお世話になっている「カッパクラブ 北上川ガイド」のNさんに「釜谷(追波川)の堤防がいつできたのか、堤防ができる前の大川村、追波川はどんな状態だったのか、何かヒントがありましたら……」とお願いしたところ、詳細かつ膨大な資料を送っていただきました。ありがとうございます!
 私自身がまだちゃんと理解できてない状態ですが、とりあえず大正5年の柳津から追波川河口までを含む5万分の1地形図とNさんのコメントを「むかし語りすっぺが」(こちら)に入れてあります。

●かつての間垣少年さん
 私たち世代よりひと廻り若い方で、多感な少年時代を間垣で暮らしたYAさんからお便りをいただきました。
 現在は名取市在住ですが、当時の間垣や学友たちの面影が鮮明に浮かんでくるお便りです。近々、ご紹介したいと思いますが、とりあえず送られてきた写真を一枚。間垣の堤防から見た北上川です。
 (写真の説明には、川べりがコンクリートで固められてる状況からして高1の時遊びに行った際の写真と思います(S40年3月)。S30年代はコンクリ部が石垣状に大きめな石が敷き詰められてた記憶がありますのでとありました写真をクリックしていただくと大きく見られます
(2012.12.8)

■田んぼからまだガレキが
昨夜(11/15)、針岡のST君(愛称テケちゃん)から電話があった。
「今、どこにいんのしゃ? 長野は熊が出たつうから、なじょしてぺなと思ってな」
例によって人を勇気づける楽しい語り口。久しぶりで近況を語り合った。

金華山の鹿害は有名だが、牡鹿半島一帯もひどい鹿害で、最近は針岡でも野菜の被害が出ているという。
復興事業がまた始まっていて、寒風の中で来年の作付開始を目指しているというが、作付が考えられているのは富士沼周辺のみで、釜谷、谷地中、長面、尾の崎などは、まだ海のような状態だし、人も家も機械もほとんど流されているので、再会はまだまだ先のことだろうという。

ちょうど復興予算の解説記事を読んでいたところで、そこにはこう書かれてあった。
東日本大震災の復興に使う政府予算。国は震災から5年で19兆円を投じる方針で、そのうち1兆円は被災地以外の防災対策に使える全国防災対策費とした。
財源のうち
105兆円は所得税、住民税に上乗せする復興増税で賄われる。
2013
年から25年間は所得税に税額の21%分、146月から10年間は住民税に毎年1千円が上乗せされる。
連日、おかしな使い道が報道されているが、なぜ大川地区などが放置状態なのか、腹立たしいことである。

ST君の話では、田んぼに入るとまだガレキが出てくるという。
なんとか頑張って、来春の耕作が少しでも成功するよう祈りたい。

ST君の話でいつも感心するのは、創意工夫というかサバイバル術というか、我々も非常時にどうすべきか、たいへん参考になることだ。
野菜の自給自足、ビニールハウスの自作、流されて大破した車からガソリンを拝借する術、ドラム缶で五右衛門風呂を作った話、真っ暗闇の山越えの話などなど、感心することばかり。
「今は何でも作れるぞ。長面の塩田に行ったら、ありとあらゆるものが揃っているから」
むかし塩田のあった所(管理人も一時そこに住んでいた)に膨大なガレキが山積みなっていることを指しての話である。
近いうちに、彼の話を紹介したいと思っています。 (11/16)

■故郷の秋
少し前(10/23)、トロントのMKさんから故郷の秋の写真が届きました。


こんにちは。写真整理を始めましたら、こんな写真が出てきました。

2009年に帰郷した折に松原荘から実家に戻る時に車中から写したものです。
朝早くてどんより天気でしたので、暗いですが松林がしっかりとありましたし、尾の崎の橋もみえると思います。
(写真をクリックしてください。大きく見られます)


*柿はいかにも日本の秋という感じがしますね。カナダにもあるのかしら。
*畑には手前に白菜、向こうは大根でしょうか。おいしそう!
*こういう風景が何年後かに戻るでしょうか。(管理人)


*4メートルぐらい(?)の護岸と何万本もの松が今は海面下。十三浜など北上川対岸の山並みがモロに見えます。(管理人)

*上と同じ場所からの尾の崎。この撮影場所の道路も今は海の底です。(管理人)
  
なし畑とよばれるところにあった実家の畑の柿の木です。 
右に少し見えてる家があの『海に沈んだ故郷』を書かれた、一年後輩の堀越光子さんのご実家だと思います。
MK

この写真は近いうちに「大川村写真集」の「長面」に収録の予定です。 (11/5)

■長面のお神楽、60年ぶりで観ました
長面のTT君から10/21のお神楽を撮影したビデオ(DVD3枚)が届きました。
50年ぶりか60年ぶりのお神楽、昼の部の冒頭から夜神楽の最後まで6時間弱、一コマも見逃すまいと深夜まで見続けました。
あの悲劇を乗り越えての舞、笛太鼓の響き、感動と懐かしさ、新鮮な驚きもあって最高でした。

TT君、ほんとうにありがとう!
TT君の舞や太鼓ももちろんだけど、あの強風と寒気の中で、昼から夜までの長時間、撮影は並大抵のことではなかったと思います。
聞けば、娘さんが撮影してくれたということですが、あれほどの長時間、全演目をアングルを気にしながらの撮影のうえ、DVDにまできれいに焼いていただいて、感謝、感謝です。
たぶん、一家総がかりのご苦労だったと思います。ほんとうにありがとう!

で、この労作を早く皆さんにも紹介したいのですが、ビデオのキャプチャーや動画の取り込み方などがわかりませんので、これから研究してみます。
もっとも動画のUPにはTT君はもとより関係各位の了解が必要だと思いますので、その節はよろしくお願いいたします。

祭囃子を聞きながら、ある先輩が、
「ジャズやロックが素晴らしいと言っても、それは皮膚の部分。しかし、笛や太鼓は日本人の背骨にしみ込んでいる本質的なもの」
と言っていたのを思い出しました。
*写真上=TT君が舞う釣りの翁。後半はコミカルな舞台でした。
*写真中=頭上の般若(オロチ?)と戦うヤマトタケル?
*写真下=二刀をもって舞台中を跳ね舞うアラワザです。
*詳しい演目や内容は、そのうちTT君に教わってお知らせします。


なにしろ60年ぶりぐらいの神楽なので、忘れている演目も多いのですが、「面を外し、荒々しい二刀での舞」、「ヤマトタケル?がロープを断ち切る舞」、「頭上の般若(オロチ)との戦い」などは、昔の記憶が即座によみがえって、「あ、これだ! これだ!」と叫びました。
そういう場面では、観衆から盛んな拍手や掛け声が……。
それに時たま聞こえるカメラの周囲のお国なまり……。

TT君のお孫さんはじめ、多くの亡くなられた方々も、きっと天上で耳を傾けているに違いない……。
そういう思いもいだかせる素晴らしいお祭りでした。

*右の写真はDVDのパソコン画面をカメラで撮ったものです。いずれ綺麗な静止画をまとめたいと思います。
また、できたら動画もUPしたいと思っていますが、はたしてうまく行きますかどうか。

(11/4)

■長面のお神楽、写真ページを作りました
MSさんから送られた写真を一カ所に収録してみました。
神楽の演目など、管理人は詳しいことがわからないので、今後皆さんに伺いながら加筆修正していきたいと思います。
「祭囃子、聞こえっぺが」にあります。とりあえず懐かしい舞台風景をご覧ください。 (10/30)
*管理人の思い違い、記憶違いなどたくさんあります。お気づきの点などお知らせください。(11/3)

■お神楽の写真が届きました

長面のMSさんから10/21に行われた、お神楽の写真がいっぱい届きました。取り急ぎほんのちょっとだけご紹介します。
(写真をクリックすると大きく見えます)


【MSさんのお手紙から】
昼間の写真はまあ見られるのですが、夜のはたくさん撮ったのに失敗ばかりでした。
立ち見がたくさん出るほど観客がいっぱいでしたのに……。
オートなので自動で暗くても写ると思ったのですが、どうやら「夜景」への切り替えが必要だったようです。
大判焼き、水あめ、ぽっぽ焼き、焼き鳥屋さんほか、賑やかな夜の屋台風景も写っていませんでした。


 
 舞台のすぐそばには仮設住宅が……。<右>釣の翁はTTさん。背後の山は上品山です。

 
 夜神楽。立ち見が出るほど観客はいっぱいでした。

カメラマンの人たちが、テレビ局はじめたくさんいらしてました。
そのなかで、むかし大川に住んでいて、
「長面の伝承太鼓を前から追いかけていた!」という方に声をかけられました。
名刺を渡されてびっくり、私たちの大川中時代のMI校長先生の末息子さんでした。
大川だけでなく、本当にたくさんの人たちが来てくれて感激しました。
来年はぜひぜひいらしてください。 (MS)


ハイ、来年はぜひ行きます。でも、ほんとうによかったですね。
皆さんのさざめき、太鼓、笛の音、舞の姿……、亡くなられた方々にも届いていると思いますし、遠くにいる私たちにも思いが伝わってきます。皆さまほんとうにありがとうございました。遠くから感謝!
太鼓をたたき舞を舞うTT君、心と体の躍動が伝わってきます。疲れなかったかなあ。演目や内容など、ぜんぜんわからないのでそのうち教えてくださいね。
近々、送っていただいた写真をまとめますので、ご期待を!    (10/26)

■長面のお神楽が盛大に
10月21日(日)、仮設の集会所前の広場に本格的な舞台が設けられ、長面の秋季祭典・北野神社のお神楽が夜9時まで盛大に奉納されたそうです。

オリオンの掲示板に尾の崎のKKさんから以下のメッセージ。
「少し秋風強くも、絶好の祭り日和。
長面の秋季祭典たけなわ、引き寄せられるように、針岡のKSさん御夫妻、長面のMSさん御夫妻、それに懸命に太鼓をたたくTTさん、
一堂に集合、話がはずむ。
MSさんが 携帯で管理人さんへ、臨場感ふれる祭りの模様を生中継、デゴスコデン、デゴスコデン。
KTさんが囃子にあわせて舞台の袖で舞う。
最高のお祭り、夜の9時までやるそうな。(MSさんのご主人は北野神社の総代長)」

文中にあるMSさん電話、21日の午後2時過ぎだったか、受話器を取ったとたんに祭囃子がはっきり聞こえ、
「祭囃子、聞こえますか? 感動で涙が出ちゃいます」

それを聞く私も涙ぐんでしまいました。
*オリオンの掲示板http://orion.bbs.coocan.jp/ に詳しい報告があります。 

■「大川小学校訪問の件」=同級生HT君の従兄弟のHTさんからのメール
10/12、大川中昭和35年卒業だという未知の男性からメールをいただいた。
タイトルは「大川小学校訪問の件」。
はじめは、「はて、どなたかな?」と思いましたが、カナダのMKさんと同級で、管理人の同級生であるHT君のイトコだというので、釜谷の武酉旅館の息子さんと察しがつきました。


仕事時代の四輪レース仲間のふたりから大川小を案内してくれとの話があり、8日の夜、仙台に来ました。
 実はそこで大川小学校に直接行き、見舞金を渡したいという話になったのですが、さて、どうしたらいいものか。

 突然の訪問では失礼と思い、大川小に時々行って献花していた時に親戚筋のYTさんと横川のH先生(こどもが犠牲になり休職して捜索中)が、ヒマワリ・アサガオの手入れをしていた事を思い出し、イトコのHちゃん姪のYT(両親ふたりが犠牲)に電話して、それぞれの連絡先を教えてもらいました。

 また、遺族会のTT会長(長面)に連絡が取れ、事情を話すと武酉旅館のことを覚えてくれていて、とんとんと話が進み、大川小の校長にアポイントが取れました。

 釜谷で献花し、その帰りの昼休みに飯野川第一小の2階に間借りしている大川小を訪れました。子供達(21人)の元気な挨拶を受け、校長室に。
 校長は震災当時は湊小に在籍、3日間約1000人の避難している人達と食料・飲料水も少ない中、みんなで分け合い過ごした事も話してくれました。

 T校長は元大川小の教頭をしていたこともあり、春の移動で大川小の校長に。
「この夏ふたりの子が体調を崩したが、いろいろ話を聞いてみると、ふたりは当時のことを決して話さないと決めて過ごしてきたようです。そのストレスがたまって体調を崩したようですが、先生達の努力もあって現在は回復しています」
 そういう話を聞いて、こどもながら、ちいさな胸に心を痛めていたんだと思い、涙が……。

 不明者の捜索は、現在龍谷院の手前から第2段の堤防が完成、捜索を開始しましたが、堤防の下から海水が出て大変なようです。その後は5年間で元の松原・長面海水浴場まで、堤防を作る計画とのことです。
 校長も生徒のこころのケア・遺族との関係・新校舎の建設等、課題が多いとのことでした。

 仙台への帰り、仲間ふたりは懸案の目標を達成でき、生徒達の元気な様子にもふれることができて大満足でした。見舞金・義援金も、遺族会と大川小の児童にと分けて届けることが出来ました。
 校長先生の話、遺族会会長の話、また慰霊碑建立の話等々、まだまだ元気なうちは仲間達にも呼びかけ、協力して行きたいと思っています。
 2012.10.12 HT

管理人の同級生HT君と今回のメールのHTさん。イトコ同士で同姓同名。お名前の字は違いますが読みはじ。イニシャルにするとわかりにくいですが、正確に言うと「同級生HT君の従兄弟のHTさん」ということになります。
で、いくつかぶしつけな質問をしたのですが、丁寧なご返事を頂きました。

●「四輪レースの仲間」=村田町にあるスポーツランドSUGO(ヤマハ発動機の系列子会社・2輪・4輪のレース・サーキット場)での仕事仲間です。私のヤマハ発動機()最後の奉公が地元になり、思い切って仕事をすることができました。その時の仲間で定年後もお付き合いをしております。大川には関係なく横浜と水戸の人です。

●「合同慰霊碑の件」=大川地区合同慰霊碑(犠牲者380人、行方不明38人)は釜谷の三角地帯に建立の計画で、設立委員会はKT代表(釜谷)です。建立資金の目標は約500万円とのことですが募金活動で苦労されているようです。

●「大川小遺族会の慰霊碑」=遺族会でも慰霊碑の計画が別にあるそうですが、石巻市の教育委員会が絡んでくるので、時間がかかりそうです。遺族会代表は長面のTTさん(ご両親とふたりの子どもさんを亡くされた)。遺族の方々は、ひとりぽっちになった人とか、いろんな事情を抱えていて、周年行事、捜索活動、教育委員会との交渉、慰霊碑建立など、調整役として大変なご様子でした。

*横浜と水戸の人が見舞金を携えてわざわざ大川小へ……、HTさんの人徳だろうと思います。貴重な情報をいろいろありがとうございます。私たち東京の同級生もこれらのお話をもとに、いろいろ話し合っていきたいと思っています。 (10/19)

■120人の僧侶の法要読経
針岡のKS君からメールがありました。

9月24日、尾の崎のお寺海蔵庵の住職佐竹泰生和尚さん(針岡松山寺兼務住職)の呼びかけで、神奈川、東京、埼玉、茨木、福島、山形、岩手から120名あまりの和尚さん達が大川の地で一同に会し、犠牲になられた方々の慰霊法要と復興祈願が、長面魚協、竜谷院前、釜谷墓所前、大川小において、ご遺族一般100名ほどの参加の下に執り行われました。

自分も参加し線香を手向け慰霊をしてきました。その中の一人、中年の和尚さんに声を掛けました。
「和尚さんは、どちらから見えましたか」
「横浜からです」
「車でいらしたのですか」
「いや、新幹線で今朝でてきました」
「今夜はどちらかにお泊りですか」
「いやすぐかえります」
「遠いところをご苦労様です。有難う御座います」
「いえいえ、これまでテレビなどで被災地の状況等は見てはいましたが、多くの方々の犠牲、そして壊滅した集落に立って被災状況を目のあたりにしたとき、習いたての御経を以てしてご遺族の気持ちに添えることができるのか、犠牲者の慰霊などできるのか。そんな自分が虚しいです」
「そんなことはないです。感謝申し上げます」

そんな会話をしてるうちに法要読経がはじまり、和尚さんもそのなかに加わっていきました。
謙虚で静かな語り口に、これからも壇信徒の厚い信頼を得てゆく和尚さんなのだろうと思いました。

※長面の、今は海の中に立っている2ケ所のヤグラ、自分もなんだろうと思っていました。今日土地改良区に聞きましたらこれからの復興に際し築提工事するときの地質調査のボウリング台なそうです。県の設置です。

(9/27)

■それぞれに、復興の明るさが……
●尾の崎のKKさんの便りに次の一節がありました。
……田んぼの作業が一区切りついたので5日より長面浦のガレキ作業に行ってます。20人を2斑に分けて2日出て2日休み。潜水士さんが海底より拾ったやつを船に積み、陸に上げます。11月始めまでやります。そのうちに田んぼのガレキ処理も再会されるようです」

●長面のMSさんとTT君からお神楽について
「今年は10月21日、仮設の集会所で長面のお神楽があるそうです。私も写真を撮ってきますが、じかに見に来ませんか」(MSさん)
「9月23日には石巻市の神楽大会もあるんだけど、そうか、今年は見に来れないか。10月21日の長面のお神楽はビデオに撮って送るよ」(TT君から)

●そのTT君から長面の牡蠣について
「おら家の牡蠣も今年はなんとかとれると思うよ。ただ暑がったから、どうなるかわがんねが」(大工さんの傍らカキの養殖もしているTT君から)

●針岡のKS君から来年の農業への期待
「おばんでがす。毎日毎日なんでこんなに暑いだべ。困ったもんだねあ、体がもだねぐなるね。
今日、用事があって石巻へ行ってきましたが、黄金色に実った稲の刈取りが始まったようです。県発表の作況指数は「やや良」ということで、期待のもてる秋かと思います。
今年はアメリカの干ばつで、大豆の価格も高騰の兆し、米価も高い仮渡しに決まったようですが、私たちの所は置かれている状況を現実として受け止めて、前向きな気持ちで進まないとね。愚痴だけになってしまうから。
でも、歳には勝てないかもね。
田んぼで動くコンバインを見ながら、「2年間のブランク、自分はコンバイン操作など大丈夫だろうか」と自問しました。
間垣から尾の崎、あるいは雄勝など、被災されたところの復旧は、貴君の言うように何十年の年月を要するかもね。そんな中、生まれた所を離れ、永住の地を他所に求めた声を聞くとき、一抹の寂しさを感じます。遅々として進まない復旧復興に、国は、政治は、と嘆かずにはいられません」
(いつもなら20数町歩の大豆栽培をしているKS君の悔しさがにじんだ秋。復興が歳との競争であることが現地の重みとして伝わってきますが、なにか来年の希望が少し見えるような便りでした)  (9/18)

■悔しいけれども「夏草や……」(4)
●9/3、追分温泉の夜、針岡のKS君、TS君、長面のTT君と晩飯を一緒に出来た。
三人とも同級生だからまったく気取りなんかなく、純粋な針岡弁というか長面弁というか、お国ことばでしゃべり合う。
長いこと田舎を離れていた私は2割ぐらいは内容を聞きそびれた。

KS君とは電話やメールでいろいろ話しているが、TS君、TT君と話をするのは久しぶり。両君のこと田舎ではテケちゃん、タコちゃんという愛称で呼ばれていることを今度初めて知った。

