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(DIARY) 2014年1月〜

2013年1月〜2013年12月はこちら   2011年7月〜2012年12月はこちら
このページでは性別がわかるように、同級生の男性には「君」、女性には「ちゃん」をつけていますが、
実際には今でも同級生は男も女も多くは「ちゃん」づけ、もしくは呼び捨てです。もちろん、同級生以外は「さん」づけが普通です。


■なにか少し気持ちが軽い年末
 しばらくぶりで長面のTT君、間垣のヒトボさん、川向こうのSTさんらと電話でお話。田舎はいつもの年より少し寒いようですが、ふるさとの元気な声を聞いたせいか、なにか昨年、一昨年の年末よりは明るい気持ちで正月を迎えられそうな気がしました。

 ヒトボさんは間垣の慰霊碑の建立にむけて奮闘中のほか、大川中学の裏山の造成地の引き渡しが来年早々にも行われる予定で、そこに自宅をと頑張っています。ヒトボさんの夢は、そこを自宅というよりは、間垣、釜谷、長面、尾の崎、谷地など、故郷を失った人たちの憩いの場にしたいということでした。
 実際、私(管理人)が大川に帰っても、実家も親戚の家もまったくないので、何となく自分の存在が宙に浮いたような感じなのですが、ヒトボさんの夢が実現したら、大川の拠点になってくれるような気がします。ぜひぜひ頑張ってほしいです。

 数日前のテレビで、宇宙から見た日本列島の夜景が流れていました。チラツとしか見ることが出来なかったのですが……。
 たしかにきれいな映像でしたが、「人間は地球に対してすごいことをしているんだなあ」という思いがしました。そして何年か、何十年か、何百年か後に誰かがあの映像を見たら、「人類がこんなに繁栄していた時代があったんだ」と思うに違いないとも感じました。一瞬に大川村の半分以上が喪われたことを思えば、そういうこともあるに違いないと。

 いま、あるお坊さん(故人)の仕事をしているせいもあるのか、無常観というか、あるがままを受け入れればよいという気持ちになっています。その坊さん曰く、
 「自然界の“不可抗力”、これを思うと根性よしに思えないけど、宇宙は何らも理性がない点に於いて、宇宙は根性よしなのである」
                  (12/29)

■仙台雑煮(石巻長面産焼きハゼ入り)が仙台文学館で
 国立のFSさん(長面)から、長面の焼きハゼについての便りが届きました。
 なんでも、震災のあとしばらく立ち直れないでいたそうですが、翌年のお正月にテレビに登場した長面の生き生きしたハゼを見た瞬間、力が湧いてきたそうです。お便りには「なんともユーモラスな長四角の顔(頭?)の面々に、これぞ長面魂」と感動したとありました。

 テレビに登場したのは、仙台文学館のレストラン「杜の小径」の「仙台雑煮」で、毎年正月に期間限定で提供されているようです。仙台に文学館があることも知りませんでしたが、ここの仙台雑煮はけっこう有名らしく、新聞やネット上にたくさん取り上げられているようで、これらのコピーも添えられていました。(写真は「facebook伊達に会い隊」さんより借用)
 ハゼは長面産(榊さんご夫妻の焼きハゼ)が使われているそうで、食べた方の感想もあります。こちらをどうぞ(うまく見られなかったら「仙台雑煮」や「仙台文学館 杜の小径」などで検索してみてください。
 「杜の小径」での提供期間は、例年1月5日からハゼがなくなるまで、ということらしいですが、詳しいことは「杜の小径」電話022-271-3020にお問い合わせください。

●くにたち市民オーケストラ「2015ニューイヤーコンサート」 
 もうひとつFSさんから。
 FSさんがヴィオラ奏者をつとめる国立市民オーケストラの「2015ニューイヤーコンサート」が1月11日(日)、くにたち市民芸術小ホールで開かれます。
 今年は親しみやすい曲が多いですね。詳しいことは右のチラシをクリックしてご覧ください。
 お問合せは、くにたち市民芸術小ホール 電話042-574-1515まで。  (12/10)

■菅原文太も焼きハゼの雑煮?
 しばらくぶりで「石巻かほく メディア猫の目」を覗いたら、長面の焼きハゼの記事が出ていました。
 正月のお雑煮のだしである伝統の焼きハゼ作りに、長面の榊正吾さん(71)と照子さん(70)夫妻が奮闘しているというレポートで、震災前の出荷数を目指しているそうです。記事はこちら

 前にもどこかに書いたかもしれませんが、しばらく前まで、管理人はハゼを雑煮のだしにするのは大川地区だけかと思ってました。で、仙台の友人に聞いたら、「仙台も昔から焼きハゼだった」とのこと。なんでも食通の伊達正宗が「うまい!」と言ったから、みんなそれにならったのだそうです(それが長面浦の焼きハゼだったかどうかはわかりませんが)。

 その友人からメールがあって、「菅原文太と直接会ったことはないが、家が近く、親同士が親交が深かった」とさまざまなエピソードが綴られていました。菅原文太の父親は、仙台ではそれなりに有名な狭間二郎(本名・菅原芳助)という洋画家で、金魚よりメダカが好きな素朴なものを愛する人だったという。菅原文太が後年有機農業にかかわりを持つようになったのは、父親の影響があったのではないか、と友人はいってます。もしかすると、文太(本名)少年も長面の焼きハゼの雑煮を食べていたかも。   (12/3)

■これシカない!?
 近頃、ふるさとからの便りには、たいてい激しいシカの増加や食害、あるいは熊の目撃談が添えられています。困ったものだと思ってましたが、昨日(12/1)の東京新聞にこんな記事がありました。

 「これシカない!? 食害深刻シカ対策」
 ハンターの減少と高齢化で捕獲・駆除がままならない今、全国各地で新しい対策が模索されている。

@硝酸塩を含んだ駆除剤=静岡県森林・林業研究センター
 シカ以外の動物には害を与えず、ウシや人間には安全。ただし、国の天然記念物のニホンカモシカには効果があるので、これが欠点。また課題は硝酸塩には独特の食味があるので、シカに味の異変を気づかせない改良が必要とか。

A一網打尽ハイテクわな=三重県農業研究所、国立鳥羽商船高専ほかの共同開発
 従来のわなは1頭が入ると扉が閉まって他のシカが警戒して寄りつかなくなるが、この「まる三重ホカクン」は仕掛けた囲いやネットの周辺に監視カメラとセンサーを設置、多数のシカが入ったところで扉を閉めたりネットを落としたりする仕組み。
 鹿の等身大模型と雄シカの求愛声を発すると雌シカが集まることも研究(信州大学)で確かめられているので、これを組合わせることも有効だ。

Bオオカミを再導入する案=日本オオカミ協会(会長 丸山直樹・東京農工大名誉教授)
 シカが増えたのは明治期にオオカミが絶滅したためだから、オオカミを再導入しようというもの。アメリカのイエローストーン国立公園でエルクの爆発的増加でハコヤナギなどの絶滅が懸念されたが、オオカミを1995年に再導入したところエルクは減って、植生も回復したという。
 日本オオカミ協会が実施している再導入是非のアンケートでは、90年代当初は「必要」は10%台だったが、2012年のアンケートでは「再導入必要」が40.4%にまで増えているという。

 この記事は、いずれにしろ「鹿肉をもっと日常の食卓に!」と結んでいましたが、難しいのかなあ。
 管理人は、鹿の増加は津波で人の減った地域の問題かなと思っていたのですが、全国の問題なんですね。石巻市でも、全国に先駆けるような研究が期待されます。
 
 さて、クマのの出没……。
 10月だったか、長面の墓地で偶然60年ぶりぐらいで出会った長面のYNさんは、山歩き大好きの方で、一時は群馬の横川〜長野の軽井沢間で仕事をしていたこともあるそうです。その時の体験から、
 「大川に熊が出るかなあ。カモシカの成獣は真っ黒になるのもあって、それの見間違いじゃないかなあ」
 「大川はまだサルが多くないから助かるね。サルが大量に増えたら、もうどうしようもないから」と言ってました。
 碓氷峠の旧道のサルは管理人も何度か経験しましたが、ヒトに似ているので、可愛いやら憎たらしいやら……。 (12/2)

■11月28日、NHKスペシャル
 大川小シンポジウムの情報などをお送りいただいている東京のM.Ishidaさんから、
 「来週28日のNHKスペシャルは大川小を取り上げるようです」というお便りをいただきました。
 内容は「悲劇にどう向き合うのか 〜大川小学校、4年目の遺族たち〜」というもののようです。

 そのお便りのなかに、
 「ところで、以前に以下の記事で松原荘再建を目指す息子さんの体験を見たのですが、行方不明のお母さんは当日釜谷までは避難していたということで、地元の方の感覚では釜谷まで避難すれば大丈夫という意識があったのかなとも思います」
 という感想が付け加えられていました。
 たしかに、すくなくとも管理人らが大川小ですごしたころは、あそこまで津波が来るなんて思ってもみませんでした。その後はどうだったのでしょう。
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2013/11/20131124t13007.htm
 
 また、その松原荘について、
 「ただ、下のTwitterを見ますと再建を目指して飲食店として開いていた松原荘も10月に閉店とのことで、一度も訪れたことはないながら残念です」とありました。
https://twitter.com/Matsubara5885?lang=ja
https://twitter.com/tomo1988matsu?lang=ja

【追伸・訂正】
 24日、M.Ishidaさんから「「松原荘の件は私の早合点で、下のページを見ましたら、飲食店は閉店するものの旅館の再建を目指すとのことでした」というメールがありました。
http://www.matsubaraso.jp/

 ところで上の2番目のツイッターには(綱町三田会倶楽部)へのリンクがあって、「震災3年、復興特需が招く新たな”災害”」(中島みゆき)という興味深いレポートがあります(こちら)   (11/23)

■長野で地震
 まだ。長野の畑の冬支度をしていたので、メールや電話で地震見舞いをいくつかいただきました。ありがとうございます
 冬支度をだいたい終わって風呂に入っていたのですが、風呂の底(地面を掘ったような昔の構造)がなんかゴロゴロしてるような感じで、おかしいなと思っていたらユラユラと。白馬からはだいぶ遠いところなので震度は3で、幸い異常はありませんでした。しかし、現地はたいへんでしょう。これから寒さに向いますし。

 ついでの話によると、大川も昨日今日はあたたかいものの、数日前までは霜で雪景色のようになる日もあるとか。
 鹿の被害がどんどん増えて、連日のように「鹿の駆除をします。危険ですから山に入らないでください」という連絡があり、特に休日はハンターの数も多く、うかつに山に入ることができないようです。
 田んぼの稲も鹿に食べられる事態、それに雄勝峠で熊を見たという人もあって、ハンターの皆さんには頑張ってもらいたいところ。ですが、だいたい猟区は横川から長面までの山とのことで、「みんな福地に逃げてくるんじゃないの」という笑い話もあるようです。 (11/23) 
 

■「お神楽」そして「かあさんの歌」
 ちょっとバタバタしていて、更新が滞ってしまいました。

●オラホのお神楽が小樽市で上演されました
 「北海道で神楽をしてきたよ〜」と、TT君からプログラムが送られてきました。

プログラムと今野三千雄しの解説

 10月26日、『第56回民族芸能大会』(北海道・東北ブロック)が行われ、宮城県からは「女川(釜谷長面尾崎)法印神楽が選ばれて出演、青森・南部切田神楽、岩手・中山神楽、秋田・坂之下番楽、山形・萩野鹿子踊り、福島・小宮の田植踊り、北海道・松前神楽、占冠神楽とともに舞われました。
 プログラムの表紙を見てください。オラホの神楽の写真が一番大きいし、舞台の迫力、イチバン! 演目は日本武(ヤマトタケル)でした。

 プログラムには、女川法印神楽保存会会長の今野三千雄氏が、法印神楽の由来、神楽の構成と内容、演目「日本武」の特色などを解説しています。
 お神楽大好きの管理人ですが、初めて知る用語などがたくさんあるので、とりあえず解説部分のコピーを添付させていただきます。ちょっと読みにくいかもしれませんが、そのうち「祭囃子聞こえっぺが」に清書したいと思ってます。
*「女川法印神楽保存会」と「釜谷長面尾崎法印神楽保存会」は昔から交流が深く、今回もTT君は太鼓と神歌に活躍しました。 

●ギャラリー「菅原泰子の世界」、更新しました
 松戸・伊勢丹で開催中の「東葛美術家展」に、菅原さんの『大川音頭』に加えて『かあさんの歌』が出品されていますが、『かあさんの歌』の写真が届きました。お人形さんの雰囲気はもちろんですが、背景の小道具にも感心します。こちらをどうぞ。

 で、11月15日(土)には、『大川音頭』を創ってくれないかなあ、と言っていた鈴木惟司さんが展示会場を訪れて、大川音頭の説明や歌も披露してくれたそうです。
 「折よく居合わせた友人数人も、たいへん喜んでくれて、楽しい時間になりました」とのことでした。

●畑の近くで「岩手・大槌町のチャリティ・イベント」が
 11月16日(土)、管理人が畑を借りている長野県・御代田(みよた)町で「東日本大震災復興支援チャリティ・イベントみよた」が開かれました。
 内容は歌あり踊りありの盛りだくさんでしたが、大槌の伝統芸能「臼澤鹿子踊り」と「大槌町の復興状況」(同町産業振興部長)の報告はなかなか見ごたえ聴きごたえがありました。
 臼澤鹿子踊りは、小学1年生から60代の方まで、鹿のカブト(?)をつけ、全身をカナガラ(ドロの木をカンナで薄く削った装束)で覆った鹿集団と人間集団の争いや和解、鹿のリーダー争いを模した踊りなど、なかなか迫力がありました。人間集団は太刀を抜いて鹿と争うのですが、その太刀の動きはオラホのお神楽によく似ていて、三陸沿岸の民俗を強く感じさせるものでした。発祥は400年前とのことで、一説には房総が発祥の地といわれるそうです。
 産業振興部長の報告は、まったく大川地区の復興状況を聞いているようで、身につまされる話ばかりでした。復興住宅も集団移転の個人住宅も、実際に住めるようになるのは平成28年の見込みということなのですが、その痛みが遠い山国の皆さんにどこまで伝わったでしょうか。    (11/18)

■ギャラリー「鈴木惟司の世界」更新しました
 豆腐屋ケーちゃん(鈴木啓二君)をはじめ、津波で亡くなった多くの方々の冥福を祈って、ケーちゃんの弟の鈴木惟司さんが般若信教の板刻に挑んでいましたが、今秋、これが完成、写真が届きました。
 また、復興祈願の絵馬も完成し、絵馬は長面の北野神社へ、板刻の般若信教は釜谷の観音寺に奉納されたそうです。
 (右の写真はケーちゃんの震災の年の賀状からだそうです。ケーちゃんご夫妻、いまもきっと楽しくやってるね)

 これらのほか、いろいろ詳しい写真が届きましたので、鈴木さんのギャラリー頁をつくり変えました。こちらをご覧ください。
 ところで、ギャラリーにもありますが、左の写真は何に見えるでしょうか。鈴木さんは「左端が弘象山で……大川の山並み」というのですが……。
 写真のメモには一言「年輪に感謝」と鈴木さん。    (11/6) 



■急ですが10月31日夜、NHK「キッチンが走る」

 明日31日(金)夜8時から、NHK総合テレビの「キッチンが走る」という番組で、長面海人のことや坂下清子さんのテレビデビューがあるそうです。ぜひ見てけらいん。

 この情報、国立のFSさん(長面)経由でオリオンに届きましたが、FSさんの同級生の「いらか」のSNさん(針岡)、千葉(?)のSHさん(釜谷)らが「オリオンにも知らせて」と言ってくれたそうです。一クラス下の皆さん、ありがとう!

