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(DIARY) 2023年2月~


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■テルちやん
 長面の永沼輝昭君が1月に亡くなったという。3/21に石巻の義姉から電話があって「福島のテルちゃんが亡くなったのを知ってるか。訃報が届いた」ということだった。今年に入って「元気でいるかなあ、そろそろ電話してみようか」と思っていたところだったので、非常にビックリした。肺がんだったというが、そういう話も聞いていなかったので意外だった。そういえば昔の恩人のМさんが肺がんと診断されて一か月後ぐらいには亡くなったことがあった。そういう種類のガンだったのかもしれない。Mさんはホスピスで『拝啓閻魔大王様』という本を書いて亡くなった人だ。
 (この冒頭を書いてから3日経ってしまった)
 書き残しておきたいことは山ほどあるが、やめておこう。ただただ残念で仕方がない。今年に入ってそろそろ電話してみようと思いながら一日伸ばしになっていたことが残念だ。
●強く記憶に残っていること
・地震の後、奥さんと2台の車で、大川小へ孫二人を迎えに行った。混乱の中を孫たちと自転車を車に積んで、避難しようとしたところ三角地帯に避難する子供たちの列が通りすぎるのを待っていた時、津波に襲われた。
 木材を含んだ津波にのみこまれて「次の息継ぎができなかったら死ぬ」と思ったとき、裏山に打ち上げられた。小さい女の子を一人救い上げたが、もう一人を助けられなかったことが残念だったと言っていた。
 山は寒く、ガタガタ震えるのではなく身体全体がガックンガックン上下するように震えたそうだ。誰かの携帯ラジオが「大川小の生徒たちはみな裏山に避難している」というのを聞いたそうだ。
 3日後ぐらいに救助隊に助けられて避難所で医者に会えたが、医者は九州の人で方言がまったく通じず、濁流の中で木材にぶつけた頭の痛み止めだけ何とかもらうことができた。
「その後の俺の全財産はその痛み止めだけだったよ」
・お孫さん二人の遺体は見つかったが、奥さんの手掛かりは未だに何もない。
上の男の子は釣りが好きで、将来は北上川や蛇沼、富士沼で釣り客のコーディネーターをするのが夢だったそうだ。
 震災の年の5月にビッグバン(河北総合支所)の避難所で榊幸成君と一緒に会ったが、仮設住宅が出来たころだったと思うが、福島に移住するという連絡があった。ご長男の奥さまの出身地で須賀川の近くの鏡石というところ。
「架設で一人暮らしも考えたが、きっとアル中になるな」と思って鏡石を選んだそうだ。
 コロナ前は私も年に一度は石巻周辺のイトコや兄姉を尋ねていたので、東北道の須賀川で降りては輝ちゃんと蕎麦屋で会うのが習わしだった。
もう会えないと思うと残念極まりない。   (4/03)


■金野昭君
 2月の初旬のある夜、仙台のNT君(大川小・中の同級生で現役のピアノ調律師)から突然の電話があった。
 同級生の金野昭君の訃報がご家族から届いたという。金野君は昔から同級会の世話役で、各種案内から出欠の知らせまでほとんどすべてをやってくれていた恩人だが、その他の思い思い出もたくさんある。
 私と同じ疎開で大川(針岡・芦屋)に移住した境遇も似ていたし、昭君もお母さんもほんとうに優しい人だった。昭君との思い出の第一はたぶん中学のころ、教室の廊下で後から飛びついてきた事。私がとっさに背中を丸めたので昭君は背負い投げを食った格好で廊下にあおむけに転がった。その時の腕の感触や昭君の「なんだこれっ」という戸惑った顔が今でも鮮明によみがえる。
 中学では私もテニス部で一緒だった。その軟式テニスでは恥ずかしいことがあるが、それはまたいずれ書きましょう。後に大川の冬について聞いたところ、自宅から学校までスケートで通ったそうだ。芦早から中学校までは一面平らな田圃なので、あそこが凍れば「なるほどなあ」と思ったものだ。
 社会人になってからいつかの同級会の後で東京駅近くで会ったときは、彼は秋田の食品会社の重鎮で、名物「比内地鳥のきりたんぽセット」を頂いたことがある。これも忘れ難い味であった。昭君、ほんとうにいろいろありがとう。もう逝ってしまつたのか、私もそれほど遠くない時期に行くと思うのでまた楽しく遊びましょう。



■ご無沙汰すみません
 2月の中頃、針岡のKS君から「元気かな」という電話があった。尾ノ崎のKKさん、谷地のМОさんが「オリオンの更新も無いし、生きてるのかな」と心配していたという話。ありがたいことです。なんとかロヨロしながらも元気ですとKS君にはお伝えしました。
 実は昨年夏に長野で膀胱のガンが再発し、出血多量でフラフラしながら長野と東京の病院を行ったり来たりするなどし、その後なーんにもせずにゴロゴロしてオリオンも放りっぱなしになった次第です。昨9月下旬に入院、2日間の輸血の後、検査とガンの除去などしました。
 一時は医者も私も膀胱を切除して外部に袋をぶら下げる予定でしたが、幸か不幸か20年ほど前に大動脈を手術した跡が癒着しているようで、開腹は難しいとのことで12月に2年前と同じ抗がん剤治療をして 現在は大過なく過ごしています。歳をとるといろいろなことが起こります。金野君の訃報の後、あちこちの同級生の消息が分かりましたが、葉山のKS君(長面)宅の電話が「現在使われておりません」
ということでした。

■江戸時代に日本地図を作った伊能忠敬の足跡
 幕末の志士で長面にお墓のある羽生玄栄の研究で皆さんもご存知と思いますが、FSさんが今度は江戸時代に日本地図を作った伊能忠敬の測量日記という資料を見つけて、送ってくださいました。
 石巻・女川から始まって雄勝・名振・長面と詳しい日記が記されています。長面の肝入り「長沼甚蔵」とか長面の「清兵衛」宅に泊まったとかあるのですが、いまのところ現在のどのお宅か分かりません。
 いずれ現代文にしていただいてオリオンにも掲載させていただきたく思っています。                  (2/18)


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