●まず、やっぱり津波の話。
・長面のTT君の本職は大工さんだが長面浦の漁業もやっていて、そのときは岸の船で網の手入れをしていたという。「津波が来そうだ」と直感して網や漁具を苦労して陸に揚げたが、「そんなごと、役にたたねがったねや」
・家に行くと奥さんは近所の人たちと寺に避難していたので、自分は神社の後ろの林道に逃げた。幸い二人とも無事だったが、大川小学校で外孫の一人を亡くしてしまった。

・古物商も営んでいるTS君は、仕事途中に地震に遭い、針岡の家を目指しているときに、谷地の道路から北上川を駆け上ってくる津波を見た。間垣の堤防が切れるのを見て、急いで近くのヘリポート(?)に避難したという。
もう車が走れる状況ではないので、山越えして針岡・中道に帰ろうと山に分け入った。山には福地から追舘に通じる古い山道があり、そこを見つければ歩いて帰れると思ったわけだ。
それからがたいへん、「おめえ、そりゃあしんでぇもんだったど」(きみ、それはそれはシンドイものだったよ)という。
長くなるからそれからのことなどは、いずれ『津波そのとき』に書きたいが、夜も更けてようやく家に帰りつくと、奥さんは津波のあったことを知らず
「こんな時間まで、どこをまわっていたの」と言われたという。
針岡の中道は富士沼の奥の高台にあるから、津波のことを知らなかったのである。もちろん電気や通信が途絶えているし……。

●大川地区のお神楽のこと。
大川の各地区には秋祭りに法印神楽が奉納されるが、TT君はこの神楽のオーソリティだと尾の崎のKKさんから聞いていた。
仕事の休憩時間に、一人で神楽の謡? 台詞?を口ずさんでいることがあるという。
それで、法印神楽は隣の雄勝町が専売特許みたい自慢しているが、雄勝が本場なの? と聞いてみた。
「雄勝が本場ではねぇな。もとは志津川の北の戸倉から沿岸伝いに伝わったもので、大川のほうが本流だ」

今年も10月下旬ごろに催されるという。50年ぶりぐらいになるが、ぜひ見たい。
そしてもう少し詳しく話を聞いておきたいと思う。

●9/4は、追分温泉から、登米、石巻の姉兄、矢本のイトコをまわって長野の畑に帰った。
兄姉からは、疎開したころの話や、お世話になった方々の話も聞いて、なにか胸にずんとくる旅だった。

●芭蕉の句に「夏草やつわものどもが夢のあと」があるが、大川地区はどこも夏草に覆われていて、特に被災地は原野のようになっていた。
芭蕉の句は、平泉の遠い昔の回顧だが、大川の出来事はたった1年半前のことである。
「夢のあと」というにはあまりに近い過去で悔しいが、ほんとうにたくさんの「つわもの」たちのことが思い起こされる。 (9/13)

■悔しいけれども「夏草や……」(3)
●9/3、ホテルを出て志津川の山内鮮魚店に立ち寄り、一路雄勝へ。
・トンネルを出るとすぐ、雄勝湾はいつものとおり美しく穏やかに広がっていました。
しかし、同級生の女性3人が住んでいたメインストリートはガレキが片付けられて真っ平、所々にコンクリートの建物の残骸が残っているだけでした。
・山あいの平地を駆け上った津波のあとは、ほとんど夏草に覆われて静まり返っていました。
・船越に行く道を通りががりの車の方に尋ねると、「ここを行けばいいが、誰もいないよ」という。
船越の本家はかなり山の上にあったように思っていたが、すっかり残骸を片付けられた跡では、20メートルぐらいの高さしかないように思えた。
・さらに高いところに数件の家があり、洗濯ものが干されていたから、何軒かでは生活が続いているのだろう。電気は来ているのだろうか。それでもその水の量を想像するとぞっとする。

・帰路、雄勝の役場前の「おがつ店こ屋街」という、プレハブの長屋風商店街?があって、雑貨屋さん、寿司屋さん、八百屋さんなどが軒を並べていた。ここの「みうら商店」でコーヒーなどをご馳走になった。
・東京の人には「店こ屋」の「こ」の意味がわからなかったが、「べごっコ」「野郎っコ」を説明してなるほどとなっとく。
・お寿司屋さんで雄勝の寿司を食べたいところだったが、まだ腹がすいていないので、上品の郷に戻って、再びここで昼食。
・東京の一行は、ここから石巻市松原町の知り合いの知り合いの、最近1軒だけ開店した喫茶店に寄れたら寄ると言っていたが、無事帰れただろうか……。

●私達はふたたび大川へ。
・福地の同級生YHちゃん宅に予告なしに立ち寄り、里山の家でしばしお茶飲み話。ナスの漬物があまりに美味しいので、漬け方を教わった。ボールのようなものにナス、塩、ミョウバンを入れて、300回ぐらい振るのだという。塩の分量はと聞いたら「それはテキトーに」とのこと。いかにも田舎のおばさんのベテランである(これは褒め言葉)。
・茶飲み話の間にもボランティア関係の電話が入るなど、相変わらず忙しく活動しているようでした。前庭には、ご主人が丹精した鉄砲百合が100輪ほども咲き乱れていました。
・横川の同級生SF君宅にこれも予告なく立ち寄った。SF君は不在だったが奥さまと立ち話。「上がれ上がれ」とおっしゃってくれるのだが、上がってしまうとお孫さん二人の悲しい話になりそうなので、お線香だけ上げさせてもらって早々においとましました。あとからSF君から元気な電話があって、胃のほうはすっかり大丈夫だよと元気な声でした。

●石巻周辺のホテルや旅館はどこも満員で泊れない。ふと思いついて7、8年前、分浜のMS和尚さんや牧野巣山のSTさんと食事したことのある追分温泉に電話してみると、空室あり。
・で、ゆっくり話ができたらと針岡のKS君に声をかけたら、同じく針岡のTSくん、長面のTT君も来てくれて、懐かしい話、悲しい話にひと時を過ごすことができた。

*この続きは次回。これから東京に二日ばかり行って来なくてはならないので。 (9/9)

■悔しいけれども「夏草や……」(2)
●9/2、仙台駅で東京からの4人と合流、牛たんでも食べるつもりがどこも長蛇の列だったので、私の車とレンタカーの2台で三陸道を一路「上品の郷」へ。蕎麦とラーメンで昼食。

●私の車は上品の郷において、レンタカー1台に全員が乗って、福地→谷地→大川中→間垣→大川小へ。
「大きい河ですねぇ、ここを遡って来たんですねぇ」と皆さん当時を想像しようとするが、広大な芦原の緑はかなり回復していて、当時の状況を思い浮かべるのはむずかしそう。
・富士沼一帯も緑に覆われていて、一見稲田のように見える。この中でガレキ撤去をはじめ農業復興作業が続いていたとは遠来の客にはなかなか伝わらなかったと思う。
・ただ、大川中学校の校庭がガレキの集積場になっていて、「あ、中学校もダメだったんだ」という声が自然に出ました。
・特に間垣は家屋がすでに一軒もなく、ただ夏草が茫々とつづくだけ。「ここに家並があったのですか。言われなくてはまったくわからないですね」と驚くのみ。
・大川小学校では思い思いに校舎を巡ったが、やはり「こんな近くに山があるのに、なぜ?」というのが皆の疑問でした。
・釜谷は街を思わせるものは一つもなく、夏草の中に花を手向ける花瓶が二つ埋め込まれているのが宅地を思わせる唯一のものでした。

●長面の墓地に着くころ猛烈な雨が降り出した。思い出深い龍谷院のサルスベリは、和尚さんによれば「やはりダメなようだ。でも根元からヒコバエが出ていて希望の証だ」という。
・強雨のため墓参りもそこそこに長面の街へ。驚いたことに一軒の家もない。全壊半壊すべての家が取り壊されて片づけられたのだろう。尾の崎に近いほうに解体途中なのか屋根だけ海面にストンと落ちた家があったが、まわりに目印になるものがないので、どなたの家か推測できなかった。
・中学生までいた塩田はいまだにガレキ置き場になっていて、尾の崎が雨にかすんでいた。「あ、ここは無事だったんですね」と三浦さんたちは言ったが、前夜仙台であったSMさんが言うように内部は全部えぐられて住めないという。
・予定では尾の崎も一巡するつもりだったが、あまりにひどい雨なので断念。尾崎橋から真っすぐの長面と松原へ向かう丁字路に向かうと、丁字路ではなく十字路になっている(近くに1軒だけ、Sさんの家だったか赤い家が残っていました)。行けるところまで行ってみようとガタガタ道を進むと、長面の墓地近くの万年橋に出た。
(写真は松原へ行く道で左が尾ノ崎方向。長面浦にもありましたが海中のヤグラのようなものは何でしょうか。いずれKKさんなどに聞いてみたいと思ってます)

●同級生たちから長面から北上川に築堤して排水作業を開始、遺体の捜索と農地復旧にかかっているらしいと聞いたが、この道も築堤の一つかもしれない。
・しかし、高さは海水面から1メートルほどしかないように思え、とても堤防の役割を果たせそうもない。針岡、間垣、釜谷は夏草に覆われていたが、長面一帯は夏草さえも生えていませんでした。

●激しい雨の中を釜谷へ戻り、橋を渡って南三陸町のホテル観洋へ。
この海沿いの道も夏草に覆われ、当時をしのばせるものは少なくなっていました。もちろん無人ですが吉浜小学校も少しきれいになっていました。
ホテルで「ホヤを食べたい」というと、「志津川湾にはまだ数百人の方がおられます。ホヤやウニは1年間自粛ということになっています」ということでした。   (9/8)

■悔しいけれども「夏草や……」(1)
9月1日から4日にかけて、ふるさと大川地区を見てきました。
きっかけは仕事仲間で作家の三浦竜さん、画家で漫画家の小幡堅さん、ライターの斎藤さんたちが
「東北の被災地にまだ行っていない。君の田舎の大川に行ってみよう」と言い出したこと。

私が誰かを、どこかに案内すると、「あちこち駆け回るので目的地の印象が薄い」と言われるが、今回もまったくその通りになってしまった。

●9/1、彼らは2日に新幹線で仙台に着くので、私達は1日に長野から仙台へ車で。
・途中、福島の須賀川の蕎麦屋さんでTN君(長面)と会った。
「須賀川は暑い。内陸だからだべな。長面の松原の方がら来るコツカゼ(東風)は夏でも涼しいがらな。いやー、こっつさ来たの、去年のお盆が済んで、涼すくなってからだからねや、この暑さはマイッタマイツタ。畑さ作るものも、長面のつもりでやっと、早がったり遅がったり、やっぱり違うんだでば」
そうは言いながらも明るい笑顔、嬉しい希望にあふれた報告も近々できそうだと言ってました。

●夜、仙台駅に仙台在住のHT君(釜谷)、NT君(長面)、AK君(針岡)、SE君(横川)、SMさん(尾の崎)、EYさん(針岡)が集まってくれて、HT君の快気祝いもかねて小同期会。
震災後初めて会うことができたSE君、SMさんを含めて、その後のそれぞれのご苦労、田舎の状況など、語りつくせぬ一夜でした。
釜谷から長面にかけての堤防構築や排水作業についても話が出ましたが、なかなか頭の中で図ができませんでした。
それにしてもNT君とEYさんが甥、叔母の関係だったなんてびっくり。同級生のことばかりでなく、掲示板に投稿してくれる尾の崎のKK氏やUH氏の縁戚関係など「あ、そうなのか」とうなづく話もたくさんありました。

●9/2、以降のことはまた次回。(これから苦土石灰と堆肥を買いに行かねばならないので)  (9/7)

■お盆
つい先ほどまで町の盆踊りの歌と遠いどこかの花火の音が聞こえていたが、今は静かになりました。
ふるさとの方々がどんな思いでお盆を迎えているか、思いを巡らすのもはばかれるような気がします。

尾の崎のKKさん、針岡のKS君から、炎天下の農業復興事業の便りがありました。
去年今年とできなかった作付が、何とか来年はできるのではないか……、もちろん大川地区の一部ではあるけれども……。という便りでした。
それに思いがけない病に襲われた仙台のHT君、川崎のFTちゃんも無事回復、それらに励まされて「オリオン」の表紙を少し変える元気が出ました。

まだ表紙を変えただけで、中身は何も変わっていませんが、皆さんからお預かりしているいろいろなことを、少しずつ盛り込んでいきたいと思っています。      (8/15)

■映画『東京五人男』
午前中、ちょっと草むしりなどをしたが、午後は暑さでぐったり。テレビを録画していた映画『東京五人男』を観た。花菱アチャコ、古川ロッパらの喜劇。

昭和20(1945)年8月の敗戦後、わずか3か月でこの映画はクランクイン、翌年の正月3日に劇場公開されたという。まあ、占領軍が民主主義の啓蒙のために”指導”して作った映画だろうが、東京の見渡す限りの焼野原が今度の災害と重なって見えた。

管理人が長面に疎開したのはたぶん昭和20年だと思うが、焼け野原の東京は覚えていない。幼かったし渋谷の借家は焼けなかったからだろう。ただ、庭の防空壕で爆弾の落ちる地響きをうっすら覚えている。

今度の大震災の前年、尊敬する先輩から関東大震災(1923年)直後の写真をいただいたが、この写真と敗戦直後の『東京五人男』の風景、そして今度の津波のあとの風景がよく似ていることに改めて驚いた。
天災か人災かはわからないが、歴史は繰り返すというところだろうか。

映画の人々の焼け跡の中の生活は、疎開した私達の生活によく似ていた。
オフクロの田舎だと言っても、それほど簡単には衣食住が整わない。
とりあえずの住まいは本家の屋敷の下男部屋というか養蚕部屋というか、母屋の前庭に入る大きな門の両側につづく建物だった。
映画では、雨漏りのために布団を抱えて右往左往して笑いを誘うが、わが家も雨漏りなんて当たり前、冬など襟元まで雪が吹き込んでくることもあった。

幼かったせいか、そんなこともみじめだと思ったことは一度もなく、楽しい毎日だった。
疎開組だとか、よそ者だとか、いじめられたという話をよく聞くが、そんなことはまったくなかった。同級生のUA君やFTちゃんが疎開組や復員組だったというのもごく最近知ったくらいだから、おおらかで思いやりのある土地柄だったに違いない。

そんな田舎に恩返しもできないまま、あれから2度目の盆が来る。そして終戦記念日も。
去年も行けなかったし、今年もお盆には行けそうもないが、近いうちに訪れてみたいと思う。
中学までいた塩田は、まだガレキ置き場のままだろうか。
松原の痕跡が現れるような奇跡は起こっていないだろうかなどと思いながら。 (8/2)

■今日の運勢
わが家がとっている新聞は一番安い『東京新聞』。最近は老化のためかほとんど読まなくなったが、「運勢」の欄だけは毎日、じっくり見る。で、本日の運勢は
「怠り怠けると心が渇死してしまう。本日精進して万事吉」
運勢というより教訓だが、うーん、今の私にピッタリだ。
「忙しいなあ」とか「暑いなあ」とか「なんだか疲れが抜けないなあ」とか言ってないで、精進しなくては。

大川では7月に入って復興事業が再開されたという。
暑い中、ほんとうにご苦労さまです。
くれぐれも体に気をつけながら、少しずつでも夢にむかっていただきたいと思います。 (7/16)

■長面海水浴場の石積み工事とMOさん
KS君から北上町側から見た長面の様子がメールで送られてきた。(6/14)


 先日、何気に車を走らせ旧北上町役場跡地あたりから長面海水浴場の方を眺めました。
 何一つ遮る物もなく、かってそこに生活の営みがあった家屋、田圃、集落、そして集落を守るべく青青と、凛々しくも繁った防風林,防潮林の松林も無くなり、ただただ広々と、大海の様子を体した光景だけが目にはいります
 その先には未だ解体の進まない家家があり、いま長面の町外れから富士川の甚平閘門目がけて築提工事が施工されており、行き交う工事車両、重機等が動いています。一日も早い工事の進捗を願うものです。(終えた後、排水をし捜索かとも言われています)

 かっての長面海水浴場は、松林から海辺までは相当に広い砂場であり遠浅?の海岸。公の海水浴場の認定を受けて子供会行事、家族、友達同士等を初めとして多くの人達が海水浴、キャンプと涼を求めて楽しんだ思い出の地でもありました。
 その場所も今はその面影すらもなく、十数年前から始まった砂浜の浸食を食い止める為に行った石積み工事、その石積みの名残りにに打ち寄せては砕け、白い波しぶきとなって舞い上がるその光景だけが、長面海水浴場のかっての証しとは……。
 これもまた自然の営みの出来事かと、余りにも寂しいものですね、

 この石積み工事、松原の、砂浜の侵食が始まり、このまま侵食が進めば将来この松林も無くなり、松原集落にも田圃にも海水が入る恐れを危惧し、当時要職にあっMOさんの地域を思う熱意が関係機関を動かし、工事が施工されたと伺っていました。
 その石積み工事も自然の猛威にはなす術もなく打ち砕れはしたものの、その志は砕かれるものではないと思う。


急激だった長面海水浴場の砂浜の浸食には大変驚いていたが、2010年に訪れたときには大きな石の堤防ができていて、ホッとした。その築堤が、MOさんほかの熱意で実現されたとのこと、ほんとうに感謝です。
1000年に一度といわれる津波はその堤防を軽々と乗り越えていったのだろうが、KS君の言うように人間の知恵と努力の貴重な記録となり、いつの日かまた本来の使命を取り戻す日が来ると信じたい。  (6/18)

■ガガに ゴシャエヤガレッカラ
尾の崎のKKさんから、農業復興事業の話、大川地区の法印神楽生き字引TT君の話、その他いろいろの話が寄せられ、最後にこう結ばれていた。(6/9)

「話題は まんだ、まんだ あんだげども、よふがす、すっど、 ガガに ゴシャエヤガレッカラ まだあどにすっぺす、 ほんで やすまいん ありがどさんですた」

で、私の返信。
「ガガ」かあ。鳩が何と鳴いているか、知ってますか?
デデッポポ、ガガカセ、ナニースル、チチノム
子どものころ、誰に教わったのか、いまだにそう聞こえるのですよ。

*もしかするとこの鳩の鳴き声、卑猥な意味を含むのかなあ。ホント、誰がこんなことを教えてくれたんだろう。(6/17)

■大川弁のこと
KS君が懐かしい方言、お国訛りをたくさん送ってくれた(6/7)。『宮城県百科事典』の引用だというが、ほとんどは聞き覚えのあるあたたかい響きだ。

アオノロシ→青大将
アゲズ→とんぼ
アッペトッペ→つじつまがあわない
イズイ→具合がわるい
オイタミカケル→ありがとう
オガダ→妻。
オカッツアン→お母さん
ガガ→母
オドツアン→父
オガル→成長する
オドデナ→一昨日
オバンデス→今晩は
オボコ-幼児
ウザネハク→難儀する
オド→お父さん
キジリ→炉ばたの下座
ヨワリ→夜の仕事
ネマル→座る
ニサ、ニス→お前ら
ハナビキ→いびき
デロ→泥
チアップ→帽子
ハスリ→台所流し
ホデナシ→馬鹿者
ウンダゲットモ→しかし
ワッパカ→割り当て
モモタ→大腿
ケナ→腕
ヘラズク→しゃべる
ヤロッコ、ワラス→子供
キビチョ→急須
ガオル→疲れる
ゴザリス→ございます
ゴシャク→怒る叱る
コノゲ→まゆげ
タッペ→氷の張ったところ
ナデカデ→どうしても
ヘラズク→しゃべる
ビッキ→カエル
で、「うんでは、まだねぇ」と結ばれていた。