 メールは30日の午後2時すぎに届いたようですが、管理人がこのところチョー多忙で、パソコンを開くのが夜中になってしまいました。お知らせが遅れてすみませんでした。(そうか、坂下清子さんも一つ下でしたか)    (10/30)

■「ギャラリー」を更新しました

●「大川音頭」が松戸・伊勢丹に登場します。こちら
●「大川の山々」(大川音頭の背景にあった山並みで、鈴木惟司さんが古木の枝の中から発見した造形)を単独で、鈴木さんのコーナーに入れさせていただきました。こちら
●「大川の猛禽類」。ミサゴが舞う横手の浜は私の原風景……と常々語っている分浜の齋藤和尚さんが、長面、針岡、福地などで撮影した猛禽類の写真を送ってくれました。北上川河口域と太平洋の砂浜は野鳥の宝庫だったそうです。こちら
●成田さんから新しい写真が送られているのですが、ちょっと写真が小さめでした。こちら

取り急ぎのアップで、間違いがあるかもしれません。発見の節はお知らせください。どうぞよろしく。    (10/27)

■開催中の「ちっぽけな心 遺作原画展」
 仙台で開かれている、さとうたつおさん(間垣)の遺作展に多くの方が立ち寄られているようで、いくつかお便りをいただきました。

●間垣の近況も含めてOld間垣Boyさんから

 「ちっぽけな心 遺作展を見て」
 オリオンで大きく取り上げられていた、さとうたつおさんの遺作展「ちっぽけな心 遺作原画展」に初日、23日に間垣のヒトボさんと共に見に行きました。10坪もあるかないかの会場でしたが独特のペンタッチのせいか、ほのぼのとしたメルヘンタッチの明るい色調で構成され、小一時間ほど「たつおさんの世界」に浸かって参りました。
 お地蔵さんの絵がとても印象的でした。
 子供の絵も、おばぁちゃんの絵も基本はお地蔵さん、の様に見えます。煩悩菩提というか生まれながらの純粋無垢の境地が絵に、色彩に表れている気がしてなりません。本当によかったです。
 
 東北では権威ある河北文学賞(佳作ではありましたが)を受章した短編小説「北上川〜どこまでも青い空だった」は少年時代の出来事を友人、家族、地域の人々をキャストに描かれた短編でしたが、私より僅か2つ年長なだけなので当時の出来事(学校火災の事やら映画の事、釜谷橋の欄干から小川を眺める事など)と作品で語られる周りの情景がラップして、50数年前の自分もあの出来事の中に居た様な気がしてなりません。
 (短編文ではたつおさん小3の出来事として描かれてますが学校火災時、私は小2でしたので小4ではないかと、当時の、夜空に燃え上がる赤い炎を記憶している者としての軽い疑問はありましたが)
 
 ヒトボさんは今、間垣の慰霊碑建設委員事務局長の立場で間垣集落跡地に建立の計画を進め、建立費用も大方、目標達成が叶う浄財が集まり、来年中には完成させるべく関係機関との折衝を行なっています。
 釜谷の慰霊碑に間垣地区として刻銘されてはいますが、やはり生活そのものであった場所に間垣オリジナルのものを建立したいというのは当然至極で、それを終えて大きな節目となす。と思われます。
 
 来月11月には間垣集落前の北上川本堤防が着工されるとか、富士川の間垣水門を新たに建設するなど復興が目に見える様になってきたことは喜ばしい事です。
 それと、昨年に引き続き今年も大川ふるさと祭りを12月20日(土)、河北総合センター(ビッグバン)にて開催する計画もあるようです。
 旧大川中学校裏の集団移転地は最終的に5世帯が移転、来春には土地引渡しがあり、あとはそれぞれが家屋の建築に入り、早ければ来年中には新天地に移転できる状況のようです。被災して3年半も経ちました。ここに至るまでの時間は長いか、短いかよくわかりませんが、大川小の遺族と石巻市の問題などを筆頭に、安堵するには世代を超える気の遠くなる様な時間が掛かるのでしょう。
 *「Old間垣Boy」さんについてはこちらをどうぞ。

●会場のスナップも届きました
 さとうさんのことを教えていただいた仙台のKSさん(福地)、広渕のMSさん(長面)はお二人で初日にご覧になったそうで、お二人が写真を送ってくれました。(右の写真をクリックしてください)

 日本画あり、洋画あり、児童画あり、仏絵あり、と、いつまでも去りがたく、ゆっくりと見て来ました。島田さんともお会い出来て、大川については、私より詳しく、特に達夫さんのご実家については知らない事がないようです。亡くなってからもあのように、想いを実現してもらって、才能を世間に知らせてもらって、達夫さんは幸せだと思いました。縁もゆかりもない私がそう思うのですから、身内の方々や、亡くなったお兄さんご夫妻も島田さん始め、お友達に感謝してるでしょうね。いい場面と絵と素晴らしい人たちに逢えてとても良かったです。初日の昼近くなので、数人の来客でした。 (MSさん)

 以前個展で見た絵とは全然違う物ばかりで、色々な絵を描いていたのだと感じました。今日の絵も見た人の心にホンワカと残るようなものばかりでした。 改めて、佐藤達夫さんとの出会いに感謝です。人は、色々な所で繋がっている事を実感している今日この頃です。(KSさん)

 写真には短編小説を収めた横長の本、『ちっぽけな心』のオリジナル版が映っていますが、この2点は絶対にお奨め。河北新報版では割愛されている大川の思い出風景が書かれています。

●針岡SK君から電話
 今朝、「今、山のなかだよ〜」という電話。ふつうは蛇が怖くて山には入らないというKS君が「もう寒くて蛇はいないし、シロシメジがないと思ってな」とのこと。
 昨日(10/25)、奥さまやテケちゃんの奥さまほかと一緒の車で遺作展を見に行ってきたそうで
「達夫さんの絵はけっこう高いんだねえ。額入りので5万とか6万とか。屏風仕立てのは26万とという値段だったよ」と驚いてました。
 針岡の松山寺が達夫さんの菩提寺でもあることから、主催者側の島田さんともいろいろ話が弾んだようでした。

 「ちっぽけな心 遺作展は」28日(火)までです。まだの方はぜひのぞいてみてください。 (10/26)

■富士沼周辺に今年も白鳥飛来
 針岡のKS君から、台風19号の様子と白鳥飛来の便りが届きました。

 日に日に冷たさを感じる季節になってきましたね
 先日の台風19号の雨量は209mm(雄勝)でした。刈り終えた田んぼも冠水し今は排水機場によって引きはじめましたが、まだ冠水の残る芦早前の田んぼに白鳥が飛来しました。

 長い旅の疲れを癒しているのか、空腹を満たそうと落穂を啄んでいるのか。楽しそうにゆっくりと水面に羽を休めているようです。
 よく今年も大川を忘れずに舞い降りてくれたと、驚かさぬようにシャッターを押しましたが、ピントがいまいちでした。




芦早前の冠水した田んぼ



これは冠水した長面の田んぼ

 硯上山など雄勝との境の山から流れ下る雨水は、例年かなりの脅威のようですが、今年はとりあえず収穫後で良かったです。福地の毎年サケの遡上する小川も、19号の時はもう少しであふれそうだったといいますが、富士沼周辺も福地も改修工事中のようです。 (10/18)

■追伸・「津波ヴァイオリン」の音色
 下の記事で「肝心の音色について書くのを忘れました」とFSさんから追伸がありました

 当日のプログラムの第1部は日本の歌、第2部はDVDで「長面浦海人」活動紹介、第3部はヴァイオリンデュオで、2挺の津波ヴァイオリンの共演でした。第3部で初めて、弾く奏者によって音色も格段に違うということがわかりました。可愛らしさ、力強さの人柄が音色にあらわれます。いろいろ学べてたのしかったです。

 また、雄勝の「法印神楽」が2日夜、ロシア・音楽院ラフマニノフ・ホールで披露され、笛と太鼓の神秘的に調べに観客が魅了されたという新聞記事も伝えてくれました。
 震災直後、ロシア非常事態省の緊急援助隊員160人が石巻市で活動した縁があり、その支援に感謝の気持ちをこめての公演だったそうです。  (10/16)

■「津波ヴァイオリン」チャリティーコンサートの報告
 10/5、長面、尾の崎では番屋の落成式が行われましたが、東京千駄木では「津波ヴァイオリン」のチャリティー・コンサート(略してチャリコン)が行われました。
 この津波ヴァイオリンやコンサートの模様やについて、国立のFSさん(長面)から概略次のような報告が届きました。


 まず津波ヴァイオリン(震災ヴァイオリン)とは、「東日本大震災で発生した津波の流木からつくられたヴァイオリン」のことで、ヴァイオリン製作者の中澤宗幸氏が、
 「震災後、自分のできることは何かと考え、被災地の瓦礫の中からヴァイオリンの材料になる木材を探し出して製作を開始、2014年6月現在、ヴァイオリン4挺、ヴィオラ2挺、チェロ1挺が製作された」そうです。
 「千の音色でつなぐ絆プロジェクト」を立ち上げてから現在まで、日本各地のほか、世界中から申し込みがあり、既に300人以上のひとが演奏されたそうです。目標は1000人です。

 申し込んでもなかなか貸してもらえない津波ヴァイオリンですが、去る10月5日、千駄木の旧安田楠雄邸庭園を会場に、2挺の津波ヴァイオリンを使用してのチャリティーコンサート(収益金は長面浦海人に寄付)がありました。以前、新聞でこのヴァイオリンのことが報道され興味を持っておりましたので、早速申し込み、先着40名様枠に入れてもらい、直接演奏を聴き、終了後は目の前で楽器を見せてもらいました。
 無遠慮にも触っている男性がいました。「重くないですか」と奏者に聴きましたら、怪訝な顔で、「いいえ」とおっしゃいました。震災以前、どこかの家で長年使いこまれた木材だとしたら重いはずはありません。馬鹿な質問をしてしまったと後悔しました。

  中澤氏の説明文に、「表から見ると普通のヴァイオリン、裏から見ると高田松原の絵が描かれている」と書かれている通り、ちょっと見には奇異な感じのする鮮やかなブルーで、ヴァイオリンとしては恐らく世界初の装飾品ではないでしょうか。
 表の板は松、横板裏板は楓、魂柱には陸前高田「奇跡の一本松」の木片が用いられています。
 被災地の小学校にいってこのヴァイオリンでコンサートなどもしているとのことです。大川小学校のことが思い起こされます。

 10/5といえば、前回の台風18号の直前で、「滝のような雨の中、団子坂をずぶ濡れになりながら上り無事到着」とFSさんの便りにありましたが、ほんとうにありがとうございました。付け加えるとFSさんは「くにたち市民オーケストラ」のヴィオラ奏者です。
*写真もFSさん撮影。クリックしていただくと大きく見えます。  (10/15)

■台風は大丈夫でしたか
 台風、大川はものすごい雨だったそうです。雄勝の雨が200何十ミリということは、山が同じですから大川もそれくらい降ったわけで、KSさんちの前を流れる小川でも石がゴロゴロ流れていたとそうです。小規模な土石流でしょうか。
 長面浦には小さな浜が幾つかあって、台風の度に風向きなどを考慮して舟の係留場所を変えるそうです。今回もとくに大きな被害はなかったようです。     (10/14) 

■県立松戸高校「玄関ギャラリー」の様子
  松戸の菅原泰子さん(福地)の創作人形による「大川音頭」などが展示されている松戸高校の「玄関ギャラリー」の様子がこちらでご覧になれます。油絵などもありますので、ぜひどうぞ。
 展示そのものは10月11日に終了したようですが、紹介記事や写真を見ることができます。知りませんでしたが、ずいぶん長期間の展示だったのですね。
 菅原さんの作品はギャラリーにありますので、こちらもご覧ください。 (10/14)

■久しぶりの大川あれこれ
 久しふりに大川に行ってきました。しばらくパソコンの前を離れていて、忘れたころの「ふるさと風だより」です。
 9/28、長野の畑に一区切りつけて東京へ。東京へ行けば行ったでいろいろあって、なんとか10/2に出発。

●10/2、那須と鏡石
 東京から東北道に乗るのはこれまでは渋滞でたいへんだったけど、今回は首都高のどこをどう走っているのかわからない地下道を経由して思いのほか簡単に東北道へ。
 まず那須インターで下りて少年時代の私のヒーローAIさん(塩田にいた)宅へ。長い船員時代からこういう生活を夢見ていたというチョー自然の中の邸宅?で、大部分が自給自足のお昼をご馳走になりました。長面に住むかここに住むかずいぶん迷ったそうですが、小山のてっぺんのような敷地が気に入って那須に決めたそうです。
 庭でできたムカゴのご飯をいただき、積もる話もそこそこに、那須から小一時間もかからずに福島・鏡石のTN君宅へ。設計は息子さんに任せたという大きな家が新築されていて、道路に面した車庫が建築中。南側の庭には野菜が数々の畑と、芝生が半々。お孫さんも元気とのことで、ともかくよかった、よかった。
 長面と違って話かたりする相手が少ないかもしれないけど、一説によれば長面のN家は、会津の伊達が今の仙北地方に進出する時に従って来たときの家臣とも言われるので(真偽は不明)、昔々の古里に帰ったと言っていいかもしれませんね。
 この夜は仙台に一泊。いつもなら仙台の同級生と一杯やるのだけど、遅かったし疲れたので次の機会に……。

●10/3、さとうたつおさんのことなど
 ひょんなことというか縁は異なものというか、オリオンを見てお便りをいただいた仙台のKSさんに教えていただいた間垣の出身の佐藤達夫さん(故人)のことで、仙台の泣Aドフォートさんにお邪魔しました。
 ここは写真スタジオやデザイン関係の会社で、社長の島田秀子さんはご主人が健在だった時から佐藤達夫さんと一緒に仕事をし、作家生活の全般をスポンサードされていました。島田さんが言うには、「達夫さんという人はものすごいワガママで、一時は事務所から追い出したこともある」そうですが、佐藤達夫さんの精神と作風に深い理解と共感をもちつづけ、死の直前まで面倒を見つづけたようです。
 ワガママな無名の作家が貧乏なのはあたりまえですが、達夫さんはいっこう気にせず、日常の食糧などはほとんど間垣の実兄・佐藤真一郎さん(ご夫妻は津波の犠牲になりました)からのもので、ほかは友人たちの絵の買い上げで生活していたそうです。
 10月23日から28日までの『さとうたつお ちっぽけな心 遺作展』には、島田さんはじめ、友人、仕事仲間が佐藤さんから買い取ったものを持ち寄って展示、書籍やポストカードなども展示即売して、収益金は震災孤児支援組織に寄付されます。(写真はアドフォートの島田さんと達夫さんのお地蔵さんの絵。表具は島田さんご自身)
 佐藤達夫ちっぽけな心展の詳しいことはこちらをどうぞ。
 「子どもの心は大きいのに、どうして大人になるとちっぽけな心になるのだう」という、さとうたつおさんの世界、どうぞ覗いてみてください。

 昼は矢本のイトコ宅で栗ごはん。この夫婦は料理自慢でケーキ作りも自慢なので、しこたまご馳走に。
 夜は石巻の兄宅で、石巻に来たらコレ」というわけで寿司をたらふく。

●10/4、旧友、同級生と久々に
 午前、私のオフクロが生前いつもお世話になっていて(いや、長面・尾の崎じゅう大川じゅうのお世話になっていたのだけど)、私も知らないオフクロの一面を知っているMSさんご夫妻と道の駅「上品の郷」でコーヒーとラーメン。
 思い出話もさることながら、目の前の復興住宅建設予定地の重機の動きがさみしいこと。土曜日だったせいもあるのかもしれないが、ただの更地に重機が2、3台あるだけ。
 「今年の暮れか、来年の初めには住めるのではないか」との希望を持っていたMSさんご夫妻だけでなく、仮設住まいの多くの方々、あるいは完成を一日も早くと願う私たち部外者をも、まだこんな状態なの?と失望させる風景でした。オリンピックなどはさっさと返上して復旧復興にあたってほしいとつくづく感じます。
 でも、岩手出身のご主人の笑顔に救われます。東北人の粘り強さを感じました。

 午後からは横川の同級生SF君と福地のYHちゃんに。
 SF君は昨年と一昨年だったか、2度も胃がんの手術をしたのにすこぶる元気。いまはカンツカ釣りのシーズンなのだが、それも休日だけにして、なんと親戚の会社でまた働き始めたという。 昼どきに行ったので、「昼休みは何時まで?」と聞いたら、「アハハ、何時でもいいんだ」と奥さまともども笑ってました。
 座敷に架かる書や絵をながめながらよもやま話。SF君には以前の約束を私が果たせないことことがあって心苦しいことがあるのだけど、その話はまたいずれ。

 福地のYHちゃん宅ではご主人ともどもいつもの山の話、作物の話、野鳥の話、花の話など、今回は比較的のんびり。福地のお寺の昔の住職、宮本和尚さんの話も出て、ご主人は懐かしそうに振り返っていました。
 「寺の跡取りをどうするのか」と聞くと、和尚さんは
 「坊主と女子(おなご)は在所知らずだ。心配ない」と、恬淡としていたそうです。坊さんは寺をあちこち動くのが習いだし、女性はどこに嫁に行くかわからないから一カ所にこだわることはないとうわけです。ここにも人生の真髄がありました。
 大川も雄勝も鹿が増えてたいへんという話は皆さんから聞いていたが、YHちゃん宅の庭先の畑まで鹿が荒らすようになって、鹿よけのフェンスが張られてました。(右写真)
 
 夕刻、YHちゃん宅を辞去して、旧石巻のイトコに電話。親族の冠婚葬祭でたまに顔を会わせることはあっても、親しく話すのは子どもの時以来。ゆっくり話をしてみれば、ずいぶん苦労もあったようで、ある種の風格がただよってました。
 津波では自宅も会社もやられ、10数人の社員のうちお一人が犠牲になったと聞いていたが、詳しい話は聞かないことにした。最近、奥さんを亡くしたショックもあり、会社やロータリークラブ等からの引退も考えているという。
 ここでも寿司をご馳走になって、明日午後に大川小学校で待合せて、やはりイトコの雄勝・分浜の高源院に行ってみる約束をした。

●10/5、針岡のKS君、長面浦のTT君、そして分浜
 石巻旧市街の宿からまず針岡のKS君宅へ。辻堂あたりまでは初めての道だったが、大きな仮設団地が目に入る。4度目の秋だというのにまだ何も進んでいない。
 横川を過ぎて、谷地から針岡へ向かうつもりだったのに、右に降りる道がない(道はあるのに見逃したらしい)。大川中学まで行ってようやく下に降りることができた。中学の裏山は間垣の方々などの移転地として造成中だったが、日曜なので詳しく見ることはできなかった。
 富士沼に至る田んぼは、4年ぶりの稲作の収穫がほとんど済んでいて、少しだけまだ刈り入れされない田んぼが残っていた。KS君の話によれば今年は豊作だったという。
 4年ぶりの収穫はめでたいことだが、過疎化は進むし高齢化で農業が立ち行かなくなる現状など、あまり明るい展望はない。そんな話をしながらもKS君夫妻は明るく、「今年もふとんをハシャガセたから泊まってけ」というなど、ほんとうに感謝。

 アドフォートの島田さんが「達夫さんの遺作展で残ったものを、針岡の松山寺に預けることはできないかしら」と言っていたので、この相談を少々。KS君は松山寺の総代長を最近交代したけど、現・総代長とも相談して検討してもらうことになりました。達夫さんの長兄の真一郎さん夫妻のこともよく知っていたようで、これも心強いことです。
 新米のおこわで早めのお昼をたらふくご馳走になり、芦早を通って長面へ。

 12時ごろ、社務所前でという前々からのTT君との約束。後に5日の11時から牡蠣処理場の番屋(?)の落成式があると尾の崎のKKさんが知らせてくれたが、時間の都合で長面浦の舟を優先。TT君にも落成式の予定があったのだと思うが、社務所前の舟で待っててくれました。

 いやー、長面浦があんなに広いとは知りませんでした。それに浦には昔の牡蠣むき場とか滝浜とかいくつかの浜があって、今も使われていることに驚きました。
 浦の奥まで船で行ったのは中学生のとき以来だし、舟がなかった我が家では例のイズメイダナに乗る機会もめったになかったので、海からの風景の記憶があまりありません。それだけに今回の長面浦めぐりは新鮮でした。それに、長面の家屋がまったく無くなったうえに、集落の浦海側がほとんど水没しているたろめに、ますます浦の大きさが広大に感じられました。


操船するTT君

浦海には思えないほど広い

昔の牡蠣むき場

こういう浜がいくつもある

ガレキ処理の船が今も

雄勝に通じる湾岸の謎の護岸道路

海面に這う見事な松

いまにも海面に届きそうな尾崎橋

番屋の落成式の賑わい

左の茶の建物が番屋

長面の〇〇食堂の裏あたりの木

海から見た八雲神社


 岸の近くをぐるりとめぐりながら、懐かしい牡蠣イカダにふれたり、海の水をなめてみたり、至福の時。TT君は足が痛くて危険なので、今年からイカダでの養殖は中止するそうですが、そのイカダはまだちゃんと浮いていました。MK君の工場や海藏庵などポツポツ人家の残る尾の崎を眺め、いまにも海面に届きそうに沈下した尾崎橋を、体をこごめてくぐり抜けて松原方面へ。
 しかし、急に波が出てきて尾の崎の中間あたりからUターン。TT君は「静かだば福浦までと思ったけど、今日は無理だな」と残念そうだが、私は大満足。というより、松原もなく、横手の砂浜もないこのあたりはほぼ外洋と同じようなもの。明日は台風が来るという波だから、引き返してもらってホッとしました。

 ゴゾ山に登る道はこのへんだったかなあ、尾の崎橋の下でよく泳いだなあ、橋の上からダツやサヨリをヤスで突いていたなあ、などと思いは走馬灯のよう。再び橋をくぐって、塩田、牡蠣処理場、長面、尾の崎を海上から眺めたが、人家のまったくない長面はやはり異様な風景でした。
 ただ一カ所、牡蠣処理場の横に茶色の新しい建物があって、これが今日落成式の番屋。多くの車、人びと、幟などがみえ、注連縄も張られている様子。たぶん宮司さんや尾の崎のKKさんはじめ、お世話になった方々がたくさんおられたと思うけれど、時間の都合で会場には寄れませんでした。今後、長面尾の崎がどういう展開をしていくかはわからないけれども、ここが一つの拠点、突破口になればと祈りました。

 ところで湾の奥の浜から雄勝に通じる道があるそうですが、そこから尾の崎への湾岸に、震災直後、あっという間に護岸道路が整備されたそうです。写真右側3番目の山と海の境の白い線がそれ。
 どんな緊急性があったのか、驚くような迅速さだったと言いますが、どうも女川原発の事故の際に使われる避難道路ではないかとも言われているそうです。
 なお、各浜の枯れている木は杉で、杉は塩分に弱いようです。
 
 帰途、龍谷院の墓地に参いるとほかにも年配のオジサンが一人お花を手向けていて、お互いに「誰?」とあいさつ。話をしてみると長面のカミのYNさんでした。ずいぶん世話になった親戚筋の先輩。大工の弟さんは松原の我が家を立ててくれた人で、その下のHさんが家をついで木工が得意の人。そのカミの家も今はない。
 ちょうと和尚さんもおられて立ち話。津波で残った位牌堂を本堂代わりにしていたが、狭いので正面入り口方向を増築、40人ぐらいは楽に参列できるようになったと案内してくれました。火災保険に入っていたからなんとか出来たとのことだが、集落のためにほんとうにありがとう。
 今日は境内の草刈りに来たということだが、なにしろ広い。体を壊さないように気をつけてください。
 お墓から帰ろうとする頃、番屋の落成式の会場から祭囃子の太鼓が聞こえてきました。さえぎるものが何もないので、お墓に眠る皆さんににも力強く聞こえたと思います。

 大川小へ向かう途中、長面の試験田に行ってみようとしたが、かなり道から遠くて状態のよくなさそうな農道を走る勇気がないので、遠くから写真を一枚。遅くに植えたので収穫はまだ。堤防の下に見える黄色の長い線が試験田の稲田です。

 釜谷は相変わらずの原野。
 大川小の献花台に、今年はあまり躊躇することなくご焼香。私は亡くなったばかりの方に線香をあげるのがなんとなく苦手なのですが、今年は抵抗なくご焼香できました。それだけ時間が過ぎたということでしょうか。
 慰霊碑の中央の小学校関係の碑には、同級生や知人のお孫さんの名前がたくさんあって胸が詰まりした。

 石巻のイトコと合流して、雄勝・分浜の高源院へ。
 途中、入り釜谷にある観音寺(仮堂)に寄らなければないのをチラッと思い出したのですが、素通りしてしまいました。釜谷の豆腐屋啓ちゃん(啓二君)の弟さんTSさんが、板に掘った般若心経を奉納したしたそうで、例の扁額とともにそれを見たかったのですが、残念。すみません。

 分浜の高源院へは若い時に一度行っているので、たぶん40年ぶりぐらい。そのときはずいぶん高台にある印象でしたが、海までの集落が消えた現在では、それほど高くない印象でした。現実には海抜15メートルで、津波の時は新築の庫裡は流され、本堂の屋根まで海水が来たが、激しい波ではなく海面が盛り上がったような津波だったので、本堂はいったん浮いて40センチほど移動したけれども流されずに残ったということです。
 避難所に指定されていた高源院にみるみるうちに海面が迫ってきて、避難していた集落の方々を裏山からさらに高いところへ誘導するなど、危機一髪の状況を斎藤政裕住職が語ってくれました。分浜の犠牲死者は一人でしたが、それは逃げた高台に大きな空き家があって、ふとんや毛布などが揃っていたからといいます。もしここがなかったら犠牲者はもっと増えたのではないかとも。
 和尚さんは現在、大崎市松山の真源寺を本拠にしていますが、もともとは分浜が本拠で松山は縁あって兼務していたお寺。分浜が被災して松山に移ったものの、こちらも古い寺なので地震で土台から建物まで相当の被害があり、ようやく大修復を終えて一段落したので、分浜の高源院も本堂だけでもと修復したそうです。写真は本堂だけは修復された高源院。
 分浜でも集団移転地の造成が行われているようですが、やはり遅れに遅れて、帰る人は2割ぐらいしかないだろうとのこと。それでも集落のよりどころとして本堂を修復しておくという心意気に拍手を送りたいです。

 この日は追分温泉泊り。しかしまあ、「必ず食事の6時までに来てくださいよ」と何度も念を押され、忙しいこと。
 翌日は、登米、松山から台風のなかを三陸道へ。東北道に乗るころには風雨も止んで、夜には長野に帰りました。
*また台風ですね。どうぞお気をつけて。

●お読みいただきお疲れさまです
 ふー。旅も疲れますが、書くのも疲れます。でも、読むのはもっとたいへんですよね。
 10行ぐらいですませたいと思っていたのに、朝起きて歯を磨いて……的な、つまらない個人的なことばかりですみません。
 少しでも、なにか古里の匂いを感じ取っていただければ幸いです。   (10/11)
  

■10月5日(日)、長面の番屋の落成式と「長面浦海人」
 まず、尾の崎KKさんから、長面の牡蠣処理場の隣の「番屋」の落成式があるそというお便りをいただきました。

 10月5日(日)午前11時より長面牡蠣処理場となりの休憩所(通称番屋)の落成式が行われるそうです。催しは
 ・長面神楽、ご婦人有志の踊り、太鼓
 ・なんとゴスモズを60キロも撒く大盤振る舞い
 ・シウリ汁、鮭のちゃんちゃん焼無料提供
 ・ハンドルを握らない方にはフランス産ワインの振る舞い(なにかの縁で提供されたもので、ボジョレヌーボーかどうか、またソムリエが来湾するかは不明)
 ・また当日は、三反走り仮設、追波河川敷仮設から無料送迎バス運行され
 ・ほかにも委員さん達は素敵なイベントを相談中で、これは当日のお楽しみ
 みなさんゴスモズ用の大きな袋持参で来てけらいん、とのことです。

*ゴスモズ=建て前の時などに撒くお餅のことで、ご祝儀餅の略でしょうか。
*シウリ汁(シウリって何?って聞きました)=「シウリ貝。学名はムラサキイ貝というらしいです。フランス料理などに出てくるムール貝と同じかな。牡蠣のイカダやロープにものすごく付着して、牡蠣漁師には厄介者扱いですが、これがどうして、お汁にすると極上の味を出します。また剥き身にして砂糖醤油で煮つけると病み付きになるくらいうまいです」というKKさんのお答えでした。
 いずれにしろ盛大な落成式のようですね。大きな袋を持って行ってみたいです。

 さて、10月5日には東京で「Tunamiヴァイオリンin千駄木」というチャリティ・コンサート(こちら)が開かれ、収益金は宮城県石巻市の長面浦でおいしい牡蠣を育てる漁師集団「一般社団法人 長面浦海人(ながつらうらうみびと)に寄付」されるとのことです。
 この長面浦海人に関連して、国立のFSさん(長面)から次のお便りをいただきました。

 長面浦さとうら再生計画」で、リバイブ ジャパン カップを受賞したのが、「一般社団法人 長面浦海人」です。助成額650万円で、2014年4月から2015年3月までの期間、長面地区に番屋を建設し牡蠣のおいしさをPRし、都市部との交流や環境学習イベント等を通じて、交流人口を拡大する、などの活動内容になっています。長面、尾の崎の復興は、まず長面浦からということでしょうか。

 長面、尾の崎は居住禁止区域のままですが、この「番屋」を拠点に展望が開けていくよう祈りたいです。 (9/23)

●ゴスモズの語源 MSさん(長面)から
 子供の頃、親から聞いた事で、正しいかどうか解りませんが……。五升餅からの語源で、建て前の時、五升升(丸いマスでした)に入れて、屋根の上に持って上がり、そこから餅を撒いたから。
 つまり、五升(しょう)の升(ます)を入れ物にして、上から撒いた餅、と言う事でしょうか? 私たちの小さい頃は大きなカゴに入れてましたから、カゴ餅ですかね? 昨年はダンボール箱でしたよ。

*升(しょう)=1升ビンの「しょう」で、容量は約1.8リットル。
*升(マス)=昔の計量カップ。1合マス、1升マスはどこの家庭にもありましたが、5升マスもあったんですね。
 (9/23)

■さとうたつお(佐藤達夫)さんの続報
 ●ギャラリーに画集とポストカード集を収録しました
 間垣出身で仙台で活躍された、さとうたつお(本名・佐藤達夫)さんの作品集を先日ご紹介しましたが、段ボールパッケージのなかの画集(20枚)とポストカード20枚を、アドフォートさんの了解を得て当サイトのギャラリー(こちら)にアップさせていただきました。枚数が多いですが、ゆっくり、じっくりご覧ください。
 なお著作権フリーではあません。使用等についてはアドフォートまたは当サイトへ連絡してください。 

 ●10月、仙台で原画展が開かれます
 「にんげんは どうしておとなに なるんでしょうね」というほど子供の視点を大切にした、さとうたつおさんの『ちっぽけな心』原画展」が下記のとおり開催されます。


絵はタウン誌『仙台っこ』の表紙
を長年飾って親しまれた

 子どもが大好きだったたつおさんの生前の想いをかなえたいと、たつおさんの友人が集まり、それぞれ所有する原画を提供・展示し、その売上金を東日本大震災の孤児を支援する「JETOみやぎ」に寄付するという展示会です。

  日時 10月23日(木)〜28日(火)の6日間
      11:00〜19:00 (最終日は18:00まで)
  会場 「アートキューヴ」 青葉区中央2-11-13 ユーメントビル3階 022-265-1352
  入場料 無料
  主催 アドフォート アール・フランセ
  協力 アートキューヴ 有志の皆さん
  お問合せ アドフォート 022-265-7140  


 会場では原画のほか、段ボールパッケージ限定50部、新版『ちっぽけな心』(河北新報出版センター)、ポストカードなどが展示・販売されます。

 ●河北新報出版センターから再構成された『ちっぽけな心』が出版されています
 直筆本『大人へおくるちいさな物語 ちっぽけな心』、河北文学賞受賞の短編小説『北上川〜どこまでも青い空だった日』をメインに、たくさんの絵でさとうたつおの世界を再構成した『大人へおくるちいさな物語 ちっぽけな心』が河北新報出版センターから出版されています。
 最後のページには龍雄さんの直筆とイラストで「読みにくい字をさいごまで、ごくろーさまでした。ちっぽけなセコイ心はすてようと思うのですが、むりですね……。  さとうたつお」とあります。
 どこを読んでも「あ〜」と思い当たる絵本(?)です。ぜひご覧ください。
 定価 1200円+税 B5判(横)/64頁/2013年11月刊 
 お求めは書店または河北新報出版センター 電話022-214-3811 FAX022-227-7666まで

■『大川音頭』の踊りの輪
 菅原泰子さんの最新作、村の老若男女が輪になって踊っている『大川音頭』の写真が届きました。9月16日の県立松戸高校の玄関ギャラリーに初登場し、大川音頭のお披露目になりました。
 さっそくギャラリーに収録しましたので、ぜひご覧ください。もちろん、大川音頭の実景を再現したものではなく、菅原さんのイメージから生まれたオリジナル作品で、独特の雰囲気を醸し出しています。(写真をクリックするとギャラリーに移動します)

 ギャラリーにも書きましたが、この作品のきっかけは岩槻の鈴木さん(釜谷)が、菅原さんに「大川音頭」を創ってくれないかなあ」とツブヤイたのがきっかけ。
 それで菅原さんが同級生の近藤さん(尾の崎)に歌詞や雰囲気などを聞いて、大川音頭の世界ができあがってきたようです。

 近藤さんは「津波の2、3年前、尾の崎公民館の会計をしてましたが、尾の崎の盆踊りにはレコードで大川音頭を流していました。よくもまあ、あの時期までレコードが残っていたものと、今さらながら驚きです。
 それと釜谷の鈴木さんが、盆踊りで大川音頭を唄う美声の歯医者さんの印象を語っていましたが、この方は釜谷出身の高橋正美さんという方で、奥様は尾崎の出、私が浜甚句のことを伺った千葉さんの姉妹でした。尾の崎にお墓があり、墓碑には「夢」と刻まれていました。まだ健在かどうかは不明ですが。音頭の作詞は旧河南町の斎藤荘次郎さんです」と語っています。

 さて、「今度は大川音頭の歌を聴きたいなあ。私も少しは唄えますよ」という鈴木さんのリクエストがありました。オリオンに音の収録もできるはずなのですが、管理人が無能で、動画や音の収録ができません。そのうち勉強して実現したいと思いますが、その前にみんなで歌ったり踊ったりする機会があってもいいかもしれませんね(これ実は鈴木さんの提案)。    (9/17)

■10月5日、津波ヴァイオリンで「長面浦海人」支援
 トロントのMKさんからチャリティーコンサートの案内が届きました。

 それによると来月5日(日)、長面浦の漁師さんと交流を深めていた「たてもの応援団」と「日本ナショナルトラスト」というところが主催で、「Tunamiヴァイオリンin千駄木」というコンサートが開かれ、

「コンサートの収益金は宮城県石巻市の長面浦でおいしい牡蠣を育てる漁師集団「一般社団法人 長面浦海人(ながつらうらうみびと)に寄付」されるとのことです。
 (津波ヴァイオリン=震災のがれきの中から選び取った木材でつくられたヴァイオリン)
 日時等は次のとおりです。

 「Tunamiヴァイオリンin千駄木」
日時 平成26年10月5日(日) 1回目13:00(開場12:30) 2回目15:30(開場15:00)
会場 旧安田楠雄邸庭園 (東京文京区千駄木5-20-18)
    (山手線日暮里駅、西日暮里駅から徒歩15分
    東京メトロ千代田線千駄木駅1番出口徒歩7分)
料金 2500円 (高校生以下1500円) 各回定員40名
予約 電話03-3822-2699 *通常公開日(水・土曜)の10:00〜16:00
    予約専用E-mail yasudatei@yanesen.org


* 「津波ヴァイオリン」「長面浦海人」「旧安田楠雄庭園」「たてもの応援団」「日本ナショナルトラスト」など、管理人はあまりよく知らないので、上のチラシを参照の他、各種お問い合わせは上の電話にお願いします。  (9/13)

■佐藤達夫さんの世界
 仙台のKSさん(福地)という未知の方から、段ボールをたたんだパッケージが届きました。
「夕陽に輝く北上川は大蛇のよう……など、ほのぼのする大川の情景がいっぱいの絵と文を楽しんでいただければ……」とのメッセージが添えられて。