田舎弁とかずーずー弁とかは一時馬鹿にされたが、それは日本を均一化しようとした戦後のある時期のことであって、今はかえって温かみのある情感豊かな言葉に感じられる。
で、KS君にこんな返信をした。
方言に共通することかどうか知らないけど、わが大川弁には高貴な言葉というか、優雅な言葉というか、古いタシナミの心がこもった言葉が多いような気がしますね。特に
・オイタミカケル(ありがとう)=相手を思いやるとても丁寧な言い方だね。これからも使っていきたい。
・オガタ(妻)=これは奥方だね。
・ニサ、ニス(お前ら)=おぬし、おぬしら。相手をお主というのだから立派。
・ケナ(腕)=これは「かいな」だろうね。古語辞典にありそう。
・ゴザリス(ございます)=これはもう「ござりまする」だよね。
それからアゲズ(とんぼ)は、とんぼの別名が「秋津」だったような気がする。
そのほかも、ちゃんと見ていくと、どれも由緒ある言葉かもしれないね。 (6/8)
          (6/17)

■ハナシカタリ(話し語り)スッペかシスペか

針岡のKS君からメールが届いた。


午後から家にお茶飲みばあさんがきました。
「針岡弁で『話し語りすっぺ』と、『話し語りしすぺ』と、どっちがいい?」と聞いたら
「”しすぺ”の方が人との和、絆、その地域の味わいを感じる」と、そのばあさんが言いました。
同級生JK君の姉です。84歳まだまだ元気。
いま、人と人との関係が疎遠になりつつある現代社会の中で、大川の人達はまだまだ大丈夫です。

じつはこのホームページの中で、大川地区の歴史ほか、いろんなことをきちんとまとめたいと思っていたが、やってみると能力不足で簡単にはいきそうもない。
それで茶飲み話風にいろいろな話を収録してみようと思い、そのタイトルは『話し語りすっぺ』がいいか、『話し語りしすぺ』いいか、大川弁のプロ? KS君に聞いた次第。
ではやっぱりおばあさんの言に従って、「しすぺ」にしましょう。ペはpeにしたいと思います。

話はちょっとそれますけど、しばらく前から、故郷の便りの中に「はなしかたり=話し語り」「お茶飲み」「むかしがたり=昔語り」というような言葉がたくさん出てきて、とても気になってました。
まだそういう生活が生きていたんだ、都会にはなくなってしまったなあ、と。
 ・「もう長面さ行っても、お茶飲みに行くとこもね」
 ・「近くを通れば必ずお茶飲みに寄って、はなし語りしていました」
 ・「田んぼの畦に腰おろして、話し語りに時を忘れるのもたびたびだった」
 ・「ばあちゃんの昔語りはどこまで本当だかわかんねが……」
「ハナシカタリ」というのは特別な用もないのに、ふらっと立ち寄って交わすお茶飲み話、よもやま話といえばいいだろうか。
「お茶飲みさ行く」は喫茶店に行くのではなく、世間話をしに行くということだ。
若いころはこういう風習を含めて、なんとなく田舎がうっとうしくて都会に出たかったが、最近になって「お茶飲みさ行く」ことや、さして重要でもない「話し語り」に、針岡のばあさんの言うとおり、大きな力があることが分かってきたような気がする。

近々、『話し語りしすべ』というコーナーを設けるつもりです。
まあ、いつもやるやると言って出来ないでいる私、また二の舞、三の舞にならなければいいが。  (6/7)

■2012年春の大川
”谷地の牛舎の隣”さんが5月25,26日に谷地、針岡、釜谷に行かれたそうで、たくさんのすばらしい写真が『国土夢想』(国土は谷地の正式地名)に掲載されています。mixiをごらんになれる方はぜひ。ごらんなってください。
http://page.mixi.jp/view_page.pl?page_id=191637

中でも私的にとても印象的だったのが右の2枚。
”谷地の牛舎の隣”さんは次のようなコメントを添えています。

●植込みと作物
塩にやられて枯れ、灰のようになってしまった植え込み。
しかしその奥に見えるのは畑。
作物が力強く育つのを期待せずにいられません。


●大川中学校。
校庭には瓦礫の山が積み上げられています。
ちなみに私の祖母宅のある大正と呼ばれる地区は、
特に瓦礫撤去作業に難儀したエリアと今回初めて耳にして来ました。
まぁ、地形的に津波が山にぶつかる行き止まり部分なので、
瓦礫という瓦礫が行きつく終着点だったのかも知れません。


大川中前の緑、本来なら稲のはずですが……。   (6/4)

■こいな人たちが、おれを作ってくれたんだでば
NHKのテレビ『宮城県石巻市 北上川を襲った大津波』を何度か見返して、なぜ私にとって長面や大川がそれほど大切なのかがわかったような気がした。

とくに長面の先輩のお二人、STさん、KTさんのお話を聞いていて、
「ああ、こういう人たちが、おれという人間をつくってくれたんだ」としみじみ感じた。
KTさんの悲しみを隠したひょうひょうとした笑顔の中のペーソス。
STさんの古武士のような一途さと不屈の闘志。そしてきっぱりとしたあきらめ。

長面のMSさんが、KTさんのお人柄を伝えてくれた。
「KTさんは近所の方で、私が包丁を研いでいると「何だっけ、その手っつぎ!」と研いでくれ、「そろそろ、切れなぐなったすべ」とずーっとやってもらってました。私の、畑の師匠、植木の剪定の師匠でもあります」

長面に疎開して、もうみなさんに助けられて田舎。
小学生や中学生だった頃の田舎の営みが、今も変わりなく続いている……。
KTさんやSTさんのような方のいる田舎で育った幸せというか誇りというか、そういうものを感じています。

長面、尾の崎、釜谷、そして間垣の美しい風景は失われてしまったけれど、KTさん、STさんのような心が失われるはずはない。
私もたくましく、優しく生きたいと思う。
(ちょっとカッコつけすぎだべか。おしょしな)

テレビを見逃した方、断片ですが、こちらの「津波そのとき」を見てください。画像はありませんが。  (6/2)

■長面の人に会えた NHKテレビ
今朝、田舎から「テレビをつけろ」という2本の電話があって、NHKのテレビの『宮城県石巻市 北上川を襲った大津波』〜明日へ 証言記録D〜を見た。

石巻市の大川地区、しかも長面がメインの番組だったので私にとっては格別だった。
証言は津波の脅威を伝えながら、長面の避難場所になっていた龍谷院での3日間がどんなものだったかを伝えていた。
堀込光子・堀込智之さんのご本『海に沈んだ故郷』を下敷きにしたと思われる構成だったが、皆さんの証言が素晴らしかった。
神社ほかに逃れた人のこと、尾の崎のこと、大川小学校のことなどにはあえて触れなかったようだが、ともかくあまり取り上げられることのない”石巻市の僻地”に焦点があてられてよかった。

とくに長面の武山久仁男さん、高橋省太郎さんの証言は、悲劇の中にも心が洗われるような、滋味あふれるものがあった。
寒さの中で「最後はぽーっとあたたかく眠ったに違いない」と妻を思う久仁男さん、針岡から長面へ妻を探して歩いて2日間、そして「それを見てあきらめた……」という省太郎さん。
ご年配のせいもあるのだろうが、我が故郷のすばらしい人びとに接した思いがした。お二人の証言は長く記憶していたいと思う。(5/20)

■大川小学校の校舎
hariokaさんから便りがあった。



おばんでがす。今日ももこちらは小雨です。

今日の河北新報、「震災遺構残すか否か」の記事中に「大川小を保存するか撤去するかの議論はまだ始まっていない」とありました。
お子さんを2人を亡くした母親は
「3月下旬、校舎前で笑顔で写真を撮るグループに遭遇し、おもわず顔をそむけた。ここは観光地になってしまった。早く校舎を解体してほしい」と言っています。
一方で、一人娘をなくした父親は「校舎がなくなって大川小の被害がわすれられるのがこわい。全部がだめなら一部だけでも残してほしい」と。
このような思いのなかにも平日、週末を問わず、手をあわせる為に多くの人が訪れているが、石巻大川小校舎の撤去か、いずれにしても観光地化はやるせない……このような記事が載っていました。

癒えることのない辛い長い道程だろうとおもいます。   harioka(5/18)



校舎の解体か保存か……。今の大川地区の気持ちがよく表れていますね。大川小前の情景が目に見えるようです。
まあ、あれだけの大事件ですから、観光地化するのもしょうがないかもしれませんね。
私も去年行ったときはカメラを向けるのは悪いと思ったけど、今年あたりはもう少し自由な気持ちで撮るかも。
訪れる人の気持ちも元気になってきたのだろうと解釈して、折り合いをつける以外ないですね。

そんな返信をしました。     (5/19)

■春のお便り
長面のMSさんからドラマチックな春の便り(もう初夏ですが)が届きました。
4月、JT君のお孫さん(男の子)が誕生したという。よかった、よかった。じいちゃん、ばあちゃん、兄姉、従姉、皆さんの笑顔が目に浮かぶようです。
ついでにカナダの「かん子ちゃん」との家庭菜園の話、福地のYHちゃんの山の幸の話、それに松原の砂浜のハマボウフの話などいろいろ。
そういえばハマボウフはもう何十年も食べていないが、あの香りは忘れられない。
今度、スーパーで探してみます。    (5/19)

■感動できることはこのうえない幸せ……
下のharioka君から第2信が届いた。
いつもの年なら米や大豆を東京ドーム5個分ぐらいの面積に栽培する農家だが、今年はそれが不可能なので初めて家庭菜園のようなことをしているらしい。


今日は全国的に雨模様みたいだが、針岡も降り出しました。

勤めを終えた近所のお母さんとhkちゃんが
「馬鈴薯、りっぱに芽がでたね」と声をかけてくれた。

うん、今年から始めた野菜作りなんだけどね、芽が出たときはうれすかったなあ。
今までわかんねがったよ、つくる喜びってのが。
おら、野菜作りはダメなんだ、機械で耕すだけだから。

こんな会話をしながら、女性ってすごいなあと思った。
種まく時に期待をかけ、芽が出て喜び、育てて喜び、収穫して喜び、お裾分けして感謝され……。
野菜ひとつで何度も感動に浸ることができるんだ。
感動出来るってことはこの上ない幸せと思う。

自分達の農作業は一連の機械作業、感情の入らぬまま追われてやっているようなものだったから……。(5/15)


そして最後に「なまってる、はりおか弁で入力しても漢字変換できればいいんだが」と結んであった。
うーん、ナルホド。
それでharioka君の今回のメールを全部針岡弁というか大川弁というか、いわゆるずーずー弁に直してみようと思ったが、どうもうまくいかない。

なまった話すかたを忘しぇだこともあっぺし、文字さ変えるどテレビのズーズー弁みだぐなって、なんだが意味がつがってくんだなや。まっと勉強してみるべ。おしぇでけろな、みなさん。
(なまった話し方を忘れたこともあるだろうし、文字にするとテレビのズーズー弁のようになって、なんだか意味が違ってくるんだよね。もっと勉強してみよう。教えてくださいね、みなさん)   (5/19)

■思いがけないメール
昨日(5/13)思いがけない人からメールが届いた。

あれからもう1年2ケ月、山は色鮮やかな新緑を迎えました。
その中に咲き誇るように山桜が爛漫、見る人の心を癒し別れを惜しむかのように風に舞い、新緑の中に溶け込んでいきました。桜は深い悲しみを無言で癒してくれる樹なのだそうです。

去年、河北町皿貝出身で岩手県一関市川崎町の常堅寺の後藤泰彦住職さんの呼びかけで、壊滅した釜谷墓所前に犠牲者を悼み冥福を祈るための鎮魂の桜が、ご遺族参加の下に植樹されました。
私も鎮魂の思いを心に刻み、桜の成長と大川の地が一日も早く復興できる事を願い、手を合わせてきました。

いま改めてオリオンに想いをはせています。
3.11……、東北を襲った筆舌に尽くしがたい未曾有の大惨事は大川の地にも襲い掛かり、生活の痕跡すら残さず消えた集落、犠牲になられた尊い其の命420柱、余りにも酷い出来事でした。

あの夜の天空は満天の星空でした。
煌煌と輝くその光は暗闇の下界まで達し、その中に大川の地にも似たオリオンが一段と強く光り輝いていました。
下界でおきた大惨事、犠牲になられた方々を迷わず天国に導く道標となつて、必ずや天国に召されたものと信じるものです。

今、同期のJT君、NTちゃん,KS君,SO君,KOちゃんたち、オリオンのどこに集まって同期会やっているのかと、光輝く夜空に向かって問いかける昨今です。
昨晩、仙台のHT君、NT君、AK君、ES君、SMちゃん、EYちゃんらが、震災後初めて集まるからと誘いがありましたが、用事あって欠席しました。

とまあ、老骨に鞭打ってパソコンに向かいあっていますが、これは何事に増して疲れます。  オリオン針岡

「オリオン針岡」って誰だろうと思ったら、我らがKS君でした。まさか彼がメールを打つとは知らなかったから、ちょっとびっくり。
じつは今の時期、例年なら田植えの準備や豆蒔きの準備で忙しい(20数町歩の農業実業家)のだが、富士沼周辺はまだ耕作不能なので、70の手習いでパソコンに向かい合っているのだそうだ。
そういえば長面のTN君も「やることがないからパソコンでもやるか」と言っていた。
大地に生きる幸せとは100倍も違うと思うが、何か情報収集の役にでもたてばいいと思う。 (5/14)

■七ヶ浜から春のお便り
長野の畑からしばらくぶりに帰ると、七ヶ浜の同級生EYちゃんから桃の花の便りが届いていた。
便りの内容は先日彼女が上京した際にちょっと会ったお礼のようなことだが、その葉書のカットが素晴らしかつた。
東北はひどい災害に見舞われたが、やっぱり大地も自然も春を忘れない……、そんな彼女の思いが伝わってきた。

七ヶ浜町は仙台、多賀城、塩釜から突き出た半島の町で、津波の被害が大きかったところだ。
幸い彼女の家は高台にあって無事だったが、被災した身内の方たちと生活を共にするなどしていて、一方ならぬ苦労はあったと思う。
貼り絵というのか切り絵というのか私は知らないが、ともかくそれが趣味でカルチャースクールで教えてもいるという。

いろいろなことが起こって絶望の淵に立たれることもあるが、長い目で見れば歴史の一幕なのだろう。
変わらぬ自然のなかを、ただ無心に生きればいいのかもしれない。
拡大すると細胞? 毛細血管? 生きているように見えます (5/14)

■大川中体育館
岐阜県郡上市の『アースシップ』から、大川中学体育館の泥出し作業の写真をお借りしました。
アースシップの皆さんは3.11の直後から救援物資を募集して現地へ赴き、大川中の体育館の片付けをボランティアでしてくれた方々です。
写真には
「丁度地震のあった日が卒業式ということで壁には紅白の幕、壇上には国旗と校旗が掲げられたままになっていました」
とありました。(写真をクリックすると拡大されます)

祝卒業」の看板もそのままの体育館 ここまできれいになりました

『アースシップ』については下をご覧ください。アウトドアスポーツ体験を営業主体とするユニークな有限会社EAT&LIVEのユニークな活動の一端です。
  http://www.earth-ship.net/about/
また、ボランティア活動の報告などは、
  http://www.earth-ship.net/blog/2011/03
  http://www.earth-ship.net/blog/2011/04/22120252.php#more-1255
にあります。  (5/7)

■MKさん、追悼滞日の記
長面のご実家やご親戚、友人知人の一周忌、それに大川小学校の追悼式典にトロントのMKさんが一時帰国されて、その報告メールが届きました。

 日本から帰ってからもう一月も過ぎたのですが、今回の帰国は本当に心身ともにきつく、今の今まで心の整理がつかなくて 友達にお礼状もメールも出せずにおりました。

 3月10日は松島で大川中学校35年度卒業生の追悼同窓会があり、39名が参加しました。津波で亡くなられた7名への顕花そしてお祈りから始まりました。
 翌日早朝、私は長面の阿部長さん(魚屋さん)の同級生、NAくんと10時からの長面合同追悼式典へ、他の人達は大川小学校へと別行動となりました。

 その後、トロントからの友人、山口大学で法医学、歯医者でもある友人、休暇中のCBCの友人たちと落ち合い、大川小学校へ行きました。
 一年前、正に子供たちがいたであろう校庭に立ち、2時46分のサイレンと共にお祈りを捧げました。 なんとも表現しがたい気持ちに陥り、ただただ悔しさと悲しみが胸のうちを駆け巡り、呆然と立ち尽くすのみでした。

空にはヘリコプター、大勢の報道陣のシャッターの音の中、友達は校舎の後ろの山を指差し、どうしてあそこへ行かなかったのでしょう。。。。本当になんともいえない気持ちです。 
 どうして?何故? 全国、全世界へと大川小学校の名は答えの無い問いを永遠に投げかけるのでしょうか。 その時の写真を添付します。

 なお、下の文は、以前お話したトロントの『日加タイムス』へ書いた記事です。俳句を引用させていただいたHYさんにどうぞよろしく。
         MK  (4/25)

もうじき一年、悲しみを引きずるのは止めようと決めた

 2011年3月11日の未曾有の東日大震災から早一年になろうとしている。
 9.0の大地震に続いての数回に及ぶ大津波は私の自慢の故郷を、愛する兄家族を、従兄弟家族を、友達を、多くの人達や物を一瞬に奪い去った。
 ことあるごとに思い出
すのは、水面下に土台のみを残した実家跡だ。今でも悪い映画のワンシーンを観ているようだ。この映像は私に取って半永久的な残像になるのだろうか。やり切れない。

 海の大好きだった50歳目前の姪は、その愛する海に帰って行った。その姪が好きでよく口ずさんでいた歌がある。
 
音楽涙の数だけ強くなれるよ~~明日もあるよ君のために音楽
 3.11以来流した涙ほど私自身強くなれただろうか。。。。ただ思えるのは
私の人生で3.11がどん底になるのだとしたら、これからは上向きで進むしかないのだ。
 悲しみを引きずることは止めようと決めた。目を閉じれば心に閉まってある引き出し一杯に故郷の景色や人々、兄家族との団欒が詰まっている。時々引っ張り出して、思い出に浸れることだって出来る。
 そして、伝えたいこと、思ったこと、感じたことを先送りせずに
今即行動に移すと決めた。明日のことは誰もわからない。

 そして、子供たちと教職員合わせて84名が犠牲になった私の母校である大川小学校。
 未だに行方不明の子を探す母親。 石巻市と宮城県警は北上川沿いの小川を1.3キロに渡ってせき止め、川底の掘削する操作をしているが、何らかの手がかりがあると良いのだが。
 3月11日には友達2人、
CBCの2人と一緒に現地いりする。一周年慰霊祭に参加し焼香をし祈りを捧げること。 今の自分に出来る精一杯のことだ。

 11ヶ月も過ぎた2月10日に発足した復興庁。 何県にも渡る大災害の復興の対応に相当な困難があるのは理解できるが、指令塔役を期待する声と遅すぎる船出のさめた声が入り混じる中、どのような救済に乗り出すのか見守ることにしよう。

 最後に、地元の70歳を越えられた方が詠まれた俳句を紹介したい。 五.七.五に全ての気持ちが見て取れる。
       幾万の  命のみ込み 海静か

       事なきを 得しこの身の 生き地獄
       声ひそめ 涙こらえる  仮住まい
      MK(2012年3月1日)


■大川小学校、校舎の落成は昭和60年2月
このホームページの「大川小学校・大川中学校の歴史」で、大川小の現校舎がいつ出来たかわからないままになっていましたが、仙台のKSさん(釜谷で亡くなった同級生KS君のご子息)から
「現小学校の落成時期(昭和60年2月)が判明しましたのでお送りします」
と定礎板の写真を送っていただきました。
ありがとうございました!