 あけてびっくり、1枚の段ボールに佐藤達夫さんという方の世界がぎっしり詰まっているのですが、作品を見るより先に、まずこの段ボールのセットにウーンとうなってしまいました。素朴で素直、飾りのない魅力にあふれていました。

 さらに佐藤達夫さんの作品を読んだり眺めたりしてなお感激。昭和20年代の大川村の風景、人物、情感が、少年の目を通して活き活きと描かれているのです。
 佐藤さんは昭和22年間垣の生れで、平成17年に59歳の若さで亡くなられたそうです(管理人は佐藤達夫さんのお名前を知りませんでしたが、大川小学校や大川中学校には寄贈された絵があったそうです)。
 セットがが作られたのは没後2年、佐藤さんが居候兼事務所にしていたアド・フォート(仙台)のメンバーをはじめとする友人たちが集まって作ったのだそうです。

 作品についてはオリオンのギャラリーに一部を収録していますのでご覧ください。右の写真をクリックすると佐藤達夫さんのページに移動します。絵とポストカードについてはまだ準備中です。

 さて、KSさんが佐藤さんのパッケージを入手したのは7、8年前。海外にいる孫(当時3歳)が久しぶり帰ったとき、仙台の自宅近くの児童館に連れて行ったところ、そこで佐藤さんの展覧会が開かれていて、このセットを無料でいただいたのでした。
 以前に、佐藤さんの個展を見て話をしたこともあったので、「あ、あの人の絵だ」と思っただけで、大川の人とは夢にも思わなかったそうです。ところが、家に帰って文章を読んでみて、初めて大川の人だとわかったとのことです。

 最近、当サイト(オリオン311)を見つけ、たまに名前の出る長面のMSさんが仲良しの同級生ではないかなど確かめて、貴重なセットを送ってくれたわけです。ほんとうにありがとうございました。

*このセットの在庫は現在はなく、セットの中の『大人へおくちいさな物語ちっぽけな心』と短編小説『北上川〜どこまでも青い空だった日』(河北文学賞佳作)の二つを一冊にまとめた『大人へ送る小さな物語ちっぽけな心』(絵と文 さとうたつお 本体1,200円+税  B5判(横)/64ページ/2013年11月)が河北新報出版センターから出版されています。
https://kahoku-ss.co.jp/books/978-4-87341-300-6/
 ぜひ、ご覧ください。   (9/11)

■針岡・羽黒神社のお神輿
 春にKS君から送ってもらった羽黒神社のお神輿の写真を「祭囃子聞こえっぺが」に入れました。忘れていてごめんなさい。写真をクリックすると、「祭囃子……」のページに移動します。
 針岡の神輿は毎年9月に行われていたようですが、ここ10数年は若者が少なくなったために中断されているそうです。それだけになおさら、古い写真の姿は懐かしいし、価値がありますね。

 皆さんの集落のお祭りなど、神社やお寺さんの行事の写真や思い出がありましたらお寄せ下さい。    (9/6)

■長面のお神楽は9月28日(日)
 今年の長面のお神楽は9月28日(日)に行われるそうです。場所は去年一昨年と同じく石巻市小船越川前の仮設団地集会所。
 あれから4年目の秋祭り、仮設団地の暮らしがこんなに長くなるとは誰も予想しなかったと思いますが、ともかく伝統の行事が盛大に行われるのは嬉しいことです。

 去年はなんとかお神楽を見ることができた管理人ですが、興奮のあまり(なにしろ60年ぶりぐらいでしたから)に写真はほぼすべて失敗、保存会の会長さんには動画をネットにアップする許可も頂いたのですが、やり方がわからないまま過ぎてしまいました。
 で、今年こそ写真も動画もと意気込んでいたのですが、どうしても日程があわず、神楽の日には行けなくなりました。残念。
 2012年10月のお神楽の様子がこちらにあります。「長面のお神楽、とりあえず写真集」お神楽の物語とは」。写真はいずれも2014年のもので、長面のMSさん、TT君(法印神楽保存会メンバーで舞いも太鼓もベテラン)の提供です。

 TT君が撮ってくれた2014年の神楽の動画を、なんとかネットにアップしたいと思っています。さあ、勉強しなくては。 (9/4)

■稔りの秋も間近に
 針岡のKS君から震災後初めて作付けされた田んぼの写真が届きました。
 1枚目は富士沼周辺の田んぼで、見事に穂が頭を垂れていますね。9月中旬ごろには刈取りができるだろうということです。
 2枚目は長面耕土の試験田。田植えが他の地域よりずっと遅かったので、今が穂揃期だそうですが、青々と勢いよく育っているようです。このところの低温が大丈夫か気になりますが、ともかく津波のあとの緑の復活はうれしいことです。


4年ぶりに実った針岡周辺の稲穂

青々と育つ長面の試験田

 長面耕土では復興支援事業も行われていて、先日までの猛暑には皆さんたいへん苦労されたようですが、このところの涼しさにはほっと一息というところのようです。便りには「うだるような暑さに逆らっての作業は倍返しの疲労感」とありましたが、管理人も同年としてよくわかります。疲労がなかなか抜けないんですね。皆さん、どうぞお気をつけて。
 そんななか尾の崎のKKさんからは、「作業場所が甚平閘門の近くになったので、休み時間に足を伸ばしました。道路はダンプの往来が頻繁です。津波でやられた閘門は前の面影などは何もなく、青い塗料が塗られた鉄材の一部分だけが残っていました」との便りをいただきました。

 9月に入ったら暑さがぶり返すのかどうか、今年のようなお盆過ぎの低温は子どものころに何度か経験したような気がします。
 お盆を過ぎると、横手の海岸(松原海岸)は土用波が立ち、水も冷たくなって急にひっそりしてしまうことがありました。そんなとき、夏が終わってしまう寂しさがありましたが、なんか今年の夏もそんな気配が感じられます。 (8/30)

■長面浦の神輿巡行
 長面のMSさんから八雲神社の夏祭りの写真が届きました。

 八雲神社の夏祭りはお神輿の巡行ですが、管理人が子どものころはちょっと異様な雰囲気のお神輿でした。神輿の担ぎ手は、白装束に身を包み、口には白い紙をくわえて黙々静々と進むのです。祭神がスサノオノミコトなので、怒りに触れないように静々と巡行したのでしょうね。
 津波で長面の街が無くなり、巡行は一時中止されましたが、長面浦を舟で巡行する形で再開されました。

 海上の巡行は、先頭に神輿やお囃子の舟、つづいて長面伝承太鼓の踊り手の舟、3艘目には報道関係者などの舟がつづいています。MSさんから送られた去年と今年の写真を「祭囃子が聞こえっべか」にまとめました。写真をクリックすると移動しますので、ぜひご覧ください。

 神輿につづく長面伝承太鼓の踊りは、管理人が子どものころはなかったものですが、これからは女性陣の活躍が不可欠ということで、だいぶ以前から実現されているようです。振付けには同級生のSKちゃんも努力したそうで、皆さんほんとうにありがとうございます。

 写真を送ってくれたMSさんの便りには、「岸にたたずんで、穏やかな長面浦に流れる笛太鼓の音を聞きながら巡行を見ていると、いろいろな想いが重なってジーンとくるものが……」とありました。 (8/29)

■2008年お正月の長面
 過日、Nあきらさんから送られた「昔の長面の風景〜2008年お正月の長面」の写真を「ふるさと写真集」の中の長面にまとめました。こちらをご覧ください。
 いちばん枚数の多かった「永沼家のお屋敷付近」は、管理人にはとても懐かしいところだったので、私の勝手な思い出をコメント書き入れてしまいました。

 昭和20年、空襲の東京からオフクロの田舎に疎開したものの住むところがあるわけではなく、写真のお屋敷の下男部屋だか養蚕部屋だかの長屋のようなところに住まわせてもらいました。写真に写っている建物が当時のものかとかどうかはわかりませんが、場所はそのままのようです。私は4歳から小学生時代をここで過ごしたと思います。

 茅葺の母屋は堂々たるものでしたが、私たちの建物はボロボロの小屋という感じで、冬は室内まで雪が舞ってくることもありましたが、それでもそれが楽しくて兄弟でふざけあった記憶もあります(えー、あくまでも記憶です)。
 この長屋(?)の中央は、立派な太い材で造られた門になっていて、この門の陽だまりで杉鉄砲や紙鉄砲、コマや舟のおもちゃを肥後守というナイフで作ったりしたことをよく思い出します。

 この長屋と母屋の間の前庭には、円形の花壇か菜園があって、私はここをぐるぐる回って自転車を覚えました。母屋の座敷の前には奥庭があって、主(あるじ)の成田さんが怖くてなかなか入れませんでしたが、同級生のTN君らとたまに入るといつも松が目に留まり、座敷の横に賓客用の小さな玄関と応接間がありました。

 『大川村誌』には嘉永6(1853)年に永沼治孝という人がここに居を構えたとありますから、当時は築百年ぐらいの家だったのでしょう。治孝さんは私たち年代にはなじみの五郎先生の曾祖父にあたる人で、同級生TN君の高祖父にあたります。当時ここにお住まいだった成田さんも永沼家ゆかりの方でした。子ども心には立派な怖い人でしたが、さて、どうだったのでしょう。
 
 長面へ行っても、お屋敷の建物が見えないのと、車で入る道がなさそうなので間近に行ってみる機会を失っていました。
 Nあきらさん、ほんとうにありがとうございました。いや、私個人の回顧談に付き合っていただいて、皆さんもありがとうございました。 (8/20) 

■長面の試験田も順調のようです
 長面耕土のガレキ撤去など復興作業が今月初めから始まっているようですが、18日からお盆明けの作業が始まり、試験田の稲の生育も順調のようだと、尾の崎KKさんから便りがありました。

 ……今日から盆明けの長面耕土作業開始です。午前中はもやもや蒸し暑い天気でしたが、午後は海からの風が吹きしのぎやすかったです。
 試験田のすぐそばで作業しています。試験田の中で、農業試験場かの方がいろいろなデータを取りをしていたので、杞憂系時間に少し聞いてみると
 「田植えが他より少し遅れたので、そのぶん刈り取り時期も後に延びるが、生育的には津波に遭わない田んぼとまったく同じに順調に生育しているので問題ない」とのことでした。
 津波前のあの見事な長面耕土に稲穂のそよぐ風景を夢見つつ……

 よかったですね。新しい展開が生まれたらうれしいです。
 それと皆さん、日陰のない炎天下の作業、ほんとうにご苦労さまです。くれぐれも熱中症などに気をつけてください。 (8/18) 

■お盆―追想2題
 いつごろできた音頭かわかりませんが、大川地区には「大川音頭」というのがあって、盆踊りや祭りではよくこの音頭が流れ、踊られました。
 戦後、釜谷に疎開して来ていた歯医者さんが美声の持ち主で、盆踊りの舞台で生の大川音頭を唄っており、それに影響されてか、今でも私は大川音頭を唄えますよ、というお便りが釜谷のTSさん(岩槻)からありました。それと以前、尾の崎のKKさんも大川音頭は全部そらんじているとおっしゃっていました。
 大川音頭の歌詞や踊りの一部を染め抜いた日本手ぬぐいの写真を送ってくれた釜谷のHT君の話などがこちらにあります。

 もう一つお盆の話。
 去年、大川追想に「盆舟」の話を書きましたが、この中に管理人は実際に出会ったことのない”海賊船”というのがあります。これについて「お盆の長面浦に海賊は実際に出ていました」という便りをKKさんからいただきました。
 「出稼ぎで処を離れていて帰郷した若者や地元の青年団のお兄さんたちが、遊び心に若さを発散するすべがなく、子供達をからかうためにやってくるのです。私らは百も承知でした。オライの家督あんちゃんや向かいのクモスケおんちゃん達なのです。
 西瓜や桃を戦利品として受け取ると踵を返して別の舟に向い、その後はどこかの家の離れなどで安酒を飲み一晩気勢をあげたのでしょう」

 管理人が子どものころには、特色ある風習がいろいろあったと思いますが、今の田舎はどうなのでしょう。ちなみに大川追想の「盆舟」はこちらです。    (8/17)

■『長面濱村の濫觴記』と「2008年正月の長面」
 長面・龍谷院の先代・斎藤文雄和尚がまとめた『長面濱村の濫觴記』の全頁を「昔語りすっぺが」にPDFで収録しました。龍谷院の代々のご住職が遺した言い伝えや事績を、昭和51年にまとめたものです。記録の成り立ち、長面の始まりなど、詳しいことはこちらをご覧ください。
 8月12日、「Nあきら」さんという方から2008年の正月に写したという長面の写真を何点かいただきました。主に北野神社の参道や浦海、昔の永沼家の屋敷跡が、平穏な空気の中に残されています。近々、「ふるさと写真集」にまとめさせていただきますが、右はその中の1枚です。 (8/16)

■4度目のお盆
 こんなことを言っていいのかどうか、ほんとうに私的な「感じ」なのですが、お線香をあげるのがちょっと苦手です。
 遠い昔のご先祖やあまりよく知らない人のお墓などには、さしてためらいもなくお線香をあげることができるのですが、肉親やほんとうに親しい人の葬儀や墓前では線香を手向けるのがなんとなく嫌なのです。
 イヤというか、線香と手向けることが「ほんとうの別れ」になるような気がして、「まだ早い」という気持ちがいつも起こります。大川小や長面の慰霊碑の前でも、線香にはちょっと抵抗を覚えました。まあ、線香をあげる意味をよく知らないままなのですが。
 でも4度目のお盆を迎えて、そろそろ躊躇なくご焼香ができるような気がしてきました。これが時間というものでしょうか。風化というのは悲しいですね。復興住宅の完成もまだまだなのに……。
 ともかくこのお盆には帰れないので、9月か10月に帰ったときは、素直な気持ちでお線香を手向けたいと思っています。 (8/13)

■『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』(平成8年刊)をPDFで
 下の『釜谷浜の……』につづいて表題の冊子をPDFで全ページを見られるようにしました(こちら)。平成8(1996)年、フェスティバル・イン・かほく 町民文化祭特別企画展で配布されたもので、河北町・河北町民文化祭実行委員会発行です。
 長面、尾の崎の文化や歴史、地勢をわかりやすくかいつまんでまとめられたもので、協力者一覧には懐かしいお名前もあります。中世の製鉄所跡や近世の塩田開発などもっと詳しく知りたいところです。
 また、長面、尾の崎の地名由来がここにもあって、長面浦に巨大で恐ろしい白い尾の河馬が棲んでいたそうです。うーん、ここでいうカバはアフリカにいるあのカバのことでしょうか。 (7/25) 

■『釜谷浜の歴史を探る』(平成15年刊)をPDFで
 表題のすばらしい冊子があります。震災の年に釜谷の同級生HT君が送ってくれたもので、一部は折にふれて引用などをさせていただきましたが、紹介し切れない大切なことがたくさん収められているので、PDFで全頁のご紹介を試みました。(こちら)
 平成15(2003)年、河北町・河北町民文化祭実行委員会発行の「フェスティバル・イン・かほく 町民文化祭特別企画展 『釜谷浜の歴史を探る』という冊子です。釜谷の方々はもちろん河北町の方々はすでに読まれた方も多いと思いますが、津波での流失などもありましたので、改めてこの本の記録を残しておきたいと思った次第です。
 この本の成立にご協力いただいた方々、編集に携われた皆さん、ほんとうに良いお仕事をありがとうございました。今は記憶以外に何もない釜谷ですが、改めて人々の歴史や努力に敬意を表したいと思います。
 なお、同趣旨の『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』(平成8年)も手元にありますので、近々、ご紹介させていただきたいと思っています。  (7/21)

■7月13日(日)、長面、八雲神社の例祭
 しばらく前、長面のMSさんから13日に「八雲神社祭」があることを聞いていたのですが、詳しいことを聞くのを忘れていました。

 管理人の子どものころの記憶では、北野神社を長面の奥社とすれば、八雲神社は前社のような存在で、社務所からも階段を昇ればすぐの近いところにありました。祭神はスサノオで、子どもたちは「天王さん」と言ってよくそこで遊んだものです。
 祭りは神輿巡行なのですが、荒ぶる神スノオノミコトのお祭りのせいか、神輿はすこぶる地味で、ある種の畏敬の念を抱かせるものでした。白装束の氏子が白い紙を口にくわえ、黙々静々と進むのですから、ちょっと異様な神輿祭りでした。
 時間をおいて笛太鼓や獅子舞があったように記憶していますが、10数年前からは伝承太鼓や打ち囃子踊りとして受けつがれているようです。

 長面の街がない今、神輿はどこを巡行するのか、さきほど高橋宮司さんに電話で伺いました。
「祭礼は10:00からで、11:00から長面浦を船で巡行し、漁協へ向かいます。白装束、白マスクは昔のままですよ。神輿の舟の後を伝承太鼓や打ち囃子踊りの舟がつづきます」とのこと。
 長面浦の白装束の神輿、笛太鼓や踊りの舟列巡行……、見たいですね。

 この神輿巡行は震災の翌年から再開したそうです。「町はなくなっても心のつながりは守っていきたい」という宮司さんはじめ、長面の方々の熱意に感謝です。
 なお、今年の北野神社のお神楽「北野神社奉祝祭」は9月28日(日) だそうです。   (7/11)