昭和60年(1985)というと27年前(日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落などがありました)。
宮城スタジアムなどを設計した高校の同級生は、被災後の大川小学校を見て、
「モダンで立派な校舎だったのだなあ。どうしてこんなことになったのだろう」と言ってました。

大川地区も桜の季節だと思います。近々、桜満開の大川小の写真(トロントのMKさん提供)とともに「大川小学校・大川中学校の歴史」を修正します。 (4/26)

■春が来た……が
「キヒゲン送ったよー」
針岡のSK君から電話があった。キヒゲンというのは大豆の種にまぶす農薬である。
「豆を蒔いても芽を出した途端に、キジとハトがほとんど食べてしまう」と私がコボしたら、いい薬があるからと送ってくれたのだ。病害虫の予防にもなるそうなので、今年は試してみよう。
もっとも、20数町歩のSK君の大豆畑と我が箱庭みたいな大豆ではケタが違うので、さて上手くいきますかどうか。

「いつもだと稲作の準備とか大豆の準備とか、そろそろ忙しいんだけどな、今年は何もすることがなくて季節感がさっぱりだよ」
富士沼周辺の田園地帯は、瓦礫の処理はほぼ終わったものの富士沼ものものも塩分がかなり高く、まだまだ耕作は出来ない。それでも平成25年には少しはなんとかできそうだという。

ガレキ処理の仕事がある間は、仮設から解放されての共同作業が息抜きになったが、今はそれも途絶えて、次の施策が大切だとSK君は言う。
釜谷や間垣のガレキ処理は一応済んで更地状態になったが、長面、尾崎はまだまだ。それに釜谷も長面も集積されたガレキがそのままで、復興のめどはなかなか難しそうだ。(4/17)

■大川小の新入生
4/9(月)、大川小でも入学式が行われ、新学期がスタートした。
新入生は女児のみ4人。在校生18人全員にあたたかく迎えられたという。

今年の新入生の予定は8人だったが、4人は転居などの理由で別の学校に入学、震災前は108人だった全校生徒は22人になった。
校舎は間借り先の飯野川第一小。
他校との統合も検討されたが、子どもたちの心のケアについて「きめ細かい指導が必要」だとして統合はみおくり、いずれ津波の恐れのない場所に新築移転する予定だという。

これだけの少人数で子どもたちが心配だが、のびやかな広い心で育ってほしいと願う。(4/11)

■新宿紀伊国屋書店の「石巻からの報告」
きのう、「特別企画 3.11 あの日の記憶 石巻からの報告」を新宿の紀伊国屋で見てきた。
写真のパネル展示とあの日の石巻関係の書籍の販売が主だった。

まず目に飛び込んできたのは、石巻日日新聞社の「6枚の壁新聞」で、当時の緊迫感を感じた。
震災時に輪転機が水没したため、3月12日〜17日の6日間手書きで壁新聞をつくり、市内のいくつかの避難所に貼り出したも情報の量も質も限られたもだが、それだけに事の重大さと報道マンの使命感が伝わってきた。

それにしてもいろいろな書籍が出版されている。
『石巻赤十字病院の100日間』〜そのとき地域病院は野戦病院と化した〜
『石巻災害医療の全記録』〜最大被災地を医療崩壊から救った医師の7か月〜 石井正
『医師たちの奇跡の744時間』〜石巻赤十字病院、気仙沼私立病院、東北大学病院が救った命〜
『「つなみ」の子どもたち』〜作文に書かれなかった物語〜 森 健
『3.11 キヲクのキロク』〜市民が撮った3.11大震災 記憶の記憶〜
『ふたたび ここから』〜石巻の人たちの50日間〜 池上正樹
『再びたちあがる!』〜河北新報社、東日本大震災の記録〜
『悲から生をつむぐ』〜いまふんばらずに、いつふんばる?〜 寺島英弥
『河北新報のいちばん長い日』〜震災下の地元紙〜
『6枚の壁新聞』〜石巻日日新聞、7日間の記録〜
『3.11大震災 記者たちの眼差し』〜DVDブック JNN18本のドキュメンタリー番組収録〜
『東日本大震災』〜1年の全記録〜 産経新聞社
『震災復興』〜日本経済の記録〜 日本経済新聞社
そのほかもいろいろあった。

大手書店の展示なので、新聞広告との兼ね合いや売れ筋の展示になるのは致し方ないが、たとえば『海に沈んだ故郷』のような、地域を絞った作品や個人の記録を重視したものにも日をあててほしいと思った。
廃墟の中に立つ人々がどう生きるか、いずれにしても大切なのは「これから」である。

展示された本全部に目を通す時間も気力もないので、『石巻赤十字病院の100日間』を一冊だけ買って外に出た。
むかし、紀伊國屋書店の創業者で社長の田辺茂一さんと各界タレントの対談を企画して出版したことなど思い出しながら。

それにしても、大川地区が特に目につくようなことはなかった。
パネル展示では只野君の釜谷から長面方面への海の中に沈みそうな道路の写真、大川小の献花の山があった程度。
各書籍の中には大川地区のこともあるに違いないが、たぶんいずれも石巻市の僻地のように見られているのではないだろうか。(4/10)

■「がれき処理」の受け入れは困難だという長野県
いま、畑を借りている長野県にいる。
夕方のテレビを見ていたら、長野県の知事が「がれきの受け入れは困難」と表明し、下部自治体の首長からも異論はなかったという。
理由は放射能が地域住民に及ぼす影響だというが、そんな地域エゴでいいのか。

知事は「現状では国からの説明が足りない」と言っていたが、何か国からの見返りでもほしいのだろうか。

長野県ばかりでなく、地方自治体の公共事業がたくさん行われている。
暴論であることはわかっているが、全国の公共事業を1年か2年棚上げして、災害地の復興に集中すべき時期に来ているのではないか。
そろそろ災害地では復興方針が決まりかけているのだから。

復旧の第一歩であるがれき処理、これを拒否するなどということは地域エゴの最たるものだ。
放射能の恐怖を言うならば、まず原発の廃絶が先だろう。 (4/6)

■新宿紀伊国屋で「特別企画 石巻からの報告」
4月5日(木)から4月20日(金)まで、新宿の紀伊国屋書店本店で、「特別企画 3.11 あの日の記憶 石巻からの報告」が開かれる。
外商部門を通じて石巻の大学や企業と深いかかわりを持つ紀伊國屋書店が、石巻が受けた被害の実情や復興の歩みを紹介することで、改めて被災地域への関心を持っていただけるようにと、今回の展示を企画したという。

会場 紀伊國屋書店新宿本店 7階催事スペース
期間 201245()420(
企画内容:
@一般社団法人 ISHINOMAKI 2.0/石巻 2.0 石巻をあたらしく「つくる」をテーマに、復興とまちづくりの活動を行っているプロジェクトチーム。まちの声をリアルに集めたフリーペーパー「VOICE0号,1号を配布する。

A石巻赤十字病院 被災直後からの必死の医療活動と衛生環境改善活動を写真と解説で展示。この記録は今後の災害対策・緊急時対応の貴重な資料になるだろう。

B石巻日日新聞 震災時に輪転機水没のため、3月12日〜17日の6日間手書きで壁新聞を作成、市内の避難所6箇所に貼りだした。今回はこの「6枚の壁新聞」の複製を展示。

C三陸河北新報社 被災当時の新聞および写真展示。同社が刊行した写真集『大津波襲来・東日本大震災 ふるさと石巻の記憶 空撮 3.11 その前・その後』から50点あまりの写真パネル、ならびに被災当時の新聞を展示。

D石巻専修大学 震災後の活動を記録した『東日本大震災 石巻専修大学 報告書』(非売品)から、「写真でみる復興の歩み」ほか一部資料を展示。

E石巻市商工観光課・石巻観光協会 「石巻市観光再開宣言」のポスター展示、復興企画商品「縁」と「絆」のパンフレット配布。

F石ノ森萬画館 北上川河口の中瀬に建つ石ノ森萬画館は、収蔵品への被害は少なかったが建物が被災を受け現在休館中。現在入手できる貴重なアイテムを販売。

 また同時開催企画として、講談社より刊行の写真集 『3/11キッズフォトジャ−ナル  岩手、宮城、福島の小中学生33人が撮影した「希望」』より、選りすぐりの作品が展示される。

■大川小と大川中
3月28日の『河北新報』によると、石巻市教育委員会は、先の震災で使用不能となった市内7地区の14小中学についての再編計画をまとめたが、大川小と大川中の計画は次の通りだという。

大川小学校の新年度の児童数は22人になる見込みで、他行との統合も検討されたが、児童の心のケアについて「きめ細かい指導が必要」として見送り、移転地は地域の復興状況を見極めながら決めるという。
また、大川中は来年4月、河北中と統合して同校の校舎を利用するという。
*河北中は石巻市小船越にあり、二俣中、大谷地中が昭和56年に合併して発足。

話は違うけれども、長面地区の住民の集団移転の話もあると聞く。
激変する大川地区、一日も早い平穏を祈りたい。(4/3)

■ばっけ味噌
仙台の高校の同級生から春の便りが届いた。

昨日、早朝の散歩にでたら、ガマが車にひかれて死んでいたという。
彼の家には池があり、ここのガマの生態を折々送ってくれるが、どこかで冬眠から醒めたガマが彼の池に繁殖に帰る途中、災難に遭ったらしい。
帰りに片付けようと同じ道を来ると、不思議なことにすでに死骸はない。「カラスがもって行ったのだろう」と奥さんは言っているそうだ。
事故に遭ったガマは行き着けなかったが、彼の池では今、ガマたちの熱愛期だという。
ようやく梅が一輪咲いたという仙台からの春の便りだった。

私は信州の畑に来て、昨日、ジャガイモ畑を少しばかり粗起こしした後、蓼科山のふもとにフキノトウを探しに行った。
やはり今年は例年になく春が遅いようで、固い小さなつぼみを30個ばかり、なんとか雪の間から採った。
こんな小さな春の訪れも、例年のようには喜べない同胞がたくさんおられるに違いないと思いながら。

フキノトウの春を彼に伝えると返信があった。

「偶然ですねえ。わたしも、今日、フキノトウをごっそりつんできました。
大学の構内にあるのです。駐車場のそばに、たくさんあります。
自然を知らない人間ばかりになったのでしょう、誰もフキノトウに見向きもしません。
妻は、見よう見まねで、ばっけ味噌を作りました。まずまずの出来です」

ぱっけ味噌……懐かしい響きだ。
仙台の彼は、戦後母君の田舎の陸前高田市に疎開していたが、今度の津波で5人の従姉妹を亡くしている。
たぶんそのころ、お母さんや従姉妹がばっけ味噌をつくってくれたのだろう。
私もフキノトウを味わうたびに、戦後の食糧難とともに長面の春の訪れ思い起こす。
ガマたちの春の目覚めではないが、世界というのはいつも残酷さと喜びをないまぜにしながらつないでいくのだろう。

*「ばっけ」の語原は? 秋田、宮城北部から北のほうの方言のようですが、語源は、
  ・花のようで つぼみのようでもあり 半開の意
  ・早春にポックリ 芽を出し開花するので ポックリの転
  ・花が盤状に開くことから、盤開が促音化 
  などではないかと言われているそうです。さて、どうでしょう。


今夜は台風以上の暴風雨という予報。これ以上何事なければよいが。 (4/3)

■北野神社と八雲神社と神社庁
長面に神社が二つあって、どちらがどんな神様なのか忘れてしまったので、大川村誌や河北町誌をめくってみたが、北野神社しか出てこない。北野神社の主祭神は菅原道真公で天神さま。
北野神社の詳しいことは別の機会に譲るとして、八雲神社がわからない。

ネットに宮城県神社庁のホームページがあって、その中に「県内神社の紹介」というコーナーがあるので検索してみたが、ここにも長面の八雲神社はなかった。

他に大川地区の神社は尾崎の久須師神社、釜谷の日枝神社、稲荷神社、針岡の羽黒神社、福地の八雲神社(谷地?)、八幡神社、賀茂音小鋭神社の鎮座地や由緒が記載されている。
ところが、由緒の説明が何かの手違いでいろいろ入れ替わっていて、どこのことやらよくわからない。
神社庁で近々整理してくれると思うので、くわしいことはそれからにしよう。

ちなみに長面の八雲神社については、神社庁に登録がないのでわからないが、境内神社ではないかと言う。
それにしてはけっこう立派なお社で、子どものころ、後の神主のY君(故人)などと遊んだのは八雲神社のほうが多い。
記憶が確かではないが、八雲神社の祭りは夏の神輿で、白装束の若者たちが、口に白い紙を咥えて、しずしず進む、少し変わった厳粛な神輿だった。

■長面の神社……ここは八雲神社でした
昨年暮れにこのコーナーに、長面の「集落のすぐ上にある神社」を写真とともに「北野神社」と書いたが、これは「八雲神社」ですよという指摘をいただいた。
すみません。たしかにここは八雲神社で、北野神社はこの写真の右手の奥、八雲神社の背後の山道を100mか200m行ったところです。
(こういう間違いをしていてはバチがあたりますね)
ところで、長面は地形的に見ると内浦の海に浮かんでるように見えるが、三陸をたびたび襲った大津波でも、大きな被害が出たとは聞いていない。
これは大川地区全体に言えることで、同級生の間ではいったいいつごろから大川地区に人が住んでいたのだろう、という話がよくで出る。
各集落の神社お寺の由来をみたらわかるかもしれないので、時間ができたら調べてみよう。
らためて右の写真は八雲神社 (3/29)

■ガレキ処理の後に来るもの
久々に針岡のKS君と電話で話をした。
大川地区の、針岡から長面にかけての380町歩の田畑のガレキ処理が2月いっぱいで終わったという。
予算は1億3,100万円。ガレキ処理は復興事業の第一歩とはいえ、一村を救うにはあまりにも少ない額だ。

それでも復興事業が動いている間は、被災者同士の語らいや肉体労働が、いくらか悲しみを和らげていたという。
ほとんどの方が近しい人を失い、一家で5人も6人も亡くなった方も多く、これからは精神的な問題が心配だと心を痛めていた。

富士沼周辺の田畑は来春(平成25年)からの耕作がメドだったが、これも26年に延期されたそうだ。
ただ、富士沼自体の塩分除去に加えて、田畑の土の塩分除去もあるので、26年から耕作可能になるとは言い難い。
富士沼周辺ですらそうなのだから、釜谷、長面、尾崎方面が圃場として復活するにはまだまだ時間がかかるだろう。

「最近は大川小学校に観光バスが来るようになってな」
大川小のことは、まだ誰の心も整理がついていないので、住民の心を逆なでしないかと心配していた。

下の『これからも いつも 心に』を読んでいただいたKKさんからメールをいただき、観光バスのことを返信に書き加えたところ、次のような歌を寄せてくれた。

   我が母校 大川小学校の跡地にて ピースサインで写真撮る人もあり  春彼岸

KKさん達はあの日、尾の崎から渦巻く急流の中に小船をだし、JTさんの亡きお孫さんのひとりを収容、長面の方お二人をなんとか無事に救助したそうです。 (3/27)

■これからも いつも 心に……
津波で亡くなった長面の同級生JT君の思い出を、従姉妹のMSさんが書いてくれた。
新しいコーナー『これからも いつも 心に』にあるので読んでほしい。
JT君の悲劇は、言葉では言い尽くせない。
奥さんとお孫さん三人ともども、避難しているときに浪にのまれたという。
お孫さんの一人は、大好きな長面に、東京からたまたま来ていて難にあっという。

MSさんが書いてくれたものを読むと、もう30年ぐらい会っていないJT君が眼前に彷彿とする。
子どものころから紳士的な雰囲気の人物で、なるほどJT君らしいと思うことの一方で、へぇー?こういう面もあったのかと驚かされることもある。
これを読んだ今、すぐにも電話してよもやま話でもしたいところが、もうそれもかなわない。

書いてくれたMSさんも、家をすべて流されている。老後に備えてリフォームしたばかりだった。
しかし、満洲からの引揚げという過酷な体験をしているせいだろうか、「命があれば大丈夫」と、今は娘さんのところに身を寄せてながらボランティア活動をしている。
お孫さんには「おばあちゃんのビンボー自慢」とからかわれるそうだが、電気がなくても、ガスがなくても、なんとかなるよ、と言い聞かせているという。  (3/25)

■夏には排水を開始、将来は松原に堤防も
川崎の同級生SUちゃんが「復興地図まだら模様」というタイトルの日経(3/11)の記事を見せてくれた。
冠水したままの長面地区の航空写真があって、今もあの日から変わっていない。
雪が降った後らしく、海水が来ないところは白く雪が残っているが、それはごくわずかだ。集落も田園地帯も海の色なのが悲しい。

この写真の、尾崎から真っすぐ行ったところは、本来はТ字路のはずだが、新しい堤防のようなものが蛇沼のほうへ伸びている。
これは何だろうとSUちゃんと話したが、何だかわからなかったので、石巻市の河北総合支所に聞いてみた。

聞いてみて、少し明るい気持ちになった。
この新しい堤防の突端あたりから、北上川の水門に向かって、だいたい黄色の線のように堤防を築き、写真左側の長面地区の排水をするのだそうだ。
このとりあえずの堤防は夏までには完成し、排水後に犠牲者の捜索を行い、その後は田園の復旧にとりかかるという。
その後、松原にはもっと大きな堤防をつくる計画があるのだそうだ。

が、いつごろどうなるかはまだ明言できないという。
遺体捜索は市の仕事だが、田んぼの復旧は県の管轄、松原方面の復旧復興は国(国交省)のすることなどで、市のレベルで今は明言できないということだ。
いずれにしても排水が完了すれば、長面にも人が住めるようになるようだ。
簡単にはいかないだろうが、永遠に海の底、というよりは少しは光が見えるような気がした。 (3/23)
(日経新聞(3/11)の写真に地名と新堤防の位置を、不確かですが書き入れました=管理人)

長面地区を排水して捜索を実行…
河北新報の「大川小の避難行動を検証 第三者委設置も検討」という記事(3/19)に、次のような計画も書かれていた。

「学校周辺では今も児童4人、教師1人を含む40人以上の行方が分からない。市は新年度、付近で水没したままの長面地区の水を排水し、不明者の捜索を実行する計画も説明した。6月に仮設道路の工事を終え、7月から1か月程度かけて排水後、捜索に着手する」

あの日、学校には多くの父兄も駆けつけていて、いまだに見つからない方も多い。
長面方面の水をどのように排水するのかなど、具体的なことはわからないけれども、ともかく一日も早い発見につながることを祈りたい。

■大川小の卒業式
17日、大川小学校の卒業式があったという。式典は非公開。
場所は間借りしている飯野川一小で、卒業生は7人。
震災当時の5年生は15人だったが6人が亡くなり、震災後にふたりが転校を余儀なくされた。
卒業生7人のうち、5人は転居先などから中学へ進学するため、大川中学への進学は2名だけだという。
(『河北新報』3/18から)
*小学校から中学校へ。大人の仲間入りの第一歩のところで、こんなことがあっていいものだろうか。(3/19)

■3.11をむかえて
3月11日が近づいたある時から、失語症みたいになってしまった。
毎日の記録映像やドキュメンタリーに圧倒されて、何もできなかった自分に嫌気がさした。

「太平洋戦争には遅すぎて、今度の災害には早すぎた」などと、ラチもないことを思ったりするのもおかしい。
仮にもう少し若かったとしても、ボランティア活動に心血を注ぐとは思えない。
まあ、車にキャンプ道具一式を積み込んでいた時代なら別だったかもしれないが。

「できることしかできない」ということを再確認して、「できることをしよう」と思う。
といって、できることは何もないが、ふるさと大川村の記憶を少しでも残しておきたいとと思う。 (3/13)

■北上川は青く美しく回復したそうです
一昨日の北上川は、福地の方も釜谷の方も、真っ青な流れを回復していたそうです。よかった。
急な魚介の復活は無理としても、今年の秋もサケが昇ってきてほしい。  (2/26)

■「北上川の色がおかしい」
下のYHちゃんによると、最近、北上川の水の色がおかしいという。
「まるでお醤油のような色をしているのよ。黒いというか赤いというか……」
そんな北上川は見たことがなく、気味が悪いそうだ。

「津波が川底を変えたのかなあ。ヘドロかもしれない」とはご主人の診断だそうだが、これまでになかったことらしい。
このあたりは有数のシジミの産地であり、スズキなどの有名な釣り場である。
シジミもスズキもこのままでは生息できないだろう。
海にそそぐはずの大河が流れを止めるはずもないが、どうなっているのだろうか。  (2/24)

■「雄勝町の四人は元気」……うち二人の可愛い写真
隣町の雄勝町へ嫁いだ同級生四人の消息と一緒に、福地・横川の写真や資料を福地のYHちゃんが届けてくれた。

四人は、雄勝町雄勝のNKちゃん、上雄勝のRIちゃん、KTちゃん、下雄勝のSHちゃんと、みんな雄勝町のメインストリートが住い。ここは雄勝湾の深奥部なので津波も激しく、昨年5月に行ったときは一面のガレキだった。
避難所の情報などで、家は流されたがなんとか無事ということは聞いていたが、詳しいことはわかりませんでした。現在はそれぞれ仮設や身寄りの元で元気だとのこと。
たいへんだけれども頑張ってください。

この便りと一緒に、大川中学や福地・横川の昔の写真と資料が届きました。
撮影したのは我々の恩師でもあり、福地の著名な郷土史家であり作家である紫桃正隆先生。これらの写真は近々UPしますが、雄勝に嫁いだ四人のうち二人が写った写真がありました。
(右の写真=タイトルは『可愛い中学生』(昭和28年撮影)、写真説明に「遠足の帰り。教師への信頼感、近親感が笑みとなって現れる。この子たちはその後どうしているだろう」と記されていました)
  (2/24)

■カナダの皆さんもご一緒に
トロントのMKさんからお便りがありました。(2/21)

「昨夜、仙台をベースとするモンキーマジックの絆コンサートを息子と日系文化会館に聞きに行きました。トロントに大勢の日本の若者がいる驚きとともに、大音響の中でちょっぴり若さに浸れたのも良かったです。

 日加親善大使、東北観光親善大使、ベガルダ仙台日加親善大使を委嘱されているモンキーマジックの外務省の招待でのコンサートでした。
 震災直後は全員が各地でボランティア活動をし、又義捐金集めのコンサートを開いたりと大活躍してくれました。

 宮城県人会の会長(名ばかり)とトロントにおける被災者家族の一員ということでトロント総領事館から招待を受け、コンサート後は総領事がレセプションにもどうぞと誘ってくださって、モンキーマッジクの一人ひとりに感謝の言葉を伝え、お互いに頑張りましょうとハグをし、東北にエールを送りました。

 その場には東京カナダ大使館が募集した語学研修に選ばれた 岩手の一関、宮城の門、東松島、仙台太白区からの被災学生たちがいて、同じ思いを分かち合いました。
 私が日本から戻ったら、家へ招いて思いのたけを存分に語ってもらおうかと考えています。

 東京には5日に到着で翌日には仙台、そして石巻の妹の所へ行きます。
 3月10日には松島で35年度大川中学校の追悼同窓会があります。
 翌日は 長面の1周年追悼式典が10時からあるので それに出席し、それから大川小学校の追悼式典にも、カナダのCBC(日本でいうとNHKでしょうか)の知り合い2人、トロントからの友人、山口から法医学の先生の四人をつれての参加です。

 先ほどのメールに続いて又書かせてもらっています。

 先週の18日、土曜日の トロントスター紙(朝日とか読売新聞に相当)に大川小学校で未だにわが子を探しておられる平塚さんという女性の記事が新聞の一面半分と両開き、2.5ページに渡って書かれてありました。

 もうじき一年になろうとしていますが、復興庁が設立されたのは11ヶ月も過ぎた2月10日。この政府の対応の遅さには唖然とさせられますが、被災者それぞれの悲しみ、悔しさ、辛さを抱えての一歩は本当に重いものだと思いますが、前進せねば何事も進みません。

 添付の写真は昨年訪問した石巻市所の方に頂いたものです。この美しい学校が姿を消すとは誰が想像したでしょうか。


   *写真をクリックすると大きい写真が見られます。

      

一年ぶりの帰郷、どうぞお気をつけて。
長面や大川、そして東北がどのような曲折で変化していくか、これからも世界への発信を期待してしています。
            (2/23)


■深い思いの一周忌……
奥さんと二人のお孫さんの一周忌法要を1/28に飯野川で営んだと、長面のTN君が電話で話してくれた。長面にはもう寺もないし家もないので、場所とお坊さんの調整がたいへんのようで、「FS君(長面の和尚さん)も仙台から通うのだからたいへんだ」と同情していた。
各戸の法要とは別に、大川小の合同慰霊祭、地区の合同慰霊祭など、いろいろの供養が行われるようだ。とくに釜谷は霊園自体が流されているので納骨もまだの家が多い。はやくなんとか新しい霊園ができないものだろうか。
一年前の衝撃とは別の、深い思いの中での一周忌だ。語り継ぎつつ春を待ちたい。

■「春を待つ」 3月11日午後2時 
きのう(2/4)、高校の在京同期会があって、KT君から『春を待つ』という東北大学男声ОB合唱団の東京演奏会の案内をもらった。
開演は3月11日の午後2時。案内状の冒頭には次のようにあった。

3月11日、私たちのふるさと東北は未曽有の大震災に見舞われました。今回の演奏会は、ちょうどその1年後に当たります。ふるさと東北の傷は深く、いまだ復興の途にありますが、深い哀悼の祈りと再生・復活への願いを込めて、「春を待つ」を演奏会のテーマといたしました。ふるさと東北と来たるべき「春」を想う、皆さまと私たちの心と声がひとつに融けあった演奏会となることを願っています
 ●曲目 (右のチラシをクリックしてください)
  ・東北の六つの民謡(斎太郎節など東北6県の代表的民謡)
  ・「ゆったて哀歌集」五木寛之作詩 三好晃作曲
  ・「永訣の朝」宮沢賢治作詩 鈴木憲夫作曲
  ・小原孝のピアノと合唱でつづる「春を待つ」(早春賦ほか)
 ●日時
  ・2012年3月11日(日) 午後2時(開場1時) /全席自由2,500円
 ●場所
  ・東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
   (新宿区西新宿3-20-2 03-5353-0788)
  ・京王新線・初台駅東口 (都営新宿線相互乗り入れ、新宿から2分)
 ●チケット扱 オペラシティチケットセンター(03-5353-9999)

開催の日時といい曲目といい、なかなか思いのこもった演奏会のようです。ぜひ、聴きに行こうと思ってます。お時間がありましたら皆さまもどうぞ。

*「ゆったて」とは会津地方の言葉で、山道などの立木に結び残しておく置き文のことらしく、詩は五木寛之の書き下ろし。人生の切ない思いとぬくもりがこめられ、作曲者はその空しく切ない真情を素直に歌っているそうです。
*宮沢賢治の「永訣の朝」も知らなかったのですが、きょう初めてネットで読みました。冒頭はこうはじまります。
「けふのうちに とほくへいってしまふ わたくしのいもうとよ……」

(2/5)

■下駄スケート または カスガイスケート
私たちが子どものころの冬の遊びの定番、スケートとスキーの話を「ウサギと小鮒と」のページにアップしました。
昔メモしたものに少し手を加えたものです。
話を聞くと、皆さん下駄スケート、竹スキーをやった経験があるようですね。何年ごろまであったのでしょうか。
あと、冬の遊びはどんなものがありましたっけ。
明日にでも、「竹スキー」をアップします。これも昔のメモの焼き直しですが。 (2/3)
あ、今日は節分でしたね。(鬼も福も、まあ昔語りでもしましょうよ、という気分の今日この頃です)

■ほんとうにすみません
川崎の同級生FTちゃんが、
「娘がオリオンのホームページをプリントをしてくれたので、読んだよ。これからもがんばって」と電話をくれた。
まず、娘さんに感謝!

でも、読んでいただくほど更新してなくて、ほんとうにすみません。
あれもしたい、これもやらなくてはと思いながら、目先のことに追われてこのありさま。
あまり目いっぱいはできないのですが、ほんとうに「もう少し頑張らなくては」と言い聞かせています。
すみません。(2/2)

■ギシギシと身も心をも……。でも
深刻な被害と打撃に遭われた方のお便りを拝見させていただくたびに、自問することがある。
直接の被害に遭っていない私に、その方たちの痛みがわかるはずがない。あの災害について語る資格があるのかということだ。
そんな思いの昨年の暮れ、福地の同級生YHちゃんから便りをもらった。

里山に暮らすおじいさんとおばあさん(ご自身のこと)が、ぺったんぺったん、臼と杵で搗いたお餅と一緒に、「花豆をストーブで三日間かけて煮ました」という出だしの手紙だった。そして次のようにつづいていた。



 三月のことを想えば、今このような生活ができる私達は幸せだとつくづく思います。仮設住まいの方々には申し訳ないことだと心が痛みますが、自分たちのできる小さな支援はいつも心がけ、仮設のほうにも時おり通っています。
 今になって、当時の生々しい体験を話される方が多くなり、聞くことが苦しくなります。いまだ行方不明の方がおられるご家族は慰める言葉もなく、一緒に涙することしかできません。
 三月十一日を境に人の心も暮しもすっかり変わり、むずかしくなりましたね。それでも被災された方々は悲しみを胸に押し込め、一歩ずつではありますが前に進んでいる様子です。これからが大変なことは目に見えています。この地で暮らす私たちのかかわり方も大切で、被災された方々の心に寄り添い、共に生きていきたいと思っています。
 こんな大変な中でも私の里山暮らしは、多少の変化はあっても日々の暮らしは震災前に表面上戻りました。

 以下は日記の片隅のメモです。

22年12月 語らえば 悲喜こもごもの古希祝 行く道程ぞ穏やかにあれ
        (そう記した三か月後に)
23年3月 幾万の命のみ込み海静か
     ギシギシと身も心をも砕かるる
     事無きを得しこの身の生き地獄 

23年6月 震災の白き芍薬 悲しけり
     心まで染まる緑のしたたりて

23年8月 声ひそめ涙こらえる仮住まい

23年10月 身の丈に合わせ生き来し 大根引く



震災後、ずっと彼女を苦しめていたのは「何事もなかったことが申し訳ない」という強い思いだったと聞いている。
実際にはご主人のごきょうだいに大きな犠牲があったのだが、彼女自身や住まいに被害がなかったので、
「震災後は、人と顔を合わせることが辛く、外へ出ることが少なくなった」という。その気持ちが23年3月の
   事無きを得しこの身の生き地獄 
勇をふるって避難所や仮設でポラティア活動をしていても、知人や同級生の姿を認めると目をそらし、声をかけることができなかったし、今でもできないという。

それでも時の流れとともに「身の丈に合わせて」寄り添っていくしかないと思うようになったのだと思う。
「大根を引く」という土いじりの一つ一つは以前の営みと同じだが、そこには震災前とは違う万感の思いが込められているにちがいない。

身の丈に合わせて寄り添っていく……。人の痛みをわがことのように感じ、でもそれは人に伝えるすべがないので、身の丈に合わせてできることをすればよい……。
管理人は、そんな勇気をこのサイトに寄せてくれる皆さんの便りからもらったような気がしています。 (1/20)

■釜谷のKS君のこと
「管理人様」という宛名でメールをいただいた。


ふるさと風だよりを読んでいたら、管理人様が龍谷院のFSさんと同級生という事がわかりました。
父は、FSさんと同級生だと聞いていたので、管理人様にメールしました。
釜谷の町並みを見て、懐かしく、もう戻らないんだなぁと思うと悲しくなります。


メールの主は、今度の津波で亡くなった同級生KS君の息子さんだった。
ネットで釜谷の情報を探していて、当サイトにたどり着いたとのこと。
KS君のことは、いずれまた書く機会があると思うが、笑顔が子どものころと変わらない人気者だった。

釜谷で豆腐屋さんを営んでいて、豆腐屋のKちゃんといえば知らない人はない。東京の同級生の間でも、あの笑顔が忘れられないなあ、という話がよく出る。

一昨年の11月、秋保で同級会があって、翌日の青葉城址から仙台駅の別れまで一緒だった。
秋保の宴席では、「まーだまだ現役だ」と胸を張っていて、私が以前、革工芸(?)みたいな遊びをしていたことを知っていたのか、「皮のなめし方を知らないか」と聞かれた。
ご兄弟だったか、お仲間の誰かだったかが、熊を仕留めたので敷き皮にしたいということだった。
もちろん皮のなめし方など知らないから、結局ははく製屋さんに頼むのがいいということになった。

同級生の間では、「朝が早いから昼寝の時間だったのかなあ」とか「あの揺れだから起きないわけはない。片づけをしていたのだろう」とか話をしていた。
でもまあ、あの釜谷の状況を見ると、何をどうすればよかった、などというのはあまり意味のないことかもしれない。ほんとうに運、不運は紙一重なのだということを思い知らされてしまう。

同じ釜谷の同級生で仙台在住のHT君の、KS君についてのメモが手元にあった。それには
「Kちゃんが呼び名だった。人柄を一口で言えば、しっかり者だね。いつも遊ぶときはKT君、Kちゃん、HT君、KY君が一緒だった」と、釜谷五人衆の名が連ねてあった。
HT君とKY君はすでに故人で、KY君は呑兵衛だったから今頃は三人で酒を酌み交わしながら我々を見守っているに違いない。

そんな思い出の切れ端を息子さんにメールしたが、Kちゃんの家族のことを覚えていない。
それで彼の奥さんは無事だったのだろうかと、ぶしつけながら聞くと、次のような返事がありました。


母も今回の震災で亡くなりました。
今ごろは天国で豆腐を作りながら夫婦仲良く過ごしていると思います。
私は、仙台で生活しており、家族とも無事でした。

                      (1/18)

■富士沼の白鳥は今年も来ているそうです
KKさんの便りに触発されて、針岡のTS君、KS君に電話した。(1/15)

TS君には賀状をもらっていたのに、何の挨拶もしていなかった。
声を聞くのは久々、一昨年秋の同級会以来だ。
「家は山あいだから大丈夫だよー」と元気な声。しかし今年の耕作は望めないという。
昨日まで、何十年と続けてきた営みが、ある日突然、予告もなしに断ち切られるのはたいへんなことだろう。

KS君とは今年初めての電話。KKさんの尾の崎の話などして、富士沼周辺の現状を聞いた。
「1/17から復興事業のガレキ除去がはじまるが、今年は寒いからなあ」
大川地区の復興事業の予算は8,000万円程度だが、それでも耕作の見通しがたたない現状では貴重な収入源である。
「白鳥は今年も富士沼に来てるよー」
塩水の沼になった富士沼も、だいぶ真水に近くなって餌になる生物が増えてきたのだろう。
ちょっと前、BS朝日で見た長面では、白鳥の代わりに海辺の餌を探すシラサギが群れていた。
                             (1/18)

■龍谷院の和尚さん
KKさんから長面の龍谷院が解体されたというメールをいただいて、翌日夜(1/11)、FS和尚さんに電話した。
10年か15年ぶり、もちろん震災後初めての電話である。幼馴染で同級生なのに、われながら薄情なことである。
現在は仙台に家を借りて住んでおり、電話番号はかなり前に親戚の人から聞いていたのだが、お寺はもとより長面の惨状があまりにひどくて、なんとなく躊躇していたのである。

無沙汰を詫びるのもそこそこに、お墓の復旧の経緯やお寺の現状を聞いた。

「昨日(1/10)、本堂を解体した。もう昔の面影は何もなくなったなあ」という口調はやはりさみしそうだった。
「お墓は、津波でバラバラに崩れたままでは、お詣りする気持もなえてしまうと思う。それでお盆の前に直した。お墓があれば、いま散り散りになっている長面の人も、家族や先祖に会いに来れると思うから」
地震保険には入っていなかったので保険は共済の火災保険だけだったが、その大半を使って墓石の建て直しをした。それに位牌堂が壁がすっかり抜け落ちたので、それを修理(それで下の写真の位牌堂は真新しく写っている)したり、泥まみれで傷ついた本尊を修理したりして保険の残りはわずかだという。ちなみに写真のプレハブの建物は急造の納骨堂である。
「本堂を再建するには少なくとも1億はかかるし、長面そのものがどうなるかわからない状態では本堂再建を考えても意味がない。それよりも檀家さんの墓地だけはきちんとしておきたかった」という。
墓石の修復については、兄弟からも同級生たちからも感謝の念を聞かされていた。ほんとうにありがたいと思う。

「ああ、サルスベリは去年、葉も繁ったし、花も咲いた。今年も花が咲けば大丈夫だろうから、そうなるように祈っているよ。自然のものは強いね、頭まですっぽり海水に浸かっていたのに」

「今日(1/11)も長面へ行ったんだよ。でもこっちは雪で、渋滞して石巻まで3時間もかかってね。長面に行くのに半日かかってしまった。仙台では不便だし疲れるから、長面に小さな小屋でもいいから造って住みたいと思っているんだ」
「同級生のTTくんの家は修理すれば住めるようになるというし、彼は漁業もしているので、長面に住みたいと言っている。じゃあ、二人きりでも長面に住もうか、なんて話をしているんだよ」

お寺はなんと言っても心の故郷、遠くからの声援など無意味だが、なんとか頑張ってほしいと思う。
とはいえ、FS和尚もTTくんもトシである。無理をせずにくれぐれも体に気をつけてほしい。  (1/14)
*津波の話もいろいろしてくれた。近々「津波そのとき」に紹介させていただきます。

■KKさんからの便り
KKさんという方から突然のメールをいただいた。
「長面の龍谷院は1/10に解体され、あの本堂は完全に消滅しました」
龍谷院は下の写真のような状態だっから、はやり解体するしかなかったかと、一瞬なにか喪失感のようなものに襲われた。

さて、KKさんって誰だっけ。すぐには思い出せなかったが、
よくよく文面を見ると、
「長面の入口でTTさんと一緒に話した」とあって、それで思い出した。

TTさんというのは、5月に長面に行ったときに偶然会って立ち話をした同級生である。
大川小で亡くなったお孫さんのこと、長面や大川地区のこと、これからのことなど、ほんの立ち話だったが状況を話してくれた。
そのとき一緒だった数人の方の中にKKさんがおられて、尾の崎の同級生MKくんの話などをしたのだった。
後で聞いたところ、この時の方々は長面浦のガレキ除去をされていたということだった。

話をした時のKKさんは私よりも一回りも若い方と思ったが、今度のメールで1つか2つしか違っていないことが判明。
しかも、私が中学までいた塩田の家からすぐ近く(海を隔ててだけど)の尾の崎の方だった。
一緒に遊んだかどうかは覚えていないが、私につながりのある親戚や同級生との関係も詳しく記されていて、地域ぐるみの絆の深さを呼び覚まされた。

津波は家の後ろの山から一部始終を見ていたそうで、現在は仮設での生活とのこと。
たいへんな状況は相変わらずと思いますが、長面漁港の復活もあるようなので、ともかくがんばっていただきたいと思います。