■夢郷さんの絵を1ページに
 ギャラリーに東光園の夢郷さんの絵をまとめました。時間がなくてポツポツとUPしていたのですが、ちょっと見づらいので扇面図1点と、軸6点をまとめて1ページに収録させていただきました。右の絵をクリックしてご覧ください。
 超多忙のところを写真に撮って送っていただいた分浜・高源院の斎藤和尚さんに感謝! 大川にもこういう絵描さんがいて、今はない松原に桃源郷のような世界を創りあげたこと忘れまいと思います。
 ちなみに夢郷さんは、同級生・永沼昌平君(故人)のお父さんで、昌平君も絵がすごかったです。  (7/10)

■「尾の崎、長面の地名由来」と「東光園・夢郷さんの掛け軸」
 尾崎・近藤孝悦さんから「長面、尾の崎地名由来」というお便りがあり、「お茶飲んでがいん」(こちら)に収録しました。近藤さんの昔噺に合わせて、『長面濱村の濫觴(始まり)』という冊子にある地名由来、管理人がオフクロさんに聞いた地名由来も紹介しています。

 ギャラリーに東光園・夢郷さんの掛け軸2本を紹介しました(こちら)。部分拡大では筆の動きなどを味わっていただきたいと思ったのですが、うまく感じられますかどうか。
 次回は近々、夢郷さんの「北川(ほくせん)」時代の作品、「凡鳥(ぼんちょう)」時代の作品をご紹介したいとおもいます。  (7/7) 

■尾の崎の伝説3題
 長面・龍谷院の先代齋藤文雄和尚の書いた『長面濱村の濫觴(らんしょう=みなもと、始まり)記』(昭和51年3月)という冊子に、尾の崎の伝説として「加茂之助翁」「口脇稲荷大明神」「やかん桜」という3題が添付されていましたので、「昔語りすっぺが」に収録しました。伝説を記録した永沼吉衛さんのお名前など、近藤孝悦さんの協力をいただきました。こちらをご覧ください。

  『長面濱村の濫觴記』は、龍谷院に残っていた長面の始まりなどを記した文書をまとめたもので、これは明治初期に計画され未完に終わった群村誌『皇国地誌編纂事業への報告書の控えと思われます。
 一時はワープロで打ってみようと思ったのですが、やってみるとなかなかたいへんなので、いずれ全ページをスキャンして収録したいと思っています。     (7/6)

■ギャラリーに新着を追加
 下の他の記事は6/30にアップしたのに、記事も写真もどこかへんなところへ飛んで行ったらしく、一晩中あれこれやってみてもぜんぜんダメ。専門家の話を聞いもなかなか理解できない管理人ですが、たまらずヤフーのカスタマーズ・サービスというところにメールすると、数時間後に長いメールが届いて、改善方法が懇切丁寧に記してありました。ありがとう! です。
 それにしても、ミスに気がつかないでことを進めると、振出しに戻ってサァやり直しということになるんですね。5倍ぐらい時間がかかって10倍ぐらい疲れました。

 ギャラリー(こちら)にモガール和子さんから送られてきたMasakazu Satoさんの絵、同級会で配られたEYちゃんのちぎり絵を数点、あと東光園の夢郷さんの絵を一枚だけ入れました。
 夢郷さんの絵は、分浜の高源院で津波を被ったのですが、なんとか修復できたのを斎藤和尚さんに無理を言って写真をお願いしたものです。今回は横長の扇面図だけですが、あとはすべてタテ長の掛け軸なので、編集の仕方を考えます。
 あと、ギャラリーの菅原さんから封書でハンテンが送られてきました。藍染と刺し子の肌ざわりがなんとも言えないものです。で、うちのカミさん
 「まあ、ステキ。でも小さくて着られないわね」ですと。まあ、左右10p弱ではいくらいつも肩をすぼめている管理人でも無理ですかね。
 ギャラリーに新作で入れよう思いましたが、番頭さんの名前の入ったハンテンなのでとりあえずこちらに。

 6月20日過ぎに久々に東京へ帰りましたが、いろいろなお寄りが溜まっていて、M.Satoさんの絵、菅原さんのハンテンなどはその中からです。
 Kモハーさんからは「新撰組と長面」のことで、「あれはそういうことでしたか。でも全然知らなかったので歴史の勉強になってよかったです」という便りをいただきました。
 また、近藤孝悦さんからは尾の崎ほかの伝説が各種届いています。Kモハーさんも楽しみにしているという方言・訛りのこともあわせて、なんとか実現したいです。     (7/2)

■『震災の石巻』―「そこから」と「再生への道」− 創風社刊
 6/27、 「私しゃー音楽家?」という長面の一つ下FSさんにお会いして、管理人が別件で必要な音楽上の頼みごとをしました。くにたち市民オーケストラでビオラを弾く音楽家で、今度の演奏会は9/14、杉並公会堂でブルックナーだそうです。

 で、そのとき、以前に話のあった『震災の石巻―そこから』と『震災の石巻ー再生への道』いう2冊の本をいただきました。2011年と2012年の本なのでご覧になった方も多いと思いますが、ちょっとだけ紹介させていただきます。、

クリックすると目次も読めます
『震災の石巻』―そこから―
『震災の石巻』―再生への道

   星が
  またたいて
  ピカピカという音が聞こえるようだった

  だって地上の明りが消えたから
  星がよく見えた
  見えなかったものがよく見える
  何も無くなったから
  あの夜、一気に星の数が増えたようだ

  あなたの名前を、その星の一つにつけましょう。
  いつでも会えるように
         石巻市殻町   千葉直美


 この千葉さん詩は「再生への道」にありますが、この巻には
 『その時、大川・尾崎は――3.11から学んだこと』と題して、尾の崎震災復興対策委員会・濱畑幹夫さんの報告が掲載されています。
 また、「大川の皆様と一緒の空気を吸っていた」という佐々木裕子さん(釜谷診療所の看護師さん)が、『来た道と行く道の間で』と題して、釜谷・長面・尾の崎ほかの懐かしい情景を詳しく書かれています。

 FSさんによれば、この本の版元、創風社の千田社長は登米市の出身で、編集長も石巻に縁の深い方だそうで全体から強い思いが伝わってきます。
 ただ、「市民たちの記録」という形をとっているだけに、石巻市全体が守備範囲になり焦点が結びにくかった感があります。「市民たちの記録」ではなく、「町民たちの記録」というようなきめ細かい作業がこれからも大切になると思いました。  (6/30)

■大川中31年会(関東)有志の懇談会
 6/25(水)、東京の同級会がありました。遠くは七ヶ浜のEYちゃん、小田原のIEちゃん、そして松原TAちゃん(東京)も久々に顔を出してくれて参加者は21名。
 まずは昨年暮れに急逝したHK君はじめ、津波ほかで物故されたた同級生、故郷の諸氏に黙とう。あとはこの日のために針岡のKS君が送ってくれた写真集(4月と5月の大川各地)を回し見しながらふるさとの話に花が咲きました。
 富士沼周辺の作付け再開の話、釜谷・長面方面の復旧の遅れ、住宅、学校、そしていろいろな人間模様など、明るい話も暗い話もありましたが、なんとなく心が穏やかになっているような気がしました。

クリックするとよりきれいに見えます

 さて、七ヶ浜から参加のEYちゃん、得意の「ちぎり絵」で”フグ=福”の色紙と季節の花の色紙を21セット、皆さんにプレゼント。すべて手作りで、花は全部違うものですから労作です。ありがとう。
 右の色紙は管理人がもらったものです。あと会場で何人かの花を写真にとりましたので、近々、ギャラリー(こちら)に収録します。

 なお、会の連絡はこれまで電話で行っていたのですが、おれおれ詐欺とかの影響なのか、電話での連絡がつきにくくなっているので、来年からはハガキなどの文書でお知らせします。
 いやー、管理人は今回、いろいろなことが重なっていて、なんにもできずにすみませんでした。幹事の皆さん、すみません。ありがとうございました。 (6/30)

■「4年目・初夏の大川」
 来週25日に「大川中31年会・関東」の集まりがあるので、そのために針岡のKS君が「6月の大川」写真を送ってくれました。KS君は全国31年会の会長さん。さすが優しいです。会合より一足先に「4年目・初夏の大川」をこちらにまとめました。
 大川中学の裏山が移転地に造成されつつあるところ、校庭跡に野菜の水耕栽培のハウスができているところ、釜谷の住宅地跡が一面のクローバに覆われているところなど、「……そうなのか、なにか新しい時代が始まるのかな……」という光景が多いです。

 中に2枚、針岡の羽黒神社のお神輿が写っていますが、これは今年のお神輿ではなく、10数年前のものだそうです。
 針岡では毎年、祭りの時期になると「今年は下しすか」「下ろさねでおきすか」と話し合われますが、若い人が少なくなっていることもあって、ここ10数年は「下ろさねでおきすぺ」ということになっているそうです。
 「下ろす」というのが、「神輿を下ろす」ことなのか「神様を下ろす」ことなのか、はっきりしませんが、神輿を下すのはたいへんなので、神様だけが下りてきているのでしょう。きっと。     (6/21)

■長面の田んぼ お詫びと訂正
 下の記事で、長面の試験田の場所を「たぶん釜谷の墓地から長面へ向かう道路の右側かも……」と書きましたが、正しくはその反対側で「釜谷の墓地から長面へ向かう道路の右側」だそうです。お詫びして訂正します。
 あ、また間違えました。「左側」です。「釜谷の墓地から長面へ向かう道路の左側」が正しい位置です。すみません。

 その田んぼの写真が届きましたので、ご覧ください。

長面の耕土に4年ふりに苗が植えられた試験田

 左の写真は弘象山が見えるように、長面尾ノ崎側。右は釜谷側のようです。4枚の田んぼですが、合わせて3反歩だとか。多量の塩分を含んでいると思うし、農業用水も思うようにはならないでしょうから多くは期待でき無いと思いますが、ともかく4年ぶりの第一歩ですね。  (6/18)

■長面の田んぼでも田植え
 尾の崎のKKさんから「長面耕土でも田植えがありましたよ」というお便りにつづいて、針岡のKSさんからも「3反歩だけだけど、長面でも田植えがされたよ」という電話がありました。
 3反歩ですか。何十町歩もありそうな長面の田んぼのうち、3反歩というのはいかにも小さいけど、初めの一歩ですね。
 KKさんによれば、場所は谷地中からまっすぐ海よりに下がった長岩あたりの前、ということですから、たぶん釜谷の墓地から長面へ向かう道路の右側かもしれません。。 

  目に枯れ木山ガケ崩れ早苗揺れ (長面耕土試験田)  近藤

 という句がついていたところをつみると、まだ周囲は災害時のままなのでしょう。  (6/15)

■「新発見古文書」始末
 先ごろから長面か尾の崎のとある民家から、「幕藩兵が長面、尾の崎にきて物資の調達を行った」際の新しい資料が見つかった話をお伝えしてきましたが、昨日(6/12)、KKさんからちょっとびっくりするお便りが届きました。

 見つかった資料に関心を持ったKKさんが、資料を確認してこれらの報道のもととなった平川教授に直接聞いてみると、実はとくに目新しい資料ではなく、『河北町誌』(昭和50年刊)にも所在や内容が記載されている周知のものだった、というのです。
 文書は『徳川様御人数旅宿御賄……』というもので、確かに河北町誌に写真も内容も載っています(こちらの写真5(712,713頁)参照)。これがどうして”新発見”というような興奮気味の報道になったのか不思議ですね。

 KKさんの便りは次のように怒ってました。
 「……要は発見された貴重な文書と言うのは、何10年か前に見つかり、ほとんど解読され河北町誌などにも掲載されている坂下家の古文書が、この津波にも流されず残ったと言うことだけです。
 出どこはすでに河北町誌などに記されているし、なにも某所などともったいぶる事はないし、大仰に今更報道するべきものではなかったと私は思いました。
 あの記事を読み、当時のまだ知らない尾の崎、長面の様子が明らかになると、往時の還れぬ故郷にいっときでも夢をはせた人達はその落差をどうするんだと、一人ゴセやいでます……」


 まあ、平川教授のKKさん宛てた長文の説明では「新発見と言ったことは一度もなかった」とあり、興奮したのはトランヴェールの編集者、共同通信の記者、それを取り上げた新聞各紙、そしてそれを読んだ読者だったということになります。
 しかし、それにしても、教授らがその資料に初めて接した時の状況がどういうものであったか気になりますね。
 平川教授らは、そのことを含めて、いずれこの資料についての報告会を開く予定とのことですので、ぜひ。 (6/13)

■昨日は尾の崎のお祭りでした
 KKさんからお便り。

「……昨日(6/9)は尾の崎・久須師神社の例大祭でした。
 総代長はMKさんです。津波後も祭典は行っていたのですが神楽の奉納はなく、今年初めて神楽が舞われました。
 いつもお世話になっている向かいの女川の舞手さんとタコ大工さんのメンバー。タコ大工さんの舞はありませんでしたが太鼓と謡の専門で活躍していました。
 神楽は代表的な演目三番が舞われ、あいにくの雨模様でしたが部落の有志たちが報道関係にも根回ししていたようで、それに焼き牡蠣、ムール貝(シウリ貝)の御汁の振る舞いなどもあり、けっこうな賑わいでした……」


 ムッちゃん(MKさん)もタコちゃんも管理人の同級生。タコちゃん、あいかわらず頑張ってますね。ムッちゃんには津波のあと一度も会っていないけど、元気な様子。ぜひ会いたいなあ。KKさん、消息をありがとう! (久須師神社のデータはこちらです)

 さて、その尾崎。先日ある人から
 「尾の崎には人が住んでもよいことになったそうだが、住居を解体してしまった人はどうなるのか問題が起こっているらしい」という噂を聞きました。
 KKさんなどに確かめると、尾の崎は釜谷、長面などと共に居住禁止区域のままで人は住めないのだか、漁師の人たちは番屋代わりに自宅を残して時々寝泊りしているようだとのことでした。
 復興住宅の遅れなどが、いろいろな噂を生むのでしょう。 (6/10)

■パソコンは正常に更新できるようになりました
 原子炉みたいに自分の力ではコントロール不能なパソコンなんてものを利用しているために、ちょっと不都合が生じると必要以上にあわててしまいます。
 冷静に考えれば、たまにしか更新しないのだから、あわてる必要なんかどこにもないのに……。管理人の能力は別にして、パソコンの方は正常に戻りましたので、どうぞよろしく。
 更新したのは「昔語りすっぺが」の「脱走のこと」です。下にも書いてありますが、『河北町誌』の「脱走」に関するページをそのまま見ていただこうという手抜きです。こちらをどうぞ。(6/9) 

■「脱走」の補足と恐怖のパソコン
 昨夜(6/6)、脱走のことを書きましたが、これについて以前、尾の崎のKKさんから聞いたことがあるので補足しておきます。
 「彼らが外海の船まで物資を運ぶために、尾の崎の墓地から福浦漁港の手前まで山沿いにこしらえた道路を、いまでも軍艦道路と呼んでいます」ということでした。
 この弘象山の裏へ出る道は、管理人も子どものころよく遊びで通りましたが、軍艦道路とは知りませんでした。

 さて、昨夜書いた脱走のことですが、いまオリオンの頁をひらいたら、まったくアップされていませんでした。この記事とともに再チャレンジしてみますが、パソコンは怖いです。  (6/7) 

■「脱走」のこと
 寒い梅雨入りです。
 一昨日までの暖かさで、惰眠をむさぼっていました(というわけではなく、けっこうプライベートがバタバタ)が、今日は雨でどこにも行けないので、「脱走」のことを「昔語りすっぺが」のこちらに入れました。
 歴史的なことは背景説明が苦手で、のびのびになっていた次第ですが、今回も『河北町誌』の「脱走」に関するページをそのまま見ていただこうという手抜きです。
 新撰組のメンバーがいたかどうかわかりませんが、「脱走」というのは政府軍に降伏するのをよしとしない旧藩士らが、榎本武揚に合流するために、大川地区や十三浜の家々に押し入って、金品を強奪して行った脱藩の士のことです。
 Kモハーさんが知らせてくれた新発見の文書の詳細はわかりませんが、ちょっとした予備知識になればいいですね。 (6/6)

■『震災の石巻』(創風社)
 国立のFSさん(長面)から、『震災の石巻』を出版した創風社の社長さんに会ったというお便りをいただきました。

  創風社の千田社長は登米市の出身で、大川小学校の立地条件や、裏山の位置などを視察してきたそうで、教育行政や避難の状況など、「石巻弁でしゃべりまくる」のに合わせ、FSさんも一緒に悔しい思いを吐露しされたそうです。
 出版社を始めて30数年になるという千田社長は、石巻に大勢いる知り合いのため、やむにやまれぬ思いから、「震災の石巻」の出版を考えたそうです。

 近々、FSさんに『震災の石巻』の書評や会見記をお願いしたいと思いますが、管理人はまだ読んでいないので、本屋さんを探してみようと思っています。    (5/18)

■「4年目の田植え」
 前回うまく受信できなかったKS君こと佐藤孝一君の田植えの写真が届きました。久々の耕作の喜びが伝わってきます。美しい記事も一家総出の田植えを祝福しているようです。塩分の残余など不安はあると思いますが、ともかく第一歩。ふつうの秋が迎えられたら最高ですね。
 田植えの記事はこちらです。 (5/12)

 

■「4年目の大川」写真集 こちらにまとめました
 下のKS君が、4月20日に撮ってくれた大川各地の写真を「4年目の大川」(こちら)こちらにまとめました。
 大川各地の復旧状況を知りたいと思っていましたが、けっこう危険なところまで足を運んでくれたようで、「大川の今日」がわかります。ぜひをご覧ください。