■ともかく今年は平穏でありますように
暮、あれもやらなくちゃ、これもしなくちゃとやるべきことを列挙しようとしたが、どうせ列挙したところでやれることしかできないのだからと、あきらめた。
年末のインフルエンザの予防接種以来、なんだか調子が上がらなかったのも理由の一つ。
遅ればせながらなんとか始動を試みます。

去年の災害は1000年に一度のことと言われたが、先の敗戦も1000年に一度か数千年に一度クラスの大変だったとおもう。
天災と人災の違いはあるけれども、短い人生に二度も1000年に一度の大変に遭遇したのは良かったのか悪かったのか。

二度あることは三度あるという。
三度目が何かはわからないが、しばらくは平穏であることを願いたい。 (1/6)

■ともかく来年は平穏でありますように
あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それで時間ができたらああもしたい、こうもしたいと思っていたのに、年末になってしまいました。
今年はいろいろあって、ちょっと疲れましたが、被災した方々に比べればなんのこれしき。多くの方々に勇気をもらいながら、新しい年を迎えることができそうです。
ともかく来年は、平穏で豊かな年でありのすよう祈ります。
皆さま、どうぞよいお年を。 (12/31)

■龍谷院の百日紅
話は前後してだいぶ前、12/4のこと。
前日、釜谷まで行って日が暮れかけたので、長面方面は明日改めて行くことにして志津川(南三陸町)の宿に向かった。

ところが翌日は朝からどしゃ降り。
(雨の中を長面へ行ってもしょうがないなあ。登米と大崎にも行かなくてはならないし)
だいぶ迷ったが、カミさんが「でも、行った方がいいよ」というので、長面へ向かった。

釜谷は昨日も見たが、雨の中ではさらに寂寥がある。
ピラミッドのような砂の山はなんだろうか。
大川小前、診療所前を過ぎたが、そのほかは街の名残りさえない。

釜谷の墓地は整地された更地のようになっていて、山際に墓石が集められていた。(右の写真。広〜い霊園だったのに)
(釜谷出身のSTくんからこの周辺の写真が届いているので、別の機会にUPします)
その墓地の前あたりから、北上川の堤防に向かって、堤防(というには粗末)のような仮設の道路がまっすぐ走っていた。(下の写真)
この道路を境に、長面・尾の崎側は海になっていて、釜谷側は水が少なく土砂が表れていた。
右側は海になる、左側は耕地として再建する、ということかもしれない。

長面・尾の崎への道は山砂の仮設道路で、どしゃ降りの雨に今にも溶けてしまいそうで心細い。
でも、なんとかすれ違いはできるみちで、長面が見えてきた。
墓地は墓石が修復れたと聞いていたが、きちんと積みなおされてほとんど以前のように復元されていた。
風の便りでは、本堂ほかの保険の多くをさいて、墓石の修復をしたという。

長面という集落が再建されるかどうかはわからないが、墓地はなんといっても心のふるさとだ。
墓地があれば人びとが戻ってくるし、立ち寄ってくれるだろう。
そういう龍谷院の和尚さんの信念だったと聞く。

龍谷院は緊急時の避難所になっていたが、今回の津波ではひとたまりもなかったという。
寺の裏山での避難の様子や出来事は、長面の住民で寺の裏山で一命を取り留めた堀込さんご夫妻の本『海に沈んだ故郷』に詳しく残されている。
和尚さんの活躍も書かれているが、同級生ほかからも信じられない奇跡のような話がいろいろ伝わっている。
いずれご本人からも詳しく聞いてみたいとおもう。

5月に行ったときは自衛隊の車が何台か停まっていて本堂の近づけなかったが、今回は雨のなかで人影もなくしずまりかえっていた。境内…といっても昔の趣とはちがう。
(龍谷院 本堂の傾きが痛々しいが昔の建造物の堅牢さがうかがえる)
ぐらりと傾いた柱と屋根だけの本堂と位牌堂(?、新しく作られたのだろうか無傷)が残されていて、庫裡は跡形もない。
庫裡のあった近くにプレハブの小屋が作ってあって「曹洞宗 洞雲山 龍谷院」と墨書した板が下げてあった。

和尚さんはここに通ってきて執務しているのだろう。

雨がひどくて本堂の前には行けなかったが、葉を落とした、丸裸の感じのサルスベリが目に入った。
龍谷院の庭には太くて大きなサルスベリがあって、子どものころはよくその周辺で遊んだ。
小学生のころは龍谷院にやや近いところに住んでいたので、同級生のFSくん(今の和尚さん)のところへ行っては遊んだのである。

10年前だったか20年前だったか、親の何回忌かにFSくんに会った。
「サルスベリがなつかしいなあ、昔のままだね」と言うと、
「あれにはよく縛りつけられてな。親父は俺が何か悪戯すると、あのサルスベリに縛りつけて怒るんだ。反省しろと。でもほんとうに夜は怖かったよ」
(写真中央の枯れ木のように見える古木がサルスベリ)

寺を出て、長面から尾の崎へ。
長面は5月のときとさほどの変化はなかった。あちこちに半壊の家屋が残っているだけに荒涼感がひとしおだ。
長面の入口で、TNくんの奥さん(まだ見つかっていない)の家はどこだったかと見回したが、見当がつかなかった。
家並があったころは、北野神社はもっと遠くにあると思っていたが、葉を落とした木立から間近に見えた。
この山に逃れて助かった人も多いと聞く。
(写真右 集落のすぐ上の北野神社、と書きましたが八雲神社の間違いでした。訂正24.3.29)


中学生のころ住んでいた塩田は、うず高い瓦礫置き場になっていた。
尾崎橋を渡ったが、雨は激しくなるし、時間も無くなったので、尾の崎はほとんど見ずに引き返した。
一見したところ尾の崎の家屋はしっかりしているが、1階はどこも全壊状態だという。
民宿の「のんびり村」がソーラーで営業(?)していると聞いたが、頑張ってほしいと思う。

帰り道、松原のわが家の方向を改めて眺めたが、ただ一面の海原だった。
長面漁協(?)牡蠣むき場(?)の空き地に「なにわ」ナンバーの乗用車がまだ停まっていた。
よほど話しかけてみようかと思ったが、雨が激しいし、一人で感慨にふけるのを邪魔するのも悪い。黙って通り過ぎた。
長面を出たところで、「松本」ナンバーの乗用車とすれ違った。
みんな、それぞれの思いで故郷に引き寄せられているのかもしない。

釜谷で、登米に行く最短路をナビで探した。
ほんとうは橋を渡って川向こうを通り、STさん(以前別件で親交のあった牧野巣山の方)の家の前を通りたかったのだが、ナビが言うとおり、福地を通って登米に向かった。
(まあ、STさんの家は少し奥まっているから大丈夫だろう。でも、赤米とか黒米とか、古代米をつくっていた田んぼは大丈夫だったかなあ)などと思いながら。
ところが数日後、当のSTさんから電話があって……。今度は寄ることにしました。

登米、大崎をまわって帰宅。大崎のお寺は地盤が液状化しているので、大規模な工事が必要だという。
何もできないが、頑張ってくださいというしかない。 (12/30)

■あかるいニュース
M(T)Kさんの同級生の方が、「明るいニュース」として次のことが挙げていました。

@長面漁港が2013年中に復旧
A長面浦で牡蠣がとれ、丸森町で即売会
*大川小・中学も別な高台に移し統合することも

@は県の142漁港再編方針で、優先復旧される「沿岸拠点魚港」に選ばれたこと。大川地区はもとより河北町の方々の運動の大きな成果。詳しいことは『河北新報ニュース』にあります。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20111209_01.htm
*「大川小・中学も別な高台に移し統合することも」……というのはまだ未確定だとは思いますが、うれしい情報。我らが母校の存続を切に祈っています。

■皆既月食の傍に
赤い月食の月の傍らに、オリオンがjまたたいていました。
オリオンから見たら、月食はどのように見えるのだろう……。

■トロントからの便り
大川村から帰ると掲示板に、カナダのトロントにお住いの女性の書き込みがあった。同郷の方らしいのでメールしたところ、以下のような丁寧な返信がありました。



 メールを頂き恐縮です。 私は長面のTT商店の5番目の娘です。
 今回の津波で長兄のT、奥さん、長兄夫婦の長女(私の姪)50歳と長兄のひ孫(当時1歳半)の4名が亡くなり、もちろん家、店、ガソリンスタンドそして、実家の真向かいにあった長女の息子の家も跡形もありません。

 同級生では尾崎一人、長面は二人、針岡三人、釜谷一人の計7名が犠牲になりました。 
 トロントではNHKの国際放送が毎日ありますので、毎朝日本では9時のニュースを朝8時にみることが出来、3.11もちょうどスイッチを入れましたら、名取の仙台空港の津波のシーンが放映されていて、これはひどいことになっていると。。。。
 すぐに実家のことが心配になり連絡しましたが、もちろん音信不通で その後、グーグルの探し人に兄家族の名前や大川に住んでいる同級生の名前、従兄弟の名前を手当たり次第に書き込みをしました。
 兄を見たという人は最後まで現(……一部文字化け)だんだん望み薄になり、本当にどうしてよいのかわからずにいました。

 それからは、トロント在住の被災者家族の一人ということで、地元の新聞、テレビほかいろいろな国の募金集めイベントでスピーチ、自身も募金集めでおにぎりイベントを立ち上げて、着物姿でおにぎり販売をしました。
 中には一個のおにぎりを50ドル(4,300円位?)で買ってくれる人もいて3回のイベントで 150万円ほどを赤十字社に届けることができました。 

 5月と7月の二回帰国して実家跡を訪れました。
 7月の帰国は4名のお葬式に参列するためでしたが、お骨は二人分だけで 兄とひ孫の二人は依然と行方不明でお骨は無く、本当に複雑な思いでの参列でした。
 ご近所の、一命を取り留めたが奥様の手を離したばかりに未だに行方不明の奥様のことを悔いておられる人、迎えに来た消防の車に別々に乗ったご夫婦の一方は助かり、一方は亡くなるという話しを聞いたり、 福地に嫁いだ妹の夫と息子は地元の消防団員で、彼らの釣り船を出して、初め(……一部文字化け)山のふもとや橋のたもとに大勢の小さい子が重なり合っていた光景に声もでず、息子にいたっては家へ帰ってくると泣いていたといいます。

 話したいことが一杯あるのですが、こうしてメールを通じて同郷の思いを分かち合えることは本当に救いになります。 メールを下さって本当にどうもありがとうございます。

 来年3月11日前後に35年度卒業生の追悼同級会を計画進めています。
 釜谷にあった たけとり旅館の息子さんが幹事で奔走してます。
 もちろん、東京にも滞在しますので、出来ればお会いして色々とお話しをしたいですね。
 また、何かお手伝いができることがあれば何なりと申し付けてください。
 M(T)K


国内にいても身内の安否確認はたいへんでしたから、外国でははげしい不安と焦燥にかられたことと思います。
でも、募金集めのおにぎりイベントなど、勇気づけられるお話です。ご親族やトロントでのお話を、いずれまとめていただければと思います。今後もいろいろな報交換をどうぞよろしく。
M(T)Kさんが河北新報のフラットに載せた記事ががあります。ご覧ください。
http://flat.kahoku.co.jp/u/flatblog01/tGE4QXODok60g5qdFSCi/
3月11日の午前に、大川郵便局から発送された妹さんの小包……

■半年ぶりのふるさと駆け歩き記
●12/1の午後、福島・須賀川に移ったTN君に会った。畑を借りて農作業をはじめたが、「農機具が何もないからな」とゼロからの再出発を笑顔で話してくれた。
TN君は7男なのになぜN家の跡取りになって長面で暮らしていたのか、大笑いで聞いたが、運命はわからないものだ。津波の詳しい話をいろいろ話してくれが、それはまたの機会にしたいと思う。

●夜は仙台に1泊。高校の同級生HI君と10年ぶりぐらいに一献傾けた。彼は子どものころ、陸前高田市の母上の実家に疎開していて、そこが第二の故郷。今回の津波では従姉妹5人が亡くなったという。
彼がロンドン、ロスの海外勤務を終えて帰ってきて、退職したころにいっぱいやったが、その後、句集や短編小説集を出版したほか、折にふれて鋭い時評メールで届けてくれる硬骨漢だ。高校時代はヨット部の主将。チリ津波のヨットの被害など話は尽きなかった。

●そのとき、さっき会った須賀川のTN君から電話があって、「詳しいことはわからないが、横川のSF君が仙台の国立に入院しているそうだ」という。
じつは私にはSF君に顔向けができないある事情(このことは別に書きます)があって、TN君に「明日、横川を通るから寄りたいと言っていた。怒らないでくれ」と事前の電話を頼んでいたのである。
朝、病院へ行くと病室を調べてくれて、面会することができた。顔を合わせるとパッと笑みを浮かべて「なんでここがわかった?」
この笑顔で許してもらえると思った。胃ガンということだが内視鏡の手術で済んだという。「4日には退院だ。しばらくは釣りでもしてのんびりするよ。酒がまだ飲めないのが残念だがな」
二人のお孫さんのことは、どちらもわかれるまで口にしなかった。

●その足で矢本のイトコ、石巻蛇田の兄貴を訪ねた。
矢本は、津波は玄関先の道路まで来たが家には入らなかった。それで5月に大川に行ったときは1泊させてもらった。ご夫婦とも料理自慢で、毎年自家製のサンマの糠漬けとミリン干し、それに奥さん手作りのケーキを送ってくれる。どちらも特製という名がぴったりで、売っているものとは一味もふた味も違う特別仕込みである。(こう書いておけばたぶん来年も……)
そのイトコが小説を書いているという。初老の男女が避難所かどこかで知り合うのだが、そのうち女性は「探さねばならない人がいる」と出て行ってしまう。男はその後ろ姿を見送って、「私には探す人がいない」と孤独を噛みしめるという物語。
石巻の兄の家は床上浸水だったが、その工事がようやくこの日の午前中に一段落したところだった。「弟夫婦が昼を食べに来るから、急げ!」という兄嫁の迫力に、なんとか間に合ったと笑っていた。
被災家屋が多いうえに、大工さんさんや工務店はほとんどが道具を流されて、どこの修繕工事も遅々たるものだったという。もうあれから9か月近くもなるのに。
しかし、家の中はピカピカになっていたし、寒さの心配もなくなったようなので、まずはめでたし。田舎の資料を借りるなどして、大川村へ向かった。

●福地の同級生の家の前に、毎年サケが遡上してくる小川がある。津波はここまで来たし、その後の台風15号ではこの一帯は大洪水に襲われた。
はたして今年はサケはくるのだろうかと心配したが、小川にはカラスがいて、サケの死骸のようなものをつついていた。今年も昇ってきたのだろう。友人は不在だったので後で電話で聞くと、「今年も来たよ、いつもほどではないけれど」とのことだった。自然はすごい。

●掲示板に書き込みのあった「谷地の牛舎の隣」さんのおばあちゃんちはどの辺かなと、山際を見ながら鳥屋森方向へ向かった。谷地の山際は似たような風景がつづいていて、なかなかこれかな? というところが見つからない。
そのうち電話が入ったりして、谷地を通り過ぎてしまった。また今度、ゆっくり探します。

●針岡のKS君も留守だったが、玄関はスルスル開いて、居間への上り口に郵便物と電気料金のお知らせが、きちんと置いてあった。玄関にカギをかけないことがこの辺の常識なのだろうか。すごい。
電話をしてみると、今日は最近始まった農業復興事業の最初の給料日とかで、奥さんともども二俣? にある農協にいるという。引き返さねばならない方向なので、またの再会を約して芦早を経て釜谷に向かった。

●途中、鳥屋森の松山寺の境内に入って、形ばかりの合掌をしてきた。5月にKS君に案内されたお寺で、尾の崎の同級生MK君のお孫さん二人が祭られていたところだ。尾の崎のお寺がどうなっているかわからないので、あるいは今も松山寺にいるのかもしれない。
それにしてもMK君にもしばらく会っていない。元気だろうか。

●鳥屋森から芦早をへて釜谷に向かう風景は、5月のときとほとんど変わっていない。凄惨というしかない。田んぼの瓦礫は少し少なくなっていたが、道路沿いの電柱は倒れかかったままだし、車の残骸も残っている。この方向からみる間垣は、さらにすさまじい。

●釜谷の三角地帯をしばらくうろうろした。すぐそばにたけとり(武酉)旅館、もがみ屋、相沢商店などがあって、相沢商店に一つ下の娘さんがいたのを覚えている。だが、もちろん今はなにもなく、砂漠のようなところに大川小と診療所の残骸だけがあって、ボタ山のような巨大な砂山があるが、あれはなんだろうか、不気味な山である。(右の写真の車の前)
三角地帯から釜谷の墓地方向=右の山の裾を望むと、間近に太平洋につづく海が見えた。こんな風景は想像もできなかったことだ。(右の写真)

●釜谷で4時近くなってしまい、長面へ向かうべきか志津川の宿に向かうべきか迷ったが、長面は明日改めて行くことにし、橋を渡って宿に向かった。
対岸の堤防道路を釜谷や長面方向を見ながら走った。長面の海水浴場の砂浜のちょうど向かいだと思うが、吉浜小学校の無残な姿が、当時のまま残っている。校舎やその他の建物は無残だが、子どもたちの犠牲がなかったことは素晴らしいことだ。こんな状態で、よくみんな無事だったと改めて思う。
ただ、海に面した集落は、釜谷、長面と同じように悲惨な状態だ。十三浜といえば、なんだか大川村の兄弟のような気持ちがどこかにある。人びとは同じ痛みをかかえて、現実に立ち向かっているところだろう。

吉浜小学校前の土嚢によじ登って、長面の松原あたりの写真を撮った。しかし、砂浜も松原も何もうつらない。
(右端の少し濃く見える山が尾ノ崎のゴゾ山、中央の海に線のように長面の砂浜の護岸の名残りがあった)
(翌日行った長面のことはまた書きます)

■志津川の海にヒトダマの乱舞 (南三陸ホテル観洋にて)
表現が不謹慎かもしれませんが、その光をヒトダマと思い定めて合掌してきました

夕食後、ホテルの部屋のカーテンから首だけ出して、真っ暗な海を見てみた。
数キロ先の陸つづきの海岸の街灯のほかは何も見えない。ときおり数百メートル沖で豆粒ほどの赤い灯が見え隠れする。波に浮かぶブイだろう。

ふと眼下を見下ろすと、異様な光が流れていた。はじめは幻覚かと思った。
薄く青じろい、かすかな光が、群れをなして右から左にさーっと流れるのである。
部屋は10階で岸壁の真上に建っているので、はるか下の方でその光は流れている。

はじめは「あ、これが海ホタルか」と思った。
海ホタルあるいはホタルイカがどんな光り方をするのか知らないけれども、たぶんこんな神秘的な光だろう。
(夜光虫は知っているし、ホテルの岸壁に当たって砕けた波は白く渦巻いているだけだ)
よく見ると、動かない小さな光も無数にあって、その上を流れるように走る光がある。
右からだけではなく、左からもさーっと流れていく。一つのときもあるし、数十のときもある。

「部屋の明りを消して、来てごらん」
「なによ」
「下にヘンな光が流れている」
暗闇に目が慣れた妻が「わーっ、何あれ」と叫ぶ。

しばらくしてようやく気がついた。たぶんカモメの群れだろう。
真下の白波がはっきり見えるのは、ホテルの光が海を照らしているからにちがいない。
その光が少し向こうのカモメたちに届いて、淡い光点となつているのだ。

カモメとわかってからも数十分、暗くした部屋から二人で光点の数々を見ていた。
海面に数百の光が浮かんだ上を、時に数十、時に数個の青白い光点が飛ぶ。
それは東北の海に沈んだ人々の人魂のように感じられて、思わず合掌してカーテンを閉めた。

海を照らすライトが、こういう幻想的な光景を生むことをホテルが計算したのかどうか知らないが、光に集まる小魚にカモメも集まってくるのだろう。
翌朝、海面に近い露天風呂からはカモメの姿は見えなかった。

海面に直角に建つようなこのホテルは、南三陸ホテル観洋。津波は3階まで襲い、8月になんとか営業を再開したそうで、今もポランティアの方もたくさん宿泊しているそうです。
故郷の長面を訪れるのに、付近には泊まるところがないので偶然見つけたホテル。
ここに行くには北上川の対岸を通っていくのですが、その十三浜村の被害の様子もものすごいものでした。
長面の松原の対岸あたりで、わが家のあたりを眺めたが、ただ海面があるだけでした。

付・海の幸の料理は最高! お風呂も最高! 被災地の方には申し訳ないような1泊でした。

■改めて絆を思います
12/4に石巻方面から帰りました。(次回、簡単に旅の報告をします)
今回の旅の第一の目的は、津波に関係したことではなく登米町出身の禅のお坊さん(故人)の遺稿の借りて、出版資料を検討すること。このお坊さんの禅は、「自然も宇宙も無念無想だから美しい。人も無念無想になれれば自ずと美しい境地になる」というのですが、人間の喜怒哀楽、そう簡単に「無念無想」にはなれませんね。

ともかく5日、6日になんとかラフ案をまとめて、7日は遠い山あいの町にいる長面出身のイトコを訪ねてきました。50年ぶりで会う往年の凛々しい青年は、少し腰がまがったけどかくしゃくたるもの。84歳で現役の仕事をしていました。ただ、腰痛で長旅ができないというので、故郷の便りを少し届けたいと思った次第。

津波がなかったら、会いに行ったかどうか……。
なかなか津波の痛みは消えないけれども、残された絆がより強くなっていけば、少しは救われると思いはじめています。

同級生諸氏諸姉からのたくさんの情報や便り、谷地の牛舎の隣さん、トロントのMKさん、牧野巣山のSTさん、大崎のMSさん、ポラーノ広場さんほかの胸を衝くとともに勇気づけられる便りに、新しい絆を感じています。

これらのことは追い追いアップしていきたいと思いますが、このホームページのコーナーを少し見直して、
■津波のこと
■同級生のこと、村人のこと
■学校のこと
などコーナー別に収録させていただこうと考えています。

「目先のことが一段落したら……」
と思ってしまうのがダメの原因ですね。人生が一段落なんてことはあり得ないですから。

■オリオンが輝いていた
今夜は曇っているが、昨夜はオリオンが美しく輝いていた。
思うことはいっぱい、書かなけれはせならないこともいっぱいなのだけど、野暮な用事に追われてばかり。
明日から石巻方面に行くので、気持ちをシャキッとさせて、オリオンとの対話をしたい。(11/31)

■釜谷の写真と資料
 東京に帰ったら仙台のHT君(釜谷)から釜谷の町並みの写真や『釜谷浜の歴史を探る』という冊子、河北新報の大川小学校を襲った津波の特集面などが送られてきていた。
 それに藤沢のTW君からは在京の同級会の写真が送られてきていた。
 とりあえず「釜谷の写真集」を組み替えてみたので、ご覧になってください。

 それにしても大川小学校のあった釜谷が、昔は釜谷浜と呼ばれる所だったとは、最近になって知った。
 今回のHT君(釜谷)からの『釜谷浜の歴史を探る』や『大川村誌』『河北町誌』にはその事情が述べられている。もう少し真剣に読んでいたら、釜谷にも津波が来るということが事前に感じられていたかもしれない。

 近々、村の歴史や暮らしを振り返るってみたいとおもう。

■『海に沈んだ故郷(ふるさと)』を読んでいます
 仙台のHT君(釜谷)から知らせがあった。
「長面の人が書いた本が出版されているよ」
 知らなかったので、さっそく取り寄せて読ませてもらっています。

「……このままでは長面の人たちが山で野宿をしていることがどこにもわかってもらえません。……釜谷まで行くことができれば役場に連絡でき、救援を頼むことができるだろうと、誰もが思っていたのです……」
(第一部:堀込光子さんの「石巻市長面 私の被災体験」から)

「第一波、第二波は黒い波が波しぶきを上げてきた。海岸の松は残っていた。龍神様の護岸(長面浦の入口の浦と水田とを分ける南北の護岸)にあたって跳ね上がった。近くの小屋が吹っ飛び、黒煙を上げて田を進んで行った。第三波は落差のすごく大きい青い水が、波しぶきも上げずにすごいスピードで進んできた。それまで見えた海岸の松林は見えなくなった。長面浦の奥から戻ってきた第一波、第二波が第三波と長面浦の入口付近で重なり、高い三角波ができて、浦の奥へと進んで行った」
(第二部:堀込智之さんの「追波湾、北上川河口周辺における津波の振る舞い」から)

 著者の堀込光子さんは長面生まれで小学校の先生を02年退職、ご主人の智之さんと長面にお住まい(だつた)。
 ご主人も高校教師で工学博士、波の研究で各種の賞を受賞している方という。

 別の件できりきり舞いの日々が続いているので、まだ拾い読みですが、事態に直面した人でなければ書けない本です。「山で野宿をしている……」という山は長面のお寺の裏山で、寒さと疲労、困惑と恐怖の極限状態を、簡明で冷静な筆致でたどっている。
 いずれもう少し詳しく紹介したいと思いますが、ぜひご一読を。

 書名:『海に沈んだ故郷(ふるさと)』 〜北上川河口を襲った巨大津波――避難者の心・科学者の目〜
 著者:堀込光子 堀込智之  出版社:連合出版  定価:1800円+税

■NT君の感謝の話
 藤沢のTW君(福地)に写真の礼を言おうと思って電話したら、仙台のNT君(長面)につながってしまった。TW君の番号の下に手書きで大きくNT君の携帯番号があって、それを間違えてしまったのだ。ゴメン。
 NT君はピアノの調律師でまだまだ現役で仕事をしており、この電話も仕事中のところにかかったが思わず長話をしてしまった。

 長面の話、和尚さん(FS君)の話、釜谷・長面・尾の崎の今後のこと、復興事業のこと、田舎や仙台の仲間のこと……話はつきない。

 彼の話でいつも感心するのは「感謝」ということだ。
「被災地では水や泥をかぶったピアノの修復が多い。それに最近は全国から中古のピアノが被災地子どもたちや家庭に送られてきている。ほんとうにありがたいことだ。
 ほとんどのピアノは調理が必要だから、それで僕は休む暇がないんだけど、気仙沼や岩手の釜石まで、往復400キロも車を飛ばすこともあるよ。お金はもらえないけど喜んでくれるのがうれしくてね。
 そんなわけで各地の被災地と接しているが、頭が下がるのはいまだに続くボランティアの人たち。全国各地から、1万円の自腹を切って、バスで寝泊まりして瓦礫の片づけをしている。僕には到底できない。ほんとうに頭が下がりますよ」

 災害の直後、彼はしきりに自衛隊の救援活動に対する感動と感謝を語っていた。
「あの活動を見たら、自然に頭が下がりますよ。何もない時は゛自衛隊ってなんだ゛と思うけれども、あの寒いなかを全身泥まみれになって、腰まで泥水に浸かっての捜索活動は、普通の人間にはできないことだ」

 泥水をかぶったピアノを修理したり調律したりするには、ピアノの下にもぐり込まなければならない。だからどうしても埃を吸い込んで気管支をやられるという。
 一時は電話のたびにゴホゴホしていたが、もうよくなっているようだ。ますますの活躍を祈ろう。


■尾の崎、釜谷の写真をアップしました
 東京の集まりに持ってきてくれたANさんの尾の崎、MUさんの釜谷の写真をアップしました。
「大川村写真集」の下段に「尾崎」「長面」「釜谷」の項目がありますのでクリックしてください。
 尾の崎、釜谷の風景はいずれも津波の前のおだやかなもの。ひとしお哀感があります。、
 「針岡」「福地」も近々、アップする予定です。

 管理人がしばらく自宅を開けているが、仙台のHT君(釜谷)、藤沢のTW君(福地)から写真や資料がとどいているという連絡があった。10日過ぎには東京へ帰るので、またお知らせしたい。

 HT君の話では、この津波で被災した長面の堀込さん夫妻の本「海に沈ん故郷」が出版されたとそうだ。
 近々、入手の予定なので詳細はまたお知らせします。

 そのHT君、近々1階床の改装を再び行うそうだ。1階の畳のヘリや床の隙間から夏以降カビ臭が上ってくるという。
 津波の床上浸水のあと、修復は済んだはずなのだが、やはり完全復旧へは道のりが長いようだ。
「でも、自分の家に住みながらやれるんだからそれほど苦労はないよ。仮設にいる人もまだいっぱいいるのだし、自分の家をつくろうにも土地のメドさえ立たない人も多い。それに比べればどうということはないよ」
と言っていた。

■涙をこらえての昼食会
 10/18日、東京周辺の大川小学校、中学校の同級生(正確には同期生だが兄弟姉妹みたいな関係なので同級生でいいだろう)の昼食会があった。
 例年は10数人なのだが、今年は22人。
 1分間の黙とうの後、みんな涙をこらえての一言報告だったが、たいへんなことが起こったが、だからこそ「絆」を大切にしていこうという気持ちがにじんでいた。

 「こういう時期に同級会?」
 という気持ちもあったが、例年の同級会とは趣が異なって、
 「聞いてほしい、聞かせてほしい」という思いがそれぞれにあったので、ほんとうに集まってよかったと思う。
 懐かしい写真や災害の写真、学校の記念誌、河北町誌なども持ち寄ってくれて、しばらく整理に追われそう。

 久しぶりの人も多く、遠くは小田原からも駆けつけてくれて感無量。遠く離れれば離れるほど望郷の念は強まるのかもしれない。
 途中、KSつぁんから電話が入って、いま大川地区の約200人がいま復興事業に取り組んで、田畑や富士沼の瓦礫除去をしているところだという報告があった。
 KSくんからの膨大なスクラップや写真を眺めて、村の復興を祈りました。

■懐かしい写真が送られてきました
「家の前の、あの穏やかな入江はどうなっているかと思います。実家には帰りたくても帰れません。あのきれいな松原、長面湾、小学1年生の大川小学校・長面分校の写真など送ります」
 東京のANさんから、懐かしい写真が届いた。
 尾ノ崎の入江の写真はどれもおだやかで、あまりにもおだやかなので津波のことなどはウソのようだ。
 小学1年の写真、時代がしのばれる写真です。
 近々、同級生諸氏の感想も聞いて写真集にUPしたいと思います。

■福地の小川にサケが帰ってきますように!
 管理人の個人的な理由、身辺多忙のためしばらくお休みをしてしまって、もし覗いてみてくれた人がいたらお詫びします。
 その間にいろいろなことがあったが、台風の爪痕は遠くでの想像を超えたひどいものだった。

 今回の台風による豪雨は、針岡だけではなく、横川や福地を鉄砲水のように襲い、多くの床上、床下浸水の被害を与えたという。
 簡単に床上浸水とか床下浸水とか言うけれども、管理人も長面にいたころに経験があるが、元の状態に戻るには長い長い時間がかかる。
 さらに、ちょうど稲の収穫期にあたっており、冠水したお米はどうなるのか。
 繰り返しの災害に、電話をかけるのも気が引けて、ついつい無沙汰状態がつづいている。

 図は仙台管区気象台が9/21の台風の後に発表したもので、雄勝と大川村・河北町には400ミリを超える雨が降った。
 針岡の豪雨を聞いたときに気がつくべきだったが、福地や横川も同じ硯上山の山並みを背にしているので、どっと小川沿いに水が押し寄せてきたのだろう。
 通常なら、こともなく北上川にそそぐのだが、いまは北上川の水位も上がったままだという。

 なぜこんなに天変地異がつづくのか。ついつい天がうらめしくなる。
 一昨年だったか、福地の小川にサケが昇ってくるのを見た。
 今年も無事、帰ってきてくれればいいのだが。

■台風15号の追い打ち
 まったく気の休まらない天変地異つづきだ。地震はいっこうに収まらないし、台風15号は日本列島を縦断して豪雨被害を残していった。
 21日、テレビの台風情報を見ているうちにウトウトしてしまったが、「石巻市針岡にも避難勧告が……」というアナウンスで目が覚めた。さては北上川の堤防がまた決壊するのかと心配になった。
 しかし、いくら遠隔地で心配してもどうにもならないし、緊急事態の現地に電話しても迷惑になるばかりである。

 リンクしてもらっている「kappa clubの北上川ガイド」に「水位・雨量情報」のページががあったので覗いてみた。
  http://www.michinoku.ne.jp/~kappa/databese0.htm
 追波川(新北上川河口)の数値はなくて不明だったが、登米・寺池付近の水位計が刻々の変化を記録している。たしかに水位は上がっているが、警戒水位まではまだだいぶあるので少し安心した。

 今日になって針岡のKS君に電話で聞いたところ、富士沼周辺の水位の上昇は「ものすごい雨」によるものだという。そういえば昨日、テレビが雄勝町が記録的な豪雨と報道していたが、雄勝と針岡など大川地区は同じ硯上山(けんじょうざん)を背にしている。
 針岡、釜谷、福地などには雄勝と同程度の雨量があったに違いない。そのせいで富士沼の水があふれ、浦、追舘の集落に避難勧告が出たらしい。幸い人命に異常はなく、家屋への浸水もさほどのことはなかったようだという。

 ただ、富士沼周辺の耕地や道路は冠水状態で、津波以来の必死の排水作業が元の木阿弥だという。富士沼からの北上川への排水口は、釜谷の谷地中を少し下ったところに新しく作られたが、北上川の水位が高ければ自動的に閉まるので、しばらくはポンプのみの排水作業しかないという。

 KS君いわく、「道路が冠水しているから、まだ北上川の堤防までは行けない。これで10月から予定されていた復興事業も遅れるだろう。踏んだり蹴ったりだが、まあ、半分あきらめて、半分がんばるよ。全部がんばったら疲れるから」

■半年前のあの日
 あの日から6か月たった。故郷の方々はもちろん、津波や原発の被害をもろにこうむっている方々にとっては、いまだに毎日が戦場にあるような気持ちだと思う。
 しかし、災害地を遠く離れている私たちは、時間の経過とともにあの日のことを忘れがちだ。「のどもと過ぎれば……」ということだが、私たちもあの日とその後の衝撃を忘れてはならないとおもう。

 遠隔地にいて困ったのは電話が通じないことだった。肉親の安否も田舎の状況もまったくわからない日が何日も続いて、まずは在京の同級生で情報交換をした。といってもテレビの断片的な情報なので、私も「長面は大丈夫らしい」などといい加減な話をしてしまった。
 
 3日目か4日目に仙台に住む同級生のAK君とようやく携帯がつながって、少し仙台の状況がわかった。AK君、NT君の家は無事だが、HT君の家は床上浸水で避難しているという。仙台市内の津波が来るなどとは考えたこともなかったので、非常に驚いた。

 石巻周辺の兄弟や親しい親類の安否はしばらくわからなかった。グーグルの安否確認で一人は大丈夫らしいという情報を得たが、ほかはわからない。
 仙台からなら少しは電話が通じやすいだろうと、AK君が何度も何度も兄弟や親戚の家へ電話を入れてくれて、1週間か10日後ぐらいにようやく安否を確認してもらった。ありがたいことである。

 その後徐々に通信事情は回復して、みんなと連絡がつくようになったが、いちばん石巻の中心に近い福地でさえも、電話がつながったのは1か月ほども後だった。携帯電話も便利なようでモロイものだ。
 大切なのはやはり人間力だと思う。これからも親戚をはじめ友人知人のネットワークを大切にしていきたいと思う。(9/11)
 


■1.2メートルの地盤沈下(富士沼周辺)
久々に針岡のKS君に周辺の状況を聞いた。KS君は毎年、米作のほか大豆を20数町歩もつくる農業のプロである。

「このあたりは1メートル20センチの地盤沈下で、排水は思うように行ってないし、富士沼の中も周辺の田んぼや畑も、瓦礫はまだまり片付いていない。
 ただ、10月から復興支援事業が開始され、農業者による撤去がはじまる予定だ。反当り35,000円だが、これが進めばで少し道が見えてくるかもしれない。
 塩水などの影響で実際に耕作できるのは平成25年からとされているが、うまくいくかどうかはとの時になってみなければわからない。何年もかかるとなると、われわれ自身の体が動かなくなるし、農業機械の整備もたいへんだ。
 それに子どもたちがいなくなって先への展望が描きづらいのがつらい。
 
 今、旧石巻が混みあうほどにぎわっている。釜谷の商店がなくなって、頭を刈るにもトイレットペーパーを買うにも、飯野川か石巻に行く。
 これは河北町だけでなく、北上町もそうだから、大きいスーパーや商店のある石巻は大混雑で、朝晩の道路はいつも渋滞している」

 余談だが、先のTN君と福地の同級生SF君夫妻をドライブに誘って、盛岡でわんこ蕎麦を食べてきたそうだ。
 二人とも孫二人を亡くして悲しんでいるので、気分転換である。
 そういうKS君も雄勝病院(*)に入院中のお姉さんを津波で失っているのだが、
 「姉の場合は長い入院だったので、皆と一緒に旅立ったと思えばよい」という。さすがKS君らしい言葉である。

 

■「二日分の痛みどめが、オレの全財産だった」
TN君から便りがあった。先に「子どもの頃毎日入り浸って遊んでいた」と書いた親戚筋で同級生のTN君だ。
奥さんがいまだに不明で、お孫さんを二人亡くしている。家屋敷もきれいに流された。
5月初めに飯野川のビッグバン(避難所)で短時間会っただけだから、どうしているか案じていた。
住所録も何もすべて流されているので、針岡のKS君に住所を聞いて連絡をくれたという。

「8月初めまで避難所にいて、8月5日の長面の合同葬儀を終えて、こっちに来たんだ」(「こっち」というのは隣県で、ご長男の奥さんの実家近くとのこと)。
「一人で仮設に入ることも考えたが、一人でいたらアル中になりそうだしな」笑って言う声は案外元気そうだった。

地震のこと、津波の予報で荷物をまとめ、大川小へ孫を迎えに奥さんと2台の車で走ったこと、学校で孫を引き取るのに10分近くもかかったこと、そこで濁流に襲われたこと、
「あと1回、水を飲んだら死ぬな」と思った時、頭が水面上に出た。
何がなんだかわからないまま山に這い上がったこと、女の子を一人(1年生)助け上げたこと、ずぶ濡れの山中のことなどを詳しく話してくれた。

誰かの携帯ラジオが、「大川小学校の裏山に100人以上が避難している」というので、「誰かいるかーっ」と叫ぶと、下のほうから女性の声で「はーい、ふたり」という返事があった。
しかし、ほかには何の応答もなく、その女性の声も朝には途絶えた。「ラジオは大川中学の情報と間違えていたらしい」とTN君はいう。

すぶ濡れの夜、3月の雪交じりの山は寒く、体が跳び上がるようにふるえた。ガタガタ震えるのではなく、体がガクンガクンと飛び跳ねるように震えるのだという。

救助されて石巻の日赤病院へ連れて行かれた。が、熊本からのお医者さんで東北弁がまったく伝わらず、二日分の痛みどめをようやくもらつた。何かにぶつかったか、顔が腫れあがっていた。
「その二日分の薬が、俺の全財産だったよ」