 長面方面の俯瞰写真を撮るために、KS君は北野神社の境内を選んだようです。管理人などは弘象山に登るほかないと思いこんでましたが、なるほど。
 北野神社の前方というか、八雲神社の公報に大杉神社という小さな祠がありますが、そのあたりがシャッターポイントだったようです。 

北野神社への参道と大杉神社の祠 KS君撮影

 大杉神社は「アンバサン=墨付け祭り」の神様で、長面では2月8日が例祭日。水上交通の安全や豊漁の神様だそうです。(5/11)

■4年目の田植えの便りが届きました
 少し前、針岡・KS君が写真を送ってくれたのですが、東京を不在がちにしていたため、今日(5/9)ようやく手元にとどきました。KS君、すみません。この写真、「4年目の大川」というページにまとめ中です。
 4月20日ごろ、釜谷、長面、尾の崎などを巡って撮ってくれたもので、北野神社の山から長面、尾崎方面を写すなど、今の大川の現状がたくさんあります。ページができたらまたお知らせします。

 さて、そのKS君から「田植えが終わった」とのメールがありました。
「……自分たち農家は、花見の時期は育苗管理と田植えの準備、ゴールデンウィークは田植え、紅葉時期は稲刈りと、なかなか四季を楽しむことのできない職業で―す。
 我が家の田植えは、5月5日に朝早くから夕方遅くまで頑張り終えました。連休中の息子たちやイトコに手伝いをもらって。人手が多いと仕事も楽だし能率も上がるし……。頼まれた人は迷惑かもね。
 山菜の季節、自分は山どこにいるのに山菜取りはしません。貰って食べる方ですが、むしろよけい食べるかもね。今日も用事から帰ったらシドケが届いていました。
 こちらは連日強い風に見舞われてますが、今日は穏やかな田植え日和です
 写真は田植えの様子ですが届くかどうか?」 (5/9)


 四年目にしてようやくの耕作再開、喜びが伝わってきます。しかし、耕作が再開されたのは谷地、針岡から芦早、入釜谷などの一帯。釜谷や長面の田園地帯は、先に送ってくれたKS君の写真から見ると、まだまだ先のようです。
 さて、「届くかどうか?」という田植え風景の写真がうまく届きませんでした。届いたらまた。  (5/9)

■しょんべんたいさ行ぐ
 5/3、未知の「Kモハー」さんという方からオリオンにメールをいただきました。

 大川の訛り!といえば思いつきました。
 あなたも行こうということを「あんだもあばいん」といってましたね
 あとは何かを出す時につだす?? 赤ちゃんがけっと(あげる)ってつだしてきた!とか。
 トイレですることを(たいる)っても言っていましたね。
 「時間なくてしょんべんたいさ行げね〜」とか。

 祖父母の声、懐かしい近所の方々の声で、(当時の大川が)再現されますね。
 今日、母親に「おめもはー」って電話でおこられました。「はー」ってなんだろう(^O^)

 この間、私の母の父親(祖父)に大川みたいな、なんにもない田舎にお嫁さんにやりたくなかったんじゃない?ときいたら、昔、伊達政宗とかの偉い人が大川に神社たてたり、色々よくしてくれたとか。それは土地と人を気にいった証だから歴史的にも凄くいい所だからそんな事は思ったことはないと言っていました。
 益々大川が誇らしくなりました。(笑)


 オリオンのあちこちにある方言を見られたのでしょうね、お便りを読んでいて楽しくなりました。昨夜だったかテレビで、方言や訛りは人の距離を近くすると言ってましたが、そのとおりですね。「しょんべんたいさ行ぐ」なんてほんと久しぶり。
 Kモハーさんからはほかにも興味深い話題が寄せられましたが、それはまたのちほど。

*管理人は5/1から数日間、長野県の栄村(3.11の翌日に震度6地震があった村)に行く予定だったのですが、未明に嘔吐と下痢に襲われてダウン。しばらくおかゆの美味しさを再認識しつつウトウトしてました(いや、おかゆって本当に美味しい)。
 この間、新設のギャラリーの感想やご指摘、長面浦の最近の様子などをおよせいただきありがとうございました。おかげで体調はほぼ回復しました。懸案の方言・訛りコーナーもなんとかしなくては。
 印象深い方言や訛りをおよせください。   (5/5)

■「Gallery ORION」オープンしました
 田舎からは「桜のピークもすぎて、花びらが舞いはじめました」という便りが届きました。何事もなかったというか、容赦なくというか、季節はめぐり、時間が過ぎていきます。
 
 長い間気になっていた、オリオンのギャラリー頁をつくりました。
 名付けて「Gallery ORION」、こちらをご覧ください。右の絵のほかたくさんの作品があります。

 オリオンの開設以来、いろいろな造形作品がポツポツと寄せられていたのですが、個々にご紹介しても忘れてしまうことが多いので、一カ所に集めたわけです。
 趣味の作品、ライフワークの作品、あるいは何か即興の作品など、想いの詰まったものがありましたら、どんどんお寄せ下さい。(4/29)

■富士沼周辺の耕地にもようやく春
 針岡のKS君から、いよいよ4年ぶりの農作業開始という便りが届きました。

 「……今年は針岡の田圃は4年ぶりの作付けでーす。
 育苗であったり耕起作業であったりと今はその準備ですが、3年のブランクで機械の操作方法を忘れていたり、肥料や農薬のコツを思い出せなくて、たとえば秋の出荷時の基準米にはどの肥料、どの農薬をと指導受けながらの作業です。育苗写真添付します。
 今年は私は受託面積を減らして歳相応の面積ですが、作業後は疲れがのこります。
 昨日、春のポカポカ陽気に誘われ家の前の沢を2kmくらい上流にあがってみました。途中遊び心で超ミニの滝を撮ってきました。低木などはもう芽吹き、一足早い新緑を味わってきました。
 こちらは今、桜が満開です。添付の桜は松山寺の裏山に植栽された幼木ですが、競いあって咲き乱れております。これから何十年あるいはもっと長く、被災した大川の行く末を見据えながら大樹に育って行くことでしょう」

KS君からの写真(クリックすると大きく見えます)

4月6日播種の稲の育苗
4年ぶりの緑のじゅうたん

家の前の沢の上流にある超ミニの滝
滝と言うのは無理かな……

松山寺裏山に植栽された桜の幼木
今が満開です

 心はずむ弾む便りです。大川の針岡地区は3年間のガレキ処理や塩分処理をようやく終えて、この春からいよいよ作付けができるようになったそうです。KS君は震災前は20数町歩の大豆などをしてましたが、今年はテストの意味もかねて4〜5町歩をやってみたいと言ってました。歳相応とはいっても4町歩もの仕事はたいへんなこと。塩害に負けず、秋の稔りが来ることを祈りたいです。
 沢は硯上山からの沢ですね。マイナスイオンがいっぱいで、フキノトウもありそう! でも、震災後の豪雨ではここを大量の水が駆け下りることもあったようです。
 松山寺の総代でもあるKS君、これからも桜と同様、大川を見守ってくださいね。  (4/18)

■大川小「校舎を遺して」 仙台で卒業生5人が意見表明
 先にBBCの『津波の子供たち』を知らせてくれたMIさんから、
   「大川小学校の校舎を遺して」卒業生5人が意見表明
 という記事が下にあることを知らせていただきました。 いろいろな意見があると思いますが、参考までご覧ください。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/12/okawa-sho-graduates_n_5140512.html?utm_hp_ref=fb&src=sp&comm_ref=false#sb=5326956b=facebook
 震災時、大川小6年生だった4人と、大川中2年だった1人の5人が、4月6日、仙台で「母校の校舎を遺して」という意見表明を行っています。また、OBの子たちが在校時に撮った懐かしい写真もあります。
 記事を書いた加藤順子氏は「5人が語ったのは”震災遺構”というよりは、あくまでも”母校”への思い」と結んでいます。  (4/17)

■桜がほころび始めたそうです
 尾の崎KKさんから、楽しい春の便りがありました。

 やっと桜がほころび始めました。
 昨日、部落の総会がビックバンであり、その後、東京大学空間情報科学研究センター協力研究員・廣瀬俊介さん(さて私には何ともわけのわからない研究所ではありますが)の「故郷再生」とかの講演がありました。
 その彼のスライド上映の最初に、ふるさとの原風景として、なんとオリオンの、管理人さんも私もお気に入りのイヅメェダナの写真が映り、尾の崎のKKさんという方がこれに感想文を寄せいますという解説があり、超びっくり。
 さすが東大出、小保方さんとは違い出典はオリオンだとはっきり示しておりました。
 ただ、終了後、彼のそばに行って「KKは私です」と言うと、なんだか怪訝そうな顔をして変なおじんと言わんばかりの表情をしてました。
 むむ……俺だって金華山灯台(東大)の方角(法学)部 な〜んてね。40数年間留年在籍ではありますが。


 突然話しかけられた研究員さんは、きっとびっくりしたんでしょうね。そうでした、KKさんは40数年も東大法学部で活躍された海の男でした。(ちなみにイヅメェダナの写真と文はこちらをご覧ください)
 ところで、空間情報科学研究センターつてどんな研究をされているところでしょうか。どなたかご存知でしたら教えてください。

 KKさんの便りの末尾に”春の句”がありました。その中の一つ。
   桜木の下這うアリンコに春が来た

 同じような情景を登米出身の曹洞禅の高僧・横山祖道さんが詠んでいます。
   今年また蟻は地に穴をほりをり千曲川旅情の歌の詩碑のほとり
              (『碑のほとりの歌』より 昭和34年6月22日 浅間山姿見せぬ日)

 何があっても営みを黙々とくり返す……。蟻も桜も偉大ですね。    (4/14)

■仮設での長面のお神楽は9月28日
 久々に長面のTT君と長電話。
 今日の長面方面はけっこう気温が低いうえに風も強いとあって、長面浦での仕事はお休みにしたそうで、少しゆっくり話ができた。

【内海と外海】
 長面の入江の、尾崎橋から奥を内海(ウチウミ)、尾崎橋から松原・ゴゾヤマの突端の方を外海(ソトウミ)と言うそうだけど、震災前からこういう呼び名だったかなあ。たしかに今は、仮設道路の矢板が昔の道路や護岸に沿って打ちこまれているけど、入江の入口は昔より大きく広がっているようなので、なるほど尾崎橋から北は外海(ソトウミ)という印象です。
 内海での作業も、風が強い日は船外機をかけっぱなしにしておかなければならないそうで、その油の値上がりが激しく、少々の出荷量ではあわないので、本日はお休みということでした。
 「追波湾からの長面浦への入口が広くなったんで、内海の海水も少し変わったみたいだな。今まであまり採れなかったアサリが増えたようだよ。アナゴも一時はよく獲れたが、まだ寝てるんだべな、まだ採れね」
 比較的穏やかな内海とはいえ、牡蠣棚の作業は危険。TT君も何回も落ちたことがあるというが、もう若くはないし、膝痛も抱えているので、いろいろ考えているようだ。
 針岡のKS君も心配していたが、震災から4年目、ようやく仕事ができる環境になったのに、体がついていくかどうか……。悩ましいところです。

復興住宅は来年か再来年】
 TT君は仮設住まいで、一日も早い復興住宅の完成が待たれますが、TT君は
 「完成は来年(平成27年)と言っているが、どうだろうね。28年になるんじゃないかな」と言っていた。
 TT君の本職は大工さんだから、震災直後には新築を考えたという。しかし、お子さんたちは皆独立しているし、奥さんも「これから家を作っても住むのは10年ぐらいじゃないの」というので、復興住宅を申し込んだのでした。
 一日も早く完成するといいですね。

【長面のお神楽】
 2月にTT君から『出雲大社平成の大遷宮 奉祝行事記録集』(こちら)が送られてきて、その後詳しい報告ができずじまいですみませんでした。
 これを見ると全国にいろいろな神楽があるのですが、出雲大社で神楽を演じてきたTT君は
 「あちこちの神楽を見ると、なんだか”芝居”を見ているような気がするなあ」と言ってました。
 そう言われてみると、各地のお神楽はかなり説明的で舞台もわかりやすいのですが、オラホのお神楽はあまり判り易さはありませんけど、なにか祈りに通じるものを感じます。
 で、今年の仮設での長面のお神楽は9月28日(日)に決まったそうです。
 「みんなで遊びさ来や」とTT君は言っておりました。       (4/13)

■春がきた……長面の牡蠣処理場が稼働

  ふとん干す婆ちゃんの背にも春が来た  (こうちゃん)

 3月末、尾の崎のKKさんから
 「長面の牡蠣処理場が稼動しましたが、水道がまだ引けず今のところは殻出しなそうです、生処理で出荷できるように鋭意検討中です」
 というお便りが届きましたが、昨日(4/9)
 「本日の『石巻かほく』のNEWSページ(こちら)に長面の牡蠣処理場のことが載っています」という便りがありました。
 で、4/9のニュースを覗くと、「待望のカキ処理場完成」の記事があり、
 ……長面浦で獲れたカキは、冬の間、(処理用の水がないため)殻付きのまま出荷されていたが、4月以降は剥いて出荷できるようになった。ただ、これからの時期は生食用で出荷できないため、加熱用として販売される。処理場は今季5月いっぱい稼働する見通しで、来期からは生食用の出荷ができることになり、50年以上カキ養殖に携わっている武山昌一さん(74)は「やっと元の生活に戻れるのかなという思い。養殖施設も震災前に戻りつつある。来季は生食用で出荷したい」と安どと期待が交じった表情で話した……とありました。

 なお、KKさんからは冒頭の句のほか、いろいろ情景を切り取った川柳が届いています。近々、オリオンの頁を工夫して、いろいろな方のアートギャラリー(ちょつと大げさかな)を工夫してみたいと思っています。  (4/10)

■BBCの『津波の子供たち』
 東京のMIさんという方から「BBC制作の『津波の子供たち』がYoutubeにアップされています」というお便りがありました。
 この番組は2012年の初めにBBCで放映されたもので、日本でもNHKのBSで放送されたそうなのでご覧になった方も多いと思いますが、まだの方はご覧ください。管理人も未見でした。
   https://www.youtube.com/watch?v=YebmDpb0P3Y

 震災1年後の番組ですが、大川小の児童、原発で避難した福島の児童の将来への夢がたくましい希望を感じさせます。また、学校の父兄への説明会などの様子も収められています。
 MIさんによれば
「YoutubeでTV番組がアップされますと、放映時に番組を見ることのできなかった地域の人間にとっては重宝する反面、著作権の関係で削除とアップの繰り返しなのですが、またアップされましたのでお知らせした次第です」とのことでした。
 また削除されるかもしれないので、未見の方はぜひ。  (4/5)

■4年目の仮設のこと……夢郷または無郷さんのこと
 震災から4年目に入っても、明るいニュースはあまり聞こえなかった。新聞によれば、1月末の復興住宅の完成は計画の3%だという。宮城県に限ってみると1万5000戸の計画に対し、完成したのはたったの322戸で計画の2%でしかない。しかも着工できたのは3,796戸だけで、まだ1万900戸近くが未着工のままだという。
 仮設住まいが4年目に入るとは誰も予想しなかったことだ。何がなくともまず住むところができなければ心の安定は得られない。遠いところから無責任な発言はつつしみたいが、一日も早い住宅の完成が待たれる。

 仮設に暮らす尾の崎の”こうちゃん”から今春の川柳が届きました。いろいろな世相と心境が読み込まれていますが、仮設暮らしには次のような川柳があります。
     寒いなあ仮設の部屋はなおさらに
    仮設前越冬タンポポ咲いている
    ほっこりと仮設のノラ猫すり寄って
    よく耐えた仮設の屋根よ大雪に
    かなわない新築の図面夢で引く

 また、次のような鋭い描写もありました。
      絆の字 糸が半分切れたりもつれたり
    潮みちてずぶっずぶっとふるさと水びたし

 ”こうちゃん”の川柳にかぎらず、人形制作、寄木細工、書、絵ほか、大川にゆかりのあるいろいろな方のギャラリーを作ってみたいなと、ふと思いました。農作物や魚介の収穫、手塩にかけた花なども立派な作品。楽しいページができるんじゃないかなあ、などと。

 年配の方は覚えておられると思いますが、松原海岸に東光園という公園みたいなところがありました。主は夢郷または無郷さんという日本画家で、私(管理人)らの同級生SN君(故人)の父上でした。
 松原周辺はもとより長面、尾の崎はそれこそ”ぶっずぶっと水びたし”になっていて、まさに夢郷または無郷の状態です。思いつくまま東光園=夢郷さんのことを『大川追想』に書いてみました。こちらをご覧ください。   (3/18)

■「大川という共通のHOME
 長面出身でカナダ在住のモガール和子さんが、震災の年に郷里を訪れた際のドキュメンタリー『長面―きえた故郷』を観てきました。
 今回の上映は東京・練馬区の生涯学習センターホール。長面や大川を知る人の少ない東京での上映会開催はたいへんだったと思いますが、ほんとうにご苦労さまでした。

 入場者はほぼ満席に近い250〜260人ぐらいで、長面を知らない人がほとんどでしたが、大川に縁のある方もたくさんいらっしゃいました。
・モガールさんの同級生=TSさん(釜谷の豆腐屋さんの弟)、MОさん(谷地)はじめ10人。
・管理人の同級生=NО君、YY君、TW君、STさんなど5人。
・釜谷のSさん=「松原の松は20万本あった」と訂正してくれました
・長面の方々=塩田のFS(伊藤芳子先生の長女)、長面の魚屋さんANさん、KSさん(管理人の同級生NS君の甥っこさんでした)、また母方のお祖父さん(YSさん)が長面出身だが、震災までそのことを知らなかったというKSさんもおられました。
・横川のTSさん=尾の崎KKさんの同級生(あとでわかったのですが、管理人の同級生YS君の妹さん)。
 ほかにもたくさんおられたと思いますが、上記の方々と少しお話ができました。