目の前で奥さんと孫二人をさらわれた胸中を思いはかることは私にはできない。ただただ、奇跡的に助かった命を大切にしてくれというほかはなかった。
「二日分の薬が俺の全財産……」
最愛の家族、家屋敷、財布も書類も一切跡形なく流されて、二日分の痛みどめ……。
「そういうことも人生にはあるんだなあ」と二人でなんとなく納得しあうよりなかった。

「それでも女の子を一人助けられてよかった。それが唯一の救いだ」とTN君は言った。
(9/5)

■中学でもっと仲間が
私たちの時代、小学校の5,6年は釜谷の大川小学校で、尾崎、長面、釜谷、針岡の学童たちがここに通った。
長面や尾崎、針岡からは4〜5qあって、吹雪の日などはけっこう辛かったが楽しいことも多かった。
通学路の横の田んぼの用水路には、メダカ、フナがいて、目を凝らすと5〜6pのウナギの稚魚が泳いでいた。

私たちが中学に進級するとき、大川中学は大川小学校と同じ場所のあったように思う。
そのうち現在の場所に新しい校舎ができて、クラブ活動などは新しい広い校庭でやっていたと記憶する。
新校舎といっても木造で、現在のものとは違う。地名も当時は間垣といったが、今の住所は針岡だ。

大川村には、正式名称は覚えていないが、横川・福地の小学校があって、彼らとは中学から一緒になった。
同級生がまた増えたわけで、昭和29年の数字は全校生徒が418名いて、クラスは9つあった。つまり1学年あたり140名程度が在籍していた。(数字は『大川村史』)

小5から一緒の釜谷では、いつもニコニコのKS君、それに腰を痛めて療養中だったSO君が流された。また日本舞踊の師匠・横川出身のKOちゃん旧石巻市内で津波に巻き込まれて亡くなったという。

ちょうど私たちの年代は、孫が小学生、中学生にあたる年代だ。かわいい孫を亡くした同級生が何人もいる。
5人の同級生のことや、そのほか同級生の周囲のいろいろなことは、いずれ別の項目でふれていきたいと思う。(写真は3月19日の釜谷、中学、谷地付近。画像をクリックすると大きい画面を見ることができます)。「北上川ガイド」提供

■中学校の現状
同級生が電話で「大川小学校の話題は多いが、中学校はどうなっているのだろう」という。
うかつである。「便りがないのはよい知らせ」というが、ボランティアの方が「大川中学校の泥を掻き出してきた」という記事を読んだことがあるが、まあ大したことはないのだろうぐらいに思っていた。小学校の災厄に比べれば。

でも、実際はどうなっているのだろう。
ネットで大川中学の情報を探したが、目立ったものは何もない。学校情報記載の電話番号は「現在、使われておりません」とうメッセージが流れるだけ。
石巻市の教育委員会に電話して現状を知りたいというと、大川中学の電話を教えてくれて、いかにも優しそうな教頭先生がいろいろ話してくれた。

*5月初めの大川中学校。左端が北上川の堤防。
@現在は飯野川中学に校舎を借りて授業をしている。
A大川中学の校舎は1階がすべて水没して、使用できる状態にない。
B在校生の犠牲は行方不明を含めて3名。その日は午前中に卒業式が終わり、生徒はみな帰っていたので自宅などで津波に遭った」
C生徒数はだいたい1学年 20名程度だが、現在は39人が全校生徒(在籍は40名だが行方不明の生徒が1名)。今年の新入生は20名の予定だったが、4名しか入学できなかった。
D教職員は用務員を含めて12名。
E大川中学の校舎での再開は、今のところまったく見通しが立っていない。
F各集落の状況も厳しいものがあるけれども、郷土の学校を残したいという夢と希望は強く感じられる。

もう少しいろいろ聞きたかったのだが、いろいろ聞いているうちにこちらの胸が詰まってきて、何も聞けなくなった。なんとか旧大川村に大川小学校、中学校を再建してほしい。
そういう思いは故郷の人々も、教頭先生も、私や同級生たちも同じだと感じた。


■旧大川村の人口がさらに減
先に下記の人口推移表を載せましたが、先ごろ石巻市の最新の統計書(平成23年7月)が発表されたので、票の最下段に最新数字を書き入れました。
*同統計書の「住民基本台帳丁・字別人口」によりますが、一部未公開データがあるため概数です。

福地 針岡 釜谷 長面 尾崎 総人口
明治22年 1,051 657 451 638 172 2,969
昭和28年 1,308 1,553 1,047 1,028 437 5,373
平成6年 740 705 509 558 212 2,724
平成23年2月末*約 675 634 485 502 189 2,485
3.11の犠牲者 16 95 193 104 12 420
平成23年7月末*約 645 532 245 336 160 1,918

津波で亡くなられた方はもちろんですが、今回の災害が影響して移住を余儀なくされている方々が多いのでしょう。
安心して住むことのできる地域の再建を目指して、1日も早い施策をお願いしたいところです。(8/25)


■足立区大矢田5丁目会の皆さんに感謝
同級生のNO君は東京・足立区大矢田に住まいがあって、町内会の役員をしています。
同町会の皆さんが大川小学校がNO君の母校だと知って、義援金の募金をしてくれて、8月19日、飯野川小学校の2階に間借りしている大川小学校に届けてきたそうです。もちろん往復の交通費は町内会の役員のポケットマネー。
ありがたいことです。同町会の皆さん、それにNO君に感謝、感謝。

夏休みで子どもたちには会えませんでしたが、校長や先生方と会っていろいろな話をしてきたそうです。
義援金の使い道について、校長は
@亡くなられた方々への花代
A慰霊碑建立の資金
B現在の児童の学用品補助
などをあげたそうです。
NO君は同期生にも呼び掛けを相談したいと言ってます。近々みんなで話し合いましょう。

いずれにしても、東京の一町内会の方々が、大川小学校まで行って義援金を届けるというのはなかなかできないことで、感謝したいと思います。

NO君の出身は長面、実家は流失してなくなっていますが(人的被害はなかったとのこと)、現地を見てきたそうです。
長面、尾の崎へのメインの道路は何とか通れますが、自宅付近は満潮になれば水没する状態で、実家の付近には近寄れなかったとのこと。
「復旧どころか、まだ何も片付いていない」というのが印象で、帰りは雄勝や女川をまわって帰ったそうですが、ここも「まだ何も片付いていない」状況だったそうです。
(8/21)


■疎開(2):自分の家のように
疎開児童がいじめられたという話をよく聞く。
しかし私はまだ4歳だったから天真爛漫そのもの、差別とかイジメとかの記憶はまったくない。
ただ、兄は小学4年、姉は6年か中1だったから、そういうことがあったかもしれないが、悲しい顔は見たことがない。
物珍しさもあるしカルチャーギャップもあるから、ある程度のことはいたし方のないことだろう。

覚えているのは長面の同じ年ぐらい子どもたちと朝から晩まで遊んだことだけだ。
とくにTN君は同じ年で、家は親戚筋にあたるというので、ほとんど毎日、朝から晩まで入りびたりで遊んでいた。
お父さんもお母さんも優しい人で、何人もいる兄弟はみんな個性的で楽しい人たちだった。

近くには同年のJT君もいて、よく遊んだ。
JT君のお父さんは隻腕だった。その片腕で稲を干す長い杭を力強く地面に打ち込むのを、子どもながらに驚嘆してみていた。
ともかく徹底的に遊んだ。
何をして遊んだかはよく覚えていないが、テレビもゲームもない時代だから、ほとんどは外で遊んだ。

長面には大川小学校の長面分校があって、長面、尾の崎の子どもたちは小4までここに通う。
当時は1年生だけで男女合わせて50数人いたから、遊び友達もどっと増えた。
男の子たちのことはよく覚えているが、女の子たちの記憶はほとんどない。男女が一緒に遊ぶ習慣がなかったからだろう。

小学校のころは私は塩田というところにいたので、尾の崎の子達とも仲良くなった。
MK君の家は尾の崎の一番奥の広い屋敷だったと記憶しているが、立派な双眼鏡があつた。
彼はそれを数日、たぶん親には内緒で貸してくれて、私は一日中、長面浦を飛び回るカモメやサギを見ていた。

……

津波はJT君とお孫さん3人をのみ込んだ。TN君は奥さんとお孫さん2人を連れ去られた。MK君もお孫さん二人を失った。
長面の同級生の女の子ではNTちゃんが流されてしまった。
これらのことについては、またいつか楽しい日々のことを書きたいと思う。 (8/18)


■疎開(1):戦争と災害と
私は生粋の大川っ子ではない。
でも田舎への愛着が深いのはなぜかと、ときどき考える。
たぶん、4歳から15歳という真っ白な脳細胞に風景、友達、家族のことが深く刻みつけられたのだろう。

東京の空襲が激しくなって、4歳の時に渋谷の代官山からオフクロの田舎の長面に疎開した。
空襲のことはあまり覚えていない。ただ、防空壕に入った後、近くへ落ちた爆弾の振動で、壁の土がパラパラ落ちるのをうっすら記憶している。
防空壕といっても、庭に掘った穴に畳をかぶせるだけのものだったと聞いたような気もするが、確かなことはわからない。

もう一つ、疎開の途中だったと思うが、すし詰め状態の汽車に乗っていて、オシッコがしたくなったのだろう。オフクロが用意のビール瓶を出してくれたので、それに用をたした。
記憶では戦闘帽の人たちが座席の隙間はもちろん通路にもぎっしりで、便所までたどり着くのは大変だと感じた。
戦闘帽の人たちがニコニコ笑いながら「坊やはいいなあ、ここで用をたせて」というのを、少し恥ずかしいと思いながら聞いた記憶がある。

姉と兄も一緒だったのか、どんな荷物をもっていたのか、まったく記憶にない。
大川村の長面にどうやって着いたのかも知らない。荷馬車の便でもあったのだろうか。
オヤジは海軍にいたから、何か方法を講じてくれたのかもしれないが、東京から持っていけるものは少なかったに違いない。

今のように引っ越し便とか宅急便とかがあるわけではないから、着の身着のままというのが実情だろう。
実家は長兄が継いでいて、オフクロは10人近い兄弟姉妹の末っ子なので、みんな温かく迎えてくれたが、それでも満足な衣食住とはいかなかった。
時は戦争末期の窮乏の時代、もちろん裕福な家はあったろうが、若い働き手は戦争にとられてどこも生きるのに必死の時代だった。
とくに疎開家庭は家も仕事も田畑もないからたいへんである。

そういう時代があったにもかかわらず、私や兄弟が何とか生きているのは、長面、尾の崎、そして大川村があったからだ。

長くなってしまったので次回に書くつもりだが、その地の友人知人、そして風景や物語がなかったら、私たち家族はどうなっていただろうと思う。
いま、被災地の多くの方が、新たな土地に歩みを進めているという。
受け入れる地域の方々のあたたかい眼差しに期待したい。 (8/16)



■お盆
昨日、義姉の新盆で迎え火を焚いた。
ここは被災地ではなく義姉も高齢だったので平穏な行事だったが、ふるさとのお盆はどうなのだろうと、たえず心をよぎった。

同級生が5人も亡くなっている。
また何人もの同級生が、最愛の孫たちを失っている。
さらにほとんど同級生が家族や親類を失っている。
同級生だけでもそうなのだから、村のほとんどの家が新盆に思いを深くしていることだろう。

葬儀に帰った在京の同級生が話していた。
「手伝いに来てくれた人に話を聞いたら、一家で3人の方が亡くなったという。それでも甲斐甲斐しく手伝ってくれる姿を見て、私もこうしてはいられないと思った」
と勇気づけられたという。

*田舎から長面の墓地の写真が届いた。めちゃめちゃに崩れていた墓石が、ほとんど整然と修復されている。長面の皆さん、龍谷院のFSさんありがとう。
 墓地から海までは田畑が延々とつづき、真正面には須賀地区の大きな松林と人家があったが、今は墓地の前から海である。


■和光鶴川小の皆さんありがとう! 「はねこ踊り」と被災地支援
和光鶴川小学校にお孫さんが通っているFTちゃん(川崎市) から、同校の河北総合センターほかの被災地(石巻市)支援の話を聞いた。
「縁」なのか「偶然」なのか、思いがけないつながりに感動したという。

私たちの大川村、あるいは河北町は桃生郡に属していて、桃生郡桃生町も近隣だったが、両町とも平成の大合併で石巻市に合併した。
桃生町には「はねこ踊り」という伝統舞踊があり、これが和光鶴川小の体育プログラムに採用されていたのである。

右の写真は現地のはねこ踊り。動画はYou Hubeで見ることができます。豊作の歓喜を飛び跳ねて表す集団舞踊で、溌剌としてこちらも踊りたくなるような民俗芸能です。
http://www.youtube.com/watch?v=3AFhzLnSLEw

鶴川小では開校以来、「日本の子どもたちに日本にある優れた民俗芸能を」というポリシーで各学年の体育プログラムに北海道から沖縄までの優れた民俗舞踊を位置づけているのだそうだ。

桃生町の「はねこ踊り」は3年生のプログラムで、08年には現地の祭りに参加するなど、交流を深めていた。
そしてこの大災害。同校では河北総合センターへの200枚を超えるタオルケットの寄付や、炊き出し支援を行ったのである。

FTちゃんはまさか自分の孫たちが、大川や雄勝の避難所の支援をするとは……と驚いたのである。
以下、同校の学校通信『雑木林』から支援の要点を紹介します。

7月1日、父兄の寄贈で集まった200枚を超えるタオルケットの整理、320個のお稲荷さんと浅漬けを準備、翌2日、支援物資と炊き出し道具を積んで10時30分に学校を出発。
「7時過ぎに石巻に入り、前回の支援活動で見て回ったところを、また見て回りました。瓦礫はほとんど撤去されていましたが、打ち上げられた船や大きな建物はそのままで、復興が始まったと感じることはできませんでした。
さらに足を伸ばして全校児童の70%、教職員の43%が犠牲になった、大川小学校に花をささげてきました。今も不明者の捜索が行われている傍らで、瓦礫置き場として使われていて、とても複雑な気持ちになりました。
河北総合センターでタオルケット、シーツ類、バスタオル、文具など計255点を避難しておられる方々に手渡し。
その後、場所を変えて飯野川第一小学校でソーメンと稲荷寿司の炊き出し支援を行いました。ここ雄勝地区からの人たちが避難している場所でした。この避難所の運営を担当している福岡法務局から派遣されている職員の方も、「同じ場所、同じ食事で疲れていましたが、こういう炊き出しは癒されます」と感想を述べてました。」

和光鶴川小の皆さん、ありがとう!
(ちなみにの報告をくれたFTちゃんも、最愛の弟さんを亡くされています)


■松原荘は海面下8メートル
  8月8日
下の便りの兄の家(わが実家)は松原にあったが、いまはその家も松原も、長面海水浴場も、跡形もなく海面下になっている。
兄夫婦は旧石巻に本宅があるので、人的被害は被害はなかったが、石巻の家も床上浸水で修復もまだだという。

同級会などでよく利用した松原荘も、今は海面下8メートルになっているという。
地盤沈下のためもあるだろうが、津波が地面の砂を大量に内陸のほうに運んだのだろう。

私も5月に帰ったとき、我が家の付近に行ってみようと思ったが、道が途中で海面に沈んでおり、目指す松原も我が家もすべて海面だった。
(8/8)

■長面関係の合同葬儀
8月5日に長面関係の合同葬儀があって、兄夫婦が参列してきたいう。
話では長面の犠牲者は130余人で、この日の合同葬儀はまだ葬儀がすんでいなかった104人の方の葬儀だという。全員の名簿などはなく、混雑を極めていたというから、亡くなられた方の数は正確でないかもしれない。

私たちの親類では遠縁の方を含めて13人の方が犠牲になったという。

ついでの便りだが、長面の墓地の墓石はほとんどが津波で崩れていたが、お盆を前に墓掃除に行ってみたら、墓石はきちんと直っていたという。なんでもお寺さんの保険で墓石だけはすべて直したとのことだが、本堂や庫裡は破壊されたままである。
長面全体が地盤沈下で再建ができるかどうか、これさえ不明なのだからお寺の再建がなるのかどうか。
(8/7)

■各地区の人口推移 『大川村史』などから 7月某日
大川村が近隣と合併する直前に発行された『大川村史』などで、各地区の人口の推移を見てみると次のとおりである。

福地 針岡 釜谷 長面 尾崎 総人口
明治22年 1,051 657 451 638 172 2,969
昭和28年 1,308 1,553 1,047 1,028 437 5,373
平成6年 740 705 509 558 212 2,724
平成23年2月末* 約675 約634 約485 約502 約189 約2,485
3.11の犠牲者 16 95 193 104 12 420

●明治22年は、福地村、針岡村、釜谷浜、長面浜、尾崎浜合併して大川村が成立した年。村の成立当初は、追波川の回船業で栄えた横川・福地が村の中心で役場も横川にあった。
●昭和28年は、大川村が飯野川町、二俣村、大谷地村と合併する直前で、私たち世代が大川小・中学に通っていたころである。当時は太平洋戦争中の疎開者、戦後の復員者や引揚者、また戦後のベビーブームで村は活気にあふれていた。
 その後、経済成長とともに人口の都市集中がはじまり、平成に入るころは明治時代の人口構成に戻ったのだろう。
●平成6年の数字は、マップル地図「まちのちから」の数字。
●平成23年の人口は「石巻市統計書」による、津波直前の2月末の数字です。
*一部公表されないデータがあるため、数人の違いがあると思います。

それにしても釜谷では40%近くの方が、長面では21%近くの方が犠牲になっている。
また、福地と尾の崎のほとんどは大川小学校にいた子どもたちだった。
(7/20、8/10修正)

■河北総合支所の話 7月某日
津波から4か月後の7月中旬、石巻市の広報課に旧大川村各地の犠牲者数を電話で尋ねた。
詳しいことがわからないのか面倒なのか、河北総合支所に聞いてくれという。
河北総合支所というのは、旧河北町を管轄する石巻市役所の支所である。

河北総合支所ではていねいの教えてくれた。
行方不明者を含めた犠牲者数は次の通りだった。

福地  6
横川  10
谷地  9
追舘・浦  14
芦早・鳥屋森  4
間垣  68
釜谷  193
長面  104
尾崎  12
合計420人もの方が一次に犠牲になられたのだから、合同の仮埋葬もあり、葬儀ができない方が多かったのでしょう。

このうち谷地、追舘、浦、芦早、鳥屋森、間垣は針岡と総称されるが、間垣は釜谷と至近距離にあるので、私個人は釜谷に含まれるものと思っていた。でも、正式には針岡に含まれるようだ。
また横川は福地にふくまれるようで、この区分に従うと、犠牲者数は、福地16、針岡95、釜谷193、長面104、尾崎12である。
(7/14)

■合同葬儀の便り 
同級生のSちゃんと電話で話をした。
故郷のいろいろな話のなかで、「今度の日曜日(7/31)、飯野川で合同葬儀が執り行われるそうだ」という話があった。
積もる話のなかの一つなので正確ではないかもしれないが、午前が針岡関係、午後が長面関係だという。

すでに葬儀がすんでいる方々は含まれないというから、対象の方はそれほど多くはないだろうと思ったが、それでも針岡の場合は参列者は1軒あたり20人までという制限があるそうだ。
犠牲者が多く、無制限では会場に入れないおそれがあるからだ。

3.11から140日。
あまりにも遅い葬儀だけれども、遠くから静かにご冥福をお祈りしたいと思う。
(2011/7/10)