 名札もないのに多くの方とお話しできたのは、上映後のフリートーキングで、釜谷のTSさんとモガールさんが「オリオンの管理人が来ている


釜谷TSさんの作品

鎌倉でのKSさん(前列右端)

鎌倉での「打ち囃し踊り」

」と紹介してくれたからです。
 そのときに会場の何カ所からか「へー?」という声があって、ちょっと驚きました。管理人はどこでどなたが見ているか、まったくわからないままホームページを進めているので、多くの方から「見てますよ」と言われるのは、たいへんうれしいことです。
 しかし一方では、「あれっ、じゃ責任ある言動が必要なのかな」という気持ちも出てきて、ちょっとショックでした。

 しかしまあ、オリオンのホームページは、管理人個人の思いももちろんありますが、ほんとうの趣旨は「大川」に関連のある方々の「共通の場」=「大川の場」を設けていることなんだ、と改めて言い聞かせました。
 「大川という共通のHOME」=自分の家・故郷に帰ってホッとするような場=を目標にしていますので、皆さん、これからもどんどんこの場にご参加していただければと思います。

 さてさて、右の写真の説明。
 1枚目は、TSさん(釜谷の豆腐屋の弟)さんが仕上げて、上映会場まで持ってきてくれたオラホのお神楽『橋引き』の一場面を模した大きな絵馬。どこに奉納するのか聞きませんでしたが、横幅は1mちかくもありそうな大きなもの。登場人物二人は見事な寄木細工で造られています。『橋引き』については、こちらをどうぞ。

 2枚目は、母方の祖父が長面出身のYSさんであるKSさんからお預かりした写真で、昨年10月、鎌倉・八幡宮のお神楽を観に行ったときの記念写真です。私たちは現地では気がつきませんでしたが、写真前列右端がKSさんです。(鎌倉でのお神楽についてはこちら)

 3枚目は、同じく鎌倉でのお神楽での一幕で、長面の新しい「打ち囃し踊り」。映画から帰った夜に、ある人から「管理人さんの同級生SKさん(現・北本市)が、昭和の終わりか平成の初めごろに、神輿祭りや獅子舞の囃子に振付して創作したものです。新しい長面の伝統になりましたね」と知らせてくれました。
 本人に確かめると「しばらく見てないけど、今でも踊られて、鎌倉八幡宮で披露されるなんて」と懐かしがっていました。「打ち囃し踊り」についてはこちらをどうぞ。

 そのほかにもいろいろありましたが、とりあえずのご報告。
 ともかく、「大川という共通のHOME」を、皆んなであたたかい場にしていければと思います。 (3/10)

■当ホームページから 「思い出」集づくり についてのお願い 
 東日本大震災で犠牲になられた大川地区の方々の慰霊碑が、平成25年、釜谷、長面に建立されました。そこに刻まれたお名前の数の多さに圧倒されますが、数ばかりでなく、そのお一人お一人の個性や笑顔をつみかさねて、大川地区の温かい記録にしたいと思います。
 つきましては以下のように「思い出」集をつくりたいと思いますので、故人との楽しかった思い出などをお寄せいただければ幸いです。

●「思い出」集の見方
・当ホームページの「忘しぇねがらね」頁(こちら)の慰霊碑の写真の下に、碑に刻まれたお名前とお歳を再録してあり、その横に「思い出」欄があります。そこの*印をクリックしていただくと、この方の思い出ページに移ります。
・まだご寄稿の数は多くありませんがご覧ください。

●ご寄稿のお願い
・プライバシーの侵害、中傷などがないよう最大限の配慮をしていくことを前提にいたします。
・故人のお人柄、業績などはもちろん、何気ない生活の一部分などから明るい思い出をお寄せください。
・文章量、形式などは自由です。ひと言でも数行でもかまいませんし、長くなってもかまいません。あたたかい思い出をどうぞよろしく。
・寄稿者のお名前は出身(関係)集落と本名(または本名のイニシャル)にさせていただきたいと思います。

●ご寄稿の方法
・とりあえずはメールでのお問い合わせ、ご寄稿をお願いいたします。
 メールアドレス: orion311@ae.auone-net.jp (オリオン311)   wild1030@y5.dion.ne.jp (管理人)
・郵便、FAX、電話でもかまいません。

以上、どうぞよろしくお願いいたします。  (「オリオン311」管理人:松原A=長面、大川中30年度卒)

*管理人の思いとお願い
 私事で恐縮ですが、私は人生の大半を出版関係の仕事ですごしました。その中で痛感したのは「世の中はエライ人や有名な人だけで成り立っているのではない。有名も無名も関係なく、それぞれの人の精一杯の努力の結果だ」ということでした。
 そういう記録を大切に残しておきたいと思います。「今、つまらないと思われることでも、100年後には立派な歴史になる」と言われます。大川の温かい歴史を今のうちに刻んでおきたいと思う次第です。      (3/6)

■大雪に見る結いの心と『大川の記憶』
 針岡のKS君から、雪その後のあたたかい便りをもらいました。

 先日の大雪、石巻地方では91年ぶりの大雪なそうです。もちろん初めての経験だものね。いったいどうやって除雪するかと悩んでいるうちに、2軒隣りの酪農家の人にローダで庭から道路から、他の家も含めて除雪してもらうことができて大助かりでした。
 農家の庭は広いし、末端の道路までは市の除雪車はなかなか対応できない状況の中、田舎気質というか困ったら助け合いの精神、結いの心がまだまだ生きています。 心がけたいね。

 田んぼの作業はまだまだです。4年ぶりの作付けなので、まずはビニールハウスの破れの修復、機械の点検など。種蒔きは4月半ばあたりになるかも。

 今朝、新聞配達員を介して国土夢想さんから『大川の記憶(下)』が配られました。主に谷地、針岡の震災前の写真集です。配達範囲は分りませんが、改めて震災前の記憶が脳裏をめぐっています。
 庭の寒さに耐えた紅梅も、まもなくはじけようとしてます。自分達も頑張りましょう。

 その『大川の記憶(下)』はオリオンにもご恵贈いただきました。昨年春の(上)につづく田中俊幸さんの震災前の大川の写真集です。B5サイズ4ページ分が見開きで見られる超ワイドの写真が収録されるなど、編集も製作もたいへんさがしのばれる労作です。
 写真の大部分は緑の緑野で、今年はこのような復活を見せてほしいと思わず願いました。
 巻末に田中さんの思いが綴られています。
 在庫の確認などお問い合わせは、
 田中さんのホームページ『国土夢想』 http://kokudomusoh.web.fc2.com/ のBBS(掲示板)へどうぞよろしく。    (3/4) 

■出雲大社平成の大遷宮『奉祝行事記録集』
 

長面のTT君から上記の冊子が送られてきました。80頁フルカラーの立派なもので、50余りの各地お神楽が納められています。神楽は大きく「出雲神楽」と「石見神楽」にわけられ、われらが法印神楽は出雲流神楽の流れをくむとあります。

 それにしても全国にはいろいろな神楽があるんですね。時間ができたら各地の神楽の写真を「祭囃子聞こえっぺが」(こちら)に収めてみたいと思っています。

 とりあえず、送られた冊子の表紙と、「釜谷長面尾崎法印神楽保存会」「北上町女川法印神楽保存会」の頁だけですが、ご覧ください。向かって右の太鼓を叩きながらカンナギを謡うのはTT君です。(写真をクリックすると拡大されます) 

 もう一つ、長面浦やたぶん追波川でも活躍したイズメェダナ(一枚棚)という舟の船おろし(進水式)の様子などを尾の崎KKさんが寄せてくれました。
 イズメェダナは櫓こぎのボートで、管理人の憧れの的でしたが、疎開家族の我が家では必要なく、というかそれを建造して所有する余裕もなく、親戚や友達に頼んで乗せてもらいました。今TT君は長面浦で活躍しているので、いつか機会があったらせがんで乗せてもらおうと思っています。まあ、いまのボートは昔のイズメェダナとは違って、グラスファイバーか何かの船外機付きになっていると思いますが……。    (2/26)

■「みんなの力で未来をひらく 笑顔輝けチーム大川」 大川小学校から感謝のメッセージ
 2/21、50何年かぶりでお会いしたFSさん(1つ下、当時塩田)から、いろいろな資料とともに大川小の子どもたちのメッセージと歌声を収録したCDをお預かりしました。大川小への支援活動に対する感謝の気持ちとして送られてきたもので、挨拶状には「2014年1月から、二俣小学校校地内に仮設校舎ながら大川小学校が独立、三学期の始業式が行われた」ともあります。
 CDの冒頭は、男女児童の力強い元気な声で、以下の「子どもたちの感謝のメッセージ」が収録され、「ぼくのひこうき」「OSMOS」の2曲と校歌「未来をひらく」の斉唱が納められていました。
    

 「子どもたちの感謝のメッセージ」
 全国の皆さんに大川小学校より感謝のメッセージを送ります。
 2011年3月11日、東日本大震災による地震と津波で、私たちは大切な家族、一緒に学び遊んだ友だち、大好きだった先生方、優しくしてくれた地域の方々、ほんとうにたくさんの人たちを失ってしまいました。
 海、山、川、田んぼと豊かな自然に恵まれた大川、たくさんの人たちの笑顔であふれていた街並み、そしてそれらに囲まれるように建っていた私たちの大川小学校。
 すべてがこわされ、私たちの大切なふるさとも、人も、いっぱいいっぱい傷つき、悲しくつらい時間が流れました。

 震災のあった年の4月、僕たちは悲しい気持ちと不安でいっぱいのなか、飯野川第一小学校の2階を借りて、新しく学校生活をはじめることになりました。
 学校で使うものや勉強道具など、、たりないものがたくさんありましたが、全国の方々からたくさんの支援をいただき、少しずつ勉強できる環境が整っていきました。 また、全国の方々から大川小学校にたくさんのメッセージも寄せられました。こんなにもたくさんの人たちが、私たちのことを心配してくれているんだということがわかり、すごく励まされ、勇気づけられました。

クリックするとか大きく見えます

 ほんとうにたくさんの方々の支えや励ましのおかげで、私たちは少しずつ元気を取り戻すことができ、またふつうの学校生活を送ることができるようになっていきました。
 飯野川第一小学校の友だちや先生方とも仲良くなり、運動会や学習発表会など、できないと思っていた行事もだんだんできるようになりました。

 いまの大川小学校は全校で24名です。人数は少ないけれど、大川小学校の伝統を受けつぎ、全校で力をあわせて、何事にも本気で取り組んできました。
 教室で勉強しているとき、いろいろな行事を行うとき、ハナヤマ(?)合宿や修学旅行に行くとき、どんなときも、亡くなった友達や先生方も僕たちと一緒にいると思ってすごしてきました。

 たくさんの人たちに支えられながら、2年9か月という期間を飯野川ですごしてきた私たちは、2014年の1月から二俣小学校の校庭内にできた仮設校舎にひっこし、学校生活を送っています。
 飯野川での思い出もたくさんでき、新しくできた友達やお世話になった先生方とお別れするのはとてもさみしかったです。でも、仮設校舎だけど、自分たちの校舎ができたことをうれしく思っています。

 今年の児童会のスローガンは「みんなの力で未来をひらく 笑顔輝けチーム大川」です。このスローガンを合言葉に、いままで以上に笑顔いっぱいの、明るく、楽しい、大川小学校を目指して、チーム一丸となって毎日がんばっています。

 大川地域はもちろんですが、石巻の復興はまだまだ時間がかかりそうです。また、私たちのまわりには傷ついている人たちがまだまだたくさんいます。
 いつの日か私たちのふるさとが元気を取り戻し、明るい未来をつくっていくことができるように、これからも自分たちにできることは何か、考えていきたいと思います。

 皆さんの思いをしっかりと受け止めて、一歩ずつ進んで行きます。たくさんの励ましをくださった皆さんへの感謝の気持ちをこめて、私たちの歌声をお届けします。1曲目は「ぼくのひこうき」、2曲目「COSMOS」、そして3曲目は「大川小学校校歌・未来をひらく」です。
 どうぞおききください。

大川小一同「感謝のメッセージ」
01kansya.mp3 へのリンク
@「ぼくのひこうき」
>
ACOSMOS」
>
B校歌「未来をひらく」
>
      
 音が出ないのが残念ですが、写真をクリックしていただくと歌詞が読めます。まだ仮設校舎でなにかと不便だとは思いますが、近くの河北中学には先輩たちもいるし、みんなの力をあわせて輝いてください。(大川小学校の歴史はこちら)

 それにしてもFSさん、くにたち市民オーケストラのヴィオラ奏者を務めたり、総合季刊誌の編集補助をしたりと頑張っています。管理人も頑張らなくては。 
 ついでのついでみたいで恐縮ですが、FSさんとの会談場所は渋谷の「甍」というお店。ここの店主はFSさんの同級生で、針岡のYさん。少しの時間ですが同席されて、しばしそれぞれの同級生のことなど話が弾みました。これからは卒業年度の枠を超えていろいろ考えないといけないなあと思いました。  (2/22)

■長面の「墨つけ祭り」が今年も
 「長面の伝統行事アンバサンの墨付け祭りの記事が"石巻かほく"に出てますよ〜」とKKさんからお便りがありました。

 アンバサン(安波山)の墨付け祭りは、長面に300年以上つづく伝統行事で、大根の切り口に塗った墨を、だれかれ構わず塗りつけて無病息災や大漁、豊作を祈る行事です。
 毎年2月8日に最も近い日曜日に行われてきましたが、今年は大雪の影響で2月16日に延期されて行われたそうです。

 記事によると、ちりぢりになった氏子が各地から八雲神社に集まり、高橋範英宮司の発声で「安波大杉大明神 悪魔をはろうてヨーヤナー」と3回唱和、締めくくりには餅まきが行われたそうです。
 阿部邦英総代長は「仮設住宅などで暮らす住民たちが、早く定住できよう祈りをこめた。地区には住めなくなったが、祭りと絆を大切に守っていきたい」と語っています。

 詳しくは下の『石巻かほく』をどうぞ。高橋宮司が墨を塗られている写真もあります。
  http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2014/02/20140218t13006.htm

■最近の長面付近
 針岡のKS君から届いた「最近の長面付近」の写真、長面の写真ページ(こちら)に入れようと思いましたが、ちょっと寂しい写真ばかりなので、とりあえずこちらでご紹介します。復興が進んできたら、改めて編集し直したいと思います。
 個別の写真では「どこからどこを撮っているのか」わかりにくいので、まず現在の長面付近の昨年末の復興状況を、震災直後の写真にポスターカラーで書き込んでみました。クリックしていただくと少し大きくなります。

 震災直後は釜谷から長面、松原海岸までは一面の海でしたが、まもなく尾の崎と万年橋(蛇沼の手前の橋)を結ぶ道路、その中間から北上川堤防の甚平閘門へ伸びる工事道路が作られ、釜谷側の排水が完了しています。
 一方、ピンクのラインは、堤防工事の基礎になる工事道路などが着々と進んでいる部分ですが、長面耕土の多くが海面下です。また、長面・龍谷院前なども、満潮時には海になるようです。(写真の書き込み図は概略です)
 以上の概略を念頭に、以下の写真をごらんください。KS君が昨年末から今年1月にかけて撮った写真です。

KS君からの「長面付近 2014年初め」
クリックすると大きく見えます

尾崎橋から龍谷院を望む
遠く白く見えるのが位牌堂

対岸の月浜から松原方向を望む
北上川の堤防がだいぶ出来ています

長面の江畑、分校の裏のあたり
今は白鳥の楽園……

長面の田んぼから松原を望む
松原のあった辺りに堤防が見えます

 かつて長面に暮らしたものにとっては寂しい風景です。ともかく、田畑だけでも一日も早い復旧を祈ります。
 この広大な耕土から塩を抜くのはたいへんだろうなあと、素人の私は思います。NT君が言っていたように、耕地をあきらめてソーラー電源にするのも一案だなあと思ってしまいます。まあ、ともかく原状回復でしょうけれども……。  (2/15)

■シラ貝、シラケ、シャッケェ、ズンズラゴ。それにケッコラ浜
 
……シラ貝のこと、ほんとうに懐かしいですね。私もあの貝が平たいから、なまってシラケに転化したと昔から納得してました。これを尾の崎弁で呼ぶときは、シャッケェ(字にするのが難しい発音ですね)と言ってました。
 あの広い浅地の砂は、手ですくうと指の間からサラサラこぼれ落ちるくらいきれいでしたね。ここでシラッケはいくらでも採れました。それを剥いて餌にして、カツカ釣りをするのですが、ミミズやゴカイよりよく釣れましたね。
 父方の祖母などはよく一枚棚船で、シラ貝の身を糸で数珠繋ぎにして、針をつけずに釣り上げていました。食いついたハゼを船の床板に落とすとパクッとすぐ外れて、効率よく釣れました。今も松島湾でもやっているようで、昨秋テレビで見ました。この数珠釣りのことを私たちは「ズンズラゴ釣り」と言ってました。ズンズラゴとは帯状疱疹のこととか。
 福浦の方の漁港ができる前まで、、その近くにケッコラ浜(貝の浜?)と地元の人たちが呼んでいた、貝殻でいっぱいになったきれいな小さな場所がありましたが、漁港に通す道路整備のためにその浜はなくなりました。
 シラッケは剥き身にして、おつゆ、酢味噌和え、天ぷらなどにしてもなんともいない旨い味がします。
 そういうことも、今は昔です……。


 以上、下の「ケコケッカ」を見た尾の崎KKさんからのお便りです。
 「ヒ」か「シ」か、東北弁は非常に微妙でありますが、いずれにしろそんな呼び名。貝の大きさは4p×3pぐらいで、やや柔らかい扁平の2枚貝。色は暗緑色や茶色の縞模様で、人差し指と親指に挟んでひねるとわりと簡単に剥けます。いや、ネットの貝図鑑などを見てもなかなかそれらしきものが見つからないので、どなたかご存知でしたら正式名称などお教えください。
 それにしてもあの釣りが「ズンズラゴ釣り」というのは知りませんでした。帯状に剥き身がぶら下がっているからでしょうか。
 それと懐かしいのは「一枚棚船」という名。櫓こぎの小舟で、イチメイダナと言いましたか。
 さらにまた、「ケッコラ浜」というのはステキですね。「貝っこたちの浜」……、月光に浮かぶ浜が見えるようです。

*KKさんの思い出『ボライロ』(松原海岸のボラ漁)がこちらにあります。ぜひ。  (2/12)

■望郷 「ケコケッカ」
 先日、むかしの仕事仲間と新年会があって、場所は「跳人」という青森出身の方がやっている居酒屋。
 そこのメニューに「けっこ味噌」というのがあって、管理人はすぐわかりましたが、同席の諸氏は「なんだ、これは」と言いながら注文してました。

 もう4、50年前のある夏のこと。カミさんと長面に帰って、松原の石積みの堤防の突端(ゴゾ山の裏が見えるあたり)でカンツカやカレイを釣っていると、竿先にぽかっと何人か子供の頭が現れ、「ケコケッカ!」「ケコケッカ!」と叫ぶのです。夏の盛りで、海水浴というか水遊びをしていたんですね。
 長面弁というか大川弁というか、方言を知らないカミさんはきょとんとしてましたが、私はすぐわかって「ウン、ケロケロ」と言ってその子から貝をもらいました。このあたりの釣り遊びでは、海の砂に潜っているヒラッケ(ひら貝?)の身を釣り餌にするのです。ヒラッケはすぐ採れるので、釣り餌の用意は不要です。

 その子たちは、そういう釣りをよく知っているので、潜って海底の貝を採ってくれたわけです。ケコは「貝っこ」、ケッカは「あげようか」または「くれてやろうか」という意味ですね。ケロというのは「くれ=ちょうだい」の意味で、クレロの変化でしょうか。
 今は震災で、あの堤防を含めて付近はすっかり海の底になっています。あの子たちは大丈夫だったでしょうか。

 こんなことを思っているときに、針岡のKSくんが、「2014年の長面、尾の崎付近」の写真を10枚ほど送ってくれました。ここに何枚か入れようと思いましたが、目印になるものが何もないので、どこがどこやらわかりません。ここに載せた1枚は、「長面方向から見た松原集落付近」ということです。松原付近は震災後しばらく何もなかったのですが、写っている塊りは新しい防波堤用の土砂でしょうか。

 もう一つ、だいぶ以前、KKさんから送られた石巻日日新聞の『石巻弁100語』を、近々紹介したいと思います。と前にも言ったのにのびのびになっています。2014年の写真と石巻弁、早く何とかしなければ……。

 あ、「けっこ味噌」というのは、ホタテなどの貝を味噌味で仕立てたもので、ホタテの貝殻に盛りつけられていました。 (2/11)
 

■さっそく故郷の雪景色です
 昨日から今日にかけて、大川も激しい雪だったようです。
 まず、針岡KS君からメールで写真が届きました。

 1枚目音2枚目は、今朝、玄関先で撮ったもの。1枚目の右手、ビニールハウスが雪に埋もれていますが、昨日、奥さんに「雪があまり多くならないうちに補強したほうがいいんじゃない」と言われて、10数本の竹を切り出してきて補強したそうです。「支柱を立ててなかったらつぶれたなあ」とのこと。
 それにしてもこの景色、なつかしいなあ。都会ではなかなかこういう水墨画みたいな世界はお目にかかれません。(写真をクリックしていただくと大きく見えます)

 3枚目はどれくらい積もったか入口を掘ってみたところ、50pあったよ〜という写真。雪の壁にスプレーで50pと書いてあります。「こんなに降っちゃ、どこさもさも行がいね」と、童心に帰って雪と戯れるKS君、風邪ひかないようにね。
 
 尾の崎のKKさんから。
 こちら三反走の仮設も大雪です。40〜50センチつもり、弱くなったけどまだ降っています。今、雪かき終わったところ。久しぶりの雪に私も幼いころを思い出しました。

 あとKKさんの同期会の動向や長面の牡蠣処理場が今月いっぱいぐらいで完成するかも……というお便りでした。これらについてはまたいずれ……。  KSさん、KKさん、ありがとう。   (2/9)

■望郷 故郷の雪景色
 今日の東京は40年ぶりとかの大雪で、深夜になってもまだ降っています。何日か前も急な雪がありましたが、そのとき長面・塩田で往時を過ごしたFSさん(国立在住)から故郷の雪の思い出をいただいた。FSさんは前にちょっと書いた管理人の兄貴分というか悪友というか、尊敬するAIさんの妹さんで学年は一つ下。

 一昨日の大雪には驚きました。同時に、長面の竹スキーを思い出しました。
 雪が積もると、ドンブクを着て、家の前の道路でよく竹スキーをしました。自転車の練習で海に落ちたことはありますが、竹スキーで海に飛び込んだことはありません。かまくらモドキもつくりましたね。
 もうひとつは、釜屋の本校に通うようになった或る冬の朝、大雪で1メートルぐらい積もった雪を、男子がかき分けて道をつくってくれ、光子先生を先頭に女子が後に続くという光景です。きっと遅刻だったでしょう。  

 雪景色というのは、世界をリセットするというか視界を洗ってしまうというか、「ご破算で願いまして……」的なところがあって、幼いころなどが鮮明に蘇ってくるのでしょうか。管理人も雪の朝、釜屋の本校へ行くとき、さっさと前を行く中学生の兄貴を泣きながら追いかけた記憶があります。
 竹スキーはけっこう難しいから、なるほど塩田の道路から長面浦に飛びこむ危険はありますね(竹スキーがわからない方はこちらをどうぞ)。それにしてもFSさんは小学生の時は塩をとった後の塩田でベースボールに熱中していたというから、そうとうオテンバだったんですね。その割には私にもFSさんにも一度も一緒に遊んだ記憶がないのは不思議です。学年が一つ違うと、記憶が残らないのでしょうか。
 
 今度の雪は、東北は明日がピークのようです。事故がないことを祈りますが、なんだか故郷の雪景色が見たくなりました。(2/8)

■3月7日、『長面―きえた故郷』の上映会が東京・練馬で
 トロントの”かんこかな”さんから次の連絡をいただきました。

 ……友人で監督でもある石原牧子さんから、『長面ーきえた故郷』が練馬区で3月7日に上映されることになったとメールがありました。
 たまたま、息子と二人で震災から丸三年なので帰国を決めていて6日に成田着です。その夜は新高輪に滞在し、翌日仙台へと計画をしていたのですが、もう一日延ばして7日には会場へ行こうかと考えています。
 東京界隈の同窓生にも時間があったら見て欲しい旨のメールを送ったところですが、お時間がおありでしたらいかがですか。 2年半前の映画なので、そのつもりで観て頂ければと。

 上映会の詳細はこちらにありますが、日時・場所等は次のとおりです。
   日時:平成26年3月7日(金)午後1時30分開場、2時開演
   場所:練馬区立生涯学習センターホール 練馬区豊玉北6-8-1 電話03-3991-1667
   入場料:500円 先着300名

 管理人もまだ見る機会がなかったので、行ってみようと思っています。ご都合のつく方は、ぜひ。 (2/3)

■「葛{城リスタ大川を見てけらいん」 いよいよスタートの春
 私用で針岡の孝一君に電話したら、”宮城リスタ大川”で今年の計画を話しあっているところだ、とのこと。 リスタ大川ってなんだろとおもっていると、電話の向こうで「ネットで”宮城リスタ大川”を見てけらいん」 とたぶん大槻幹夫さんの声。
 で、ネットで”リスタ大川”を検索してみると記事がたくさんあり、「石巻かほく」の記事のによれば、要点は次のようなことでした。

・大川地区の農地は塩水に浸かって耕作ができなかったが、今年ようやく針岡の農地170ヘクタールが作付け可能になった。
・しかし、高齢化や農業機械の喪失などによって、営農再開の見通しの立たない人も多い。
・そこで考えられたのが法人化で、昨年5月に20〜70代の地元出身者が集まり、「株式会社宮城リスタ大川」(社長・大槻幹夫さん)が立ちあげられた。社名のリスタは”リスタート=再出発”からつけられた。
・今年は84人から約55ヘクタール分のコメ作りを受託する予定。
・また、現在すでに研修を兼ねて約3万本の菊を栽培している。これは40年の菊づくり経験のある大槻稲夫さん一平さん親子から指導を受け、全員が栽培技術の習得を目指しているもの。今後はビニールハウスを9棟に増設、年間54万本の生産量を見込むという。

 社長の大槻幹夫さんは「この土地は過去に飢饉があっても先祖が守ってくれた。最低限しなければいけないことは耕作放棄される農地を出さないことだ」と語っていますが、皆さんほんとうにご苦労さまです。体に気をつけて頑張ってください。
 さて、孝一君自身の今年の計画を聞くのを忘れてしまったが、津波の前は20数ヘクタールもの大豆栽培をしていた。今年は何割ぐらいの作付けになるかはわからないけれども、とにかく体に気をつけて、頑張ってください。  (1/26)

■近藤孝悦さん「ふるさとの山々」優秀賞受賞
 緑の募金でおなじみの国土緑化推進機構が主催している「第2回 君たちに伝えておきたい日本の原風景=1枚の手紙」で尾の崎のKKさんこと近藤孝悦さんの『ふるさとの山々』が、優秀賞に選ばれました。
 優秀賞は最優秀賞の次、優秀賞2編のうちの一つですからすごいですね。本文を早く読みたいと思いますが、WEB上の掲載権などがありますので、分かり次第お知らせします。
 この「一枚の手紙」は、国土緑化推進機構が、全国の幼稚園や保育園で実施している「森の教室」で朗読するための作品を「1枚の手紙」として募集しているもので、「おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんからの手紙」として、自分たちが育ってきた習慣や出来事などを子供たちに伝えることが主眼だそうです。
 さて、どんな作品か楽しみです。   (1/24)

■釜屋・観音寺の扁額(2)
 釜屋・観音寺の扁額の修復についてのお便りがありましたが(こちら)、「観音寺」の文字を揮毫された方の号と思われる部分が、写真ではよく見えませんでした。
 これについて尾の崎のKKさんからお便りがありました。

 観音寺の扁額、揮毫の方、誰かわかりましたでしょうか? 
 峰保書? 瑞洋書?のようにも見えますが、素人判断であり全くの見当違いかもしれませんが、思い当たることを……。

 【峰保?】 =釜屋で郵便局員のかたわら、書道教室を開いていた菊池しげる(名前漢字失念,故人)さんで、お寺さんともじっこんであったとも思います。
 【瑞洋(【ずいよう?)】=少し前他界された尾の崎の神山定男さんの雅号です。通称前の家、神山電気、旧河北町文化財保護委員、書道の大家、古文書解読の大家で、私が船を下りてからはいつも神山さんとは歴史談義をしており、古文書解読の手ほどきをしていただく約束でしたが、残念です。


 仮にこの推理があたっていなくても、大川地区の文化を知る上でも貴重なお便りと思います。KKさんは牡鹿半島の縄文遺跡の発掘にも携わっておられるようですが、体に気をつけて頑張ってください。
 津波で多くの古文書や文化財が失われたと思いますが、残っているものはしっかりと、失われたものは記憶だけでもしっかり残していただきたいなあ、と思いました。  (1/22)

■個人的な思い出話ですみません
 昨日(1/14)、那須で55年ぶりぐらいにAさんに会うことができました。
 昨年末、尾の崎のKKさんが長面のKTさんから連絡先を聞いてくれて、そのおかげです。

 Aさんというのは、私(管理人)世代が長面分校の1、2年生の時の受け持ち伊藤芳子先生の息子さんです。年は二つ先輩ですが、同じ塩田に住んでいたので、中・高校生のころの兄貴分、よく遊んでもらいました。このAさんから「人生は素晴らしいものだよ」と教わったと思っています。いわば私の人生のスタートを切ってくれた人です。

 当時、Aさんは仙台の国立電波高専の学生で、故郷に帰るときは必ずトランペットを持ち帰り、私にリズムギターを無理やり教え込んで吹き鳴らしていました。で、ジャズとは何かとか、カウボーイの世界はどうとか話してくれると同時に、ゴゾヤマや松原に行っては男の子の遊びを満喫したものでした。
 彼が商船会社に就職してからはまったく消息は知らなかったのですが、七つの海をまたにかけて、船の甲板から朗々とペットを奏でる姿を想像したりしました。

 そんな思い出話をお互いにしながら、どうして船乗りになったのかを聞くと、
 「ジャズの本場に行ってミュージシャンかカウボーイになろうと思った」と、昔のいたずらっ子みたいな笑みを浮かべて、半分本音のように話してくれました。
 いまはトランペットをクラリネットに持ち替えて、那須地域のバンドで演奏活動をしているそうです。
 震災後、長面へは4、5回行っているとのこと。
 塩田のガレキの山を前に言葉がなかったと……。

 思わず個人的な思い出話になってすみません。
 あのやさしい伊藤先生は、平成15年7月、88歳で亡くなられたそうです。お位牌にはマリア・エリザベトの洗礼名がありました。
 また、ご当主の伊藤國雄さんは塩田の運営や畠中村長時代の助役をされてましたが、伊藤先生より少し先にお亡くなりになったとのことでした。

 尾の崎のKKさん、長面のKTさん、ありがとうございました。オリオンのホームページが、ささやかでも何かの思い出や喜びにつながればうれしいです。管理人松原A  (1/15)

■釜谷・観音寺の扁額
 正月、岩槻のTSさんから、ほのぼのしたお便りと絵馬が送られてきました。TSさんは津波で亡くなった釜谷・豆腐屋ケイちゃんの弟さんです。
 絵馬は作ったのはTSさんで、釜谷・観音寺の扁額の写真が中央に置かれています。観音寺は津波で根こそぎ流されましたが、扁額が泥


TSさん作の絵馬

扁額の上の道具が苦心を忍ばせます

まみれで見つかり、その修復の経緯がお便りに記されていました。

 昨年、啓二兄の長男より「釜屋・観音寺の扁額が新しくできた」と写真を送ってきました。 同級生で、横川・祥雲寺の前で寺社建築専門の榊工務店社長(榊武哉)さんのおかげです。
 震災で流された扁額が見つかりましたが、月日が経ちキノコが生えてきたそうです。いたんだ欅の板を削りなおし、文字も前のままに復元したそうです。
 「新しく作った方が早いのですが、寄進した方の気持ちを尊重して名前も彫りなおし、半年かけて仕上げました」と笑顔で電話口で話していました。
 武哉ちゃん、ありがとうございました。
 観音寺様は、私が小学5年〜中学3年まで、水汲み(飲料用)でお世話になりました。一日も早い観音寺様の復興を祈ってます。


 写真で見えるかどうか、扁額の左下に寄進者である鈴木啓二・祝ご夫妻の名があり、消えかかっていたのを榊さんが彫りなおしてくれたんですね。
 TSさんは「新しく作れば自分の名が残るのに、わざわざ彫り直してくれるなんて」と感激していました。
 文中の「釜谷の水汲み」の話はこちらにあります。
*お寺や神社の表札というカンバンというか、アレはなんというものだろうとTSさんと話したのですが、よくわからないのでネットを調べたところ、扁額(へんがく)というそうです。詳しくは寺の場合は寺額、神社の場合は神額というそうです。(管理人) 
   (1/12)
*追伸 扁額の観音寺の横、鈴木啓二・祝ご夫妻の名の右上に金箔の文字かあるのですが、よく読めません。「観音寺」の文字を揮毫した方の銘のようですが、分かり次第お知らせします。(1/15)

■あけましておめでとうございます
 旧年中はほんとうにいろいろありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願いします。

 今朝、「ゆく年くる年」を見て、ベランダに出て空を見上げると頭上にオリオンがくっきり。改めて初心に帰らねばと思いました。
 遅く起きてメールを開くと、KS君から初春の情景が届いていました。

  正月を迎えた大川の地は今は静かな時を迎えております。
  復旧復興工事の数々の重機のエンジン音、仕事の音、行き交う工事車輌の音等から解放されて。
  でも正月明けには又聞こえるよ、復興への色々な機械の音色が。


 復興への槌音がたくましく聞こえてくるようです。
 針岡地区は今年から作付けが開始されるとのこと、また釜谷・長面方面も数年のうちには作付けが開始されるされるらしいとのこと。人びとのさんざめきも聞こえてくるよです。

 オリオン311も、やりたいこと、やらねばならないことが山積しています。皆さまのお声やお叱りをエネルギーに早期の実現を図りたいと思います。  (1/1)

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